2014年1月17日金曜日

フランスへ!

今日、1月16日はコンゴ民主共和国の祭日。
夫のプロジェクトも休みだった。

今日のグーグルのページの冒頭に、ゴリラの、こんな素敵な絵をみつけた。

Il y a 82 ans naissait Diane Fossey.

ディアン・フォッセイさん82歳の誕生日。
こんな説明書きとともに。
Dian Fossey さんは、ゴリラをこよなく愛する、アメリカの動物行動学者だそうだ。
この絵はルワンダの国立公園らしい。
ちょっと素敵なので、ブログに拝借させていただいた!


1月16日のGoogleの絵

さて。
今夜23時発のエアフランスで、わたしひとりでフランスに向けて出発する。
3週間ほどの滞在になる予定だ。
南フランスに住む娘の育児支援、というのがわたしの目的なのだが、その前にパリで、キンシャサでお世話になった友人夫婦と画家の友人に再会する楽しみもある。

午前中に、キンシャサ中心街にあるメムリン・ホテルのエアフランスのオフィスでアーリーチェックインを済ませ、プレゼントでいただいたアフリカ布地 Woodinを持って、夫婦でシャツをオーダーするために仕立て屋に寄り、それから夫婦でゴルフ場へ。
午前中は短時間であったが、強い雨が降ったキンシャサであったが、しっかり18ホールを回って、帰宅途中に行きつけの中華屋で遅めのランチを取り、帰ってくる。

すべての準備は終わった。

さあこれから出発だ。
キンシャサからンジリ空港までは、夫が従事する日本のプロジェクト、ポワルー産業道路を通り、それから中国が施工する道路を通る。
いつもは、中国の道路現場で相当な渋滞が発生し、空港まで普通は1時間で行くところを4,5時間もかかることがあって時間が読めないのだが、今日は工事も休みのはずだ。
それでも、19時前には出発しておいたほうがよさそうだ。

しばしのお別れ、我がキンシャサ!
夫とヨウムのポンに留守番をしっかり頼んで!

それでは、行ってまいります!

2014年1月15日水曜日

L’éléphant vert: 写真集 LE GOLF DE KINSHASA et ses oiseaux キンシャサゴルフ場...

わたしたちがキンシャサで楽しむゴルフコースの自然を撮った写真集が出版された。

このゴルフ場は、キンシャサで唯二の、自由に歩きまわれるスペースでもある。
(もうひとつは、各国大使館が集まる地域のコンゴ川沿いのジョギングコース)
そしてまた、大都市キンシャサの中心部に位置しながらも豊かな自然が残る、とても緑美しい公園でもある。

L’éléphant vert: 写真集 LE GOLF DE KINSHASA et ses oiseaux キンシャサゴルフ場...: キンシャサゴルフクラブから、とても素晴らしい写真集が出た。 コンゴの出版社からではないはずだ。 ハードカバーで装丁もきれいだし、写真の色がとても自然で美しいのだ。 50米ドルというのは、許せる、かな。 緑深い自然公園のようなキンシャサゴルフ場の1ホールから18ホールす...

キンシャサの日本語講座の学生たち

キンシャサの国立教員大学ISPで、慶応大学が日本語講座プロジェクトを開いて2年以上経つだろうか。

わたしたち夫婦が、教鞭をとる慶応大学の学生たちに出会ったのが、ちょうど2年前のことだった。

そして、春と夏には多くの学生たちが休暇を利用してキンシャサにやってきた。
日本語講座と、もうひとつ、キンシャサ郊外に現地の児童のための小学校運営プロジェクトに参加するためだ。

キンシャサの国立教員大学には、長期滞在で日本語を教えに来ている慶応大学の学生たちもいた。
そして、この2年ちょっとの日本語プロジェクトで、コンゴの若者たちも着実に日本語を身につけ、教える側に着く優秀な若者も出てきた。
日本語が身につくと、立ち居振る舞いも日本人っぽくなるのだなあ、と思うほど、日本人らしい、いやもしかすると日本人以上に律儀なコンゴの若者たちだ。


長期滞在でこの日本語プロジェクトに携わってきた日本の1人の学生が、2日前にキンシャサを後にした。かれの本来の学業にもどるためだ。
その学生の送別会を先週土曜日の夜、我が家で開いた。
かれと、そして日本語プロジェクトをコンゴ人として支えていくことになる3人のコンゴの若者たちと、わたしたち夫婦の友人も交えての夕食会だった。

