2014年9月27日土曜日

こぼれ話6 : キンシャサからのモリンガ粉

キンシャサで愛飲していたモリンガの粉。
それは、モリンガというマメ科の木の葉っぱを乾燥して粉末にしたもの。

キンシャサで、わたしたちは、ドイツの神父様にお願いして分けていただいていた。
帰国日が決まって、神父様にお願いして、ミルク缶1缶分ほどのモリンガ粉を用意していただき、持ち帰ってきたのだった。

毎朝、モリンガ粉末茶さじ1杯を口にパクッと含んで、お茶と飲んでいる。


いつかのブログにも書いたけど、モリンガのことを教えていただいたのは、コンゴ滞在の長い中村寛子シスターだった。
コンゴのどこの教会でもモリンガの木を植えていて、モリンガの葉を乾燥させて粉にして、食事にふりかけて摂取しているのだとのことだった。
そして、今年の初めに国道1号線東部旅行で宿泊したドイツの修道院の食卓でモリンガの葉の粉を発見し、以来、神父様の計らいでわたしたちはこのモリンガの葉の粉を分けていただいていた。

モリンガ!モリモリ!
クロレラてんこ盛り!

そんな心持ちで元気をもらうようなモリンガの葉の粉だ。

ちょっと、粒は粗いけど、葉っぱの粉そのまんま!というところとか、日本のお抹茶に似てる、かも。

マメ科の木の葉っぱ、モリンガを乾燥させて粉末にしたもの


さて、今朝のこと。(というか、もたもたしていたら、話題はすでに昨日のことになった。)
東京に戻ってきて、すっかりNHK愛聴者になったわたしは、”花子とアン”の後に始まる”朝イチ”で”緑色の粉”の偉力の特集を観た。

緑の粉!!!、だって。

こんもり盛られた緑色の粉の画面がズームされると、なんと、上の写真のモリンガ粉にそっくりだった。

でも。
そのテレビの緑色の粉は、なんとミドリムシの粉だったのだ。

ミドリムシ。
驚くことなかれ。昆虫ではなく、藻の仲間なのだそうだ。
体長、0.02~0.5cm

そのミドリムシを乾燥させて粉末にする。
”ユーグレナ”( Euglena )とも言い、それが商品名になっているようだ。

3.5グラムの粉には、5億匹のミドリムシが入っているのだそうだ。
また、ミドリムシは、動物と植物の両方の性質を持ち(葉緑素で光合成を行う。)、ビタミン14種、ミネラル9種、アミノ酸18種が含有され、栄養的にもすばらしいことが実証されている。
さらに、パラロミンという物質(スポンジのような穴の空いた構造をしていて)が腸の不要物をその穴に吸収する性質を持ち、快便を促すのだとも言う。

ミドリムシには、栄養豊富な食品としてばかりでなく、プラスティックの原料やバスの燃料としての使用も実用化されていて、現在とても注目されている生物なのだそうだ。

とうことで、コンゴのミドリの粉、モリンガ。
日本のミドリの粉、ユーグレナ。

マメ科の葉っぱを乾燥させて粉にしたモリンガ。
藻の仲間のミドリムシを乾燥させて粉にしたユーグレナ。
どちらも補助食品として、有益なものだと思う。

共通点がいろいろありそうな二つのミドリの粉の話題だった。


2014年9月25日木曜日

こぼれ話5 : 一緒に帰国したオーギーさんのタンタン人形

これらは、わたしがキンシャサから連れて帰ったオーギー(Auguy)さん作の人形たちだ。

ベーシック・タンタン&サンタ・タンタン&キリン
コンゴの冒険シリーズ&大きいサイズのクラシックゴルファー・タンタン



コンゴ人木工芸作家のオーギー(Auguy)さんのアトリエで作られる木製のタンタン人形や動物たちは、わたしのお気に入りのメイド・イン・キンシャサの土産物だった。

”タンタン”とは・・・。
ベルギー人エルジェによって描かれた少年新聞記者タンタンの冒険物語の主人公の名前だ。
ベルギー人作家によるシリーズもので、世界の国々で繰り広げられる冒険の話だから、タンタンはもちろん、コンゴにも来ている。(タンタンのコンゴの冒険物語はあまり好きになれなかったけど。)


わたしが初めてタンタン人形作家のオーギーさんに会ったのは、キンシャサのゴルフ場でだった。
ゴルフ場の休憩テラスの横のスペースでタンタン人形を展示販売をしていたかれを、タンタン人形を収集するフランス人マダムから紹介された。
そして、かれの作るクラシックゴルファー姿のタンタンと目が合ってしまい、即座にその人形を購入してしまう。それが、上の写真のゴルファー・タンタンだ。

