2012年4月30日月曜日

2012年度 第1回 日本大使杯ゴルフコンペ

日本は、ゴールデンウィークに入り、のんびりムードが街中に漂っているのだろうな。

さて、ゴールデンウィークには無関係なキンシャサで、昨日、4月29日(日曜日)午後1時から、”2012年度 第1回 日本大使杯ゴルフコンペ”がキンシャサ・ゴルフ・クラブで開催された。

昨夜の雨で、ゴルフ場内の緑がますます深くなっている。
3日前に約1ヵ月の休暇を終えてキンシャサに戻られた大使も元気に参加された。今までのメンバーが二人去り、新しく二人のメンバーが加わった。いつも優勝候補に挙げられる1人の方が帰国中で、参加者は12人だった。この写真に写っていない元ラガーマンの方はカメラ係で写っていないのが残念だ。

毎回、このコンペの幹事は、前回の優勝者とブービー賞者の二人。
前回優勝した夫は、今回の賞品をアフリカの布地(一反6ヤード)で揃えたいというので、12の各賞のために夫婦で布地屋に買いに行った。
優勝者には、Woodin(コートジボアール製)の布地を(BLISCOの布地は予算オーバーで買えず。)、その他の各賞には、Utex(コンゴ製)の布地の最高品と2番目の金額の布地を用意した。
Utexの店は、中村寛子シスターから教えていただいた。何百種類(もしかしたら一千種類くらいあるかも!)もある布地を観やすく陳列する店内は圧巻だ。
受賞者の喜ぶ顔を思い浮かべながら12種類の布地を選び購入。それを自宅リビングのソファに並べて各賞にふさわしい布地を一つずつ決定して行きラッピングしていった。
わたし自身、ブービー賞に狙いを定め、お気に入りの布地のひとつを密かにブービー賞に選んで包んだのだった。

そして当日。天気にも恵まれ、4組に分かれてスタート。
各ホール平均スコア7で回れば、18ホールで126だ。まだキンシャサで130を切ったことがないわたしはとにかく「平均7」を目指した。
結果は134。前半で71もたたいてしまった。
120という最悪スコアで終えた夫は暗い表情で戻ってきていた。

思えば、1992年に中央アフリカ、バンギに赴き、大使夫人をブービーメーカーにするわけにはいかない、と白羽の矢を立てられたわたしは、夫から中古の寄せ集めの男性用クラブを与えられ、そんなひどいクラブセットとはツユほども知らず練習開始。しかもわたしは左利きなのに、与えられたのは、もちろん右利き用。コースに初めて出たのが、クリスマス休暇で行ったケニア、ナイロビのゴルフ場だった。
一時帰国してやっとまともな女性用の右利きゴルフセットを買ってもらい、その後スコア104を出し、バンギ最後の日本人コンペでティファニーのクリスタルの優勝盾(?)をいただいた。
また、日本人のコンペでは馬名もいただき、その名も「ニジノカトレア」♪♪
わあ、きれいな名前をありがとうございます!!と喜んでいたら、「オクサン、アンタ二児の母でっしゃろ」と命名者の大阪人の方から言われガックリきたことも懐かしい思い出だ。
ちなみに。夫は、カラオケ演歌大好き人間だったから、「マイクハナサン」だった。1995年まで続けたゴルフも帰国して中断してしまった。

そんなこんなのわたしのゴルフ歴だが、キンシャサでまたゴルフを再開し、今回で参加3回目のコンペもまた楽しく終えることができた。
ハンデ36をもらっていたわたしは8位。夫は6位に沈んだ。
二人で一生懸命選んで包んだアフリカ布地の賞品はゲットできなかったが、受賞者に喜んでもらえたことが何より嬉しかった。

次回は、何と来週の日曜日に。
賞に関係なく、また深い緑のゴルフ場で、紫外線を気にしながら、130を切ることを目標に楽しみたい。

2012年4月28日土曜日

コンゴの健康茶


 何と汚い、秋の落ち葉???なんだか中から芋虫が出てきそう???
さもありなん!
でもこれは、”ブルグトゥ”という葉っぱを乾燥させたもので、煎じてお茶にして飲む。
煎じた後のブルグトゥの葉っぱは下のようになる。


