2013年8月31日土曜日

キンシャサ千客万来~キンシャサ案内の日々

8月も終わり。
今月は、バコンゴへの旅あり、慶応大学のキンシャサプロジェクトチームの恒例夏休みキンシャサ学生滞在あり、宮崎からの知人夫婦のキンシャサ訪問ありの千客万来、そしてイベントありの盛りだくさんの最高に充実した1ヶ月であった。


キンシャサゴルフ場のマンゴの木 実がたくさん

宮崎からの知人夫妻は”みやざき中央新聞”という週刊新聞を発行しているエディターたちだ。
だからこそ、本当のキンシャサを自身の目でしっかり観てほしいと思って、キンシャサ訪問を誘い続けたのだった。
イスタンブール経由でキンシャサ入りしたのは8月19日夜。それから25日夜の出発までの6日間、わたしも一緒になって、わたしたちがキンシャサでおもしろいと感じてきた物、人たちを紹介し続けたのだった。
(”IWC国際女性クラブ”は残念ながら夏季活動休止の時期で、IWCの活動は紹介できなかったけれど。)

慶応大学が日本政府の草の根無償により、キンシャサ・ゴンベのISP(Institiution  Superieur Pedagogique コンゴ教員大学)の敷地内に建設した「日本コンゴ文化センター」で、日本語プロジェクトに関わる慶応の学生たち、そしてコンゴの若者たちの活動を見学し、色々な話を聞く機会に恵まれた。
そして、その後、皆でISP前にある屋台食堂でコンゴ料理に舌鼓を打った。


コンゴ教員大学前の食堂で

また、夫のコンゴ人知人が設定してくれて、キンシャサの日刊新聞”L'Observateur”の経済記者とも話し合いが持てたのも良かったのではないかと思う。

ある日は、日本の無償援助のプロジェクトで舗装道路を改修するポワルー(産業)道路の工事現場を訪れた。海外の無償援助で進む工事現場をとても興味深く見学した。

舗装道路工事が進むポワルー産業道路


舗装道路に組み込まれる鉄道の枕木を変える工事完了


朝の通勤電車が通る

ポワルー道路に沿って走る鉄道に朝夕の時間帯だけ走る郊外~キンシャサ中央駅間の通勤電車がちょうどわたしたちの目前を通過した。1日に数本しか走らない電車を見られてラッキー!


またある日は、キンシャサ中心部から遠く離れた山を切り開いてキャパス群が点在する国立キンシャサ大学を訪れた。
わたしにとっても初めての訪問だ。
キンシャサ大学への道は細い道路にもかかわらず、大型トラックが目に付く。それもそのはず、この道はバコンゴ、コンゴ河下流の港町に続く道なのだそうだ。
そんな混雑した危なっかしい道を通って、いつか紹介したリヨロさん制作の女性像の横を過ぎ、キャンパス内に入っていった。
まず精神病棟の建物から始まり、薬学部、そして古い小型飛行機が放置(?)された工学部、図書館、男子学生寮の建物と進む。
学生たちが楽しそうに談笑している。
おしゃれな学生たちだ。
病院があった。
とても難しい手術も行なわれる、コンゴで筆頭に挙げられる大学病院のようだ。
キャンパス全体が、ひとつの村落を形成しているように思われた。

そこで、どういうわけかシスターたちにぽつぽつと出くわすのだ。
なぜだろう。
ここは国立大学なのに、なぜシスターたちがいるのか。
するとこんなマリア像を見つけた。

国立キンシャサ大学構内に建つ聖マリア像

あそこに建つ大きな建物は何?
劇場かなあ。
いえいえ、劇場はこちらです。
では、あの立派な建物は?

たどり着くと、そこは大きな聖堂だった。

国立キンシャサ大学構内にある聖堂

厳かな雰囲気の聖堂内

ひとりのコンゴ人シスターが現れて、聖堂内に導かれる。
その日はちょうど結婚式が行なわれる日で多くの教会関係者が式準備に追われていた。
シスターの話で、キンシャサ大学の前身が当時の宗主国ベルギーの大学の姉妹校として建てられたカトリック大学だったと書かれていた「モブツ・セセ・セコ物語」の一箇所を思い出した。
今では、ベルギー人シスターも神父様も本国に帰ってしまったということだった。

確かに「モブツ・・物語」に、”キンシャサのロヴァニュム・カトリック大学は、ベルギーのルーヴァン大学の姉妹校で、モブツは後にそれをキンシャサ国立大学にした。”と記されている。
さらにWikipediaでみると、ロヴァニュム・カトリック大学として創立されたのは1954年で、その後、1971年8月に、キサンガニのプロテスタント自治コンゴ大学(1962年創立)、ルブンバシのコンゴ大学(1956年創立)と合併してザイール国立大学キンシャサキャンパスとなったが、1981年には再び三校に分離し、キンシャサ大学と改名して現在に至る、とも記されていた。