ゴルフ仲間が日本に帰国するときは、ゴルファータンタン人形をプレゼントしたり、ゴルフをしない友人には、本人の日本帰国の記事を名前入りで記載した(?)地元新聞を椅子に座って読むタンタン人形をオーダーしてプレゼントしたりもした。
ワインの好きな友人には、タンタンシリーズの登場人物の執事がトレイに入れてワインボトルとグラスを運ぶ人形をプレゼントしたこともあった。
そんなプレゼントをアレンジしてオーダーするのも楽しみだった。

何度、オーギーさんのアトリエ兼ショップを訪れたことだろう。

所狭しと並べられたオーギーさんのショップ
オーギーさんのアトリエ


キンシャサ・オープン・ゴルフの賞品がオーギーさん作の年もあった。
コンゴの熱帯雨林で育まれた良質の木材で制作されたトロフィーは圧巻だった。

大使が獲得したゴルフボール型のオープンゴルフの賞品が、大使のご厚意でわたしの手元に転がり込んできたのも良い思い出だ。
(現在、わが家のリビングに飾られている!)

オーギーさん作のキンシャサ・オープンゴルフの賞品

残念なことにオーギーさんのアトリエとショップのスペースの一部が駐車場になるというので、かれは新たなショップを今年に入って6月30日通り沿いにオープンした。
とても見やすいスペースだ。
それでも、わたしは、コンテナを利用した狭いスペースにぎゅうぎゅうで人形たちを並べる今までのショップが好きだ。(そのコンテナショップも、どうにか残っている。よかった!)
本当に愉快なスペースだった。

オーギーさん、元気にご活躍ください!
楽しい作品をありがとう!
 Merci beaucoup pour vos poupees de TINTIN et d'animaux.
Je suis tres contente, les mettant dans ma salle de sejour.

2014年9月22日月曜日

こぼれ話4 : アフリカセミナー ”エボラ出血熱” in 赤羽

我が家隣の赤羽文化センター(正面ビルの下方階、濃い目のベージュ部分)
9月20日夕方6時から、JR赤羽駅正面の赤羽文化センターで、NGO団体”アフリカ友の会”主宰者であり公衆衛生学ドクターの徳永瑞子さんの「エボラ出血熱」についての講演があり、キンシャサのプロジェクトに関わる慶応大生と横浜市立大医学生、そして夫と共に参加した。
ほぼ毎月、徳永さん企画で開かれるアフリカセミナーの一環だ。

タイムリーな題目だったせいか、数十名の参加者は、アフリカで活動をする人たち、医療従事者たちで熱気あふれる会場だった。


わたしたち家族は、確か1993年の1月に中央アフリカ共和国の首都、バンギでエイズの母子感染予防のNGO活動を開始するために滞在を始めた徳永瑞子さんに出会い、かれこれ20年来のお付き合いになる。
かのじょはそれ以来ずっと、バンギを拠点にしてエイズ母子感染予防、エイズ啓蒙活動、エイズ患者と家族の援助、そして、栄養啓蒙活動や給食活動、子どもたちの学校設立運営、と着実に現地に根付いた活動を広げていっている。

かのじょは大学の教授職にあり、長期休暇に入ると学生を引率してバンギに入り込んで活動を続けている。
現在、中央アフリカ共和国は戦闘状態が続いていて、かのじょの活動は停止されている。
そこで、かのじょはこういう時だからこそ、日本の人々にアフリカについて色んな角度から理解を深めてもらおうと、地元、東京都北区赤羽で月1回の間隔でアフリカセミナーを企画し、今回で10回目になる。
今年2月か3月には、徳永さんはカメラマンと共に戦闘状況のバンギに入り、あちこちに散らばった患者たちを探し回っている。
また、今夏は、かのじょの学生たちと共にカメルーンのヤウンデに入っている。

かのじょのアフリカとの関わりは40年程前にさかのぼる。
最初のアフリカでの活動は、20年ちょっと前に自身で著した「プサ・マカシ」で読める。
この著書でカネボウ・ヒューマンドキュメンタリー大賞を獲得し、テレビドラマ化され、このときの賞金がかのじょの活動の基金となっている。


まず、かのじょの今回の講演は・・。
かのじょが1976年、コンゴ民主共和国(当時、ザイール)北部のヤンブク村に長期滞在していた時、すぐ近くのヤンブク教会病院のイタリア人シスターが死亡、という第一報からエボラ出血熱大発生が始まった、という話から始まった。
それから18年後の1995年、今度はザイール中央部のキクイットでエボラ出血熱が大発生しているそうだ。
どちらもエボラ出血熱の死亡者のほとんどは医療従事者など患者との接触者だったそうだ。


