2018年3月30日金曜日

キンシャサ便りよもやま話6 シミ違い!

かれこれ、22,3年前の思い出話をひとつ・・・。

中央アフリカ共和国滞在時 スーダン国境にて 1994.12.30.
これは、中央アフリカ共和国のバンギに家族で住んでいた頃、冬休みのときにスーダン国境まで約二百頭のカバが生息する川を目指してジープで旅をしたときの家族写真だ。

その翌年夏に3年間のバンギ滞在を終えて帰国した。
そして小学校6年生になっていた娘は、中学受験の準備のための塾通いが始まった。

ある日のこと。
娘が、駅向こうの塾からばたばたと息弾ませて帰宅して、頬を赤くして目をランランと輝かせて興奮して言ったのだ。

  「お母さん、どんなシミも消せます、っていうのを見つけたよ。
   わたしのお小遣いで買えるよ。買ってあげるから!」

??? そんな安価なシミ取りクリームって???

「どこに売ってたの?」
駅前の雑居ビルの中の文具屋で見つけたのだと言う。
娘の優しい熱意に込み上げるものがあった。
中央アフリカ共和国に丸っと3年いて、ゴルフはするし、旅には出るし、ハイキングには行くし。
シミだらけだ、と嘆く母の声を娘なりに心痛めて聞き続けていたのだろうな。

娘と一緒に、そのお店に行ってみた。
確かにあった。
”どんなシミも消せます、落とせます”と書いたチューブ入りのクリームが。
・・・文具屋さんに。

はい。どんな醤油のシミも油のシミも落とせます。

シミ違い、だった。

3年間、毎日聞く日本語と言えば母の話す九州訛りの日本語だけだった。
週末にしか、父親は工事現場から帰ってこなかったのだから。
娘には、”シミ”といえば、皮膚にできるシミしか知らなったのだ。

受験まで、国語には相当手こずった。
それでも、希望校に入学できたのは、毎月日本大使館経由で送られてくる日本海外子女教育財団発行の30枚足らずのテキストと教科書で母親と勉強した漢字と算数のお陰だったかなと思う。
今もあるのかな、日本子女教育財団作成のあのテキスト。
一日1ページをこなすだけで、日本の小学生と同じカリキュラムを修了できます、と書いてあった。隔月で、カセットテープが1本入っていて、日本の季節の話と、季節の歌を聴くことができた。常夏のアフリカで感じることのできる、日本の四季だった。
そして、年に一回、コンクールがあって、作文部門と俳句部門で作品募集というのもあった。
娘はある年、作文部門で賞をいただき大きな盾が送られてきた。
それを見た弟が僕も欲しいと言い出し、ひらがなをどうにか書けるようになった段階だったので、親子で俳句作りをすることに。指を折りながら五、七、五、と数えて季節の言葉も入れて楽しんだ。
そして、翌年5歳の息子は見事、俳句部門で盾をいただいたのだった。
懐かしい思い出だ。

そうそう、夜にはベッドの中で物語の読み聞かせで色んな世界に母子で飛んで行ったな。
それから、親子でそれぞれに、月1回発行の新聞作りもしたな。
母親の魂胆は、国語力を少しでも伸ばそうというものだったが、子どもたちは一度も休刊(!)することなく、楽しんで(かな?)帰国まで新聞発行は続いた。
娘は”Bonjour便り”として、息子は”ライオン新聞”として、わたしは”バンギ便り”として。
まだ、ブログというものがなかったから、手書きで書いて、コピーして、家族や友人知人に郵送していた。
バンギでは、週に2,3便飛んでいたエアフランスのパリ行きの便がある日のみ空港内の郵便局が開き、そこでカウンター越しに局員に手紙を手渡すと切手を貼ってくれて郵便袋に入れられる。その作業をしっかり見届けて帰ったものだ。
きれいな中央アフリカ共和国の切手が貼られた封書は必ず日本まで届いた。

と、そんなことまでとりとめもなく懐かしい思い出がよみがえってくる。

でも、娘には、”シミ”といえば、母の顔にできた茶色い斑点でしかなかったのだなあ。
またまた、いじらしい娘の気持ちにツンとくるものを感じる母心なのだった。
1995年のことだ。     

2018年2月14日水曜日

キンシャサ便りよもやま話5 マタディ橋キンシャサ会

2月11日、渋谷エクセル東急ホテルで開催された、マタディ橋建設当時の関係者のキンシャサ会に夫婦で出席する機会に恵まれた。

マタディ橋は日本の援助で約35年前に完成した、全長720mの吊り橋だ。
河川港としてコンゴ河の入り口から三番目の港となるマタディ港近くに架かっている。世界第2位の流域面積を誇るコンゴ河に架かる唯一の橋でもある。
わたしたちも2013年にこの地を訪れたことがある。

コンゴ河に架かるマタディ橋 全長720m (2013.8.9.撮影)

マタディ橋入口 日本とコンゴ民主共和国の国旗モニュメントを発見(2013.8.9.撮影)
マタディ橋上からのコンゴ河マタディ港を望む (2013.8.9.撮影)