国立キンシャサ大学出身と言うのは、この国では一つのステイタスのように思う。

ところで、このキンシャサ大学構内に原子炉があるということをたまに耳にする。
わたしのフランス語の先生は、それは理学部の中にあり、今では稼動していないし、危険なのは建て屋内だけで何の問題もないというのだった。
しかし、構内の放射能数値が高いということも耳にする。
コンゴの最高学府でこういう事態が続いているのなら、将来のコンゴを担う若者の、そして周辺住民の、さらにはキンシャサ市民の健康が心配になってくる。
この国のカタンガ州では、ウラニウムが多く産出され、それが第二次世界大戦において原爆製造のために使用されたと聞く。アメリカがコンゴ・カタンガ州のウラニウムをベルギーから買って、日本に落とした原爆の製造に使ったのだ、と「モブツ・・物語」に出てくる。
この国が原子炉を持つということの恐ろしさを考えたとき、背筋が凍るような衝撃を覚える。


数日目には、ンガリエマの丘の上に建つ”コンゴ博物館”も見学した。
古いコンゴの楽器、祭りのときに使ったであろうお面と蓑(みの)、呪術用と思われるものも見られた。特にそれぞれに対する説明も添えられていない。
モブツが使っていたという豹皮の椅子とビロード布に豹(?)の刺繍がほどこされた椅子も展示されていた。
展示にまとまりがない、という印象を持つ。

そんな中に、懐かしいドラムを発見した。
昔、電話もモールス信号機も何も交信手段がなかった時代、一村に一台の伝令用ドラムが備えられ、何かニュースがあるとドラムを叩いて村から村へ伝令を飛ばしていた、という木製ドラムだ。

コンゴでは”ロコレ”と呼ばれた 昔の交信手段だった木製ドラム 
一本の大木をくり抜いて製作され、人間の大人がまたいで叩くにちょうど良い大きなもの

一本の大きな木をくり抜いて作られ、人間がちょうど跨げる位のサイズだ。
20年前、中央アフリカの博物館でも見かけた。
叩くバチも木製で、先端の叩く部分には蜜蝋が丸く固めて付いていた。
そのバチで叩くと、とっても良い音が響き、ああこの音でリズムを作って村から村へ色んなニュースが伝えられていたのだなあと感慨深いものがあった。
中央アフリカではなんと呼ばれていたかなあ・・・。
忘れてしまった。残念。
わたしがバンギで毎月発行していた”バンギ便り”に詳しく書いたことがあるんだけどなあ。
コンゴでは、”LOKOLE”,ロコレ、と言うのだそうだ。
昔、昔の交信手段としてのドラムだ。
現在、”LOKOLE”というコンゴのニュース発信会社?の名称に使われていることを知り、おもしろいなあと思った。


コンゴ博物館の庭での写真展

ちょうど、コンゴ博物館の庭で、古いコンゴの写真展が開かれていた。
部族ごとに伝わる文化風習をじっくり調べられたらどんなに興味深いことだろう。


彼らのキンシャサ出発前日には、キンシャサ郊外にあるボノボ(コンゴのある地方にしか生息しない類人猿)のサンクチュアリを訪れた。
ベルギー人女性が主催するボノボの保護施設だ。
わたしにとって今回で5,6回目の訪問となるが、毎回行くたびに何がしかの発見がある。

コンゴ地図の中の緑部分がボノボ生息地

訪問者に分かりやすいように、フランス語、英語で図解した立て看板が随所に設置されているし、見学の前にきちんとしたボノボという動物の説明があってボノボ保護の啓蒙運動に力を入れていることが窺われる。
ここ2,3回の訪問で感じることは、コンゴのボーイスカウト、学校、教会といった団体を多く受け入れ始めたなあということだ。
コンゴ人のボノボに対する意識変革のためにはとても良いことだと感じる。
何せ、コンゴ人にとっては猿は食用であり、ボノボももちろん食用動物なのだ。

ボノボに詳しい職員が同行してくれる

前回くらいから、ボノボサンクチュアリの職員が見学に同行して説明してくれるようになった。
今回の職員はここに暮らすボノボ全員のことを把握していて、とても詳しく説明してくれた。
まるでかれ自身がボノボのような(失礼!)優しい目をしたインテリな男性職員だった。
わたしたちが日本人だとわかって、京都大学のカノ(カノウ)教授が病気だと聞いているが、かれの具合はどうなのだろうかととても心配そうに訊いてきた。
カノ(カノウ)教授がどうぞ元気にされていますように。

ボノボサンクチュアリを後にして、途中でおにぎりの昼食を取り、その日、ISPの日本コンゴ文化センターで行なわれているジャパンデーの催しに急いだ。
ちょうど、慶応大学医学部の先生の公衆衛生についてのことを日本とコンゴの事情を比較しながら講演が始まったところだった。
看護学の先生の、日本から始まった母子手帳の効用についての話はとても頷いてしまった。
日本には色んな工夫やアイディアがあって、公衆衛生、母子健康、栄養摂取などの運動が推進されていったのだなあと、改めて我が祖国を誇りに思ったりしたのだった。

アカデックス小学校児童が踊る”ソーラン節”