エボラ出血熱とは・・。
原因はエボラウイルスで、症状として、発熱、頭痛、強い脱力感で、マラリアと同じ症状を呈するそうだ。その後、嘔吐、下痢、発疹、肝機能、腎機能異常と進み、さらに出血傾向へと進むとのこと。
(必ずしも出血が伴うわけではないそうだ。)
治療方法はなく、致命率が50~90%と非常に高い、恐怖の感染症だと説明される。

コウモリが感染原因だとも言われ、ガボン共和国で過去5年間でエボラ出血熱が原因で約5500頭のゴリラが死んでいる、という報告もあるそうだ(安田二朗獣医師による)。

アフリカでは、この病気は”森の中から来る”と言われているらしい。
「森の神様(精霊)が怒って病気を起こしている。」とアフリカの人々は考えている、と徳永さんは話していた。
サルを食べる、コウモリを食べる、象牙を採る、など、人と野生動物との関係を見直す必要がきている、とも。


今回のエボラ出血熱の発生は、
「2013年12月、ギニア共和国(首都コナクリ)において2歳男児死亡→母親、3歳姉、祖母も死亡」
これが発端なのだという。
その後、今年8月8日にWHOのチャン事務長が、”Public Health Emergency of International Concern”を発令したことから、日本で恐怖が広まる。


エボラ出血熱は、患者の皮膚に触れただけでは感染しないそうだ。
エボラウイルスが、粘膜や皮膚の傷に入りこんだときに感染すると考えられる。

人間の体で粘膜が外に露出しているところといえば、口腔粘膜と眼球の球結膜だけ。
だから、患者の嘔吐物などがかからないように、口を覆うマスク、そして、目を覆うゴーグル、そして、万が一の傷のために手袋。それから長靴。
この4種類の装具着用が必要と考えられるが、宇宙服のような重い防御服が果たして必要なのか疑問だとも話されていた。
炎天下のアフリカであのような防御服を着用しての活動は1時間しか持続できず、細かい医療作業の邪魔にもなるということを聞き、合点がいった。


徳永さんは、エボラ出血熱拡散流行の一大原因は、何といっても貧困だ、と言われる。
政治混乱下での貧困、さらに1987年に制定されたバマコ・イニシャティブだと主張されていた。
そのイニシャティブが制定されたことで医療費が有料になり、かれらが病院からさらに遠ざかり、患者がいないから病院が機能しなくなるという悪循環に陥っているのだそうだ。

確かに。
症状が現われて家族ですぐに病院へ連れていく、ということができていれば、こんなに流行しなかったのではないかと思われた。

徳永さんが今夏滞在したカメルーンでは、ラジオで、「握手しないで。ハグしないで。」と定期的に呼びかけていたそうだ。
エボラウイルスが体の粘膜から、そして傷口から入り込むことに注意する、という正しい知識も、人々の混乱を防ぐために必要なのだとも感じた。


かのじょがカメルーンから帰国したときに成田空港でもらった資料プリントには、「エボラ出血熱発生国は5か国(ギニア、リベリア、シエラレオネ、ナイジェリア、コンゴ民主共和国)」と記されている。
コンゴ民主共和国は確か現時点では北部のみのエボラ熱発生だと認識するが、このプリントでは国全体が赤く塗られている。
国土の広いコンゴ民主共和国全体が赤いのは、インパクトが強すぎるなあ、などとちょっと不平等(?!)に思えてしまうのだが。

エボラ出血熱の講演資料


徳永さんは最後に、ウイルス性疾患の場合、ウイルスが体を通過していくときに必要なのは、栄養と体力なのだと力説していた。
十分な栄養、水分補給。点滴はとても有効な治療だろう。
ゆっくり休養できる環境。信頼できる医療を受けられる環境。

日本では当たり前に受けられるこのような治療が、アフリカでは難しいのだ。

今回のエボラ発生のアフリカの国に施した日本からの援助品は防御服だった、と聞く。
本当に必要な援助品は何なのか。
徳永さんは、それは絶対に栄養剤だときっぱり言われた。

海外からの医療従事者の感染予防よりも、アフリカのエボラ出血熱に苦しむ患者側に立った、本当に必要な援助を考える。
こんな「目からうろこ」の視点の必要性も、かのじょの今回の講演からもらったように思う。