わたしがよくシトロネール(レモングラス)の葉を煎じてお茶にしていたら、メイドのフロランスが自宅の庭からシトロネールを根っこごと持ってきてくれて、今、我が家のベランダのプランターに植えられている。
シトロネールは、お茶にして飲むと、体の毒素を排泄する働きがあるそうだ。
中央アフリカのバンギにいるとき、ボーイのフランソワおじさんが庭からシトロネールを根こそぎ持ってきてくれてベランダの発砲スチロールの箱に植えられ、かれはよくシトロネールの葉をちぎって”たわし”のように丸めて縛ってお茶にしてくれた。かれは水からシトロネールの葉を入れて煎じる、と言っていたし、ある人は、シトロネールの根っこも一緒に煎じると効果がアップするとも言っていた。
フロランスは、沸騰した湯に葉を入れて決してぐつぐつ煮たらいけない、と言う。どっちが正しいのだろう。ともあれ、シトロネール茶を熱いまま、または冷やしてよく飲んでいた。

そうしたら、フロランスが、我が家に定番のお茶がもう一つある、と言うのだ。彼女の出身地、バコンゴ(コンゴ河下流地域)で飲まれるお茶だそうだ。
翌日、ひとつかみのブルグトゥの乾燥葉を持ってきてくれ、よく洗って、沸騰した湯に入れ、決して煮立たせずにブルグトゥ茶を作ってくれた。(わたしは、葉っぱの殺菌のためにも、弱火でこっそりしばらく煮出しているが。彼女の目にふれないように。)
ミントのようにス~っとするお茶だ。
夫にも好評だ。さっそく、千フラン(95円弱)を彼女に渡したら、スーパーの買物ビニル袋中サイズに8分目くらいのブルグトゥ乾燥葉を買ってきてくれた。

今、シトロネール茶、ブルグトゥ茶、麦茶のどれかが我が家のピッチャーに入ってテーブルに置かれている。

ススキの葉っぱのようなシトロネールは株分けして増えてゆく。この葉を家の周りに植えていると蚊除け効果があると言われる。
バンギの夜に子ども達と読んでいった「大草原の小さな家」シリーズの中にも、ローラたち一家が南部のマラリア発生地に住んでいた頃、「父さん」が家の周りにシトロネールの葉を植える場面が出てきた。

世界中、その土地、その土地で、愛飲されるお茶があるのだろう。
アメリカの小説で、ネアンデルタール人の薬師に育てられ、知識を伝授されて薬師として成長する、クロマニヨン人女性”エイラ”も、色んな葉を取って乾燥させてストックし、毎朝、その人の顔色、体調に合わせて葉を調合しお茶にして飲ませていた。小説とはいえ、作家のジーン・アウルの綿密な調査の上で書かれたと聞く。「大地の子・エイラ」という題だったが、改題されて今でも出版されていると思う。
「身土不二」・・・そこで暮らす人間の体と土壌は同じなのだ、人の体にとって、暮らしている土地でできる植物を摂取することが一番良いことなのだ、という意味だったと解釈しているが、わたしは、住んでいる場所で取れる旬のものを食材に取り入れたいと思っている。

2012年4月27日金曜日

日常生活いろいろ・4月

 4月も終わりに近づいた。
キンシャサの雨季も終盤だ。今朝から重たい雲が空いっぱいに広がっている。ちょっと高めの湿度を感じる。昼12時半の我が家のリビングの温度計は、28℃。
日中の雨はそんなにないが、夜、外がピカピカ光っているのに気づいて耳をそばだてると雨の音に気づいたりする。

4月は水や電気のトラブルにストレスが溜まったが、夫の会社の若者が出張でキンシャサに来て、ゴルフ場のあるキンシャサ・クラブにクスクス料理を食べに行った。ちょうど、”キンシャサ・テニス・オープン”開催ウィークで、遠くに試合の歓声を聞きながらのクラブ敷地内での夜の食事は気温も下がり心地良いものだった。