講演の後では、キンシャサ郊外で慶応大学のプロジェクトの一環として開校したアカデックス小学校児童が踊る”ソーラン節”が披露された。日本の学生たちが指導したという踊りには感心してしまった。
そして、蕎麦を実際に文化センターで打って、参加者全員に振舞われたのだった。


最後の日曜日は、キンシャサ市内のノートルダム聖堂へ行き、途中からではあったが、ミサに参列した。

キンシャサ・ノートルダム聖堂

わたしたちが参列したミサは、青少年向けだったそうで、母親に連れられた子どもたち、そして青年たちが多く来ていた。

午後からはキンシャサゴルフ場へ行き、まずは建物内に飾られているコンゴ人画家の油絵を見て回る。
わたしの好きな画家Mafoloさんの大作にしばし見とれた。


ゴルフ場レストランに飾られているコンゴ人画家マフォロ作の大作油絵

緑多いゴルフ場の散策は入り口あたりだけだったが、たわわに実をつけたマンゴの木、ねむの木、そして日本ではクリスマスの時期に欠かせないポインセチアの大きな木を見つけて皆で楽しんだ。
そして、ゴルフ場のパイヨットで心地よい風に吹かれながら、”日替わりゴルファーランチ”でキンシャサ最後の昼食を楽しんだのだった。

かれらの滞在中のキンシャサでの昼食は、フランス大使館近くの小洒落たカフェで、そして庶民のパン屋ヴィクトワールが展開するカフェ”Chez Victoire”でも楽しんだ。

かれらのキンシャサの思い出にと、もちろん買い物にも行った。
市内で一番大きい本屋に行ったが,これで一番大きい本屋なのかとかれらは驚いていた。

アフリカ布地の店にもお連れした。
一般庶民の布地屋Lutexと、最高級布地店VLISCOと。
それから、ISP前にあるボボト文化センター内にある骨董品屋ANTIKAにも行った。
ここの店主の、全ての骨董品に対する造詣の深さには驚く。毎回訪れるたびに、興味津々の話を披露してくれる。

骨董品屋ANTIKAの店主 昔の酋長が被る帽子と


かれらのキンシャサ発のフライトは20:40ンジリ空港発のトルコエアだった。
途中の中国が工事する道路の渋滞を見越して、16:30に我が家を出発した。

ところが、途中から前代未聞のミラクル大渋滞に巻き込まれてしまった。
3箇所の道路工事部分で、通常片側3車線が1車線だけになっていて、われ先にわれ先にと争って道路工事箇所の手前で片側5車線に膨れ上がり、身動きが取れなくなった車で溢れかえってしまった。
動けなくなったおんぼろ車が、あちこちでエンストを起こして、さらに渋滞を作っている。
窓を開けていたら、あちこちから、わたしたちの車に向かって、「中国の工事なんかやめさせろ!!」と野次が飛んでくる。
夫が、「わたしたちは日本人だ!」と言うと、「ああ日本人の工事はすばらしい,ポワルー道路の工事はすばらしい!」と今度は賞賛の声が飛んでくる。
フライトに間に合わなくなって、バイクを飛ばして空港に駆けつけた知人の話を思い出して、これは是が非でも渋滞から抜け出さなくては!!と気分が高揚してくる。
トルコエアは事前チェックインがないため(エアフランスとブリュッセルエアはキンシャサ中心部のおオフィスで事前チェックインを受けられて荷物も預けることができるのだが。)、大きなトランクを持ってバイクにまたがる事は不可能だ。

困った!!!!!
警察官の交通整理も効果薄だ。
大ピンチ!!!!!

すると、動かなくなった車のあちこちから一般庶民が降りてきて、交通整理に当たり、膨れ上がった車線を徐々に徐々に整えていって、ついに2車線にまでしたのだった。
一般人レベルでの交通整理なんて、日本では考えられない光景だった。
そんな大渋滞を3箇所くぐり抜け、わたしたちはただただ神に祈って、へろへろになってンジリ空港に到着したのが定刻出発時刻の1時間10分前だった。
ところが、かれらの後から後から、乗客が慌ててチェックインカウンターに入ってきていた。

これでは定刻出発はありえないね、と話していたら、肝心の乗務員たちが空港にたどり着けなくて、出発時刻が大幅に遅れたということだった。

もしかしたら、かれらにとってキンシャサのどこの出会いや経験より、このンジリ空港までのアクション映画さながらのミラクル大渋滞脱出劇が一番の思い出になったのかもなあ~、と思うのだった。

かれらと共に改めて観たキンシャサの人々の暮らし。
かれらに生の本当のキンシャサを観てほしいと願って過ごした数日間だったが、果たしてどんな印象を持って日本に帰っていったのだろう。

