2012年12月31日月曜日

良いお年を!

コンゴ河に沈む夕日

いよいよ、2012年も暮れようとしている。
日本では、夜7時半くらい。
紅白歌合戦が始まる頃かな。NHKの番組”行く年来る年”で除夜の鐘を聴き、そして”年の始めもさだまさし”を楽しみにする大晦日を懐かしく思い出している。

昨年のちょうど今頃、友人の車に乗って成田空港に到着しようとする頃だった。
わたしたち夫婦は、いつもおんぶに抱っこで頼ってばかりの友人親子、さださんのNHKの生深夜番組のDVDを送ってくれる友人、妹一家、そして息子に見送られて昨年の大晦日の21:55発の便で成田から出国したのだった。


あれから丸っと一年が過ぎた。
2012年の暮れはキンシャサで過ごすのだ。

コンゴの人たちもすごく浮かれている。
何と言っても彼らには一年でいちばん重要な新年のお祭が迫っているのだ。

我が家の家政婦もうきうきしている。
今日は昼までで仕事も終わり。
彼女は、わたしたち夫婦が大好きなお茶、”ブルグツゥ”の乾燥葉をスーパーのビニル袋一杯に持ってきてくれた。
開けるとミントのような爽やかな香ばしい香りがする。
わたしからの新年のプレゼントです、と。
嬉しいプレゼントだった。
彼女の故郷、バコンゴに伝わる健康茶だと紹介してもらって以来、愛飲するお茶だ。

彼女一家も今夜は教会に行き、そこで皆で新年を迎えるのだそうだ。
運転手たちも今夜は仕事はなし。
教会で夜を明かし家族揃って新年を迎えることを楽しみにしていることが伝わってくる。

夫の事務所の運転手に訊いてみたことがある。
一年を通して、あなたたちのいちばん重要な祭ってなに?
彼がいちばんに挙げたのは、新年の祭だった。
重要なものから順番に3つ挙げてみて、と訊くと、

① 新年
② 6月30日(独立記念日)
③ ノエル(クリスマス)

かれはこの3つを言った。

我が家の家政婦も同意していた。
今夜、家族で教会で夜を明かし、新年は家族揃って子どもたちも一緒にご馳走で新年を祝うのだそうだ。
友だち一家と合流してパーティーを持つこともあるそうだ。
だから女性たちは大忙しなのよ、と楽しげだ。
こどもたちは、その日を楽しみにしているというのだ。


1994年の暮れのこと。バンギに家族で住んでいた年の暮れのことだ。
わたしたち一家は中央アフリカ共和国に長年住んで詳しいJICA専門家員に先導されて、日本の大使夫妻たちと共にバンギを2日がかりで北上し、チャド国境近くの川に棲息する何百頭もの”かば”を見に旅をしたことがあった。
一日目の夜は、国立公園とは名ばかりの地域の入り口付近に、以前ドイツの支援で動物保護のプロジェクトが入り込んでいて、その廃墟として残る宿舎に泊まった。
2日目は国立公園奥の”かば”が棲息する川近くのフランス人ファミリーが経営するロッジに泊まったのだった。
とても素晴らしいロッジだった。
ロッジを経営する若いフランス人オーナーが、「国立公園とは名ばかり、チャドからの密猟者が入り込み、動物が激減している、日本の支援を受けられないものか」、と真剣に大使に直談判していたことを思い出す。

そして帰り道に、ある村で大晦日の夜を迎えた。
日もとっぷり暮れて、わたしたち一行は道路に面した地元食堂のテラスで食事を取っていた。
その間、何組もの子どもたちが行列を作って歌を歌いながら練り歩いてくるのだ。
とっても楽しそうに、こんな歌を歌いながら。

♪ Bonne annee
 Bonne annee, Papa
 Tu es gentil.
 Donez- moi du pain ♪

”du pain” のところが、時に、”Donez-moi dix franc” に代わったりしながら練り歩き、新年おめでとう、とおねだりする歌を歌い、大人たちからお菓子やお金(多分)をもらっていた。

そのことを家政婦に話したら、初めて聴く歌だ、わたしたちは歌わない歌だと言っていたが。
それでも、子どもたちには、クリスマスと同じくらいに、待ちに待った楽しい新年の祭なのだと感じる。


この一年、夫婦元気にキンシャサで過ごすことができた。
街中を自由に歩くことはできないが、危険な思いもすることもほとんど無かった。

いま、新聞やテレビのニュースで、わたしたちが家族で3年間滞在した思い出深い、隣国の中央アフリカ共和国の国家危機が報道されている。
すでにフランス人やアメリカ人などが国外退去をしたと聞く。軍事クーデターで政権を取った現大統領がまた反乱軍から政権を奪回されようとしているのだ。
アフリカ大陸のあちこちの国で紛争が起こっている。原因は複雑に絡み合い、解決の糸口は簡単には見つからないように思われる。
地球全体が平和になることなんてあるのだろうか。

2013年が皆様にとって良い年となりますように。

ヨウムのぽんちゃん大ピンチ!!

12月25日、こちらではクリスマスの祝日だった。
その日の夕方、我が家のヨウム、ぽんちゃんは日射病(?多分・・)で、瀕死の状態だった。


ことの顛末はこうだった。

わたしたちは、朝、ベランダ正面にヨウムのぽんちゃんのかごを置いたのを忘れて、そのままゴルフに出かけた。
この季節、南回帰線より南から太陽は地球を照らすので南緯4度のキンシャサといえども、南寄りに太陽は移動する。
我が家のベランダは南向きで、ぽんちゃんのかごは、朝から夕方まで太陽が照りつける場所に置き忘れられたのだった。


その日は、太陽の照りつける暑い一日で、ゴルフ場でも傘を差してプレーをする人たちを多く見かけたほどだった。
プレーを終えて昼食を済ませて帰宅したのが午後3時。
そうだっ!!ぽんちゃんをひなたに置いたままだった、と思い出したのが帰宅直後。
ベランダに直行した夫は彼の異変に気づく。
かごの床に敷かれた新聞紙を立ててその陰にぽんちゃんは隠れようとせんばかりにうずくまっていた。

すぐかごを日陰に置いて、様子を見守るが、ぽんちゃんは平衡感覚を失ったようで、かごの床をうろうろよたよた這い回るだけ。
いつもは、かごの上部の止まり木に止まっているのに、その止まり木に這い上がれないのだ。
くちばしの力も、脚力も弱ってるかのようだった。
夫が、革手袋をはめてかごの中に手を突っ込む。
普段は皮手袋を見ただけでぎゃあぎゃあ騒ぐのに、その時は無抵抗のまま、夫の手に抱かれて、止まり木に載せられる。
夫が止まり木に止まらせようとするのに、ぽんちゃんは脚に力が入らない様子で、やっとのことでかろうじて止まり木に引っかかった、という塩梅だった。
水を体全体に振り撒いた。
水を飲ませようとくちばしのところに持っていくといくらか飲んだ程度だった。

わたしは、もしこれが人間の幼児だったらどうするだろうかと考えてみた。
氷枕で頭を冷やして涼しいところに寝かせるはずだ。
そう思ってエアコンの効くリビングにかごを移す。
もう祈る想いで、ぽんちゃんを見守る。
眼をとろんとさせて閉じようとするので、必死で励ます。
そして謝り続けた。
朝から午後3時まで、太陽に照らされ続けていたのだ。
ごめんね、ぽんちゃん。
ごめんね、ぽんちゃん。

ふとしたことで、ぽんちゃんは止まり木の左端に止まると尻尾の先の赤い羽根部分を、飲料水用の容器に入った水に浸せることに気づいたようだった。
それからだ、ぽんちゃんは尻尾の赤い羽根をじっと水に付けては羽をぷるぷるっと振って水しぶきを上げる動作を繰り返している。なんだか、赤い尻尾を水に浸けることによって、上がった体温を下げようとしているかのような動作だった。
その動作を繰り返していくうちに、だんだん脚に力が入り少しずつ、快復しているのが見て取れた。
ちょっと水っぽいがうんちもしている。

とにかく、傍で静かに声を掛けて励まし続けた。
眼を閉じたら、もう二度と眼を開けてくれないような気がしてならなかった。
ごめんね、ぽんちゃん。
パチンコに夢中になった若夫婦が、車に置き去りにした乳幼児を高温になった車内で日射病死させる、という記事を思い出して、わたしたち夫婦は同じことをしたのだ、と悔やんでも悔やみきれない自己嫌悪に陥った。

しばらくして、止まり木の右側に自ら体を移動させ、水から尻尾の赤い羽根を出して一連の動作を止めた。
やっぱり生きる智恵だったのか。
だいぶ落ち着いてきた。
よかった。

その晩は、涼しい浴室にかごを置いて寝た。
浴室の隣がわたしたちの寝室なので、夜中に何度も何度もぽんちゃんを覗いて、ちゃんと止まり木に止まっていることを確認した。

翌日午後から、食欲も出てきた。

ヨウムのぽんちゃんは、こうやってわたしたちにはなくてはならない存在になっている。



大きく口を開けて発声練習?
 これは、寝起きのままぽんちゃんのところに直行して、ぽんちゃんと発声練習をしているところだ。
台所の窓から夫が隠し撮りした写真だ。(見苦しい寝起き姿だけど、思い切って公開しよ!)
まだ言葉は出ないが、話しかけるとぽんちゃんもパクパクと一緒に口を動かす。
言葉を真似ようとしているのか、うるさいマダムだなあ~ひとりに(一羽に?)させといてくれよ~と抗議しているのか。

数日前には、お隣のドクター宅のヨウムと初対面した。
お隣のヨウムと比べて、ぽんちゃんは体つきなどからまだ幼鳥だと感じた。
お隣のヨウム君は、威嚇するかのように啼き続けていた。
ぽんちゃんは、かちこちに固まって微動だにしなかった。
それがまた何とも可愛かった。

夫は、朝起きた瞬間からぽんちゃん、ぽんちゃんと連呼している。
こどもたちが赤ちゃんの時に聴いて以来の優しい声で話しかけている。
時々、おい!何か喋ってみろ!!、とか言ったりしながら。

2012年12月29日土曜日

キンシャサのクリスマス風景

キンシャサ中央駅前広場のクリスマスツリー


キンシャサでは、クリスマスの数日前になってやっと色々なところでクリスマスの飾りつけが始まった。


上の写真は、キンシャサ中央駅前の広場にドーンと設置されたクリスマスツリーだ。
地元の銀行がスポンサーになっているらしく銀行名のプレートが付けられ、てっぺんの星には、黄色いバナナが三本横たわる銀行のトレードマークも見える。

こうやって見ると、なんだかとっても立派な駅前広場に見えてしまうから不思議だ。
この広場の向こう(6月30日通りの起点)に中央駅があるが、発着するのは朝と夕方に運行されるキンシャサ近郊までの通勤電車のみの名ばかりの駅だ。
それでも最近、その通勤電車用に新しい電車が投入されたようだ。

壊れかけていた駅前広場もいつの間にか修復整備されて、クリスマスイブの夜は大勢の観衆で賑わったそうだ。
とても平和な光景だ。

夜には、ブルーのイルミネーションが点灯する。



点灯された中央駅前のツリー


6月30日通り突き当たりにブルーに光るツリーが!

真っ暗なキンシャサの夜だからかな、わたしのカメラの技術がないのかな?
まるで闇夜だ。

真っ暗ついでにあと3枚ほど、キンシャサのクリスマス風景を。

6月30日通りの銀行のツリー照明

6月30日通り 別の銀行ではこんなイルミネーション

6月30日通りに遂にオープンしたパン屋のカフェ”Chez Victoire”では、こんな風景が見られた。

ショウウインドウに描かれたサンタクロース



本当に暗い。

ゴンベ郵便局前の広場はメイン道路に面していないのでさらに暗かった。
せっかくだから、昼間に行ってみると・・・。


3本の塔の中のクリスマスツリー

この方向の先に進んで左側に立派な建物のコンゴ中央銀行があり、そこの玄関前にとても上品なクリスマスツリーが飾られている。おそらく、ここのツリーがいちばん早く設置されたように思う。
夜には、白い照明で丸い輪のイルミネーションがいくつも重なる素敵なツリー照明が観られる。そしてその前の街路樹にも白い照明が飾られている。
写真に撮りたいなあと思ったが、撮影の許可をもらえなかった。
残念。

最後に。
フランスの娘のブログにも載っていた子豚ちゃんの丸焼き料理を、キンシャサのスーパーでも見つけた!
肉屋のおじさんから、どーぞ撮ってください~、とお許しをいただいたので、パチリ!