治安も不安定で自由に街中を歩けない状況にあり、衛生状況も電気水道設備も良くないところで、マラリアという病気もある。
日本食を毎日食べられる状況からはほど遠く、食糧調達事情も難しいといった中で、かれらは毎日、真摯に日本語講座で教鞭をとり、自炊をして、手洗いで洗濯をしていた。

本当に見上げた若者たちだった。

そして、最後の長期滞在の学生が本国に戻っていったのだった。

日本の学生からプレゼントと、心のこもった手紙をいただいた!(うるうる)



送別会をやった同じ日の朝、リコーダー教室にスカイプで参加したとき、わたしはマユミ先生からとっても感動的な話を聴いていた。

マユミさんたち友人が昨年3月にキンシャサに来たときのこと。
キンシャサの日本語プロジェクトに携わる日本とコンゴの若者を我が家に招待して夕食会を開いた。そこで、小学校で音楽教師を勤めるマユミさんは、コンゴの若者からコンゴ独立の歌、 ”Independance Cha Cha”を教えてもらった。
その歌を聴いて、わたしたちはすぐ覚えて何度も歌って、大好きになった。
独立を果たして喜びに沸き立つ、とっても明るい、軽快なテンポの曲だった。
日本に帰って、マユミさんは、その歌を、かのじょが勤務する小学校の新一年生の歓迎ソングに作り変えよう、と取り組んだ。
そして、出来上がった”ようこそ、わたしたちの小学校へ”の歌で新一年生を迎え、かのじょの小学校でも多くの児童に親しまれたということだった。

そして、昨年末に、かのじょの勤務するカトリックの小学校に、日本で活躍するコンゴ出身の神父様が来校したのだそうだ。
コンゴ出身の神父様ということで、コンゴ独立の歌で新一年生歓迎ソングを作り皆で一年を歓迎したときの様子を録画したDVDを神父様に見せたのだと聞く。
神父様は、その様子を見て、歌を聴いて、涙を流して喜んだ、と言うことを、11日のリコーダー・スカイプ教室でマユミさんが話してくれた。

遠く本国から離れた日本の小学校で、母国で誰もが愛して歌い継がれる独立の歌が編曲され歓迎ソングとして生まれ変わって歌われている!
コンゴ出身の神父様の感激が伝わってくるような話だった。


同じ日の夜に開かれた我が家での夕食会で、マユミさんからのその報告を日本とコンゴの学生たちに披露した。
かれら若者こそが、マユミさんにコンゴ独立の歌を歌って踊って聞かせてくれたのだったのだから。
かれらのどの顔もが喜びに輝いていた。
ほんの小さな一点かもしれないけど、遠くはなれた地球の2つの点が繋がったぞ、架け橋になったんだ!、という喜びだったと思う。

そんなこんなの繋がりの喜びをあちこちに撒いて、交わりは続いていくのだろう。

また、この春には慶応の学生たち、先生たちがキンシャサにやってくると聞いている。
それまで、コンゴの日本語教師たち、がんばれー!!

そして、わたしたちは、このプロジェクトを通過していった若者たちの輝く未来を応援し続けています!!

2014年1月14日火曜日

初リコーダー教室

先週土曜日、1月11日、キンシャサ時間で朝7時、日本時間では午後3時から、本年初のリコーダー教室があった。

わたしがキンシャサに来る前から月1回のペースで行われるリコーダー教室。
こちらに来てからは、わたしはスカイプで参加させてもらっている。
以前にもブログで紹介した、わたしが楽しみにするクラスだ。

先生は、マユミさん。
キンシャサにも、リコーダー仲間の友人とふたりで訪ねて来てくれた。
山ほどの貴重な日本食と共に。

生徒は、8人。
リコーダーでも、わたしたちはアルトリコーダーを練習する。

いつか、着物姿のマダムたちのリコーダー演奏でフランスのアヴィニョン演劇祭に参加したいね、という目標を持つ。


わたしの机の上の散らかり状況を暴露するようで恥ずかしいが、こんな感じでレッスンは続く。


画面の向こうのリコーダー仲間たち


画面のこちら側の生徒ひとり photo by 家政婦(!)