上の写真は暗いが、実際はテニスコートも照明もしっかり整備されたコートだ。午前中まで雨が降っていたとは思えない。観戦客も多く、コンゴの各地方から集まった選手の熱戦に歓声を挙げて応援していた。わたしにとっての初めての生のテニス観戦は迫力があった。

水道水の一件はどうにか片付いた、と思ったら、今度は、水道蛇口の栓のパッキンが磨耗したのか、くるくる空回りして、水の開閉が不自由な状態だ。
1ヶ月前に水道蛇口全体を替えたばかりだというのに。メイドのフロランスは、だからシノワのものは嫌いだ、と豪語する。
”シノワ”、”chinois”。「中国の、中国人(語)の」という意味で、「(人が)気難しい、口うるさい、(物が)七面倒な、訳が分からない」という意味もあるらしい。大文字だと、「中国人」。
この国は、しっかり中国からの援助の道路、信号機、政府建物などをプレゼントされているのに、コンゴ人の「シノワ、シノワ」と侮蔑した言い方をよく耳にする。壊れると、そら、シノワのものだからだと言う。
街角やスーパーで、わたしは時々「Chinoise ! 」、中国人!、と吐き捨てるような言い方をされる。
日本の婦人で、日の丸バッジをバッグに付けて買物に出る、とも聞く。

市内には、中華料理店が数件あり、中国人は本当に多い。それでも、わたしが入っているIWC
(International Women's Club)に中国人の会員はいないと言ってよい。わたしが知っている限り、夫が米大使館勤務の夫妻で中国系アメリカ人だという女性、夫がイタリア人、伊大使館勤務の香港人の女性はメンバーだが。

割の合わない中国人たちだが、コンゴ人たちは中国人の商売の仕方、ここの国に埋蔵する資源の採掘権を狙っていることなどを承知しているのだな、と思ってしまう。

水道の話に戻るが、近々また水道蛇口全体を替えることになるのだろう。とても水道修理人だとは信じられない、よれよれのボロボロの姿のおじさんがまたやってくるのかな。でも、一生懸命取り付けて、きれいなフランス語の領収書を残して帰って行ったおじさんではあったけど。

さて、たくさんの雨のお蔭で、こんなに緑が豊かなキンシャサだ。
これは、毎週楽しませてもらうゴルフ場の緑。

下の写真は、我が家のダイニングのベランダからの風景だ。
水道水のトラブルも一段落した。トラブルの間、夫が、「最近、"To~Fu~♪" の音が聞こえないなあ。」と言っていたのが、昨日からまた、"To~Fu~♪"が始まったのだ!

"To~Fu~♪” とは、ベランダの水道管から聴こえる音だ。その音が、わたしたちが小さい頃によく聴いていた豆腐屋のおじさんの吹くラッパの音色にそっくりなのだ。
初めて聴いたとき、幼い頃の記憶が蘇って、気分はすっかり当時に戻ってしまった。
キンシャサの夕空に響く、"To~Fu~♪"の音色は、心底、郷愁をそそる。

今日は、午後からフランス語のレッスンだ。コンゴ人の女性の先生が我が家に来てくれる。1時間15米ドルの約束で、週3時間のレッスンを受けるから、週末に45米ドルを払うのだが、まだ習い始めて2ヶ月にもならないのに、交通費がかかるから値上げして欲しい、と言ってきた。
この先生は教養のある人だから、一般のコンゴ人とは違うと信じていたのに、やっぱりあなたもコンゴの人だったのね、とショックだった。彼女は、米大使館員家族に仏語レッスンをしていて、一括して米大使館から給料としてもらっているようだ。1時間のプライベートレッスンに対して15米ドルという金額は高いほうだと聞く。
夫と話してみますと言ってわたしは逃げたが、今日はその返事をしなければならない。授業料を上げることはできない、としっかり伝えなくては。たったそれだけなのに、何だか気が重い。