2013年8月30日金曜日

8月17日 日帰りのコンゴ河ボートトリップ

8月も最後になった。
乾季のキンシャサもそろそろ終わりかなあと、しっとりし始めた空気にそう感じ始めたこのごろ。

27日の朝起きてすぐ、突然の雨の音に驚く。
その前日にも、お湿り程度の雨が夜中に降ったとも聞くが、5月19日夜以来の雨だった。


さて、乾季の間だけ楽しめるボートの旅がある。

乾季の間だけコンゴ河に出現する中洲


コンゴ河に現れる中洲にボートで渡って、日がな一日、海辺のような島でゆっくり過ごすのだ。

乾季の間、コンゴ河に現れる島?でキャンプ


8月17日、今年も友人から誘われてコンゴ河をボートで行く旅を楽しんだ。
海みたいなコンゴ河に浮かぶ砂地の島で、海辺に繰り出したようにたっぷりと開放感を味わえた一日だった。
この浜、歩くとキュッキュッと音がするのだ。
小さな犬が歩くときですら、キュッキュッ!
昨年は気付かなかったことだ。

こんな植物も群生していた。

砂地に根を張る植物
砂地に咲く浜顔


今年はバーベキューは希望者だけ。皆がお弁当や飲み物,スナックを持ち寄っての昼食だった。
大きなクーラーボックス持参で、氷まで用意している友人もいた。

昼食のあとは、砂地に寝そべって日焼けする人、スポーツを楽しむ人,凧揚げを楽しむ子どもたちもいた。凧揚げは電線がないから格好のべストスペースだ。

わたしは初めてペタングに挑戦。
砂地だしとてもおもしろい。
老後はペタングで楽しもう!、と心に決めたりして。

バレーボールをしているとどこからともなくピローグ(1本の丸木をくり抜いて作った舟)に乗って現地の子どもたちが集まってきた。そして、自然にバレーボールの輪に中に入り、皆で遊び始めていた。
ベルギー人の友人の夫はごく自然に彼らを受け入れ、多分初めてやったバレーボールが気に入ったのか、ずっとボールを追いかけ、楽しんでいた。アフリカの子どもたちの身体能力には目を見張る。

バレーボールが一段落したところで、ひとりの現地人の男の子が砂地に放置されたペタングを見つけて、触り始めた。持ち主のアメリカ人の男性が英語で何か言ったようだった。男の子は、嬉しそうな表情をして手振りで「ぼくと遊べる?」と訊いた。そのとき、アメリカ人男性は男の子に向かって、厳しい顔つきで、あっちに行け、というジェスチャーをしたのだった。
男の子の表情はなんとも言えず寂しそうだった。
アフリカの子どもに警戒心を持たざるを得ないのも分かる。
でも、バレーボールの輪の中に自然にかれらを受け入れた友人の夫の寛大さ。
そのふたりの対処のしかたが対照的だった。
いつか、アフリカの国の人々が対等に付き合うことのできる日が来ることを願った出来事だった。


皆、それぞれがくつろいで、のんびりと開放感に浸っていた。
キンシャサのごみごみした世界から逃れ出して、ほっとした表情をしていた。

また、来年。
乾季のころ。
はたしてその頃キンシャサにいるかどうか、わからないけれど。

今年も、気のあった仲間と来れてよかった。
誘ってくれてありがとう,キティーさん。


中洲からボートに移るとき、コンゴ河に浸かって!

2013年8月20日火曜日

マタディ、ボマまで! 国道1号線の旅

コンゴ民主共和国地図

今日は、マタディ、ボマまでの旅のことを少々。
国道1号線をキンシャサから西に走った車での旅だった。

上に示したコンゴ民主共和国の地図には、コンゴ河の本流と国内の主要な都市だけが載っている。

まず見てわかるのは、コンゴ河本流はコンゴ民主共和国の国内で完結しているということだ。
支流を見ると幾分かは周辺国に延びているところも見られるが、おおよそのコンゴ河が国内を流れているということは、水利権が他国にまたがらないということで、ダムを建設するのに他国間トラブルが発生せずに済むという話を聞いた。
世界第2位の流域面積と水量をほこるコンゴ河の活用領域は多岐に渡りそうだ。

ただ、コンゴ河には多くの滝(段差のある急な流れ)が存在する。
キンシャサKinshasa~マタディMatadi間、そしてキサンガニKisanganiより上流に滝(段差のある急な流れ)が存在するらしい。
だから、大型貨物船は大西洋から入ってバナナBanana,ボマBoma,マタディMatadiまでしか上って来れない。キンシャサまでは海運は不可能だ。
また、キサンガニKisanganiより上流には多くの滝が横たわるからコンゴ(民)第2の都市ルブンバシLubumbashi近くまで水運を利用できそうに思えるが、それも不可能だ。

水運利用で航行可能な区間は、キンシャサ~キサンガニ間だということだ。(現在、定期航路な存在しない。)


では、陸路に目を移すと・・。
国道1号線は、コンゴ河口のバナナBanan~ボマBoma~マタディMatadi~キンシャサKinshasa~キクイットKikwit~チカパTshikapa~ルブンバシLubumbashiを指すらしいが、バナナ~ボマ~マタディ(マタディ橋)~キンシャサ~キクイットと舗装されていて現在キクイットから7,80km地点まで舗装道路が通っているそうだ。そこからチカパまでは道路は未整備の状態だと聞く。そしてチカパからルブンバシ間はまた未舗装ではあるらしいが道路が続いているのだそうだ。
キクイット~チカパ間を流れるコンゴ河支流に中国が建設した橋が架かったので,一応は国道1号線は繋がったようだが、バナナからルブンバシまで舗装道路が整備されるのはまだまだ時間がかかりそうだ。


さて、わたしは今月9日、10日の1泊2日の旅程で国道1号線を辿り、キンシャサ~マタディ~ボマまで訪ねたのだった。

上の地図で見ると、キンシャサからコンゴ河に沿って河口近くまで進む旅だったんだ、と思われるかもしれない。ところが、道路はコンゴ河に寄り添うようにはできていなかった!