余談だが、この講演会で、わたしは2年前に二人でコンゴ川下りの旅を敢行した作家のマチさんと大学院生のシンゴくん、そして、20年前にバンギで大変お世話になった鹿島建設のカマタさんに再会した。
なんともうれしいおまけをいただいた!
ありがとうございました、徳永さん。

2014年9月12日金曜日

こぼれ話3 ː キンシャサにはいなかった蝉

わが家のトイレの陶器製の蝉の掛け物

南仏では、蝉は幸せを運ぶ昆虫だと考えられている、ということはいつかのブログに書いたことがある。
南仏の店では、いろいろな陶器製の蝉の壁掛けが売られていて、本当にバラエティー豊かで楽しい。上の部分が開いていて、壁掛け型花瓶としても使えるようになっている。
わたしは南仏を訪れると、ひとつずつ、そんな陶器製の蝉を買い集めている。

というのも・・・。
何年も前のある夏の夜。
わたしは蝉に追いかけられたおかげで、頭の疾患を見つけることができ命を救われたということがあったのだ。

周囲の人たちから、あのしつこくわたしを追いかけた蝉は亡くなった母だったのだ、と言われたりもした。
亡くなった母が、わたしを病院で脳の検査を受けさせるために、蝉になってわたしを追いかけたのだと。

そんなことがあった後、南仏では蝉は幸せを運ぶ昆虫だと言われていることを知り、蝉はわたしの守り神のような存在になった。

そして、キンシャサへ。
コンゴは常夏の国だし、さぞかし、蝉がたくさんいることだろうと想像して行った。

ところが。
想像に反して、蝉の鳴き声がまったく聴こえない。
1月1日にキンシャサに到着して、2月になっても3月になっても、とうとう1年間蝉の姿を見ることも鳴き声も聴くこともなかった。

わたしは事あるごとに、あらゆるコンゴ人に、”蝉”のフランス語の単語、”la CIGALE” を使って、「コンゴに蝉、”la CIGALE”が生息するのか。」、と尋ね回った。
そして、異口同音、皆決まってこう言うのだった。

「CIGALE.。いますよ。リンガラ語でリケレレ、あるいはマケレレと言います。」

だったら、なぜ、蝉の鳴き声が聴こえないんだ?
不思議でならなかった。

ある時、日本にも何年か滞在した経験のあるコンゴ人のマダムに訊いてみた。
十代に日本にいただけあって、日本を離れて20年は経っているだろうに日本語は未だ衰えていないし、所作がまた日本人っぽい女性だった。

ションタルさん。キンシャサに、蝉、っている?

いるよ。
夜にリーンリーンと鳴く虫でしょ?
ん???
美味しいんだよ~。
んん?????

そう言うかのじょの蝉の説明を聞いていたら。
なんだ、それは、こおろぎだった。
リンガラ語で、単数形だと”Likelele”、複数形だと”Makelele”。
リケレレ。マケレレ。
乾季の終わる頃に降る雨を「こおろぎ雨」(”MBULA ya LIKELELE”)と言って、その頃にこおろぎの旬を迎えるのだと、かのじょは自慢げに教えてくれた。

あのね、それは蝉じゃないから。
こおろぎ、だから。

コンゴ人全員が、”la CIGALE”(フランス語で”蝉”)を、母国語のリケレレ、マケレレと思い間違いをしているようなのだ。フランス語で、こおろぎ、”le GRILLON”(グリヨン)って単語、あるんだけどね。

ちょうど今、グッドタイミングにラジオから、どこぞのこおろぎの鳴き声です、と流れてきた。
ふむ・・・。
こうやって聴いてみると、こおろぎの鳴き声と、蝉の鳴き声。
似てる、かも。
日本人は、夏のカンカン照りの太陽の下で鳴くのはセミで、秋の夜長のひんやりした草むらで鳴くからコオロギだ、とシチュエーションで鳴き声を識別しているだけなのかもしれない、とも思えてきた。
・・・なんて。

ともあれ。
わたしがそう説明しても、かのじょはピンと来ないような表情をしていたことを懐かしく思い出す。
かのじょは、外務省勤務の父親の転勤で海外に暮し、コンゴ人と結婚して二児の母親になっても、自分の国に馴染めないでいるようだった。
家族でイギリスに行きます、と言って別れたのが最後だったが、ションタルさん、どうしてるかなあ。