メイドのフロランスは元気がない。運転手をする夫が給料日に1ヶ月分の給料と運転免許証を盗まれ、生活費を取られた上に運転免許証が再交付されるまで仕事ができなくなったそうだ。
一昨日の給料日に、フロランスにお金を渡した時、わたしは、盗まれないように気をつけなさいと言ったのだった。
「マダムはわたしに、取られないように注意しなさい、と言ったでしょう。わたしはしっかり仕舞ったのに、夫はズボンのポケットに入れて盗まれたのよ!」と嘆いていた。

いろいろなことが起こる、キンシャサ生活。いつか、笑い話に変わるのだろうか。

2012年4月18日水曜日

コンゴの賢者像

おはようございます。
今朝、起きたときにはもうすでに雨が降っていて、しっとりひんやり。まるで夏の高原にいるよう。
朝の停電も終わり、それに続く断水も済み、洗濯機もなんとか動いている。快調な滑り出しだ。

さて、この写真のコンゴのアンティーク置き物は、先月、ボボド文化センターの骨董品店”ANTIKA”で見つけて購入したものだ。
コンゴの南東だったか中央だったか忘れたが、”LEHGA”という地方からのものだそうだ。顔がいくつもある像だが、賢者の像だということだ。
賢い者には、いくつもの才能がある、という意味らしい。
身長は30cmほど。
わたしは、ボケ防止の神様として我が家にお迎えしよう、と思って購入した。 それに「賢く生きる」、ってとても大切なことのように思う。
水玉もようがまた心を浮き立たせてくれるようだ。
この像、裏からみると、まさに我らが「ドラえもん」なのだ!な~んだ、ドラえもん、こんなとこにいたのお~、といとおしくも感じる像だ。

そんな賢者であり和みの像が我が家のサロンに鎮座して、訪れる人々を優しく見つめている。

昨夜、マイナーなブログを書いて寝たものだから、すごく汚い(!)夢を見てしまい、朝起きたら体がガチガチに固まって疲れまで感じた。マイナー思考はいけないなあ、と反省しながらサロンに行ったら、この賢者像が目に入った。そうだった、そうだった、賢く聡明に生きなきゃ!

ということで、心機一転。断水にも停電にも軽~い気持ちで、向き合っていきます。
それにしても、我が家の重役お手伝いさん、フロランスがまだお出ましにならない。

4月の近況・・・ちょっと疲れたな・・・

早いもので4月も半ば過ぎ。東京は葉桜の緑が日増しに鮮やかに生い茂り、鯉のぼりが気持ちよさそうに大空を泳ぐ季節に変わるころだろうか。なつかしいなあ。

さて、我が家は、そろそろ乾季を迎えるにあたり、ベッドに蚊帳を取り付けた。
夫が、たまたま路上で蚊帳を売っている現地人に遭遇。四角い蚊帳があるか?と車を止めて蚊帳を売る路上商人に訊き、運良くこのスクエア蚊帳を入手できた、ということだった。
そして夫は、どこか怪しげな現地の市場の裏路地やらで木材を探し出して買ってきて、下手の横好きの大工仕事を始めた。
どれも不揃いの木材をのこぎりで切って、釘でベッドの四方に立て、四方にゴムベルト(これがまた怪しい!)で添え木を固定させ完成させたのだが・・・大丈夫かなあ・・・夜、寝るたびに不安になってくる。新婚時代、夫が天井に取り付けた照明器具がその日のうちに、わたしの肩にドサッと落下してきた経験が頭をよぎる。

4月に入り、断水が頻繁にあり、出たり出なかったり・・・一日たりとて普通に水道をひねると常に水が出る状態はなかった。我が家の3つの大きなポリバケツのストック水が底をついたとき、1階の庭で洗車をしている音が聞こえた!なんだ、1階には水が来ているんだ!さっそく、お手伝いのフロランスにバケツを持たせ1階に水を汲みに行ってもらった。
まあ、何ときれいな水だこと!
日本の援助でキンシャサの浄水場2箇所の補修工事がほぼ完了。その工事担当の方から、キンシャサの水質は確実に良くなっている、と聞いていたが、なるほど、1階から運ばれた水は本当に澄んだきれいな水だった。
ところが、我が家の水道水は茶色に濁っている。浄水場補修工事の方は更に、いくら浄水場の水がきれいになっても配水管に泥が付着したままだったら元の木阿弥ですがね、と言われていた。1階の水がきれいなのは、3階の我が家までの水道管が汚れている、ということだ!