キンシャサ~マタディ間は350kmの舗装道路でつながっている。
その国道1号線は河より南側を弓の弧を描くように道路は走っていた。
キンシャサ~バンザングングMbanza-Ngungu~キンペセKimpese~マタディと通過していく。

バンザングングは我が家の家政婦の故郷なのだそうだ。かのじょの話によると、大きな丘がありその下に洞窟が入りくねっていて村人たちの休憩場所となっているのだそうだ。そして乾季のころはとても寒くてみぞれや雪が降るのだというのだが・・(ホントかな)。

そして、キンペセより手前(キンシャサ寄り)、ルクラの町に大きなセメント工場があった。
街じゅうにセメントの細かい粉が舞い散っているような印象の町だった。
夫が懐かしそうに言った。
20年前、中央アフリカ共和国で舗装道路工事に携わっていたとき、このルクラからセメントが来ていたというのだ。当時、コンゴは混乱が続いて入国できない状態だったので、ルクラから陸路(どういうルートだかは不明だが)でコンゴ共和国の首都ブラザビルまでセメントを運び、そこからコンゴ河の水運を利用し、支流のウバンギ川に入って中央アフリカ共和国の首都、バンギまで運ばれて来ていたというのだ。工事の最後のほうはルクラからのセメントを断念し、カメルーンからのセメントに変わったらしいが、陸路でカメルーンから運搬するより、水運でのほうが安くセメントを入手できた、と言うのだった。


キンペセ付近の竹のトンネル!道路がきれい!

キンペセを過ぎたあたりからかなり立派な舗装道路になったが、勾配が続いたりカーブも幾箇所か見られ、マタディで陸揚げされてキンシャサを往復する大型コンテナトラックが横転している光景にも出くわした。




マタディMatadiは、コンゴ民主共和国西部にあり、バコンゴ州の州都だ。
アンゴラとの国境近くに広がる。
また地形面から見ると、岩盤の上に成り立ち、上下の起伏の激しい河港都市だ。
市街中心部の坂道には植民地時代のがっしりした建造物が残り、キンシャサとは違った、独特の雰囲気を持つエキゾチックな街だ。

マタディ橋を背に、橋からすぐの市街地風景

大型貨物船は大西洋からコンゴ河に入り、バナナ~ボマ~マタディのここまでしか進めないのだそうだ。マタディから上流に滝(段差のある急な流れ)が横たわるために、キンシャサまでの貨物船での運搬は不可能だというのだ。(マタディ港はコンゴ河の河口から約150km上流に位置する。)

それで、マタディ港で陸揚げされた貨物は、1908年に敷設されたマタディ~キンシャサ間の鉄道でキンシャサまで運ばれる(逆のルートも)と聞いた。しかし、実際、現在も鉄道がしっかり運行されているのか甚だ疑わしい。
今回もマタディ~キンシャサ間の国道1号線で実に多くのコンテナトラックが往来するのを見た。


マタディ橋からマタディの港町を望む

”マタディ”、とは現地の言葉、キコンゴ語で”石”を意味するのだそうだ。マタディの町を車で走っていて、岩盤を削って道路を建設していったことが見て取れた。
そんな地形のコンゴ河両岸に、ちょうど30年前、日本の援助で日本の技術者たちによって橋長700mのつり橋が建設され、コンゴ河を横切る形で国道1号線がつながったのだった。


コンゴ河をまたいで国道1号線を繋ぐマタディ橋

ボマ側のマタディ橋麓に日本国援助の印、日本国旗がペイントされていた


マタディ橋は、川幅のいちばん狭いところを選んで建設されたと聞くが、それでも橋長700m、中央支間520m。
しかも当初の計画で橋は重い貨物列車が通る鉄道橋として建設され、マタディ橋には鉄道敷設スペースがあるのだそうだ。また、河の水深が100mに及ぶところもあり、流速も速いのだと言う。
さらに、マタディ港に入出港する大型船舶通過のため、桁下高さ50mを確保する必要もあったそうだ。

橋完成以前は、両岸は渡し舟でのみ結ばれ、渡し場はトラックが列をなして渋滞し、夜間は危険が大きく運航されていなかったと聞く。
超満員の渡し舟からの転落事故もあったりで、コンゴの人々はマタディ橋完成を待ち望んだことだろう。