マタディ橋の工事が始まって37,8年。
詳しいところは知らないが、調査も含めると、コンゴ民主共和国とのかかわりはもう40年も前に遡るのかもしれない。
キンシャサ会には、当時、現場で工事に携わった技術者と家族、大使夫妻、商社の方たちが多く参加され、当時の貴重な話を聞くことができた。
70歳代、80歳代になられても皆さんはつらつとされて、若さを感じるかたたちばかりで、また皆さんの長い親交に感動をいただいた。

これまでコンゴ民主共和国の道路公団職員たちにより維持管理がしっかり続行され、また3年ほど前に別の日本の支援プロジェクトとして大規模改修工事も実施されている。
わたしたち夫婦が2013年8月に訪れた時、管理の行き届いた吊り橋の雄姿に大きく心動かされ(大規模改修工事はその後だった)、橋の周辺には厳かなオーラが漂っているようだった。

思い返せば、マタディ橋のお陰でわたしたち夫婦は恩恵をいただいてきた。
まず、2011年の東北大震災直後に商船会社に入社し、社員寮に入った息子の話から。
息子が入寮した寮長さん兼コックさんが、なんとマタディ橋の建設資材を運搬した船にコックとして乗船し、資材の積み下ろしのためにしばらくマタディに滞在したというかたで、息子が両親がキンシャサに出発する(わたしたちは2011年大晦日に出国している。)と話したら近しく感じてくれて、いろいろと温かく目をかけてくれたのだそうだ。

また、わたしの知人が、マタディ橋建設のために家族で滞在していた友人を訪ねてはるばるマタディまで1981年に訪れている(キンシャサからマタディまで約400kmの距離がある)。知人は、わたしたちがキンシャサに行くことを知ると、当時の思い出を懐かしく語ってくれたものだ。

ある年のキンシャサゴルフクラブのオープンゴルフ大会前夜祭で出会ったビール会社のコンゴ人社員が、わたしたちが日本人だと知ると、かれの叔父さんがコンゴ人技術者でマタディ橋の維持管理のための研修で日本に行ったことがあるらしく、叔父さんから日本滞在の良い思い出話をよく聞いていたと言って喜んでくれた。後日、ビール会社工場内にある売店に案内してくれて、そこでしか買えないグッズを買えたということもあった。


マタディ港はコンゴ河の河川港としてキンシャサへの最終の積荷港で、そこからは陸路でキンシャサまで運送される。マタディ橋は陸運の要衝として経済活性化に寄与していると聞き、コンゴ民主共和国における日本の援助の象徴といえる存在だ。

その建設に30数年前に携わり、完成30周年記念式典がマタディで盛大に行われたときには7人の日本人が私費でマタディを再訪している。その「七人の侍の武勇伝」は、かれらの”誇り”そのものだと思った。
その時、わたしたち夫婦はキンシャサにいて、かれらの高齢の身での長旅を押しての再訪を感動して聞いたものだ。

これからも、マタディ橋キンシャサ会が盛況でありますように。
心から願って、会の締めくくりにわたしもエールを送った。

2018年1月18日木曜日

キンシャサ便りよもやま話4 三度目の「フェリシテ」


先日、夫とヒューマントラストシネマ有楽町へ映画「わたしは、幸福(フェリシテ)」を観に行ってきた。夫は2度目、わたしは3度目の鑑賞だった。
3度見ても、新たな発見があって、叙情詩的な奥深い映像と音楽はやっぱりすばらしかった。
わたしはいろいろな見方をしてみようと決め、今回も映像をまた違った方面から理解してみようと思った。

映画「わたしは、幸福(フェリシテ)」の日本版ステッカー(画・南Q太)


キンシャサの酒場で歌手として生きるフェリシテのかたくなな表情が何度もアップされる。
ゴミ箱をひっくり返したような混沌とした街で、もちろん道徳も理性もなにもかもが吹っ飛ぶような、すべてが混沌としたアフリカの大都会、キンシャサ。
その街で一人息子を抱えて肩で風を切るように生きる女性。フェリシテの歌う歌も強く熱情がほとばしるようだ。
交通事故で手術をしなければならなくなった息子のために、かのじょはプライドを押し込めて、ありとあらゆる人を訪ね歩いて手術費の工面をする。
一人息子の父親であり、フェリシテの元夫のところにも行く。
その元夫は、「お前は一人で生きていくと強がって出て行ったんじゃなかったのか。その挙句に一人息子は不良少年になり、バイク事故を起こしただと!知ったことではない。」
激怒してフェリシテを追い返す。
さらに、かのじょは叔母を訪ね、叔母から「一度は死んだお前に、親の思いを込めて命名した”フェリシテ~幸福”という名まえなのに。」とかのじょを侮蔑の目で見る。
フェリシテという名の”幸福”とは無縁のような暗く突っ張った表情に、叔母は冷たくわずかなお金を突き出す。(叔母も苦しい生活なのだ。)
どんな手段を使ってもお金を集める無表情のフェリシテを見て、こんなに硬く生きる女性がいたのかと改めて思う。