それより何より、まずは水道水が出ないことが大問題!情報魔のフロランスを偵察に出すと、なんと我が家だけ断水していることが判明!聞けば、同じ階の浄水場補修工事のお宅は、配水管を全部換えてから断水がなくなったとのこと。
この断水状態にわたしのガマンの限界が来て、夫にせっついて、我が家の配水管も総取替えしてもらうように交渉してよー、と頼んで頼んで頼みまくってやっと昨日、夫の重い腰が上がり、ここのアパートの修理担当者と話してもらったら、「確かに配水管で破れたところがあったからその部分を換えた。水道管を総取替えすることはできない。不具合は修理した。しかし、まだ断水するとはおかしい。」、ということで調べたら我が家だけ水道モーターのアンペア容量が小さくて頻繁にヒューズが落ちていたということだった。それで、本当かどうか知らないが、モーターのアンペアを換えてもらったのが昨日の昼。そうしたら、また別の水道管が破裂したから再工事だと言って断水。昨夜のお客様の料理の準備に手間取ってしまった。それでもどうにか、夜には水は出るようになっていた。
その前日のお客様のときは食器の後片付けの時に断水していた。酔っぱらった夫は早々にソファでひっくり返り、わたしは汲み置きの水を柄杓で汲みながら、食器を洗ったのだった。

そして今日。昼間出かけていたわたしは気づかなかったが、やっぱり午後から断水していたらしい。相当濁った水がぼこぼこと蛇口から出てきた。水道管の部分修理は完了したし、アンペア容量も大きくした、というのにだ。また、明日から断水と対峙しなければならない。断水ばかりするから、洗濯機の調子までおかしくなっている。

電気が来ない、水が来ない、というのは相当なストレスだ。ましてや、来客予定のある時などはもうパニックになる。調理器具もすべて電気だからだ。
先月末の来客のあった日、昼前からずっと停電したままで、ついに別の地域にある夫の宿舎まで電気釜やら鍋やら食材を運んで宿舎で調理して我が家へとんぼ返りして準備した。
とうとうその日は、お客様に懐中電灯持参で来てもらい、ろうそくの明かりの元で食事会となったこともあった。(わたしは夫に石油ランプを買ってほしいと言い続けている。)
アパートを決める第一条件はジェネレーターが完備されている、ということらしいが、ジェネレーターのないこのアパートに決めた時、夫は「カビラ元大統領の妾さんが所有し居住するアパートだし、大統領府の区域で停電がないからジェネレーターは不要なのだ。」とか根拠のないことを平気で言い、超楽観主義なのにも腹が立つ。

そんなこんなのストレス溜りまくりの4月。今日17日は、わたしたち夫婦の結婚30年記念日だった。
毎年、すっぽかされ、10年記念の時は夫は先に中央アフリカに行っていて不在、20年記念の時は子どもたちの学費捻出と夫の頻繁な出張でもみ消された。30年記念こそ、と思って、この2日間、わたしはこの日のことを言い続けてきたにもかかわらず、夫は今度ももみ消した!!結婚20年と30年の間で、わたしたちは共に大きな手術をし闘病した。だからこそ、無事に30年を迎えたことを祝いたかった。
この国は運転手に残業してもらわないと夜の外出ができないのに、夫は早々に運転手を帰してしまい、ささやかな演出もなく、自分だけさっさと晩酌を始め、普通にご飯を食べ、ソファで転寝をし、数分でシャワーを浴び、夜8時には蚊帳ベッドですやすや寝息を立てている。

なんだかなあ・・。行動形態も思考回路もミラクルマイペースの夫がうらめしい。
わたしは、今日の娘のブログの写真を見て大泣きしてしまった。娘はいつ撮ったのか、赤羽の我が家の台所にふたりで立つ写真だ。子どもがいて、こんな光景が日常だった時代もあったのだ。
どーん!!と特大ダイヤモンドリングを注文して請求書を叩きつけてやるぞ!!