その割りには、わたしのフランス語のコンゴ人教師も我が家の家政婦も、”マタディ橋”と呼ばずに”le pont Marechal”(元帥橋)と呼んでいると言うのだ。
モブツ大統領の時代に完成した橋であり、この橋を ”元帥橋”と名付けたのはモブツ自身だったと言うのだ。
家政婦はマタディの町で育ったから、日本が建設したのは知っていたが、キンシャサ出身のフランス語教師に至っては、この”元帥橋”は中国の援助で建設されたと思い込んでいた。
確かにマタディの町に入る前に中国建設の普通の橋が建設されているので、混同したのかもしれない。

マタディ橋建設当初に存在し頓挫したままのバナナ-マタディ鉄道建設計画が将来いつか実現し、橋に確保されたままの鉄道敷設スペースが活かされるときが来るのだろうか。


さて、マタディを通過してボマに向かう道路は急に舗装状態が悪くなった。
舗装が剥がれて、凹凸だらけになっている。、完全に剥がれて土道になってしまっている箇所もあった。
さらに。もしコンゴ河に沿って道路が続いていたらものの数十kmでボマに到着するだろうに、マタディから急に道路は北上し、ボマまで大きく迂回して走っていた。
コの字を伏せたような形でボマまで約130kmの道のりが続いていた。

夫は、迂回する形状で道路建設をしたには理由があるはずだ。実際、その大きく迂回して走る道路は大きな起伏も大きなカーブも存在しなかった。なだらかな地形を選んで作られた道路なのかもしれない、と言うのだった。


マタディ~ボマ間で見かけた売店 完全土道になっている

マタディ~ボマ間で通過した小さな町 バナナがたくさん!


ボマBomaは、マタディからさらにコンゴ河の河口に数十km下ったところに位置する河港都市。
キンシャサから南西に約300kmのところにある。

ボマ港は、コンゴ河の北岸に広がり、河口から約80kmちょっとさかのぼった地点にある。
この街は16世紀にポルトガルによって作られ、17,18世紀にかけてヨーロッパ諸国の商人による奴隷売買の中心地だったようだ。
1886年に、ベルギーのレオポルト2世私有のコンゴ自由国の首都となり、1929年までベルギー領コンゴの首都だったという。(その後、首都は、現在のキンシャサであるレオポルドヴィルに移転した。)(Wikipediaより)

わたしは、このボマの街をぜひ訪れたいと願い続けていた。
それは、Wikipediaで、コンゴで初めて建設された教会はボマにあり、現在、そこに立派なノートルダム大聖堂が建っていることを知ったからだった。
コンゴ民主共和国でいちばん古い教会は,ベルギーのシャルルロアCharleroiの金属鍛錬工場で1886年9月2日に作られ、1888年9月26日にアフリカ号と呼ばれる舟に積み込まれ、1889年9月21日にボマに到着したと記されている。その教会は長さ25m、幅12m、高さ15メートルだったとあり、こんなかわいい教会の絵が載っていた。(Wikipediaより)



1889年コンゴ初の教会の古い絵;Wikipediaより

そして、わたしたちが泊まったホテルの近くの小高い丘の上に、この最古の教会と、現在のステンドグラスの美しいノートルダム大聖堂が堂々と港に向かって建っていたのだった。


ボマの小高い丘に立つコンゴ最古の教会
ボマのノートルダム大聖堂

同じ丘の上に建つ、ボマの新旧ノートルダム教会


教会を訪れたのは10日、土曜日の朝8時頃。
小中学生くらいのたくさんの子どもたちがほうきを手に教会の敷地内の清掃活動をしていた。
皆の一生懸命な清掃姿に、この教会が皆に大切にされ愛されていることが分かり、わたしもうれしい気持ちでいっぱいになる。
古い教会は中に入ると本当に小さい。中は仕切りも何もない空っぽのスペースだった。
完全にこの教会の役目は終わったのだ。
それでも、本当にきれいに保存されていた。

大聖堂のほうは本当に威風堂々としていて、中に入ると厳かな雰囲気に包まれ正面に祭壇が見える。左右両側にはステンドグラスがずらりとはめ込まれ、とても美しい。
教会は海の安全を見守るかのように、ボマ港に向いて建っていた。


わたしたちが泊まったボマのホテルはボマ港を囲んだ壁のすぐそばだった。

熱い湯でシャワーも浴びられたし、合格点のホテル
ボマ港前のガソリンスタンド風景 壁の向こうが港区域

ボマの街はマタディほど起伏に富んでいなくて、港を見下ろすこともなかったせいか、ボマ港を一望する機会がなかった。
そのせいか、ボマ港の印象が薄いのだが、ボマ港もまたマタディに次ぐ重要輸出入港だそうだ。
今年、コンゴ(民)政府がドイツに発注したバス200台が陸揚げされた港がボマだった。
車両の陸揚げに関してはボマ港なのかもしれない。