レッスンは、ユキさん指導で指の準備体操から始まる。
おっと、その前に各自の近況報告から始まるのが常だった。
とは言っても、大半はわたしのキンシャサ報告で占められるのかもしれない。
きっとそうだ。
ごめんなさい。

そして、レッスンに入る。
マユミ先生はとても優しく丁寧に教えてくれる。
歌の情景を思い浮かべて。
皆の音がテーブルの上の照明の辺り一点に集まるように。
ふむ。
テクニックもさることながら、イメージも大切なのだな。

この日の練習曲は、”ラ・ラ・ルー”。とても優しいメロディーだ。
優しいメルディーだからと言って、テンポをゆっくり目に吹くと、息が続かなくなる。
”シ”のフラットの指使いと、スラーの舌の使い方が難しい。
まだまだ情景を思い浮かべて演奏するまでには至らない。

わたしは、今月初めの旅に、ソプラノリコーダーのほうをしのばせて行った。
どこかの場面で日本のメロディーを演奏して聴いてもらおう、という思いからだった。
何度、演奏します!、と言おうとしたことか・・・。
でも勇気を出せなかった。
ああ、情けない。

かれこれ1年ほど経つかなあ。
近所のどこからか、トランペットの練習する音色が聞こえてくる。
毎日毎日、のどかな午後の昼下がりに遠慮がちに聞こえてくる、優しい音色だ。
フォスターの家路とか、懐かしい曲をゆっくり、ゆっくり、何度も何度も練習している。
わたしの知っている曲だと、つい口ずさんでしまう。

どんな人が練習しているのかな。
家政婦が、ある時、トランペットの演奏、だいぶ上達してきたじゃないと言ってきた。
かのじょも、応援するように聞いていたんだ。
わたしも負けられない。
練習、練習。

今年も、リコーダーレッスンをがんばります!!

2014年1月8日水曜日

コンゴ(民)国道一号線を東へ走る

1月4日、5日の一泊二日で、夫と、夫のプロジェクトのコンゴ人職員マキーラ氏、それに運転手のランド、そしてわたしの4人で陸路、国道一号線視察の旅に出た。


国道一号線は、コンゴ民主共和国を西の海岸港町BANANAを起点に、BOMA、 MATADIというコンゴ河に開けた港町をアンゴラ国境とも接しながら通過し、首都 KINSHASA(コンゴ共和国の首都BRAZZAVILLEをにらみつつ)に到達。
そこから東南方向に、 KWANGO、 KENGE、 MASAMUNA 、KIKWIT、 TSHIKAPA、 KANANGA、 MBUJIMAYI 、KAMINA、そしてコンゴ(民)の大都市 LUBUMBASHIを通って、コンゴ(民)最東南端でザンビアと国境を接する SAKANIAまで、全長3299kmの道のりでコンゴ民主共和国を横断している。

昨年は、その一号線を、KINSHASAから西に、海岸港町のBANANAより手前のBOMAまでの約500kmの行程を走った。日本の援助で建設された吊り橋、マタディ橋までは舗装道路が続いたが、そこを過ぎてBOMAまでの道路舗装は剥がれてでこぼこ道だった。

そして。
今回の旅は、KINSHASAから東へ、KWANGO、KENGEを通過して、KIKWITの150km手前にあるMASAMUNA、そしてそこから少し先までの約380kmの行程をたどったのだった。


キンシャサを過ぎてしばらく行くとMONGATA料金所と書かれた小さな建物が建っていた。
車両によって通行料が決まっていて、料金表がはっきり看板に掲示されている。
ここは州管轄の料金所だろうかと話したが、我々は出張命令証を掲示して料金を支払わなかったので、ここがまだ料金所として機能しているかは不明だ。

シクワンを売る少女とMONGATA料金所(後方)

ほどなく、今度は立派な料金所がそびえたっていた。
こちらのBATSHONGO料金所はFoner(フォネール・道路基金)の運営で、開設されてまだ3,4年だということだった。

BATSHONGO料金所


KINSHASAからBOMAへの道は、港から引き揚げられる荷物を載せたトラックがひっきりなしに往来していたが、KINSHASAを過ぎて東に走る区間ではコンテナトラックは激減。
交通量が少ないからか、それほど傷んでいない舗装道路が、起伏もそれほど大きくなく、低木もまばらな大草原の中をゆったりと延びていて、長閑な牧歌的な風景が楽しめた。