ベルギーから届くハムやパテや子豚ちゃんたちが並ぶ肉屋
キンシャサは電気事情が悪いからか、電力を使うクリスマスイルミネーションは、人々が集う広場と国立の中央銀行、そして地元の銀行くらいでしか見られない。
一般の店やスーパーストアーでは、窓ガラスにペンキを吹き付けてクリスマスの絵を描いて雰囲気を出している。

それにしても・・・常夏の国のクリスマスはどうもピンと来ない。

2012年12月27日木曜日

ンガリエマ修道院お御堂のクリスマスイブミサ

クリスマスイブの夜のお御堂 側面

12月24日午後8時半にンガリエマ修道院横にあるお御堂で、厳かに質素にイブのミサが始まった。


今夜は、正面祭壇の前にマリア様とヨゼフ様が馬小屋の中で羊たちとともに鎮座している。

正面左右、お御堂中央部の左右にはいつも通り、石膏のイエス様像、マリア様像が静かに穏やかな表情でわたしたちを見下ろす。はるばるローマから運ばれてきた像なのだと聞いたことがある。
植民地時代のしっかりした建造物の修道院だ。
ずいぶん長い間、ここで信者たちを見続けている像なのだと思うと、さらに尊く見えてくる。

祭壇後部の左右の棚には白いレースの布が敷かれ、その上の花瓶には庭に咲く南国特有の花が飾られている。
シスターたちが日々大切に手入れされるお御堂の美しさは清々しい。
中村寛子シスターが、わたしはここの祭壇が大好きなんです、と言われていたことを思い出す。
正面の壁の大きな十字架は木製のシンプルな十字架だけのものだ。
手前右端には大切に手入れされた古いオルガンがあり、コンゴ人男性が座っている。
お御堂内は、それだけだった。

お御堂内に据え付けられた木の机と椅子には、ぱらぱらとしか参列者はいない。
ンガリエマクリニック敷地内にあるお御堂だからか。
手術室の看護士なのだろうか、手術着らしきままで参列している女性もいれば、頭に傷を負い、腕にギブスをはめたままの患者らしい女性もいる。そう考えると、病院に関係した人たちなのかなとも思える。
確かにお御堂前の駐車場には車はほとんどない。


質素で静かなお御堂に、周辺からのかえるの鳴き声だけが聞こえてくる。
暑い。
ここはアフリカなのだと思う。

時間前に、おそろいのアフリカ布地で作られたブラウスとロングスカートに、薄手のスカーフで頭を覆い、胸にフランシスコ会シスターたちの十字架ペンダントを下げたアフリカ人シスターたちと、ローマから派遣されてここで奉仕する外国人シスターたちが静かに入場し、お御堂前部の椅子に座る。聖書や聖歌集など2,3冊を抱えて入場するシスターもいる。

わたしたちは、出迎えてくださったポーランド人シスターが導いてくださり、すでに中央あたりの椅子に座っていた。
机の上には、いくつかの聖歌の譜面と歌詞のプリントと、そしてイエス様誕生の物語のプリントが置かれている。
聖歌の歌詞は、リンガラ語のものもある。

いよいよ時間だ。
オルガンが鳴り渡り、外国人神父様が襟元に刺繍がほどこされている白装束姿で後ろから登場する。
手には白いレース布地で包んだ赤ちゃんのイエス様人形を掲げている。
神父様は祭壇の数段の階段を上がり、馬小屋の飼葉桶にそっとイエス様を置かれた。

神父様の祈りも、シスターが朗読する聖書の言葉もさっぱり理解できず耳を素通りしていくが、息子が通っていた暁星のお御堂でのクリスマスミサを思い起こして重ねてみる。
アフリカの聖歌はやっぱり明るい。
アフリカ人シスターたちは手拍子(全てが4拍子だ)し、オルガンのほかに、タムタムと団子三兄弟のようなコンゴマラカスと金属の打楽器が入る。神父様も緩やかに手拍子されている。
手でしぐさを作るということは、人間の自然な感情表現のように思える。
わたしが大好きな聖歌 ”今宵、イエス様がお生まれになった”を楽しみにしていたが、この聖歌は聴けず残念だった。初めて聴くリンガラ語の聖歌もあった。”聖しこの夜”、”荒れ野の果てに”はわたしも一緒に歌う。
声に出して「歌う」と、なんだかマリア様やイエス様も喜んでくれているような気分になる。
「神に賛美」とはこういうことかな。
信者ではないけれど。

そして祈りの中で、いよいよイエス様がお生まれになったという場面で周囲の人たちと祝福の声を掛け合う。
信者ではないわたしと夫は、いつものことながら戸惑うところだ。

世界中で地球が回って12月24日の夜を迎えた土地の教会で、イエス様の誕生を祝福するミサが順々に行われていく。
24日から25日にかけて、約48時間、それぞれの風土に育ったやりかたで祝福のミサが続くのだ。
そんなことを、二千年も前にマリア様やイエス様は想像されただろうか。
不思議だなあとあらためて思う。


そうしてミサは終わった。
終始、アフリカらしい厳かな雰囲気だった。

夜10時になっていた。
お御堂の出口のところで、ポーランド人シスターが、Joyeux Noel!(クリスマスおめでとう!) よくミサに足を運んでくれましたね、と声をかけてくださった。
他のシスター方も、”Hiroko!” と声を掛けてくださる。
中村寛子シスターと同じ名前。わたしたち、同じ名前だから「ンドイ、なのよ。」といろんなシスター方に紹介してくださった。寛子シスターが繋いでくださったご縁を嬉しく思う。

あまりに厳かで質素で静かなアフリカの夜のクリスマスミサ。
カメラを向ける気にもなれなかった。
冒頭の写真は、申し訳程度に、お御堂から出て車に乗り込んでぐるっと回った時に、側面からそっと撮った一枚だけの写真だ。

2012年12月22日土曜日

L’éléphant vert: 3人のちいさな人魚 ~ コンゴ河で発見された人魚?

何ヶ月か前に、コンゴ河で捕獲された人魚がYoutube上に載ったのだとか。
そんな話を横で聴きながら、人魚、ってのは、南国でも明るいきれいな海に住んでいないとイメージ崩れるなあ、とか思いながら、一冊の絵本のことを思い浮かべていた。

L’éléphant vert: 3人のちいさな人魚: 3週間ほど前だったろうか、我が家で数人が集まってわいわいと夕食をとっていたときに、コンゴ河で捕獲された人面魚をYoutube上で見た、ということが話題に上った。 不気味な姿で本当に人魚のようだったとか何だとか、話に尾ひれが付いて本当のところはわからないが、”人面魚”というとや...

2012年12月21日金曜日

ヨウムが我が家にやってきた

竹でできた直径30cmほどの円筒形のもの・・・はて、これは??


夫が昨日朝、道路現場事務所に到着すると、上の写真の円筒形のものが立てかけてあったそうだ。

コンゴ人のエンジニアがヨウムを買ってほしいと持ってきたのだった。

”ヨウム”、と聞いて夫は即座に反応。
というのも、キンシャサの我が家のお隣の日本人ドクターが飼っておられるのが、まさに”ヨウム”だからだ。
以前に1週間ほど預かったことがあり、わたしが小学校の時に飼っていた小鳥の可愛らしさがよみがえり、コンゴならではの賢鳥、ヨウムが欲しいとずっと思ってきた。
夫も伝書鳩を飼っていた経験があり、鳥に関しては寛大なところがあった。

円筒形の鳥かごを覗くと、一羽の、お隣さんのところと同じ鳥がいるではないか!
すぐにわたしに電話がきた。

おーい、お隣のドクターのとこと同じ鳥を持ってきているけど、我が家で飼うか!
・・・わーい!
でも、しっかり世話をすると確約できるか?
・・・もちの!ろん!!

ということで、昨夕、ヨウムが我が家にやってきた。
そして、夫は、狭い竹のかごだったらかわいそうだと思って、帰宅途中にあるシティ-マーケットに新設されたペットコーナーへ寄り、さっそくヨウムの鳥かごを買い、それに移して帰って来たのだった。



ヨウムのぽんちゃん



持ってきたエンジニアのおじさんの話によると、このヨウム、生後1年半といい、知人宅で飼っていたから、言葉を話す(リンガラ語?)のだそうだが・・???
交渉の末、わたしたちは80ドルで譲り受けた。

お隣のヨウムのルージュくんと比べると、全体的に小さくて丸っこい。
そして、羽の色のグレーが濃いように思う。
体長25cmくらい。
鋭いくちばし,止まり木をしっかり握る足の4本指の爪はくるりと曲がって長く、まるで魔女のお婆さんのようだ。
威嚇するようにギャアギャアと啼くときに見える舌も、くちばしと同じように黒っぽいグレーだ。
尻尾だけがきれいな緋赤だ。
隣家のルージュくんは、パームの実(朱色のアブラヤシの実)ととうもろこしを食べるが、我が家のぽんちゃんもパームの実をむさぼり食べる。
だから、うんちも立派!だ。
このパームの実の朱色が、ヨウムの尻尾の赤色を鮮やかにするのだと聞いた。

えさを食べる時だけかごの下に下りてくるが、それ以外は、上手にかごの側面をよじ登って,上部の止まり木にとまっている。

いつだったか、コンゴには賢猿のボノボに、賢鳥のヨウム、それから京都大学国費留学生だったキンシャサ大学教授のボンバ先生が研究するタンガニーカ湖の賢魚・・・と、賢い動物が3種もいるのに、コンゴ人ときたら・・・、とぼやき合ったことがあったが、コンゴには独特の賢い動物が生息しているのだ。

昨夕、夫の帰宅を待つ間に我が家のリビングの窓から外の景色を見ていたら、尻尾だけ赤いグレーの鳥が数羽、高い木の枝から枝へとゆっくり飛んでいた。
こんなにも野生のヨウムが飛び交っているとは!驚きの発見だった。


”Wikipedia”によると、この”ヨウム”は、オウム目インコ科。
学名 Psittacus erithacus。
英名 Grey Parrot。
体長33cm。体重300~500g程度。
生息地により大きく異なり、コンゴに生息するものは大型の傾向にあるそうだ。
アフリカ西海岸の森林地帯、ガーナからビクトリア湖周辺、アンゴラ共和国からコンゴ民主共和国など、低湿地の森林から高地の森林などに分布すると記されている。
平均寿命は何と50年前後だそうだ。(ボノボの寿命とどっこいどっこいではないか!)

噂どおり、知能が高く人の言葉をよく覚えるのだそうだ。
人の言葉を真似るだけでなく、言葉の意味を理解して人とのコミュニケーションをとる能力がある、とも。
型はめパズルもこなすともいう。
生涯に2度の反抗期を持つことも知られていて、実際、お隣のルージュくんは只今、反抗期なのだそうだ。

我が家のぽんちゃん、昨日は、狭苦しい円筒形の竹かごに入れられて、大勢の事務所の人たちに覗かれ、がたがた揺られて我が家の到着するや,ぽんちゃん、ぽんちゃんと聞きなれない呼び名で呼ばれ、「ボク、ヘトヘト」と言わんばかりに、まぶたがとろりと閉じかけていた。
そして今朝、わたしが2本の指でとうもろこしの粒をつまんでくちばしに持っていくと、ちゃんと食べてくれた。
でも、ちょっとくちばしが当たると痛かったので、わたしは掌にとうもろこしを一粒載せてみた。
すると、わたしの左薬指付け根を足の爪でガリーっと引っかいて掌に載って、とうもろこしの粒をくわえたのだった。
痛いっ!!

見事にやられた。
ヨウムは、知能が高い分、神経質なところもあるそうだ。
慣れるまでに時間がかかるだろうが、良い友達になれたらなあ。
言葉でコミュニケーションが取れるくらいになったらかわいいだろうなあ。
でも、ぽんちゃん、わたしより何十年も長く生きるんだ!

お隣のドクターが言われた。
遺言書にヨウムの預かり先のことも書いておかないといけまんせんねえ。

2012年12月19日水曜日

白いきのこがニョキニョキ

12月も半ば過ぎ。
まだまだ雨季の続くキンシャサだ。

昨夜も遅くから激しい雷雨で、ゴロゴロ、ピカピカ。
幼い時は雷が心底恐かった。

ピカ!っと光って即ゴロゴロー!!!っと鳴ったら、雷様はすぐ近くに来ているんだよと母は言った。
稲光と音の時間差があると、あ、これはまだまだ、雷様は遠くにいるから落ちてこないし、おへそも大丈夫だ、と太鼓判を押すかのように言い切ったものだった。
それがだんだん、ピカッ、即ゴロゴロッ、ドーン!!!、となるとさあ大変。
タオルケットに汗びっしょりになって包まって体中を(特におへそを)隠したものだった。
そうして息を潜めて、雷様が無事に通過するのを待つだけだった、遠い夏の日。

昨夜は、そんな子どもの頃の「かみなりさま」を思い出すような、ものすごい稲光と雷鳴だった。
時々、ドッカーン!!!!!、と窓ガラスを揺るがすような爆音が響くと、やっぱりびくりとしてしまう。
最近、知人宅で家電に落雷し、火を噴くという事故が起きたばかりだし。
ここのおんぼろアパートには絶対、避雷針とか備え付けられてないよなあ・・と不安になったり。
蚊帳に入っていたら決して雷は落ちてこないよ、と言っていた祖母の言葉を思い出したり。
(幸いなことに、キンシャサではベッドに蚊帳を吊って寝ている。)

十日前の土曜日にも、一晩中、激しい雨が降り続き、翌朝、日本大使杯ゴルフコンペが予定されていたのに、キンシャサ・ゴルフクラブのゴルフ場は、18コース中、15コースが浸水してプレー不能状態になった。
いたるところに広い池が出現し、ゴルフ場に生息する白い鷺のような鳥が水辺で憩ったりして、まるでアフリカ版チャイコフスキー「白鳥の湖」風情であった。

そんなじめじめしたゴルフ場フェアウエイに、「河合の白い肝油ドロップ」をばら撒いたかのように、小粒の白いきのこがあちこちに顔を出した。
どのキャディーも、このきのこは食用で美味しいんだよ、と口を揃えて言っていた。

ふ~ん。
一度食べてみたいものだ、と思っていたら、一昨日、ひとりのキャディーがスーパーのビニル袋2袋分いっぱいにその白いきのこを摘んで持ってきた。
2袋分で5ドル払って入手した。


ザルに移して水洗いしたら、きのこの笠が開いてしまった。


日本のえのき茸より石づきは太くて短い。また、全体的に柔らかくて、洗うと笠の裏のひだが開いてぎざぎざになった。
一本一本を見やすくすると、こんなきのこだ。

採れたては白くて笠が丸い
さて。
このきのこを4等分してジップロック(なんとキンシャサのスーパーで購入可!)に入れて3袋を冷凍した。
そして一袋分のきのこで野菜たっぷりのトマトスープを作った。
トマト缶一缶を入れたけれど、トマトの赤い色がしっかり消えてしまって、茶色のスープになるくらい旨味が出て、きのこの風味たっぷりのスープができた。

クツクツ煮込んで、ご飯にかけて食べたら、う~ん!!ホッペが落ちんばかりだった。(ホント!!)