ボマの街も本当に古い歴史的な建物が多く残っていた。
キンシャサともマタディとも違う雰囲気が漂う街だった。


帰路、ボマからマタディに戻る途中で北に道を逸れて、コンゴ(民)最大のダム、インガIngaに立ち寄った。
ダム見学の許可をもらうまで時間がかかったが、ダム案内の前に見学者のためのレクチャー室のようなところに通されてきちんとした講義を受けることができた。
”流れ込み式”という様式のインガダムの規模の大きさには度肝を抜かれた。

流域面積世界第2位のコンゴ河に建設されたインガダム(流れ込み式)

コンゴ国内には他にもいくつかのダムがあるようだが、インガはコンゴ全体の電力供給をしているダムだと言えるかもしれない。周辺国にも電力を売っているのだそうだ。
インガダムについては、またいつか書こうと思う。


マタディの街は、宮崎駿監督の映画、”魔女の宅急便”の街のイメージ。
ボマの街は、”千と千尋の神隠し”のイメージ。
途中にあった、ルクラのセメント工場の街は、”天空の白ラピュタ”に出てくる鉱山跡地のイメージ。
コンゴ民主共和国は広いなあ。
そんなことを思いながら、キンシャサに戻っていったのだった。

2013年8月12日月曜日

キンシャサに市営バスも走る!

緑色のキンシャサ市営バス NEW TRANSKIN


8月8日のことだ。
車で6月30日通りを走っていると、突然我が家の運転手が、キンシャサ市役所が運営するバスも運行を始めたよと言って、みどり色の大型バスの新車を指差した。

政府運営の白い虹模様の入った新車の大型バスはすでに200台が導入され、キンシャサ市内を走っている。
そして、キンシャサ市役所運営のみどり色の大型バスも60台ほどが運行を開始したというのだ。


国営バスはドイツのメルセデス製。
かたや、市営バスは中国製。

それを聞いて、ちょっと心配になってきた。
新車のうちはいいかもしれないが、そのうちにメンテナンスがさぞ大変になってくるだろうな、と。
コンゴの人たちは中国製品の不具合ぶりを充分承知しているはずなのに、それでも市営バスに中国製車を導入したのか、という思いもある。

この前、中国製の乾電池をデジカメに使用したのだが、ものの30分で切れてしまい、3度も買い足して使用する状態に辟易してしまった。(中国製乾電池しか入手できなかった!)

それに、6月30日通りの、見てくれだけはカッコイイ中国製信号機がよく故障しているではないか。

市中心部から空港へ向かう道路を舗装工事している区間で、日本の企業が設計施工しているところと中国の企業が設計施工しているところがあり、図らずも日本と中国の工事進行、技術の違いがあからさまに比較できてしまう結果となった。
日本の舗装工事の理路整然とした進め方と技術力に対する賞賛の声をあちこちで聞く。


コンゴの人々ももちろん中国製の不具合を承知しているのだ。
知っていても低価格の面で選んでしまうのだろう。

確かに国営路線バス、市営路線バスが登場してから、私営のマイクロバスの乗り合いタクシーのドア無しでの運行やすし詰めでの運行といった悲惨な状態の運行ぶりはずいぶん緩和されたように思う。

6月30日通りを走る白い国営バス、みどり色の市営バス、そして私営乗り合いタクシー

信号があって、横断歩道があって、路線バスが走り、従来の乗り合いタクシーのマナーも改善され、屋根付きベンチ付きのバス停もでき、緑地帯も作られ、みどり色のゴミ箱も設置され、行き交う人々は穏やかそうに見える、このキンシャサ6月30日通りの風景。
この風景に平和な長閑な空気を感じてしまうけど、実は、物乞いの人がいて、わたしたち外国人はこの街を歩くことができないのだ。

2013年8月6日火曜日

ちぐはぐなコンゴ民主共和国

今日新着のメイルの中のアマゾン案内メイルの中に、米川正子著 ”世界最悪の紛争 「コンゴ」”(創成社新書)という本を見つけた。著者は国連難民高等弁務官職員として人道支援に携わった経験を持つ方なのだそうだ。
ぜひ読んでみたい本だ。

この本のサブタイトルに、「平和以外に何でもある国」という一文を見つけた。


今日午後からのコンゴ人教師のフランス語レッスンの後のことだ。
わたしの授業で今日は仕事終了なのだと言って、さっそく遅い昼食のため(?)にパンとジュースを取り出した。
美味しいパンなのよー、と言ってわたしにも半分分けてくれたパンが本当に美味しい。
新装開店したキタンボ市場のビクトワールカフェで買ってきたのよ。
ふかふかの食パンに熟れたアボカドを挟んだだけのシンプルなパン。
塩味も何も添加されてない、”素”のアボカドだけのパン。
こんなに美味しいとは!
そのパンをかじりながら、かのじょが口火を切った。

「母が昨日、ゴマに向けて出発したのよ。」

「え! ゴマって紛争地帯で危険地域でしょ!」

「それは、ゴマの郡部のことよ。ゴマの中心部は平和でなんでもあるわよ。」

「高級婦人布地のVLISCOのショップもゴマにあると聞いたけど。」

「そうよ、何でもあるのよ。ゴマの市民はお金持ちが多いからね。」

「でも、同じゴマの一部で戦争が何年も続いているのに、かたや中心部は平和で物資豊富でぜいたく品まで揃っているなんて信じられない。」

「わたし達の国は、石油も他の天然資源もダイヤモンドも豊富で、だから周辺諸国も欧米諸国もわたし達を放っておかないのよ。どんどん介入して。ルワンダはもう仏語圏ではなく英語圏になったしね。戦争はこれからも続くわよ。」