国道1号線沿いには視界が開けた草原が続く


コンゴ最南東端の大都市ルブンバシへ続く送電線が草原上に張り巡らされている


1号線道路は、上り坂があって、それから下り坂の先には川(コンゴ河の支流)があり、しっかりしたコンクリート橋が架けられている。
橋を越えると必ず、集落や市場があった。そして、その始点と終点には必ず村や町の名前が記されたプレート標識が立っていた。

例えば、BATSHONGO料金所を越え20分ほどすると、川幅百m近くもあろうかというクワンゴ川に出た。
コンゴ河支流のKWANGO川と橋

クワンゴ川に架かるコンクリートの橋を渡るとすぐ、クワンゴの活気ある町が広がっていたのだった。

活気のあるKWANGO町のバザール中心地


30分間隔で、”川を橋で渡って村落(あるいはバザール)”のパターンが繰り返されたように思う。


WAMBA川と橋

その後、ワンバ川に架かる橋を渡ってワンバ村へ。

そして、次の大きな町、KENGEでガソリンを入れ、休憩をする。

KENGEの町 ガソリンスタンドで給油中に


KENGEの町でガソリンを満タンにした後、3つの川とそこに架かる橋とそれに続く村を越え、そして、いよいよ夫のプロジェクトで働く現地職員、マキーラ氏の故郷、マサムナへ到着する。

キンシャサの我が家を出発してからから7時間ちょっと経っていた。


MASAMUNA村に到着!

マキーラ氏は3年ぶりの帰省らしく、キンシャサからたくさんのお土産を抱えてきて、とてもうれしそうだ。
もちろん、かれの家族、そしてマサムナ村長さん、女性長さん、青年長さんたちまで1号線沿道の食堂に集まっていて、歓迎音楽と躍りでわたしたちを迎えてくれた。
そして、現地ではきっと貴重であろう、冷たいビールをありがたく、おいしく一気にいただいたのだった。

マキーラ氏帰省の歓迎ランチ会で


マキーラ氏実家での歓迎ランチに感激!



マサムナ村の人々と

マキーラ氏の実家の家族たちに心からのおもてなしに感動し、かれらの歓待に涙が出そうになるほどありがたく思い、何度もお礼を言って、今夜の宿泊場所であるドイツの修道院に向かう。


マサムナ村からほどなく、1号線を緩やかに右折して、丘の上に一面に広がるだだっ広い草原に延びる、細い(車一台がやっと通れるくらいの)土道を車は入っていった。

何もない草むらだけが広がる風景の中を車が進んでいったとき、突然、遠くで人間のシルエットが確認できたときはちょっとびっくりした。元気に走り回る犬たちを連れてゆっくりのんびり夕方の散歩に出ているという風情の白人男性だった。
穏やかな笑顔で近づいてきた男性は、48年間、ここの修道院にある家具工場と機械修理工場で指導する修道士さまであった。

彼と別れて、車はさらに草原の小道を進み、いよいよ修道院建物のある大きな鉄扉の前に到着した。

修道院敷地内の木にはびっくりするほどたくさんの丸い鳥の巣がくっついていた!

S.V.D. NGONDI 教会と修道院の建物

丘の上の草原の中にぽつんと建っている、といった剛健な印象の”S.V.D.NGONDI教会・修道院”であった。

2人のドイツ人の神父さま、修道士さまがいて、村人たちの家具作り指導、機械修理指導、学校運営、そして布教をしているのであった。

緑豊かな敷地内に入っていって、まずわたしたちを歓待してくれたのは、木の枝枝に丸い巣を作って住む小鳥たちの賑やかな夕方のさえずりだった。

そして、白髪の男性がわたしたちを暖かく出迎えてくれた。
このドイツ人男性がウィリー神父さまで、わたしたちの宿泊手続きをしてくれ、それから施設の案内をしてくれた。神父さまは、この修道院に来てまだ1年だと言うことだ。

1981年に建ったというこの教会は、とても頑丈な作りの平屋建てで、地下も備わっていた。
また、一匹の蚊も寄せ付けないくらい寸分の狂いもない建て付けの網戸がすべての窓に備わっている。さきほど草原の中で出会った修道士さまが教会・修道院建設に携わったのだろうなあと、案内してくれる神父さまの話を聴きながら確信した。