2012年4月11日水曜日

Lola ya bonobo ~ le paradis des bonobos

    Claudine Andre 監修  ”Le Paradis des BONOBOS ”(Seuil jeunesse 刊)より

これは、クロディーヌさんというフランス人女性と、彼女が主催するボノボのサンクチュアリ、”Lola ya bonobo"(ボノボの楽園)に保護されているボノボたちの写真だ。
"Lola ya bonobo"は、リンガラ語。フランス語では、”Le Paradis des BONOBOS”。「ボノボの楽園」という意味だ。
クロディーヌさんは、AAC(les Amis de Animaux au Congo)というNGO組織を設立。最初はキンシャサのアメリカンスクールの敷地内で、後に、キンシャサから南東60kmの森林を購入して、ボノボのためのサンクチュアリを整えて保護活動をしている。移動した時にAAC(コンゴの動物の友だち)から、ABC(コンゴのボノボの友だち)に改名したそうだ。

車で1時間ほどのキンシャサ郊外にある”Lola ya bonobo”(ボノボの楽園)に、先月最後の土曜日、日本からの青年と夫とわたしの3人は訪れた。

いろいろと調べていたら、クロディーヌさん主宰のボノボサンクチュアリに日本からも援助がいっていることを知った。京都大学霊長類研究所の古市剛史教授の「ビーリア(ボノボ)保護支援会」が募金を募って一部をボノボサンクチュアリに送金しているのだ。
古市教授のグループは、1974年にボノボが発見されて以来、赤道州ワンバ村にボノボの調査に入っていたが、1991年以来コンゴの内戦状態が続き、1996年から調査を中断。ボノボの絶滅を危惧し、どうにか保護支援できないものかという熱い思いが、クロディーヌさんたちのサンクチュアリ支援に結び付いたのだ。
赤道州は、わたしたちが1992年から3年間滞在した中央アフリカ共和国とウバンギ川を挟んで隣接するところで、治安のもっとも悪いところの一つだ。そこのワンバ村では、”ボノボ”ではなくて、”ビーリア”と呼んでいるそうだ。
「人とビーリアはもともとは森に住む同じ家族の兄と弟だった。」という言い伝えがあり、古市教授グループはその考えを尊重し、人間とボノボが共存する形態をとる、”ルオー学術保護区”を作ったのだそうだ。治安の悪化で村民の生活は脅かされ、そうなると共存も困難になり(アフリカでは猿も食肉だ。)、1970年代には10万人いたと推定されるボノボは、現在では1万人を割っているかもしれないと考えられているそうだ。(ヒトにもっとも近い類人猿ボノボを1人,2人と数えるのもおもしろい!)

さて、クロディーヌさんたちは、ボノボ保護のためにサンクチュアリを運営しているだけではない。
サンクチュアリに見学者を集めて啓蒙教育をする、ラジオ放送でボノボを失うことが将来的にコンゴにとって大きな損失になることを訴える、密猟されたボノボをコンゴ政府許可の下に強制的に没収して、ボノボを捕獲して首都へ持ってきてもお金にならないことをPRする、ボノボの運搬ルート、コンゴ河に検問所を設置する、などの活動も平行して行っているそうだ。
だからこそ、古市教授はボノボの救援活動を続けるクロディーヌさんの活動を支援することで、現地に入り込めずにいるジレンマとどうにか折り合っているように感じた。
ビーリア(ボノボ)保護支援会のHPは、http://homepage3.nifty.com/bonobo/