どこかよその国での戦争だとでも思っているような言い方だ。

キンシャサだってうわべは平和な都市に見える。
政府運営の路線バスが走り始めた。
わたしには平和の象徴のように思えるきれいなバスだ。
でも、同じ6月30日通りで停車中の車に擦り寄って物乞いをするストリートチルドレンも存在する。

キンシャサのVLISCO; 高級婦人布地ブティック

そして、驚くことに先月26日から28日まで3日間、”Kinshasa Fashion Week”なるものが開催された。
2,3ヶ月も前のことだろうか、キンシャサ市内の大きな道路脇のあちらこちらに、”Kinshasa Fashion Week”の大型の宣伝看板が掲げられた。
奇抜なスタイルのアフリカ女性のカラフルなおしゃれな看板だから、人目を引いた。
こんな世界最貧国にファッションショーか。
これも平和の象徴ってことで、市民が楽しめる娯楽企画ならいいかも。
そんな思いでキンシャサの町に不釣り合いなファッショナブルな看板を見ていた。

それにしても、”Kinshasa Fashion Week”についての詳細情報は全く漏れ伝わってこなかった。
IWC(国際女性クラブ)やアメリカ、イギリス各大使館からのニュースメイルにも入ってこなかった。
そして当日聞いた驚愕の事実。
ファッションウィークの入場料1日券がなんと1人150米ドル。
2日券だと300米ドル。3日通し券を購入すると300米ドルが割り引かれて150米ドルだというのだ。
なんとばかげたことか。
この国の人々の月額生活費より高い1日入場料なのだ。
狐の化かし合いみたいな浮世離れした企画に愕然とした。

あるサイトからこの”Kinshasa Fashion Week”の映像を見ることができた。
コンゴ人のスタイリストが主催したコンゴ初のファッションショーは庶民レベルでは到底手の届かない異次元の空間できらびやかに開催されたようだ。
そんなばかげた入場料を払って来場するコンゴ人が多く存在したということに、この国のちぐはぐさを強く感じてしまった出来事だった。


そして8月。

キンシャサの墓地;ギターを模った墓碑に花輪が置かれている

8月1日は”両親の日”(la fete des parents)でコンゴ(民)の祝日だった。
午前中は亡くなった両親たち、つまり先祖を思うということでお墓参りをするのだと聞く。
実際、キンシャサ・ゴルフクラブ傍の墓地は多くのコンゴ人家族で賑わっていた。
墓地近くの路上では花売りの人も出て、まるで日本の春分,秋分の日、お盆のような人出だった。
混雑する墓地風景に平和感が漂っていた。
そして午後からは両親を大切にする時間として、家族で過ごす風習なのだそうだ。
(この国ではどこまで核家族化が進んでいるかは分からない。不思議に感じるのは、キンシャサの夫婦は結構な晩婚だということだ。)


キンシャサのゴンベ地区という外国人が多く住む地域に住んでいるわたしたちには、本当のコンゴ人たちの日常生活は見えてこないのかもしれない。
シテ地区という庶民が住む地域にわたしたち外国人が入り込むことはできない。
コンゴの富裕層や外国人が出入りするスーパーストアと、庶民居住地域の小さな雑貨屋とでは品揃えも価格も違うのだという。(付け加えると、石鹸にしてもトイレットペーパーにしても、プラスティック製品にしても、いろいろな国産品を見つける。)

外国人が住むアパートの家賃はべらぼうに高い。
およそキンシャサに住んでいることを忘れてしまうような超高級アパートの家賃を聞いて、我が家のアパートの家賃より”0”が一つ多い(ちょっと言い過ぎ、かな)のに驚嘆したことを思い出す。
”Utex”という布地工場の跡地に建つ、これまた、そのまま東京に持っていっても見劣りしないようなオシャレな低層アパートの家賃の高さにもびっくりした。そのうえ、ユーロでの支払いなのだそうだ。
(外国人が住むノーマルな2LDKから3LDKのアパートの家賃として、三十万円から百万円近くか。)
ヨーロッパで活躍したコンゴ(民)出身の有名なサッカー選手が、引退後に祖国で安定した高収入を得て暮らすために外国人向け高級アパートを建築したとも聞く。

何もかもが驚愕の二重経済構造のこの国。
超富裕層と一般庶民との差には愕然とする。
というか、超富裕層か貧困層に見事に分かれて、中間層が存在しないように感じる。
そして、キンシャサにいると、東部で続く戦争が異次空間での出来事のように思えてならない。

冒頭に紹介した本のサブタイトル、「平和以外に何でもある国」、言い得ているなあと苦笑してしまう。
本当にちぐはぐな不思議な国だ。