今朝、まだ雨が残っていたが、ゴルフ場に行くときのこキャディーと出会った。
食べてみたか、味はどうだったか、と訊いて来た。
美味しかったー!!と言うと、また持って来ようかと言う。

この白いきのこの名前は何?
”Chanpignon blanc !”(仏語でそのまんま、”白いきのこ”)

え? ”白いきのこ”、ってなによ。特別な名前はないの?
”知らない”

じゃ、リンガラ語では何と言うの?
”Mayebo ya pembe !”

何のことはない、リンガラ語でも「白いきのこ」なのだった。


雨季の11月、12月、1月の3ヶ月のみ賞味できる”白いきのこ”。
我が家で冷凍したきのこが美味しくいただけるようなら、あと1ヵ月半の間にしっかりストックしたいなあ~。


20年前の中央アフリカ共和国滞在時にも、夫がよく雨季の現場、ボッサンベレから持って帰っていた大きな大きな白いきのこがあった。
現地の言葉、サンゴ語で、「ゴゴチ・ボボ」と言った。
日本の”エリンギ”みたいに白くて石づきが太く、笠の部分はもっと広がっていた。
長さだって30cm、笠の直径も開くと30cmはあったが、笠が開いてしまうと、ひだの中にウジを産み付けるから、笠が開き切る前のゴゴチ・ボボが良しとされていた。
我が家のボーイ、フランソワおじさんはバターでソテーしてしっとり焼いてくれて、それはそれは美味しいきのこ焼きを味わったものだった。

雨季、ってじとじとして雨が降ると道がぬかるむし、怖いくらいの雷雨だし、雨が降るだけ降ったら一つの雲も消え失せ、ギンギラの太陽が照りつけて暑さも容赦ないしなあ・・・と恨めしく思っていたが、こんなに美味しい「白きのこ」を育んでくれるんだもの。
雨季のオマケに思えてくる。

現地の、季節の食材を発掘するのもまた楽しい。

2012年12月11日火曜日

L’éléphant vert: むこう岸には ~ 第1回キンシャサ日韓親善ゴルフとアフリカの国境線と

12月2日の日曜日、初めての日韓親善ゴルフコンペがキンシャサゴルフクラブで開催された。
キンシャサの日本人、韓国人の間に横たわっていた”川”に橋が架けられた日だったと感じる。

そして、アフリカの地図を見て思うこと。
それは、国境線がシンプルに直線に引かれているということ。
民族も経済圏も無視された植民地時代に引かれた境界線が、そのまま国境線として踏襲されたのだった。
国として分けられた地域に昔のような交流は持てるのだろうか。

川の両岸に住む、2人の子どもたちの間に生まれた密かな交流の物語を通して、こんなことを考えてみた。


L’éléphant vert: むこう岸には: 小さい頃、自分が住む町だけが、この世に存在する世界だった。 あの山の向こうも、こっちの坂の向こうも、誰も住んでいない何もない森か山か草地だろうと思っていた。 ある時、坂の向こうにも小学校がある、と聞いた。 へえ・・、向こうにも違う町があるのかもしれない。 坂を越えてみた...

2012年12月8日土曜日

キンシャサ国際女性クラブのクリスマスチャリティーバザー

IWC クリスマスバザー案内状

日付をさかのぼって、先週の土曜日、12月1日に、キンシャサの新しいホテル、Hotel Royal で、IWC(国際女性クラブ)のクリスマス・チャリティーバザーとクリスマス・ランチが行われた。

10月半ば過ぎからIWCの定例会で、クリスマスバザー準備のボランティア募集と、ギフトバスケット作成のための献品、手芸などの制作品提供の呼びかけが始まった。

わたしは、初めてのIWCバザーだったので、今回は客側で参加しようと決めた。

会場のHotel Royal は建物がロの字型で建っていて、中庭部分でバザーが、そしてバザー会場に面した部分のレストランでバイキング形式のランチ会が開かれ、子供連れ家族も多く来場し、とても良い雰囲気だった。


それにしても・・・。
クリスマスバザーの項目の中にあった、「ギフトバスケット」とは何だろうとずっと思っていた。

それは、献品として集まった石鹸、入浴剤、シャンプー、タオルなどの浴室用品、茶、コーヒー、ナプキンなどの台所用品をボランティア委員たちがかごに詰め合わせて中身が見えるようにセンス良くセロハン材とリボンでラッピングし、それぞれ中身に応じて10ドル~15ドルくらいの値札を付けて売る、チャリティー精神満タンのバスケットだった。

集まった献品をそのまま売るより、詰め合わせバスケットとして売る・・・とても良いアイディアだ。


写真が趣味の会員は自身が撮影した風景や植物の写真を使ってクリスマスカードを数種類制作して売っている。
さすが、カードのお国柄のセンスが表されたチャリティー品だ。
わたしも10ドル分、3枚を購入する。

会員が作ったクッキー、ケーキもクリスマスらしいラッピングで雰囲気を盛りたてている。

白磁にクリスマスの図柄やアフリカらしい図柄を描いて売っている会員、大きなクリスマスリースを制作して売っているタヒチ出身の会員もいる。彼女のお国ではどんな風にクリスマスを祝うんだろう、などと想像してみる。

スペインのシスターはキンシャサ郊外に建つ病院施設の運営のための製作品を売っている。木のチップ(ビーズ)を糸で編んだ鍋敷きを買ったら、シスターがとても喜んでくれる。

どんなプロジェクトからの出店かわからないが、テーブルセンター、食事マット、テーブルクロスなどに刺繍をしたものを売るブース、アフリカの布地で制作されたネックレスやブレスレットを売るブースも雰囲気を盛り立てている。
花の写真をポートレートにしたもの、キャンバスに描かれた絵たちも売れられている。

わたしはクリスマスプレゼント用にあちこちで買い物をして楽しんだ。

チャリティー募金箱を見かけなかったが、わたしが見過ごしただけだろうか。
案内状には、「サンタさんと一緒の写真撮影 2:30から4:30まで」と書かれていたが、これも見逃した。
きっと、小さい子どもたちの人気スポットだったのだろうな。


ホテル・ロワイアル中庭 バザー会場

ランチ会は準備が間に合わなかったらしく、随分遅れて始まったが、前菜、主菜、デザートと美味しくいただいた。
40ドルというと少々高いかとも思うが、クリスマスチャリティーだからと納得する。
わたしのテーブルには、マダガスカル出身の子連れ二家族、キンシャサのラジオ・フランス勤務だというフランス出身とコモロ島出身の夫婦、そしてインド出身のエリザベスが座った。エリザベスは今年9月から会員になったばかりだというのに、英語力と積極的なフレンドリーシップを発揮して、ボランティア委員としてすばらしい活躍だった。

IWCのクリスマスチャリティーイベントの様子がつかめた。
残念なことに日本人はわたしだけ。夫は土曜日も仕事だった。
来年は、もっと多くの日本人を誘ってみよう。

ランチを終えて歓談していると、わたしのフランス語の先生から肩をたたかれた。
彼女もいくつか買い物をしている。
知人と、どんな買い物をしたか見せ合いっこをして、品定め。

ホテルを出ると、カーッと暑い太陽が照りつける雑踏のキンシャサだった。

2012年12月6日木曜日

コンゴのクリスマスって?

12月に入って、6日目。
雨が一日中降り続く、ということはないが、やっぱり雨の多い雨季のキンシャサだ。

昨日は、衆議院議員選挙の投票に、大使公邸玄関前の投票所へ夫婦で行ってきた。
そして、今夜は夕方6時から日本大使公邸の庭で、天皇誕生日のレセプションが行われる。

そういえば、天皇陛下はクリスマスの1日前の誕生日だった。
日本の子どもたちはこの日あたりから、楽しい冬休みに入るのだったな。
日本では、節電の中でも、あちこちでクリスマスイルミネーションに町が輝いてることだろう。

キンシャサは、というと今のところ街中でクリスマスの飾りはまったく見られない。
コンゴはキリスト教徒がとても多い国。
キンシャサ市内にも、荘厳な赤レンガのノートルダム教会、白いサクレクール教会などのカトリック教会や、大きなプロテスタントの教会、中村寛子シスターのいらしたンガリエマ修道院の教会、など大中小の教会をあちこちで見つけることができる。
これから、どんなクリスマスの飾りで私たちの目を楽しませてくれるだろう。

さて。
わたしは先日、11月の終わりにLimete5番通りにある、カトリックのブティックに行き、イエス降誕の人形たちを買ってきた。
我が家のリビングにも、クリスマスを感じる場所を作りたかった。

アフリカのブラックウッドで作られた降誕人形

上の写真が、ブティックで購入した降誕人形だ。
14,5cmほどの彫刻が施された木の板と、10cmほどのマリア様、ヨセフ様と3人の博士、そして、飼葉桶に眠る赤ちゃんのイエス様だ。
赤ちゃんのイエス様は12月25日に誕生したのだからそれまでは赤ちゃん人形も飾らないのだが、4cmと小さいのでわたしには大事にしまい込みすぎて失くす可能性が大きい、ということでごめんなさい、すでにマリア様、ヨセフ様の傍に置いてしまった。

果たして、キンシャサ市民の家庭にはどんなクリスマス飾りをするのだろう。

先日のIWC(国際女性クラブ)の”Morning Coffee” のときにも、クリスマス、新年休暇で本国に帰ったり旅行に出るという話題で賑わっていた。
キンシャサの雨季が明けるまで戻って来ないという長期帰国の知人もいて、休暇に出る前のランチ招待の誘いが入ったりする時期でもある。
ランチ会は、今週、来週がピークだ。

我が家は夫婦ふたり。
夫のプロジェクトも休暇に関係なく動くようで、どこか旅行に出ることもできないようだ。
娘には生後半年の赤ちゃんがいて、クリスマス、新年は夫の実家のアルプスで過ごすと言うし、東京の息子もキンシャサまで来るつもりもなさそうだし。
少々がっかり、しょんぼり。

ゆっくりと過ごすクリスマスから年末年始になるのだろう。

2012年12月4日火曜日

コンゴの楽器 ~ L’éléphant vert: 外村吉之介 少年民藝館

前回のプリミティブアートの本紹介に続いて、もう一冊のお勧め本のことを、今回は我が家のコンゴの打楽器を織り混ぜて書いてみました。

下の、L'elephant vert のところをクリックしてみてください。

L’éléphant vert: 外村吉之介 少年民藝館:  少年民藝館 表紙  前回、「直感こども美術館 プリミティブアートってなあに?」の写真図鑑絵本(?)を紹介した。 だったら、あの本もぜひとも紹介しなければ!、と強く思ったのが、これ! 外村吉之介さんが愛情深い文章でつづる、「少年民藝館」。 1984年初版...

2012年11月30日金曜日

L’éléphant vert: 直感こども美術館 プリミティブアートってなあに?

アフリカを中心に、世界中のプリミティブアートをきれいな写真入で紹介するこの本を、いつだかの”夏の絵本屋”で扱ったことがある。
題名に、”こども美術館”と付くが、あらゆる層のかたに手にとって欲しい本だ。
キンシャサの我が家に置かれたプリミティブアートたちとともに紹介してみました。


L’éléphant vert: 直感こども美術館 プリミティブアートってなあに?: 西村書店から出版されているこの写真集。 こども、と言わず、老若男女、一家で楽しめる本だと思う。 ”Primitive art” を辞書で引いてみると、”原始美術” と記されているが、とんでもない! まだ、”芸術”という概念がなかったころ、ただかれらの生活の中で使...