宿泊棟には集会室も完備されていて、一度に50人の宿泊者を収容できるという説明だった。

この丘の下に流れる川に設置された簡易水力発電機で施設内の電気はまかなわれ、おいしい地下水が飲めるとも話されていた。
ちょうどわたしたちが訪れたときは発電機タービンの機械が故障し、修道士さまが修理中だとのことで、重油の発電機で代替しているとの説明を受ける。
朝6時半から2時間くらい、そして夕方6時半から夜9時半まで、代替の発電機を動かして電気を使えるということだった。

修道士さまは、夕食後に、修道院内にある、家具と機械修理のアトリエを案内してくれた。
やっぱり、頑丈な作りのシックな建物だと感じる。
アトリエの壁にも十字架が掛けられている。
近くで運営される学校の児童用の机、椅子、学校の書類棚、本棚、そして、教会の机、椅子など、身近で使用される家具の注文を受けて製作中だった。
ここには色々な材質の木材があるんだよ、という修道士さまの言葉に、ではイロコの木もありますかと訊いてみた。
もちろん!
わあ、わたしの名前も”Hiroko”、イロコなんですよ、と言うと、修道士さまは満面の笑みを浮かべて、それはいいなあ、イロコの木はとっても良い木で、丈夫で、船にも使われる木だよ、と褒めてくれた。ちょっと、誇らしい気分だった!

また、同じ建物内にある機械修理のアトリエには、修理のために古いジープが運ばれてきていた。
そして、故障してしまった発電機タービンのコイルを外して修理に取り組んでいる様子も見て取れた。
本国ドイツに新しい発電機の発注をかけて届くのに数ヶ月、コンゴの港から修道院に運ばれるのに数ヶ月掛かると考えると、やっぱり修理して使用するのが賢明だと判断したのだよ、と話してくれた。
また、溶接もしていて、ジープ?のしっかりした中古の車輪を再利用して、鉄板を溶接し、頑丈なリヤカーが完成していた。
夫は、これだけしっかりしたリヤカーがあれば、どんなものでも運べるなあ、としみじみ言っている。
きっと、かれの道路舗装工事現場で時々見かける、ベッド用スポンジや廃材の激しく山積みされて崩壊寸前のごとく引っ張られていくリヤカーの光景を思い出しての発言なのだろう。
研磨機も、溶接機械もすべて本国、ドイツからのものだよと言う修道士さま。
おっと、ひとつ、日本製の機械があったな、ほら、”makita”って日本製だよね。
そうやって、ひとつ、ひとつ、愛用の機械を見せてくれるのだった。

ここは、修道士さまのお城なのだなあ、と感動してしまった。
家具のアトリエでは、木材が運び込まれ、かんな屑が散乱し、ああー、ハイジのおじいさんの山小屋のアトリエと同じにおいがする、と感動は大きく広がっていった。


さて宿泊施設は清潔でとても安心できる施設であった。
各ベッドには蚊帳が付き、各部屋にシャワー(水しか出ないが)も付いていて、手入れの行き届いた宿泊室だと感じた。


宿泊棟 中庭を囲って廻廊のように部屋が並ぶ

わたしたちが泊まった5号室

夜7時からの皆で取る夕食も和やかに美味しくいただいた。
夜は、現在、代替使用中の重油発電機が9時半に止まり、電気が消える。
ろうそくを灯して静かな夜を居心地よく迎える。
夜中、雷の音で目が覚める。外から激しい雨音が聞こえてくる。
ああそうだった、今は雨季だったのだ。
雨季を忘れるくらいに、良い天気に恵まれた旅の一日目だった。



草原の丘で迎える朝は、遠くの山に靄がかかり、空気もおいしく、ひんやりして気持ちの良い朝だった。

教会の廊下から 朝もやがかかる山々


ちょうど日曜日だったので、7時からのお御堂でのミサに参加する。
神父さまの説教は、現地の言語であるキコンゴ語で行われる。
タムタムと、団子三兄弟風マラカスと、違うタイプのマラカスで、手を使って楽しげに歌う聖歌は本当にいいなあ。


ウィリー神父さまのキコンゴ語でのミサ 右側にタムタムなど打楽器を持った参列者が並ぶ



ミサが終わって朝8時半頃、ホームメードのパンと地元で採れたというコーヒーと果物の載ったテーブルで皆が揃って朝食をいただく。

食堂の奥のコーナー オレンジ色の机の上には降誕人形が置かれていた

テーブルの上に、樹木モリンガの葉を粉末にしたような緑の粉が載っているのを発見して、神父さまに尋ねると、やっぱりモリンガの葉を粉末にしたものとのこと。

ここで作っているとのことで、神父さまは一瓶持って帰りなさい、とプレゼントしてくれた!