日本で蝉の鳴き声を聞いたのは2011年の夏以来、3年ぶりだった。
そして、蝉の鳴き声に更に暑さを感じて、「あー!!夏だー!!」と実感したことだった。

9月も半ば。今も遠くでときどき蝉の鳴き声が聞こえてくるが、もう、強い日差しの下での伸びやかな鳴き声ではない。
そろそろ、蝉の季節も終わりだな。

2014年9月1日月曜日

こぼれ話2 : 故郷からの”今夜も生でさだまさし”を生で観る

8月30日深夜にNHKで放送された、”今夜も生でさだまさし”は、久しぶりに見る「生」の生さださんだった。
しかも、わたしの故郷、北九州からの中継で。
そして、今回もわたしの葉書が読まれたのだった。


わたしは、8月末の”生さだ”さんが北九州からだということを、先月の生さださんを観た友人から聞いていた。
わたしの帰国を歓迎するかのように(!)故郷の北九州からの放送よ!と、書かれた友人からのメイルを読んで、わたしは、キンシャサからは投函できないけど、乗り換え地点のイスタンブールで郵便局を探してキンシャサの絵葉書にお便りをしたためて生さださんに投函しようと心に決めた。


コンゴの絵葉書が売っているところといえば、キンシャサ中心部にあるスーパー”Extra Plus”しか知らない。
-コンゴ河と丸木舟の絵葉書-
-床屋の絵葉書-
-大きな葉っぱで包んで蒸して焼く”マボケ(リボケ)”の絵葉書-
-アフリカプリントのカラフルで大胆な布地がズラーっと並ぶ布地横丁の絵葉書-
-アフリカンマスク(お面)の絵葉書-
-コンゴ河で行われる地引網(と言うのかな?)漁の絵葉書-

日本の官製はがきより一回り大きいサイズの絵葉書は、決して写真の質も良くないし、埃がうっすら付いているようなシロモノだ。
でも。
そんなコンゴの絵葉書を使って、さださんに最後のコンゴからのお便りを出そうと思った。


わたしはスーパーExtra Plusに行き、絵葉書を何種類か買った。
そして生さださんに投稿するために、広大なコンゴ河と丸木舟の絵葉書を選んだ。

キンシャサで最後の日、わたしは、2年7か月のキンシャサ生活を終えて帰国すること、夫たちのプロジェクトのポワルー道路が無事完成し、たくさんのキンシャサ在住の人々から喜ばれたこと、そんなことを狭い絵葉書のスペースに直書きした。
そして、8月4日にイスタンブール空港の郵便局で投函する。
(でも、トルコの美しい切手がなくて、印刷シールが貼られたのは残念だったけど!)


5日に赤羽のわが家に着いて、怒涛の日々を送り。
北九州にも帰省し。
キンシャサで楽しい交流を持った友人たちと銀座で再会して、まるでキンシャサにいるようだとはしゃぎ。
そして、キンシャサで教育と建築と保健のプロジェクトを展開する慶応大学の先生と学生さんたちに鎌倉の先生のお宅で再会し、コンゴのことを共に考えて楽しい時間を持って幸せ気分で帰宅したその深夜。
待ちに待った、生さださんが始まる。

北九州の小倉のNHK放送局からだった。
さださんが、新幹線到来前の夜行列車で東京~長崎間を往復していたときに本州と九州をつなぐ関門トンネルの入口と出口の下関と門司での思い出を語り、八幡製鉄所のことも出てきて、わたしも一緒になって懐かしい思い出に浸っていく。

さださんが番組中、さて次のお便りは・・・と言って手に取った、その絵葉書こそ!
そう!!
さださんが手に取ったその絵葉書こそ、コンゴ河と丸木舟のわたしが送った絵葉書だったのだった!!!

わー!!!
わたしの絵葉書をさださんが手にしてるー!!!
傍でうたた寝をしている夫を揺すり起こす。
起きてー!!
寝ぼけた夫は、メガネ、メガネと慌てまくって探せずにいる。
わたしも一緒になって探して。
さださんはその間、別の話題になってずっとわたしのコンゴ河絵葉書を手にしたまま。
体制を整えるにありがたい3分間?だった。

ありがとう、さださん!!!
日本の皆さんに、キンシャサのポワルー道路のことを紹介できたこともうれしかった。
ほんのちょこっとのことだったけど。

翌朝、赤羽の友人が早速DVDにして持ってきてくれた。
キンシャサ滞在中、ずっと生さださんや、他のさださんの番組、そして、素晴らしいドキュメンタリー番組やインタビュー番組を見つけては録画し続けてわたしたちに届けてくれたわたしの大切な友人だ。
ありがとう、ユキさん!!!


わたしの大切なキンシャサの思い出がまたひとつ、積み重ねられたな。


友人たちからのプレゼントの”今夜も生でさだまさし”DVD