2012年11月29日木曜日

平和なキンシャサのパン工場

 今日、東京の知人が、朝日新聞11月24日夕刊の第一面に掲載された記事、

  「 コンゴ 平和どこに ~ 武装組織 M23,東部を制圧 」

をメイルに添付して送ってくれた。
こんなに大きく、ゴマ、サケの街の写真、地図とともに取り上げられたのなら、首都のキンシャサも危ないはず!、と心配いただくのも当然だろう。

こちらで視聴できる”フランス24”という衛星放送テレビのニュースでも、繰り返し、コンゴ東部地域の闘争の様子が映像で流されて伝えられている。

JICAキンシャサ事務所からも逐一、コンゴ東部情報がわたしのメイルに情報をいただいているし、夫も地元の日刊新聞で情報を得ているので、不安はないし、東部の紛争地域から随分離れたキンシャサでは緊迫した空気は感じられない。

東部のゴマ、サケのある地域は、気候も穏やかで豊かな農作物生産地帯であるのに加え、金、ダイヤモンド、レアメタルなどの天然資源が眠る地域で、コンゴ民主共和国にとってとても重要な地域なのだ。
地理的には、コンゴの東端に位置し、ルワンダと国境を接し、ツチ族のジェノサイドのあったときに多くのツチ族がコンゴ東部に流れ込み、そのまま定住しているとも聞く。
今回、ゴマ、サケの街を占領した反政府勢力のM23の背後にはルワンダ政府が付いているとも噂されている。
ルワンダは公用語がフランス語から英語に変わった国。
もともとコンゴとルワンダの闘争に、欧米諸国が首を突っ込んできて、かき回しているように思えてならない。
はて・・・・。

難民が移動し、疫病も蔓延し食糧事情も悪化していると聞く東部地域だが、コンゴ領土の真反対、西端に位置するキンシャサは、M23によるゴマ占領の情報を受け、デモや集会が一部地域で行われたようだが、穏やかな毎日が流れているだけだ。


そんな昨日、IWC(国際女性クラブ)の企画で、キンシャサの地元民地域”シテ”地区にある、”Pain Victoire”の大きなパン工場の見学に行ってきた。


オートメーション化された工場内
ごちゃごちゃしたシテ地域にありながら、工場敷地内はとてもよく整備されていた。
工場入ってすぐのブースは、洗面台が横にずらっと並んでいて、直角に曲がった次の一辺には、日本のデパートなどのトイレでもよく見かける電動乾燥機が据え付けられていた。
そして、いよいよ工場内へ。
わたしたちはフランスパン製造コースを見学するということだった。

巨大な機械が、巨大な空間に配列されていて圧倒される。
イタリアや日本からのパン製造の機械なのだそうだ。
まず通路の左側に数個の背の高い機械が並んでいるのが見えた。
小麦粉貯蔵庫なのだそうだ。それぞれの機械に入れられて小麦粉の重量も機械制御され管理されている。
その貯蔵庫の前に”コンゴ民主共和国産”と書かれた白い小麦粉の袋が山積みされている。

小麦粉貯蔵庫、重量計、混ぜ合わせてこねる機械、第一次発酵、成形、粉まぶし、パンの上のライン引き、第二次発酵、と機械はゆっくり正確にフランスパンを製造してゆく。
大きなウェーブの凹凸のあるテフロン加工の鉄板の上に落とされるフランスパンを重なりがないか工員がチェックして、ウェーブのくぼみに一列に2つずつフランスパンが並ぶ。それらはベルトコンベアーに載って巨大オーブン室へ流れてゆく。

発酵室内とオーブン内は、均等に発酵し焼けるように、パンを載せたテフロン加工の鉄板がゆっくりとぐりぐりと上下左右に動くのが見える。温度と湿度はやはり機械制御で管理されているのだそうだ。

20年前にバンギで見たパン屋のオーブンでは、波打ったトタン板(当時の庶民の家の屋根に使われていたのと同じトタン板だった!)の凹凸を利用して、くぼみ部分にフランスパンを横たわらせて、満タンに載せたトタン板をそのまま庭のオーブンに入れて焼いていた。そんな光景を懐かしく思い出す。
キンシャサのビクトワールパン工場でも、トタン板そっくりの凹凸板にフランスパンを載せて焼いていたが、違うところは、そのトタン板がしっかりした作りの黒いテフロン加工の板になっていた、というところだ。
20年も経ち、ここはコンゴ一の設備と規模を誇るビクトワールパン工場なんですから!

そしてもうひとつ、感心したこと。
それは、ただ一つの原料を除いて、すべてコンゴ国産のものを使用しているということ。
ただ一つの例外は、イースト菌。
これはフランス産のものだった。


こんがり香ばしく焼かれたパンが、トタン板から、下に置かれた大きな青いプラスティックかごに落とされていく。
フランスパンが満載されたかごがどんどん高く積まれていくと、工場の最後尾に並ぶ数字が付いた両扉のドアのところまで運ばれる。そして、もう一つ先のドアが開かれると、そこにトラック、あるいはパン売りのママたちが待ち受けているのだった。

この工場は、レバノン人経営なのだそうだ。
わたしたちに、流暢な英語とフランス語で丁寧に説明してくれたフランス人男性はビクトワールパン工場のディレクターだということだった。
彼の説明によると、この工場は、一日24時間、週7日間、毎日休みなく、一日70万本(わたしの耳には、seven hundred thousandと聞こえた。)のフランスパンが製造されているのだそうだ。ここでは、フランスパンのほかに、小ぶりの山形食パンも製造されていた。
この工場は、コンゴの人々に働く場を確実に提供しているのだ、ということにも大きな感銘を持つ。

このビクトワールパン工場の前を朝6時くらいに通ったことがあるが、工場内にはたくさんのアフリカ女性たちが焼きたてパンを、「Pain Victoire」と茶色の文字が書かれたベージュの大きなプラスティック”たらい”にぎっしり立てて入れられたフランスパンを受け取って、そのたらいを頭に載せて街に散らばっていくのだった。
そんなコンゴのママたちの伝統的な労働力を、パン販売網に組み入れているパン会社のシステムにも共感を覚える。

一時期は、七千人のママたちが毎朝小さな村から工場まで来てパンを受け取り、それぞれの村で売っていたそうだが、トラックが普及して、直接工場まできてパンを持っていくママたちは、現在では二、三千人ということだ。
ビクトワールパンの工場はコンゴ国内ここの一箇所だけ。
あとは、トラックや飛行機(?)でどこかまで輸送され、それ以外は、全部、ママたちの手でコンゴ中にビクトワールパンが届くのだ、と想像してひとり感動していた。
きっと1本五百フランのフランスパンを売って百フランか二百フランの儲けにしかならないのだろう。たらい一杯に50本のフランスパンを入れて、全て売りさばいても五千フランから一万フラン(五百円から千円)にもならないだろう。
現在、慶応大学の英語講師として勤務するコンゴ人のサイモン先生の母親は、毎朝パンを売って子どもたちの学費を稼いで学校にやったという話を思い出す。


さて、工場見学のあと、新しくシテ地区に”Chez Victoire”というパン屋兼カフェを開店したので、そこへ移動して、菓子パンの試食をしましょう、ということになった。
工場から車で7、8分のところに、そのカフェはあった。

シテ地区にあるビクトワールパン直営カフェ一号店


工場もカフェもわたしたちが時々訪れるジギダ野菜市場の近くの、シテ地区、つまり庶民のカルチェにある。
シテ地区のカフェ一号店は新しくモダンな明るい清潔な内装で、多くの地元の若者たちで賑わっていた。平和そのものの光景だった。

フランスパンや小ぶり食パンのほかに、たくさんの種類の菓子パンがガラスケースに並んでいる。
IWCメンバーが、シティーマーケット(外国人が利用するスーパーマーケット)内のパン屋の半分の値段に設定されている、と驚いている。
シティーマーケットでは、フランスパンは1本1000フランだが、ここのシテ地区のChez Victoireのカフェでは、1本500フラン(約50円)だ。ドーナッツが250フラン(約25円)。
どれも見た目もきれいで、とてもおいしい菓子パンだった。
庶民でも買えるように、最高価格のチョコパンでも1500フラン(150円)にしている、と仏人ディレクターは言っていた。
店内の国産のペットボトル入りレモネードが500ml入りで500フラン。
千フランで菓子パン2個と飲み物が買えるのだ。
ちょっとしたお礼のチップとしてコンゴ人に渡す金額として、ビール代やお茶代分の五百フランから千フランという相場は妥当だな、と思う。


”Chez Victoire”シテ地区店内 IWCメンバーと共に
キンシャサ市内のゴンベ地区(外国人居住地域)の6月30日通りに面したクラウンビル1階に、”Patachoux”というケーキとパンのカフェが開店して1ヶ月ほどになるが、近々、同じビルのその隣に、この”Chez Victoire”(おそらくコンゴ2号店)が開店する。
果たして価格設定は?
シテ地区店の倍の設定になるのか。

キンシャサには、こうやってこざっぱりしたカフェが増えている。
先ほど出てきた外国人が利用するシティーマーケットには、ペットショップコーナーもできたと聞く。
ペットショップこそ、なんだか平和の象徴のような気がする。
たしかにそのスーパーマーケットは、外国人と富裕層のコンゴ人しか利用しないが、それでも、キンシャサの治安が安定してきた証拠かなあ、と思っていた矢先のゴマ地域の闘争悪化のニュースだった。

反政府勢力のM23軍は、キサンガニやキンシャサまで進軍する可能性を示唆していたが、今日夕方のJICAからの情報によると、MONUSCO(国連平和維持軍)情報として、M23が今朝から占領地域から撤退を始めている、とのことだ。

我が家の家政婦は、わたしたちキンシャサ市民は、”souffrance”(心身の苦しみ、苦悩)を持っている、という言い方をしていた。すべてはコンゴ政府が決めることだから、と言うのだ。

コンゴ中の人々に、毎日おいしいパンが届く平和な日々が続きますように。

2012年11月24日土曜日

いよいよ 「Iroko」の木について

これまでのわたしのブログの中で、二度ほど「Iroko」の木のことに触れたことがあった。

20年前、中央アフリカ共和国の首都、バンギで、子どもたちの学校の教師ジョスリンさんから、アフリカにはあなたと同じ名前の木があると聞いて以来、ずっと気にかかっていた木だった。

そして数日前、隣人のSドクターが、見つけましたよ、Irokoの木についての情報です、とWikipediaのページを転送してくださった。


http://en.wikipedia.orq/wiki/Iroko


Iirokoの木。
Hirokoの木。わたしの木。
そんな気がする木。
いよいよIrokoの木について書くときが来たように思う・・・。

まず、Irokoの木、ってこんな木、なんだそうだ。


Iroko の木 ~ Wikipediaより


Wikipediaによると・・・

Irokoの木は、大きく堅い木質を持つ。また、熱帯アフリカ西岸からの木だ。
Irokoは、”アフリカンチーク”といわれる木のひとつだが、チーク科とは関係がない。
木の色は、初めのうちは黄色だが、時が経つと濃い茶色になり色が深まってくる。それは、おそらく”Milicia excela”によるものだろう。
学名は、”Chlorophora excela”、”Chlorophora regia”という。
Irokoの木は、発祥地の文化風習の中で、畏れられてもいるようだ。それゆえ、避けられもし、あるいは供物として崇められもする。
ヨルバ族たちは、その木には精霊が宿っていて、その精霊を向かい合って見てしまった者は狂って死ぬのだと信じている。
また、ヨルバ族たちの中には、Irokoの木を切り倒した者は、彼自身や家族が不幸になるという言い伝えもある。
さらに、Irokoの精霊が木の中に宿っているならば、その木で建てられた家の中で精霊の声を聞くであろう、とも言い伝えられている。
ナイジェリアには、ヨルバ族のIrokoと同じような言い伝えを持つ木がほかにもある。

Iroko材は、造船や屋内床板、家具を含めて、いろいろな目的で使われている。
1990年代末から、Txalapartaという木板を組み立てたバスク音楽の楽器のパーツに使われるようになった。生き生きとしたサウンドを作るためだということだ。
また、Iroko材は、伝統的な西アフリカの太鼓ジャンベ(Djambe)の木のひとつでもある。

Iroko材は、とても耐久性のある木材で、室外用として使用する時、油やニスを塗装する必要がない。
チーク材と同じくらい耐久性に優れてはいるが、Irokoとチークはおなじ生態系は持たない。

イギリスでは、機械加工されたIroko材の貿易制限がない。
唯一、報告される有害結果は、Iroko材からの埃によって引き起こされることで知られる、喘息、皮膚炎、じんましんだ。

・・・そんなことが書かれていた。


さらに調べてみると、Irokoの木は、クワ科クロロフォラ属。
チーク材に似ているので、商品名でアフリカンチーク、ナイジェリアチークとも言われているそうだ。
耐久性に非常に優れているから、船の木材としても適材であるし、虫の害にも強いのだそうだ。

精霊が宿る、とかちょっと畏怖の念にも駆られるが、堅い木材だからこそ、バスク音楽の木琴(?)や、アフリカの打楽器にも好んで使われるのであろう。
どこかの項に、Irokoの木は、「キューバの音のリズムをきざむパーカッション、ジャンベが作られる木材である命の木」であるとの表記を見つけた。キューバはアフリカからの移民が多く住む国だ。
また、夏の絵本屋でアイリッシュハープとチェロのコンサートを持った時に、ハーピストが、アフリカの堅い木で作られたハープは本当に良い音色を奏でる、と解説していたことも思い出されることだ。