キンシャサのリメテ地区にS.V.D.教会の施設があるから、欲しいときはそこに伝えておくと、キンシャサに来たときに持ってきてあげる、とも約束してくれたのだった。

さあ、出発の時間だ。
居心地の良い滞在だった。
そして、良い出会いを持てたことに感謝だ。
ありがとう、皆さん!

1月5日、朝9時半に修道院を出発する。



草原の小道を車で進み、国道1号線に出ると、道路を渡った正面にS.V.D.が運営する学校の校庭、校舎が広がっているのが見えた。

校庭には、ドイツらしい遊具が見える。日曜日だけれど、子どもたちが遊具で遊んでいる。

S.V.D.運営の学校 校庭と遊具
校舎壁面に書かれたメッセージ ”Le choix de Chosir, C'est la d'Etudier”
選び取ること、それは学習の喜びだ、という意味かな?
広い校庭に点在するS.V.D.の学校 

さて、旅二日目も、夜半の雨のお陰で晴天に恵まれて出発できた。
MASI MANIMBAからキクイット方面に6kmほど行ったところに、駝鳥の飼育公園が新設されたと聞き、そこまで足を伸ばしてみることにする。

1号線を進むと程なくLUIE川にぶつかり、橋を渡る。
そして、やっぱり村落に出る。
KIWAWA村だ。
ずいぶん前に、とうもろこし、落花生、パーム油、コーヒーなど農産物の集積地として、ポルトガルが開いた村らしい。
どうりで。今まで見てきた1号線沿いの町や村の様相とちょっと異なるものを感じる。
しっかりした村落の形成ぶりを感じる。


そして、駝鳥パーク、”KUZABA AUTRUCHE”へ到着。

駝鳥パーク入り口案内板

なんだ。ここの15羽の駝鳥さんは南アフリカ共和国から連れてこられたんだ。



杭で囲われた駝鳥パークの前で
駝鳥のアップ! あら、美人さん!
新設されたばかり、駝鳥が飼われるところのぐるりを杭で囲っているだけの公園だったが、なんでも30haを確保し、バンドゥンドゥ州からの許可をもらっているらしい。
近い将来、キリンを連れてきて、さらに、絶滅危惧種になっているオカピ(!!)も飼育して、動物パークにしようとしているらしい。
係りのお兄さんから、駝鳥の毛を数本、お土産にもらう。


ここで、国道1号線東進の旅は終わり。
さあ、キンシャサの戻る時間だ。
マキーラ氏の故郷、MASAMUNAで、パイナップルを買い、幾つ目かの町、KENGEで給油。
そしてまた幾つ目かの町、KWANGOで休憩し、一路、アフリカの大都会、キンシャサへ帰りついたのは、夕方5時を回っていた。



12月30日に突然起こったキンシャサのクーデター未遂事件。
結局、首謀グループに相当な犠牲者を出し、政府軍犠牲者合わせて、100名を越えていたということだ。
そんな直後の旅で、少し緊張しての出発だったが、草原の中を進み、コンゴ河の支流の上に架かる橋をいくつも(数えた限り11箇所の橋だった。)渡り、それと同じだけの村や町を通過し、マキーラ氏の故郷の人々の歓待を受け、修道院での素晴らしい出会いを体験し、また一つ、コンゴでのかけがえのない思い出を作ることができた。

国道1号線全長3299kmのうち、BOMA ~KINSHASA~ MASAMUNA(駝鳥パーク)の880kmを走ったことになるが、その距離はたかだか1号線の30%にも満たない。
KIKWITの50km先からは未舗装部分が続くと聞くが、いつの日か、LUBUMBASHI 、終点のSAKANIAまで、国道1号線が整備され、そしてさらに、コンゴ民主共和国の各都市が幹線道路で結ばれる日が来ることを願う。

こういう旅の機会を作ってくれたマキーラ氏と夫に感謝!
そして、安全運転で走行してくれた運転手のランドにも感謝!