かのじょの職場の仲間が、フェリシテのためにいくらかでもお金を寄付してやろうとグループの長老が声を掛けても、フェリシテは仲間に懇願することはしない。あくまでも、誇り高い女性の姿勢を崩さない。
健気、という言葉の対極にあるような女性、フェリシテ。

フェリシテの歌う酒場の常連客にひとりの大酒飲みの男性がいる。
かのじょが大枚をはたいて手に入れた中古の冷蔵庫が運ばれてきて早々に壊れ、やって来た修理屋がこの男性、タブーだった。
タブーは、本当の修理屋かどうかはわからない。キンシャサには偽りも真実さえも混沌としている。
生き方さえ適当なように思われるタブーがフェリシテに思いを寄せる。いつからなのかはわからない。
母親の生き方に呼応するかのようにかたくなに生きるフェリシテの一人息子が交通事故で足を失い、荒れた生活を送って来たであろう息子もさらに心を隠し、無表情のままだ。生きる力さえ無くしたようだ。
その母子を、ちゃらんぽらん人間?のタブーがかれなりの愛情でかれらを包む。

フェリシテの心情を描く、イマジネーションの映像で、フェリシテは、ただ森の中をさ迷うだけだった。水の流れの音だけが聞こえる映像。
それが、あるとき、フェリシテは川だか、水の中に身を入れて進む。そして、森の中で、オカピという動物に出会う。(冒頭に載せた写真、映画のステッカーにも描かれている。)
そして、ついにフェリシテはオカピと触れ合う。

フェリシテの心が和らいだ瞬間だったのか。
オカピの”虚像”がフェリシテの歌う酒場にも見え隠れする。
”幸せ~フェリシテ”が見えた、のだ。

キンシャサで購入した木工のオカピの置物


フェリシテはいつもエクステの編み込んだ長い髪を、歌う時は垂らして、強がった虚栄の姿勢になるときは、髪を後ろにひとまとめに上げてさっそうと歩いていた。
そんなフェリシテがエクステ(付け髪)を外して、自然の地毛だけにして、再び歌い始める。
フェリシテが虚栄の鎧を外したのだ。(とわたしには受け取れた。)

キンシャサでは、98パーセントの女性が(と言っても過言ではないほど)カツラかエクステを付けて、頭にボリュームを持たせる。
1990年代に中央アフリカ共和国のバンギにいたころは、アフリカ布地の一反6ヤードの1/3を使って頭に巻いて地毛を隠して華やぎを出していた。1/3はブラウスに、1/3は巻きスカートにしてアフリカンプリントでお洒落をしていたものだった。
それから25年が経ち、アフリカンプリントでワンピースに身を包むか、ジーパンとTシャツ姿の女性たちの頭は、まるで帽子をかぶるかのような感覚で(カツラだとバレバレの)カツラか、エクステでヘアーファッションを楽しんでいる。地毛の短いアフリカの女性は長髪が憧れなのだろうな。


そんな中、フェリシテはすっぱり、エクステを止めて地毛で歌を歌い始めた。
一時期は歌を忘れたかのような状態だったフェリシテが、地毛のまま、”天国の歌”のような柔らかいタッチのリンガラミュージックを歌う姿があった。
自然体のフェリシテを見たように思えた。
フェリシテが”脱皮”したのだ。

退院してきた息子を祝うために集まってきた近所の人々に、退院してきたばかりで疲れが出ているからとさりげなく近所の人に帰ってもらう気遣いをみせるタブー。
ぼくはいつもフェリシテ、きみのそばにいるよ、と言い続けるタブー。
自分の生き方をしてこなかったフェリシテの一人息子が足を失い、もぬけの殻になっていた青年に自然に寄り添い、アルコールを飲むかと誘い、一緒になってふーっと息を抜くことを伝えるタブー。
そんなちゃらんぽらんだけど、優しく柔らかい風船(身も心も!?)のようなタブーの気持ちが、フェリシテ母子の硬い心をやわらげたのかな。

1月26日まで、ヒューマントラストシネマ有楽町で上映されるようだ。ただ、上映時間が日によって変更になるからチェックが必要だ。
そのあとは、全国で上映が始まると聞く。

キンシャサの今の様子がちりばめられた映画。
一般庶民の住む地区は、もっと汚くて治安もさらに乱れていると想像される。庶民が通う公立の病院も、もっと非衛生的なのだろう。2012年から2016年の間、4年ほど住んだキンシャサで、自由に徒歩で歩くことはできなかったし、庶民の居住地区に踏み込むことも禁止されていたから、深いところでの本当のキンシャサの姿は分からない。
それでも、キンシャサをはっきり感じる映画だ。
はるか遠い、アフリカ大陸の大都会で繰り広げられる普通の人々の日々の生活を観て、何かを感じてほしい。
これからの上映情報はこのHPで。
http://www.moviola.jp/felicite/theaters/index.html
DVD化されますように!