Wikipediaには、Irokoの木の分布はアフリカ西岸、と記されているが、中央アフリカ共和国でも、ここコンゴ民主共和国でもおなじみの木だ。
Irokoの木の解説として、こんな表記も見つけた。

「Irokoの分布範囲は広く、西アフリカのシエラレオネから東へガーナ、アイボリーコースト、カメルーン、ガボン、ザイールを経て東アフリカのタンザニアにまで、アフリカを横切って分布している。それぞれの国で重要な木材となっている。」


Irokoの木材は、Wikipediaの解説にもあるように、淡黄色から濃いチョコレート色までの幅があり、淡色の細い縞があるのだそうだ。

こんなに濃い茶色もある。
どこかのメーカーから、ipod touch のプロテクターに、”Iroko”の品名表示でこんな色のものがあって、「売り切れ」と書かれてあった。(ちょっと、エッヘン!したりして。)










本当にいろんな色目があるものだ。わたしの大好きな北欧のシンプルな家具デザインが似合いそうだ。







切り倒されてきた、Irokoの丸太だ。見るからに堅そうな木質だ。

Irokoの木もどんどん伐採されて森が消えてゆくのかな。
ヨルバ族の言い伝えはちょっと怖いけど、”恐れ”ではなく、木の精霊への”畏れ”として、乱伐の戒めにしてもらいたい気もする。

2012年11月23日金曜日

11月のくだものと、コンゴ情勢



11月に出回るくだものたち
 
ここ2,3日、コンゴ民主共和国の東部、ゴマ辺りがいつもに増して予断を許さぬ状況になってきていることが報じられている。

ゴマ近辺が反政府軍(M23)の占領下となったというのだ。

ゴマは、ツチ族のジェノサイド(集団殺戮)で知られるルワンダとの国境に位置し、地下資源も豊富、農作物も豊かに取れる風光明媚なところだと言われる。

反政府軍によるゴマ占拠を受けて、国内各地で対政府デモが起きているらしく、キンシャサでもいつ暴動が起きるのか、わたしたち外国人にも緊張感が出ている。
さらに、大量の難民・避難民が発生し、キャンプ地区の衛生状態が懸念されているということだ。

一方、首都キンシャサはどうかというと、一部地域で市民が結集する動きも見られたが、それ以外では通常と変わりなく、平和な空気が漂っている。


今朝も、我が家の家政婦は、いつも通りに出勤してきた。
そして、依頼していたバナナに加え、美味しそうなマンゴ、パパイヤ、アボカドを見つけたからといって、旬のくだものたちを持ってきてくれた。
パパイヤとバナナは年中、手に入るくだものだが、雨季に入り値段が安定し下がってきたようだ。

アボカドは、あともう少し待たなければならないらしい。
12月、1月になるとおいしいアボカドが出回るよ、と彼女は言う。
そうだった、キンシャサで生活を始めたばかりの今年1月は、毎日アボカドを食べていたように思う。
ということで、11月のアボカドはまだ品薄で高めの値段だそうだ。
アボカド1個600CF(60円)なりー。
(でも、今夜食べたアボカドは熟してとても美味しかった。)

バナナは18本で3000CF(三百円)、パパイヤ1個1000CF(百円)、小ぶりマンゴ2個500CF(五十円)なりー!

11月、12月は一年でいちばん雨の多い時季だそうだ。
たっぷりの雨で実が熟し、12月、1月は、アナナ(パイナップルのこと)、アボカド、そして、サフという紫色の卵形のくだものが旬を迎えるらしい。

家政婦に、キンシャサでデモがあったら参加するのか、と問うと、行くもんですか、わたしは母親だし、家でじっとしていますよ、と応える。
キンシャサで暴動が起こると、外国人が国外退去になり、そうなるとかれら国民は、経済がストップし収入が途絶え、苦しい生活を余儀なくされることを20年ほど前の動乱で経験済みだ。
さて、コンゴの人々はどう動くのか。
ゴマ地域を手放すことになるのか、固守するか。

スワヒリ語を話すゴマ地域は、リンガラ語のキンシャサとは言語も違うし、民族も違う。
またキンシャサ~ゴマ間の道路は整備されてないらしく、空路利用で行くしかないと聞く。
それも一旦ウガンダだかルワンダだかに出て、自国に再入国するルートを取るほうが容易だとも聞いたことがある。

コンゴ民主共和国の国土は、統治するには広すぎるのかもしれない。

家政婦は、いたってのんびり、ゴマ地域がよその国に取られたら、ゴマで取れるおいしいジャガイモもにんじんも食べられなくなるなあ、と残念そうにつぶやいた。
かの地に眠る天然資源の採掘収入のことより、農作物のことを憂えるのは、もちろん家族を思う主婦の発想なのだろうなあ。

2012年11月17日土曜日

ゴンベ郵便局の私書箱

私書箱が並ぶコーナー

この前、わたしのfacebook に「我が家の私書箱です。」と記して上の写真を載せたら、娘がびっくりしていた。

えっ!!
私書箱って、こんなぼろぼろなところだったの?

さもありなん・・。
壊れた扉の私書箱、扉の無い私書箱もあるんだもの。

我が家は、ここ、ゴンベ地区の郵便局内に私書箱のひとつ、3118番を借りている。


今年3月19日、ンガリエマ修道院の中村シスターに連れて行ってもらってゴンベ郵便局長さんを紹介してもらった。
そして、私書箱賃貸料6か月分(?5か月分?25000CF),私書箱鍵代(10000CF)、登録料(?3000CF)、合わせて38000CFになります、と言われた。

ここから郵便物は出せないが、私書箱を借りていれば、わたしたちがきちんと該当の私書箱に手紙を入れますよ。
郵便局長さんも局員の(おそらく!)マダム2人も、ドンと請け負ってくれた。

コンゴフラン札でいちばん大きな千フラン札を38枚も持っていないので米ドルで換算してもらって(コンゴフランと米ドルの2重通貨構造も近々終わりになるとも聞く。)、42米ドルを払ったのを思い出す。

その後、9月に賃貸更新に行った。
こんなぼろぼろの私書箱にも、手紙はきちんと(多分。そう信じる。)届いている。


わたしは、週2回、車を使える(繰り返すが、車での移動ではないと、治安上、街中を動けない。)火曜日と木曜日の昼過ぎにいつもゴンベ郵便局私書箱3118号を覗きに来るのが日課だ。
昼過ぎに行くと必ず、入り口ロビーにプラスティックの椅子を持ってきて局員マダムや近所の人たちがのんびりと井戸端会議している光景に出くわす。
のどかな光景だ。
郵便物の受け取りもない、もちろん貯金業務もない。
ただ、航空便で届いた郵便物を仕分けすることと、荷物が届いたら該当私書箱に郵便物到着のお知らせの紙を入れ、その紙を持ってきた人に荷物を渡してウソか本当か知らないけど、税金を受け取る・・・これだけの業務だ。
はたして、ここの郵便局には週に何回の郵便袋が届くのだろう。

わたしが、私書箱に手紙を見つけると、彼らもいっしょになって喜んでくれる。



さて、これが、ゴンベ地区郵便局の正面だ。
先月、キンシャサで開催されたフランコフォン会議に合わせて、ゴンベ郵便局建物も、ペンキが塗り替えられた。
そして、玄関入り口に白い鉄格子がはめ込まれた。
それまで、正面玄関の階段を上がって、私書箱に続く通路はオープンスペースになっていて、郵便業務が終わると、そこに住みついた人々の”ねぐら”になっていたのだった。



ゴンベ地区郵便局の正面

郵便局前の広いスペースも、フランコフォン会議開催日までには間に合わなかったけれど、道路に挟まれるようにして緑地帯公園が完成した。
道路を渡ると、キンシャサ教員大学キャンパスだ。慶応大学の学生たちが教鞭を取る日本語教室を開設する大学だ。
そこの構内には、着々と「日本文化センター」の建物も出来上がってきている。
来年の3月11日には開館式があると、プロジェクトに携わる慶応大学の方たちから聞いている。

さらに、ゴンベ郵便局から斜向かいの敷地には、ボボトセンターなどのイエズス会の施設が広がる。

ちょっと充実した地域になりそうだぞ!

ゴンベ郵便局よ、おまえもがんばれ!

2012年11月12日月曜日

真ん丸綿毛の木

11月のキンシャサは雨季真っ盛り。
降雨量も一年で一番多い月なのだそうだ。

今日、ちょうど昼の12時頃、ブログを書こうとしたら、空が真っ暗になり、風が吹き始めた。
マダム、じきに雨が降り始めるよ、気をつけてー。
部屋中の窓を閉めて回り、ベランダの洗濯物を取り入れた。
ほどなくして横なぐりの土砂降りの大雨となる。
そして、停電。
いくら待っても今日は自家発電機は作動しなかった。
どうやら雨季に入ると停電が多くなるようだ。


さて、下の写真は、11月4日に撮ったゴルフ場でのものだ。
遠くから撮ったのでよく見えないが、コース芝生上に無数のコロンとした綿状のものが点在していた。
芝生上で誰かが布団やクッションの綿の詰め物を取り出したのではないか、と疑りたくなるような有様だ。

説明を追加
なぜ、こんなに綿が点在しているのかとキャディーのおじさんに訊いた。
あそこを観てごらん、あの大木を!
この写真の向きの真反対を振り向き、左側上方を見上げると・・・まあ、かわいい!!
枝にびっしりと、丸い綿毛をつけて、ひときわ高く天にそびえる木が見えた。


丸い綿毛を付けた木
  まるで誰かが綿をくるくるっと丸めて枝に飾ったのではないかと思えるかわいらしさだ。

キャディーのおじさんに木の名前を尋ねるとバオバオの木だ、と言った。
ホントかな??
この綿毛はクッションの詰め物に使われるんだ。
でも気をつけないと鼻に入ると病気になるよ。


詰め物に使われるんだー。
でもよくよく見ると、タンポポの綿毛をもっともっと密集して親分にしたような固まりで、ちょっと細い綿毛なのだ。
中央アフリカで娘が持って帰ってきたことのあるカポックの実を思い出す。
その実の中の綿毛は繊維も長くしっかり太くてしっとりしていた。
カポックの茶色い硬い殻を割ると、パフっと音を立てるかのごとく、中でぎっしり詰まって寝ていた綿毛の繊維が目覚めたようにふっくりと出てきた。


我が家の家政婦に訊くと、ああこれは知っている木だけどバオバオではないよ。
名前は何だったかねえ・・・。
この木の幹を下までたどって行くと、バオバブの木の幹に形は似ているが、あんなにどっかりと太くはない。

芝生にコロコロ転がっている丸い綿毛は、あの枝から落ちてきたんだ。


9月中旬から10月初めにかけてゴルフ場の大木の紫のマメ科の花が満開になり、ゴルフ場が華やいだ。ちょうどその大木の下の砂地のバンカーのくぼみに、藤の花そっくりの紫の花が落ちて埋まり、遠くから見ると、きれいな紫の花の池のようだった。
今では、紫の花たちは見る影も無く、見上げると枝に豆の入った緑の莢(さや)がぎっしりと垂れ下がっている。この木こそ、ウエンゲの木。
とうとう発見したウエンゲの木!
黒っぽく、硬くてしっかりした木質で家具や楽器に使われる木だ。
ウエンゲもアカシアの木もマメ科だし、ゴルフ場にはマメ科の木が多いように思う。

キンシャサのゴルフ場には何本の木が植わっているのだろう。
18ホールある中で、1ホール当たり少なく見積もって50本の木があるとしても900本だ。
ゴルフ場の周りも木で囲まれているし、千本は下らないだろう。

余談だが、わたしの名前は、「Hiroko」。
フランス語では、”H”が発音されないから、「イロコ」となる。
それと同音の、”Iroko”の木が、中部アフリカ一帯に自生していると聞いた。
とても堅くて良い木なのだそうだ。
ことあるごとに、「Iroko」の木を尋ねてみるのだが、まだ出会ったことはない。
いつかの出会いをわくわくする思いで待っている。

2012年11月8日木曜日

キンシャサ 米事情

日本に帰って、まず幸せだなあと感じたのは、ふっくら美味しく炊き上がったご飯を食べる時だった。日本のお米ってほんとに美味しいなあ、としみじみ思った。

そして、よく訊かれたことは、キンシャサで暮らして普段はどんな食事をしているの?、ということだった。
食事作りも、食器片付けも、台所仕事はわたしがしているのだから、食事も日本にいたときとほぼ同じものを作って食べている。

ということで、今回はキンシャサで手に入る”米”について書いてみたい。


我が家でつい最近まで食べていた米は、キンシャサ市内のアラブ人経営のスーパー、”シティーマーケット”で購入する、エジプト米(900g入り袋 約300円)だった。
キンシャサで購入したおもちゃみたいな電気炊飯器にBikai米を仕込み、目盛りより多めの水加減で炊いて、まあどうにかおむすびが握れるくらい。ちょっと臭うけれど、値段のことも考慮して日本の米に一番近いかな、と思ったのが夫の選んだ理由だったらしい。