2014年1月2日木曜日

2014年 明けましておめでとうございます!

キンシャサゴルフ場9番ホール横の休憩パイヨットにて 筆者

新年明けましておめでとうございます。

ただいま、2014年1月1日キンシャサ夕方5時半。
そろそろ日没時間が迫ってきて、コンゴ川向こうの西の空が茜色に染まってきている。
雨季だけど、今日は雲は多いなりに良い天気で暑い一日だった。

深夜、新年明けてすぐ、フランスの娘家族からのスカイプ着信があった。
娘たちは、夫の両親が住むサヴォワに帰省していて、とても寒そうだ。
(東京の会社寮にいる息子とは大晦日に電話で話せた。元気な様子に安心する。)

キンシャサでは、年越しそばではなく”年越しスパゲティ”を食べたよ、と話すと、娘は、夫の実家で皆のために年越しそばを作って食べたとのこと。
フランスで生活しながら、しっかり日本の風習を踏みながら暮らす娘に感心する。


そして、キンシャサで迎えた新年の朝、鶏の澄まし汁の雑煮を夫婦でいただき、慎ましやかに新年を祝う。
おせち料理は無しだ。
煮豆、卵焼き、筑前煮くらいは用意しようと思っていたが、30日のキンシャサのクーデター未遂事件の緊張で、そんな思いも吹っ飛んでしまった。

30年近く前にカトマンズで迎えた正月では、夫の会社からDHL便でおせち料理材料が届いて、料理していただいたことがあったね、などと思い出話に花を咲かせながら、そそくさと新年の第一食目を終える。

ゴルフ場に向かうためだ。
一昨日のゴルフ場での銃撃発砲音を聞いての異様な雰囲気を思い出すが、キンシャサの街はいたって平穏だ。本当にクーデター未遂事件が起こったなんて信じられないくらい静かな新年を迎えた。

ゆっくりめに家を出発して、午前10時前にはプレイ開始。
夫婦二人ののんびりしたゴルフだ。
先客の日本人プレイ客がぱらぱらと見える。

緑多い、がらんとしたゴルフ場空間を見渡す。いるのは、日本人と韓国人、そしてぱらぱらとコンゴ人かなと思われるアフリカ人のプレイ客のみ。
キンシャサの外国人はほとんど本国に戻っているのだと実感する。

これから先の人生で、自然環境豊かな、しかも自宅から10分少々のところにあるゴルフ場で、こんなのんびりしたゴルフができる正月を迎えることはもう二度とないだろうなあ。
そう思うと、とても恵まれた環境にいることに感謝の念が沸き起こる。

夫は新年初ゴルフでこそ、100のスコアを切るぞ、と意気込んで途中で挫折。
わたしも110台で回りたいという野心は、池ポチャを何度か繰り返しすうちに消失。
結局アウト63、イン63の126でプレイ終了。

いつも注文する日曜日のゴルファーランチは、レストラン休業のために食べられず残念だったが、夫婦お気に入りの鶏の炭火丸焼きを出す料理店で昼食を食べて帰宅する。

帰宅して、ふっと思い出して食料保存プラスティック容器をがさごそかき回して、お屠蘇浸しパックを1パックだけ見つけた。
早速、お屠蘇パックを容器に入れ、そこに日本酒1合ちょっとを注いでお屠蘇を用意した。
明日の朝、あらためて新年のお祝いにいただくことにしよう。

キンシャサに向けて日本を発つとき、夫婦で重量オーバーに気を配りながら準備した合計4つのトランク。そこに忍ばせた和食器といえば、箸数膳、汁椀5個(6個欲しかったけど,日本の食器は5個セットなのだ。)、そして重箱。重箱は運搬のときに中に何かを詰められたし、重量は軽いし、しかも食卓で和風の雰囲気をぐっと出してくれて、とても重宝している。

近いうちに新年ホームパーティーをしたいな。


夫はもう明日,2日から出勤だ。
大晦日と元日2日間の休日だったが、夫婦でゴルフを楽しみ、外食ランチを楽しんだ。
さあ、明日からまたキンシャサでの日常が始まる。

この一年、良い年になりますよう。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。