エジプト米 ”Bikai” 900g入り袋
 以前から、IWC(国際女性クラブ)のメンバーの間で、カリフォルニア米を現地市場で25㎏45米ドル(約4200円)ほどで入手できる、とか、現在カリフォルニア米在庫がなくなって、輸入米がマタディー(コンゴ河河口の港)まで来ている、といった情報を小耳に挟むことがあった。

そして、この9月末。
我が家の家政婦が、今、ジギダ市場(現地市場)でおいしい日本米(と彼女は言った・・)が入荷している、と教えてくれた。
彼女はバコンゴ(コンゴ南部地方)出身で農耕民族の地域らしく、主食はマニョックやとうもろこしではなくて米なのだそうだ。しかも、丸い米を好むのだそうだ。
わたしも月末に給金をもらったら早速日本米を買いに行かなくちゃ!、と主婦の顔になって言った。

その情報を夫に知らせると、夫は早速、事務所からの帰りにジギダ市場に寄って、米袋に入った25㎏30米ドルだか40米ドルだかの日本米?(カリフォルニア米かも?)を抱えて帰ってきた。1kg当たり120円~150円くらいか。
ただ、その米袋には、産地名も何も記されてはいなかった。
夫がジギダ市場に着いて、日本米があるかと訊くと、ある店に案内され、パキスタンからの米だと持ってきたそうだ。
早速炊いてみて、確かに美味しいのだが、古さも感じた。
(20年近く前、中央アフリカ共和国の首都バンギで、日本の援助米がどうしたことか店で売られていて、期せずして美味しい日本の米にありついたことを思い出す。)


ジギダ市場辺り(向かって右側が案内役のサントーカ兄さん)


先月、日本帰国前に、韓国人の友人宅に昼食に招かれた。
そのときのご飯がとても美味しくて、早速わたしたちの話題になった。
彼女は、キタンボ・マガザン(キンシャサ西部にある現地市場。ジギダ市場はキンシャサ中央部。)
の店で購入したと言い、見せてくれた米袋にははっきりと”カリフォルニア米”と表示があった。


キンシャサの我が家を3週間留守にするにあたり、保存のために現地購入の小麦粉は冷蔵庫に入れた。
でも、25㎏の米を入れるスペースはなく、やむなく米を3つのプラスティック容器にすべて移し、その中に炭をいくつか入れて棚に収納した。

そして3週間後戻ってみると、黒い細長い小さな虫が無数に米の中を動き回っているのを発見!

やっぱり虫が湧いたか・・・。

夫はそうつぶやくと、その日夕方には、米貯蔵用として小さな冷蔵庫を買ってきていた。
スーパーマーケットへエジプト米を買いに行った時、時々米のビニル袋が濡れていることがあったが、それは米を冷蔵保存していたんだなあ、と言いながら夫は自己納得している風だった。

ということで、只今、我が家のご飯は、ジギダ市場で買った日本米(?カリフォルニア米かも?)だ。

ちなみに、スーパーマーケット(キンシャサ)で、”すし米”と表示された1kg入り千円ほどの高価な米も入手可能ではある。(あ!只今、品切れ中だとか!)

2012年11月7日水曜日

キンシャサ・フランコフォン・サミット

先月、10月12日(金)から14日(日)の3日間、キンシャサで第14回フランコフォン・サミット(フランス語圏会議)が、中部アフリカ地域で初めて開催された。(アフリカ大陸の国として、せネガル、ベナン、ブルキナファソに次いで4カ国目。)

わたしたち夫婦は、その前日の夜の便でキンシャサを出国したので、開催当日のキンシャサの街の様子は分からない。会議開催前のキンシャサの街や人々の様子を振り返りつつ、書いてみたいと思う。


10月にキンシャサでフランコフォンサミットが開催される、ということはわたしたちが今年1月に来たときから話題になっていたと思う。
街にはビル工事があちこちで始まっていて、外資系ホテルチェーンがホテルを開業するだの、大型ショッピングモールができるだのという噂があちこちで聞かれた。

そして、乾季の終わり8月後半ころだったろうか、揃いの作業着を着て仰々しいマスクを装着した作業員が街の道路清掃を始めた。

それから、キンシャサのいちばん大きな道路、6月30日通りの街灯に、コンゴ民国の国旗とフランコフォニーの会旗が対になって翻った。


6月30日通り沿道に掲げられた1対の旗(信号機直下に見える)
次に、 6月30日通りの花壇がきれいになり、花壇囲み石が紅白に塗られ、緑色のゴミ箱が街のいたるところに設置されたときには、夫婦で拍手喝采した。
(ゴミ箱を設置したはいいけど、果たしてごみ収集車なんてあるのかねえ・・と憂えていたら、ちゃんとバイクでゴミ回収に回っているのだそうだ。夫の目撃談・・。)


街角に設置されたゴミ箱
ちなみに、上の写真中のトタン板で囲われていたところには、”ドロボウ市場”という愛称で賑わう屋台が軒を連ねるお土産横丁があった。サミット開催の2,3週間前に突然、全区画が撤去された。
主要道路沿道の非近代的でみすぼらしい(?多分)屋台や小屋は撤去されたようだった。


”mbote ” (リンガラ語で”こんにちは”の意)と書かれた仏語会議を歓迎する看板
 6月30日通りのソシマット交差点の2箇所に上の写真のような ” mbote  ” (リンガラ語でこんにちは、の意。)、” Souriez  ” (フランス語で笑ってください、の意。)と、サミットでキンシャサを訪れる人々を歓迎するメッセージが掲げられた看板が立ち、歓迎ムードが街中に漂うように感じられた。

また、6月30日通り沿いの銀行ビル正面の全面を、カラフルなプリント写真で被ってサミット開催を祝う銀行もあった。


6月30日通りに面する銀行の建物一面にサミット歓迎の垂れ幕が飾られる


更に、外国人客で賑わうパン屋やカフェ、スーパーマーケットなどには、無料のカラーの新聞、”Courrier francophone”が置かれて自由に取って読むことができた。

2012年10月11日の日付の第3回 ”Courrier  francophone ”
この、”フランコフォニー便り”の無料新聞がどのくらいの頻度でどのくらいの部数を発行したのかは分からないが、わたしが会議開催前日までに手に取ったのは3回だった。

”Editorial”(社説)最後に発行者代表名が記され、コンタクトのためのパソコンアドレスも明記されている。そして、第14回仏語圏会議のオフィシャルスポークスマンではない、とも添えられている。
オールカラーで12面に渡って、仏語圏会議のこと、キンシャサの食文化、現在のトピックス、博物館などの見どころ紹介など内容満載だ。
使用する紙質は上質のものだ。
どんな団体がスポンサーなのだろう。

新聞紙面右下に見える、5色の丸いマークがフランコフォニーのシンボル旗で、その中に、コンゴ民国の珍獣、オカピが覗いている。

また、イエズス会が運営する、” CENTRE  CULTUREL  BOBOTO ”(ボボト文化センター)内にある手工芸の売店、骨董品店は、カラー版パンフレットを作成し、営業時間延長のお知らせの紙~”フランコフォンサミット期間中前後の10月8日~20日の間、9:30~20:30まで営業。木彫り、陶芸、彫金、絵画、骨董などのコンゴ民国の土産品があります。”~といった内容のチラシがホッチキスで留められていた。
ドロボウ市場の屋台が撤去されたのだから、期間中、陳列品も充実して多くの客を迎えたことだろう。


前回2010年のスイス・モントルーで開催された会議にはオブザーバーを含め75カ国が参加したそうだ。
今回のキンシャサ会議には実際どれだけの国が参加したのかは分からないが、フランスのオランド大統領はじめ10数カ国の国家元首がキンシャサ入りしたそうだ。
開催前から、会議参加者の受け入れホテルの容量不足が言われ続けていた。ホテルの建設や改築に着手したものの、結局新規オープンした規模の大きいホテルは一つだけだった。


闇夜に七色に輝くリバーサイドホテル

七変化のリバーサイドホテルのイルミネーション

ンガリエマ教会から目と鼻の先。
コンゴ川そばに立つモブツ政権時代の既存の建物を、中国が突貫工事で改築した高級ホテルだと聞くリバーサイドホテル。レストランフロアもあるのだそうだ。
停電が頻繁にあるキンシャサの夜にレーザービームみたいなのがサーっと光り、キンシャサの闇夜に燦然と(!!)輝く。
この国の電気事情にあるまじき行為だと憤慨し、センスの無さに頭を抱えてギョッ!!っとしていたのはわたしだけだったのか??

そんなあちらこちらで体裁を繕うキンシャサの街を後にし、サミット開催の前夜にキンシャサのンジリ空港から出国したわたしたち夫婦が見たものは、ボノボ、マウンテンゴリラやオカピといった絶滅危惧種のいるコンゴ民主共和国のPRと動物保護を求める大きなカラーの垂れ幕と、そして、夜8時を過ぎているのに出国手続きの空間と待合室の天井を張り替え、蛍光灯照明を取り付ける作業員で溢れ返る空港ロビー風景なのだった。


キンシャサ・フランコフォン・サミットが終わって3週間ちょっと。
6月30日通り沿道に取り付けられたコンゴ民国とフランコフォン・サミットの旗たちは、見るも無残な姿を晒して放置されたままだ。
歓迎の看板もそのまま。
雨季のキンシャサでどんどん惨めな光景になってゆくのか。がっかりだ。

会期中の3日間は直前になって国民の休日となった。
キンシャサ市内で混乱も紛争も無く平穏の内に会期を終え、フランスのオランド大統領を(日帰りだったが)迎えて演説する場面がフランス国内のニュースで幾度となく放送され、世界中に、というとオーバーだが、コンゴ民主共和国をアピールできたことはよかったと思う。

さあ、これからこの国はどの方向に進んでいくのか。
アムネスティ団体が、サミット主催国のこの国で続く悲惨な紛争を指摘し、「コンゴ政府は、国内・東部の暴力を阻止するための緊急措置を実施し、人権侵害を行うすべての人間に対し責任を問わなければならない」とコメントしている。

キンシャサに暮らしていて、東部の紛争・危機状況が全く伝わってこないことが不思議だ。
ビルがあちこちに建ち、着飾った人々が行き交うコンゴ民国の首都キンシャサ。
それでも、貧民の数は底知れず。政府がしっかり機能しているとは言い難い。

天然鉱物が埋蔵し、豊かな森林資源を有し、世界の大国がこの国に近づいてきている。

コンゴ民国の人たちには国の真の発展のために「今」こそ正念場だ、と肝に銘じてほしい!

2012年10月31日水曜日

キンシャサ、再び

我が家、アパート3階ベランダからのいつもの風景

昨夜10月30日、18:30頃、わたしたちが乗ったエアフランス888便はキンシャサ、ンジリ空港に無事ランディング。20日ぶりにキンシャサへ戻ってきた。

思い返せば、11日にキンシャサの自宅を午後早めに出発。わたしたちの20日間の休暇が始まった。
11日21:05キンシャサ発のエアフランス889便で出国。
翌日から丸4日間、娘夫婦が暮らす南仏アンティーブに滞在。ゆったりと孫娘の子守や、南仏の秋の味覚を楽しんだ。

そして17日朝、羽田に到着した直後から、分刻み、というとオーバーだが時刻みの日本滞在が始まったのだった。
到着したその日から、検診、健康診断、歯、目、婦人科などの懸念項目をクリアすべく、都内の病院を駆け巡った。
2日間だけだったが、北九州・八幡へも帰省し、父、義母の顔を見てきた。
美容室にも、整体にも、リコーダー仲間の練習にも、黒留袖をドレスにしてもらうためにブティックにも、ジャズライブにも、そして、昨夏8月だけの絵本屋を開店したところにオープンしたカフェ”L'ange d'angle”(かどっこの天使)にも、都内の会社寮で暮らす息子と我が家の御用達仏料理店にも行くことができ、そこここで嬉しい再会を持った。

息子が社会人2年目を元気にたくましく(と信じる母!)やっていることに安堵。よかった!!

いろんな繫がりの友人たちがセッティングしてくれた会食もうれしかった。
恋焦がれた(!)蕎麦も刺身も鮨も堪能できた。
わたしのために撮って編集してくれたDVDや、お勧めの本や料理レシピを持ってきてくれた友人にも感謝だ。

合間でキンシャサ生活のための買物もあったし、赤羽の自宅の掃除もしたかった。
ぎりぎりいっぱいで過ごしたが、時間制限でそんなこんなも強制終了せねばならなかった。

夫婦ともにすべての検診をクリアできたことは幸せだった。心置きなく、キンシャサに向かえることに感謝。

不義理で連絡が取れないままの友人も多くいた。あの方にもこの方にもお会いしたかったと友人の顔が浮かんでくる。また来年、お会いできますように。

自宅台所と浴室の換気扇掃除、リビングの窓掃除、ベランダの掃除に心を残したまま、29日夕方5時過ぎに息子が運転する車で自宅を出発、一路、成田へ。
成田21:55発エアフランス277便に乗り込んだとき、わたし達は本当に東京に2週間近く帰っていたのだろうか、と夢の中の出来事のような、不思議な気分になった。

日本滞在中は、はるか遠くに霞むキンシャサ生活を、あれはまぼろしだったのか・・と訝り、日本滞在が終わって離れてみると、逆に日本滞在が夢の中でのことのように霧がかかってしまう。
同じ地球上に日本があり、娘たちのいるフランスがあり、わたしたちが現在住んでいるアフリカがある。その空間の繫がりの不思議さを痛切に感じる。
飛行機で空間移動するときの時間移動の”ゆがみ”にも起因するように思う。
飛行機の移動では、わたしは毎回、トリックに遭ったような摩訶不思議な感覚に陥る。

日本滞在時、BS・NHK世界のニュースを観ていて、”世界の天気”の中に、なんとアフリカが出てこなかった!日本からは、遥か遥か遠いアフリカの国々なんだなあ、としみじみ思った出来事だった。


そしてまた、今朝からキンシャサでの普段の生活が始まった。
朝9時過ぎ、いつものように定刻より数分遅れで家政婦のフロランスが、いつものようにバナナを抱えてやってきた。
マダム、おかえりなさい!
良いバナナがあったよ。オマケもつけて三千フランで手を打ちましょ。
そして、いよいよマンゴの季節到来だよ、美味しいマンゴも見つけてきますよ。

だが、口からフランス語が出てこない。
マダム、フランス語の先生とまた初歩からやり直すことだね。
やれやれ。

さあ、これから一年、またキンシャサで楽しんで生活していきましょうか。

2012年10月11日木曜日

誕生日に寄せて

キンシャサはもうすっかり雨季。
8月下旬に久しぶりの雨が降り、9月には雨が4回降った。
その間に、気温は着実に上昇。
そして10月に入り今日、昼前から2回目の雨が降った。

日本でも秋分の日が過ぎ、太陽は南回帰線に向かって南へと移動している。
我が家の南向きのサロンに陽射しがまた入り込むようになった。真っ赤な夕陽も望める。

そんな雨季のキンシャサで、明日12日から3日間、中央部アフリカでは初のフランコフォン会議が開催される。
世界中の仏語圏の国々のトップクラスが集まる会議で、2年に1回仏語圏の国々の持ち回りで開催されるのだそうだ。
フランスのオランド首相もキンシャサ入りするというので、コンゴ民主共和国全体が活気付いて、キンシャサじゅうで大清掃作戦展開中だ。ゴミ箱だって(!)、街中いたるところに設置された。
6月30日通りの大通りにはフランコフォンの旗とコンゴ民主共和国の旗が街灯にはためいている。メイン大通りには”ようこそいらっしゃい、キンシャサへ”の大きな看板が立っている。
交通警官や警察官も街中で立ち働いている。うわべだけ体裁付けるのが大得意なコンゴの人たちの腕の見せどころ、といったところか(意地悪な見方だけど。)。
フランコフォン会議の町の様子の詳細はまた別の機会に。


さて、そんな10月に入り、わたしの誕生日が近づいてきた。
いよいよ50代ぞろ目の歳。

誕生日当日の朝、いつものように6時半前に起き、いつものように寝ぼけ眼でパソコンにスイッチを入れる。
あれ、キイボードの上に何かあるぞ・・・。


寝ぼけて焦点が合わないのと老眼とで、よく見えない目をこすり焦点が合ったところで、何と!!!
悪筆の夫が彼なりのていねいな気持ちで書いてくれた「誕生日 金一封」ではないか!!!
しかも、”VLISCO スカート券”だって!!
(”券”の字の中が「力」になってるけど、気にするまい。)

夫はわたしのブログをしっかり観ていたんだなあ。
VLISCOのスカートをいつか買うぞ、と書いたあのブログを。

なんだか、嬉しいのと可笑しいのとで独り大笑いした。

海外のブティックで独りで試着室に入るのは危険だ、と聞くので、夫の仕事が昼間までで終わる土曜日を待ってVLISCOに一緒に行ってもらった。
運良く、お目当てのスカートが残っていて早速試着する。
サイズの”XS”はわたしにぴったりだったが、わたしには色が地味過ぎて似合わない。
デザインもピンと来ない。
あーあ・・・。
他のワンピースもジャケットも奇抜なデザインの上に、サイズ”L”とかとてつもなく大きいサイズばかりだ。
ブティックを去りがたくて、うろうろしていたわたしに、夫が、フランスで選んだほうがいいじゃないか、と声をかけてきた。
そうだね、もうじき、娘のところに行くからね。
でも夏物はないだろうけど。

ということで、「VLISCOスカート金一封」とはならなかったけど、フランスで選ぼうと気持ちを入れ換えた。

運転手のおじさんに、今日はわたしの誕生日なんだ~、と言うと、おめでとう!そりゃ歌わなきゃー!、と大声で誕生日の歌を楽しそうに歌ってくれた。
ぼくは、生涯で2度だけ妻の誕生日を忘れたことがあってねえ、大変だったよ、奥さんの機嫌を損ねてさ。
かれが言うには、夫婦の誕生日には必ずプレゼントをお互いに用意するのだそうだ。
優しい人柄がにじみ出ているもの。アニメ”アルプスの少女ハイジ”に登場するクララの家の執事(?)セバスチャンそっくりの運転手だ。


そして、今日10月11日。
わたしたち夫婦は、今夜21:05発のエアフランスでパリへ向かう。今朝、キンシャサ市内のホテル・メムリン内のエアフランスオフィスで事前チェックインを済ませた。空港まで手ぶらで行けるのでとても便利なシステムだ。
翌朝パリからニースへ乗り継いで、娘のところに数日滞在し、17日には東京へ一時帰国の予定だ。

キンシャサ市内からンジリ空港までの交通渋滞は半端なく、しかも、明日からのフランコフォン会議を控えて、さらに渋滞が予想されるというので、15:00前には我が家を出発しなければ。

では、しばしの別れ、キンシャサ!行ってきます!

2012年10月8日月曜日

また会う日まで、ニルマラさん


ご自宅の送別パーティーで、多くの友人に囲まれるニルマラさん
ご自宅での送別パーティーには多くの友人が集まった

ニルマラさんが9月30日に、多くの友人から惜しまれてキンシャサを離れていった。

大使館勤務の日本人のご主人の仕事で2人のお子さんと一緒に2年半、キンシャサで暮らしたニルマラさんは、その間、キンシャサのInternational Women's Club とスペイン語圏女性の会で役員をし、多くのクラブの企画をし、ご自宅でもよくパーティーを開き、両クラブの中心的女性だった。

彼女自身は、ネパール、カトマンズの出身だ。
ご主人の赴任先でその国の言葉を覚え、ネパール語、英語、日本語のほかに、インドネシア語、スペイン語、フランス語も操る。
彼女の父親の仕事で、小さいときから家族旅行で海外に行っていたと言い、海外の文化を抵抗なく受け入れる懐の広い女性だ。

わたしがキンシャサへ来て間もない頃、ニルマラさんはここの食料品、雑貨用品などの買物事情を教えてくれた。
キンシャサのスーパーのしおれた野菜たちにがっかりするわたしを、新鮮な野菜を入手するには現地の野菜市場に行くしかないと、現地のジギダ野菜市場を案内してくれた。

治安のよくない、混沌とした現地野菜市場では、サントーカという名のコンゴの男性を用心棒に雇うと安心なこと、現地通貨を大量に用意すること、もし用意できなければ市場前の両替人から500コンゴフランに替えてもらえること、野菜市場の価格の相場、旬のものなど野菜の選び方等等、親切に伝授してくれ、ニルマラさんがジギダ市場に行く時はよく誘ってくれた。

そして、International Women's Club の入会のときもニルマラさんが連れて行ってくれた。
いろいろな場面で多くの女性を紹介してくれ、彼女の自宅パーティーのときもよく誘ってくれた。
片言英語と片言フランス語のどこの馬の骨とも知れぬアジアの女性をすんなり気持ちよく受け入れてもらえたのも、ニルマラさんがいたからこそだと思えてならない。

午前中のお茶の会、ランチの会の食事の用意や接客のしかたも彼女を通して学んだことは数限りない。どれも参考になることばかりだ。
母国のネパール料理は本当においしかった。
お菓子のレパートリーも驚くばかりだ。
日本食だってすばらしかった。
巻き寿司や、大根、生サーモンを使った一口寿司もとてもきれいな飾り付けでおいしかった。

彼女が中心になって企画し、コンゴ河を貸切ボートで横切り、乾季のときに現れる砂州でバーベキューランチを開いたときは、彼女の企画力と友人の輪の力に感動した。
もちろん、いろんな人と交われて楽しいコンゴ河のプチ旅と野外ランチだったのは言うまでもない。

9月は彼女の送別パーティーがあちこちで開かれ、わたしも一緒に招かれた。
我が家でも、ニルマラさんのささやかなランチ会を開いた。
そして、どこでも彼女の帰国を惜しむ声が多く聞かれた。

9月18日の最後の送別パーティーは、ニルマラさんの自宅で行われた。
総勢で30人、いや40人はいたと思う。
彼女がまごころ込めて準備した午前のお茶会兼ランチ会は、終始、本当に和やかな雰囲気だった。

ニルマラさんがわたしにバトンタッチしてくれた友達の繫がりをわたしは大切にしていきたいと思う。今回のコンゴ滞在は子ども達もいないし、こんなに多くの友人ができるとは想像していなかった。
ありがとう、ニルマラさん。

わたしたちが日本に戻ったら、また良い友達でいてくださいね。
それまで、お元気で。

2012年9月30日日曜日

ジェネレーター到来!


アパート庭に設置された自家発電機(奥の屋根付き車庫にかすかにみえるオレンジ色の機械)

キンシャサ市内ゴンベ地区にある我がアパートにはジェネレーター(自家発電機)が付いていなかった。

停電が頻繁にあるキンシャサでアパートを決める際の必須チェックポイントの一つが、”ジェネレーターが設置されていること”だと聞く。
わたしたちが今年1月にキンシャサに到着して、賃貸料との兼ね合いでやっとの思いで見つけたのが現在住んでいるアパートだった。


門扉から見上げたアパート

ところがこのアパートにはジェネレーターが設置されていないことが判明!!

わたしは、ジェネレーターが付いていないアパートは論外だ、と突っぱねたら、我が家の忍者ハッタリくん(=夫)は、このアパートの12室のうち3室は日本人が住んでいるんだぞ!オマケに最上階にはオーナーであり、モブツ元大統領の妾だった(!)ママンドューズィーも住んでいるんだ!近くには大統領府もあるし、きっとこの辺り一帯はジェネレーターが不要なくらい停電のない地域なんだよ!!

さすがのハッタリ!
そしてそんな口車を安易に信じたわたしも大バカだった。

停電したらポンプが動かないから、断水にもなった。
電気が再び来ても、何故だか我が家だけ断水のままだった。
頻繁な停電と頻繁な断水。
6月には1週間近く毎日停電と断水が続いたこともあった。
来客予定のある日に停電と断水が起きようものならパニックになった。
料理ができずに、夫の会社の宿舎まで車に炊飯器と鍋と材料一式を持って、出張料理をし、とんぼ返りをしてテーブルの準備をしたこともあった。
夜になっても停電のままで、エアコンも使えず、ろうそくの灯りでゲストを迎えた夜もあった。
シャワーが使えない、洗濯機を使用できない、アイロンもかけられない、食器を洗えない・・・。
浴室と台所に置いているポリ容器の貯め水がなくなり、断水のない1階まで水を汲みに往復したこともあった。
我が家の水道ポンプの電圧だけ容量が小さくてスイッチが切れるのだということを知ったのは、ずいぶん後になってからだった。

こんな生活はイヤだー!!
思い余って、引っ越すことを考えた。探し回って引越し先も決めた。
3ヶ月前にオーナーに引越すことを伝えたら、わたしたちはここに1年住んでいないから、引っ越すなら権利金3か月分は返金できない、と言われた。

知人に相談して弁護士に入ってもらって、「8月じゅうにジェネレーターを設置するのであれば引越しは中止する。だが、もし8月じゅうにジェネレーターが付かない場合は引越しを断行し、権利金も返金してもらう。」という文書を提出し、オーナー側も受領した。

それが7月初めだった。

執事(?)のおじさんも門番も、明日ジェネレーターが来る、来週来る、オーナーが明後日南アからジェネレーターを買って帰国する・・・・、どれだけの出まかせを聞かされたことだろう。

8月が終わろうとしても平気で明日到着する、明後日こそ、と言い続け、9月に突入した。
夫に執事のおじさんと話し合うように突付いても、夫はそ知らぬふりを続けた。
オレはジェネレーターなんぞ付くはずがない、と最初から本気にしてなかったぞ、とまで言った。
悔しかった。ああ、わたしにフランス語力があったら!
ただ、わたしたちが引っ越すことを通知した途端に、あれだけ頻繁に我が家だけ断水していたのが、なくなった。これは不思議なことだった。

もうジェネレーターは付かないのだ、とあきらめていた。来年1月まで我慢して、それから引っ越そう、そう思った。

そして9月18日。
隣室の日本人の方が仕事場から電話でジェネレーターがアパート庭に到着したことを知らせてくれたのだった。でも、相当古い中古機械だという情報も付け加えられていた。
それからアパートの各室に、9月19日にジェネレーターの取り付け工事をするので数時間停電となるという通知書が届いた。工事中、部屋中のコンセントを抜くように、とか台所の電熱調理器具のスイッチを入れるように、という指示が逐一飛んできたりして、午後には無事ジェネレーターが設置されたのだった。

さて、それから。
23日の日曜日にさっそく早朝からの停電。
しかし、この日にはジェネレーターはまだ作動しないという知らせが届いた。
当日、夫は朝からゴルフコンペに参加。わたしはカフェで過ごした後、午後からゴルフ場で夫と合流し日が暮れるまで外出していた。

後からここに住む日本の方から聞いた話。
昼前にジェネレーターが作動し、めでたく各室に電気が通ったのだそうだ。
そのとき、オーナー家族が各室をノックし、ジェネレーターが動いたぞー!!と満面の笑顔で伝えて回り、お祭り騒ぎだったと聞いた。

そんなこととはツユ知らず、わたしたちが帰宅したのは夜の7時前だったから、我が家にもジェネレーターが作動して昼前に電気が来たのかどうかは分からない。
ただ、冷凍室の霜の付着具合から判断して、停電が昼前で終わったとは到底思えない状態だった。

我が家にもジェネレーターの電気が来るのか、次回の停電までわからない。でも、確かに庭の駐車場スペースにオレンジ色のジェネレーターがある。

2012年9月27日木曜日

花屋のこと

ナイロビから来たバラの花

キンシャサに、花屋がある。

と書くと、当たり前でしょー!、と思われるかも知れないが、30年近く前のカトマンズにも、20年近く前の中央アフリカのバンギにも花屋がなかったから、キンシャサに花屋があると聞いたときは、飛び上がらんばかりに喜んだ。

中央アフリカ、バンギでは町じゅう探しても可憐な”草花”というものを目にすることがなく、存在するのはがっしり頑丈な”樹木の花”だけだった。ジャカランダの紫色の花、アカシアの黄色い花、燃えるような火炎樹の赤い花。
そんな力強い熱帯の花を思い出す。
いろいろな樹木の花の名前を覚えたくて、バンギの人々に「この花は何と言う名前なの?」と尋ねると、平然と彼らは、「fleure jaune!!(黄色い花)」,「あ、それは、fleure rouge!(赤い花)」・・・。
誇らしげに言うかれらに、がっくりきていたのを懐かしく思い出す。

キンシャサに来た当初、スーパーマーケットの前の屋台で熱帯の花をブーケにして売っているのを見て、やっぱりキンシャサでも、熱帯の花しかないんだなと思った。
そしてわたしは、20年前のナイロビにはバラの花でいっぱいの花屋を見かけたことを思い出していた。

そうしたら、知人から ”ZIMBALI  FLOWERS” という花屋が ”le Cercle Francais”の近くにあると教えられた。


ZIMBALI  FLOWERS 店内
ポルトガル人の経営だと聞く。
毎週木曜日、金曜日の午後にキンシャサのンジリ空港にナイロビ、南アフリカから到着する、と聞いた。ピンクや赤や黄色のバラ、白百合、カーネーション、菊などの花が空輸されるのだ。
この国は土葬で構えが立派な墓が多いが、その長方形の墓の上に平たい形をした大きな楕円風の花輪を置く。そんな大きな花輪の注文が入ると空輸されてきた花たちは、たちまち姿を消してしまうのだそうだ。
萎れて売れ残っているように見えるバラの花でも、決して安くしてくれない。
バラの花の定価、一本4ドル也!
冒頭の写真のバラは、空輸されてきたばかりというのを8日前に買ってきたバラだ。
3,4日で花の直下の茎がだらりと下がってきたので、そこを切ってガラス容器に浮かべた。毎朝水を替えて茎先を少しずつ切っていとおしんでいる。

それからもう一箇所、スーパーマーケット”SHOPRITE”の駐車場内にある、”Fleuranie”という花屋もあることを知った。
アニーさんというベルギー人が経営する花屋らしく、キンシャサ中心街に本店があるということだ。
毎週火曜日、金曜日の朝、ベルギー、南アから花が空輸され、午後には店先に並ぶと聞いた。
やはり、バラ、カーネーションが中心だ。

ナイロビでバラの栽培、とは意外かもしれないが、今ではナイロビはバラの産地となり、バラのプリザーブドフラワーの技術はすばらしいのだそうだ。

どちらのお店にも、蘭などの鉢植えや植木、そして花瓶、鉢なども置かれている。
キンシャサには、グランドホテルの近くなどの路上で、熱帯植物の植木や苗木も売られている。
わたしたちが住むアパートの庭も定期的にそれらの植木、苗木が運ばれてきて、庭の手入れには怠りがない。

部屋に生花が一輪でもあると、空気が生き生きとしてくるのを感じる。
毎日の生活の中で、花に目が向くようになったのは、ちょっとした楽しみを味わう余裕みたいなものが出てきたのかな。

一昨日、我が家にある唯一の一輪挿しのオレンジのガラスの花瓶の横に、見かけない白色と擦りガラスの、縁がフリルになったかわいらしい花瓶が置かれているのに気づいた。
もしかしたら、夫が買って来た花瓶なのかな・・なかなか気が利いてよろしいこと!!、と思っていたら、夕方になって忽然とその花瓶が消えた。
どこを探してもない!
夫に、その花瓶をことを訊いてみた。

へ~そんな花瓶、買ったこともないし見たこともないよ。

わたしの頭がとうとう変になったか・・・みたいな哀れみの目を向ける夫。
おかしいなあ・・・確かにここにあったのに。

夜、晩酌をしていて、「ふ・」とリビングの照明に目が行った。
あ・・・。

なんと、わたしが可憐なフリルの花瓶だ、と思っていたモノは、壁に取り付けられていた照明のガラスカバーで、夫が電球を換えるのに棚の上にポン!と置いた照明カバーが花瓶に見えた、というだけのことだった。ガッカリ。

2012年9月18日火曜日

キンシャサ布地屋 再考

Ave.Cmmerce の布地屋 ”LUTEX” 店内


"LUTEX"店内の帳場台
以前のブログでも紹介したキンシャサの布地屋数軒にここのところよく出かける。
キンシャサでは、アフリカの布地で作られた、パーニュと呼ばれる”ブラウス+腰巻+ロング巻きスカート”といった格好をした若い女性をほとんど見かけない。
それでもやっぱり、1反6ヤード(5m40cm)で売られる大胆な色合いと柄のアフリカ布地の店は女性客でどこも賑わっている。

最初の2枚の写真は、わたしがキンシャサの女性が一番よく利用しているのではないかと思っている、Commerce通りにある、”LUTEX”という布地屋だ。
店内入って右側に15米ドルから20米ドルほどのアフリカらしい布地が天井から吊り下げられているのは圧巻だ。
店内の中ほどから左側には、品質のあまり良くない低価格のもの、イエス様やマリア様がプリントされた宗教色の強い布地が所狭しと並んでいる。

上の2枚目の写真はLUTEX店内の帳場台だ。店内左奥にある木製帳場台でお金を払ってレシートをもらい、出口まで続く木製カウンターでそのレシートを提示すると、店員によって届けられていた購入布地をビニル袋に入れて渡してくれる。
店員は皆、横縞のラコステ(?)シャツを着ていて親切に応対してくれる。
良品質だと思う布地は1反約15米ドル、約20米ドルだ。それらは洗濯して色落ちしたことはない。

次に、ブラザビルへの船が出る船着場近くの、Beach と呼ばれる界隈にある布地横丁も品揃えが充実している。

Beachといわれるところにある布地横丁
Beach布地横丁の中の店主マダム
道幅1mほどの路地の両側に、間口1、2m,奥行きも1mほどの小さな露店がぎっしり並んでいる。
上の写真のような女性店主ばかりが商う露店だ。
最初の値段交渉で「20米ドルだ」と言われるが、簡単に15米ドルにしてくれる。ここの布地も色落ちした経験は無い。
この界隈は船着場、港の近くで治安が悪いといわれる地域だ。
だが、この布地横丁はマダム店主ばかりで、皆楽しそうにおしゃべりしたり、髪を結い合ったり、ランチやおやつを食べたり昼寝したり、和気あいあいとのんびりして店番をしているマダム天国、みたいなところだから、この路地に限っては恐い目に合ったことはない。
全長100mほどの横丁だ。

さて、次はキンシャサのメインストリート、6月30日通りからAve.Commerceへ向かう途中のAve.Tombalbayaにある高級布地店の2店だ。
同じ建物の一辺に"Woodin" という店の入口があり、他辺に、"VLISCO" という店の入口がある。


右奥の店が"Woodin"  同じ建物の左辺に"VLISCO"の店構え

高級布地店 VLISCO の入口
高級布地店 VLISCO ショーウインドー
わたしは当初、同じ屋根の下にある、"VLISCO" と "Woodin" を同じ店だと勘違いしていた。経営者は知らないが、ブランドとしては別個のものだ。
この一角だけ、キンシャサではないような雰囲気が漂っている。

"Woodin"はコートジボアール製で値段は6ヤード48米ドルほどだ。価格は庶民の店の3倍以上もする。ダイナミックなアフリカ古典柄と小柄でモダンな柄の布地があり、ブラウス、シャツ、スカート、布バッグといった既製品もあるが、縫製はさほど良くない。
店員の女性は気位が高そうだが、VLISCOの店員ほどではない。
店内は、キンシャサにいることを忘れてしまいそうな高級な雰囲気だ。
ただ、以前よりも、アフリカ古典柄の布地が品薄になったと感じる。残念だ。

一方、"VLISCO"は、「キンシャサ1!」と言っても過言ではないくらいの最高級品店だ。
店内のレイアウトもすごいし、扱う布地もアフリカ古典柄でありながら発色もきれいだし、どこかあか抜けている。
6ヤードが95米ドル、とか、130米ドルもする!
既製品も奇抜でステキだし、縫製がしっかりしている。
シルクスカーフ、革と布のバッグもいいなと思う。
ショーウインドーも抜群のセンスだ。
店員は限りなくお高い雰囲気を醸しだしている。
いつも見るだけでスルーするわたしを、店員はきっと覚えているんだろうなあ、と思う。

キンシャサで放映される衛星放送 "France 24" でVLISCOのCMを観るし、キンシャサの街中でも大きな看板を見かける。どちらも本当にセンスが良く、目立つ。

"VLISCO" の外看板

VLISCOで一度買物したいなあ。
かわいくてオシャレなスカートを見つけた。しかもサイズが"XS"だった。ほとんどの既製品は"L" とか"XL"で極端に大きい。220米ドルくらいだったかな。以前もかわいいスカートを見つけたが、すぐ売れていた。
VLISCO店内にいると、客はほとんどいないが、時々、キンシャサのお金持ちそうなマダムが入ってくる。へー、キンシャサにもお金持ちの人がいるんだあ!!とびっくりするが、ここのお金持ちは桁違いにお金持ちらしい。いったい何をしてそんなにお金持ちになったの?、と訊きたいくらい。ほとんどの人たちはこれまた桁違いに貧しいのに。

Beach の布地横丁に、"VLISCO"表示のシールを貼った布地を見かけることがあるが、コンゴ人女性のションタルさんは偽物だと言う。
また、ネットでVLISCOを検索したら、なんと日本でネット販売しているところを発見!どんな人がやっているんだろう。VLISCOはBenin, Togo, Ivory Coast,The Netherlands, Nigeria, DRCongo に店舗があるというから、日本人でアフリカ在住経験者が目を付けたのかもしれない。

BLISCO の発祥はオランダだと聞いた。中央アフリカのバンギにいたとき、布地の最高級品を、「ワックス・オランデー」と言っていたのを懐かしく思い出す。
オランダの布技術はすばらしかったのだろう。
今では、東ヨーロッパのどこかの国に工場を持っているというのをネットで見たように思う。
ユニクロが中国の工場で縫製しているのと同じだ。

キンシャサにも"UTEX" という布地工場があったらしい。我が家の近くに工場跡地が、門に"UTEX"の文字を残したまま現在も存在している。
その工場跡地は、多くの貸し事務所となっていたり、MONUSCOなど国連の機関が入っていたり、アパートになったりしている。
中国がUTEX工場を引き取り、中国国内向けの布地を生産している、とも聞くがはっきりしたことは不明だ。
いずれにしても、コンゴ国内には布地生産工場は存在しないということだ。

アフリカの布地を買うと、布地に大きな紙のシールがでかでかと2枚ほど張られている。しかも、かなり粘着力の強い接着剤を使っている。
わたしは、もったいないなあと思いつつも布地のシール部分を切って捨てていた。うまくシールが剥がれなかったからだ。
それを見た家政婦がこうするときれいに剥がれるのさ!、と教えてくれた。
どうするのか。

布地に貼り付けられた紙シールの上からアイロンをかける。すると、接着剤が熱で柔らかくなってスーッときれいに剥がれるのだ。

なんと驚きの技!!現地の人の生活の知恵だ!!感服!!

わたしがキンシャサに暮らして知り得たアフリカ布地のことだ。