”Lola ya bonobo "の入園料は1人5ドル。コンゴの人たちには高額な入場料だ。しかし、これがボノボサンクチュアリの維持運営に充てられるなら、外国人向け入場料はもう少し高く設定してもいいようにも思う。
ボノボは、涼気を求めてしばしば河川や沼地の近くに住み、木々の中でとても身軽で枝から枝へよじ登ったり飛んだりする、果物、葉、茎が好みで、花、木の実、草、幼虫、羽蟻も食べるが狩りはしない・・・といったことを「le Paradis des BONOBOS」の本で知っていたが、ここはまさにそんな環境だった。
水辺のとこで、母親にしがみつく赤ちゃんボノボ。そばに座っているのは父親かな。2人はとても仲睦まじく子育てをしているふうだった。母ボノボはもっとバナナちょうだい!と飼育員にせがんでいるところだ。

サンクチュアリの森の中を進んでいくと、ちょうど午前中の餌を与える時間と重なったらしく、果物を求めてボノボの群れが集まって来ていた。ボノボの顔は黒くて、唇はピンクだ。赤ちゃんのボノボの後ろ姿なんてヒトの赤ちゃんと変わらない!


こちらは、なんと怠惰なボノボさん!と思っていたら、お腹まん丸の妊婦さんだった。ゴロンと浮かない表情の妊婦だけど、なぜだか足の長い親指と人差し指で何かの棒きれを捕まえている。彼女にとっての和みのつっかえ棒なのかな。

この長い親指の存在が身軽に木々の間を移動することを可能にしているそうだ。

ボノボの親子。真ん中で無心にサトウキビかなんかを食べる赤ちゃんボノボの可愛らしさったらなかった!(豆粒みたいな赤ちゃんボノボだから、よく観てください。)






あらあら、こちらの母親ボノボは寝そべって子育てのようだ。それでも母親と一緒にいる子どもは幸せだろうな。母親のお尻のコブが哀れだった。






スーッとカメラを引くと、左隣にさっきの妊婦さんが。ちょこっとカメラ目線を送ったものの、相変わらず足に棒切れをしっかり挟んでいる。
キンシャサ動物園の日の当たらない檻の中で暮らす、”オヤジボノボ”のゴロン!と寝転がるやるせない姿を思い出してしまった。あのおじさんもせめて、このサンクチュアリに来られたらいいのに、と思う。


ボノボは1928年に初めて存在が確認され、1980年代までは「ピグミーチンパンジー」という表記が一般的だったそうだ。ボノボはチンパンジーの単なる変形だと考えられたらしい。しかしチンパンジーとボノボは別種であり、その呼び名ではチンパンジーと紛らわしいということで、1990年代から、「ボノボ」、「ビーリア」という表記が定着してきたそうだ。

「ボノボ」とは、アフリカの古い言葉で”祖先、長老”を意味するともクロディーヌさんの本にあった。


チンパンジーはアフリカの約20カ国に、ゴリラは約10カ国に生息するが、ボノボはコンゴ民主共和国にしか棲まず、他の類人猿より生息域が極端に狭い。

サンクチュアリの職員によると、生息域は、Bandundu(上の地図の表記は間違いで”B ”で始まる。),Kasai Occidental,Kasai Oriental,Equateur(赤道州)の4州のみだとのこと。

ボノボは、チンパンジーより細くてすっきりした体型で、地面では4本足でこぶしの上で支えながら動き回るが、ボノボはまた後ろ足でとても上手に立って歩くので、立ち姿や寝そべった姿が本当にヒトに近いことを感じさせる。

チンパンジーは図太く攻撃的であるのに対し、ボノボは繊細で平和的だとも言われる。

「ボノボの社会は争いがないのではない。争いが激化しないのだ。」という一文を、長崎大学環境科学部大学院水産・環境科学総合研究科の戸田清教授のHPで見つけた。戸田教授のHPも興味深い。わたしの母校にもこんな研究者がいるのだとうれしくなった。


また、”Bonobo Conservation Initiative"のHP, http://www.bonobo.org/ も興味深いサイトだ。

残念ながら、京都大学のボノボHPにアクセスしたが、繋がらなかった。


母親が密猟者に連れ去られたり、食肉用として売られたり、ペットとして売られていた小さなボノボが”Lola ya bonobo”に引き取られて養育される施設がサンクチュアリ内にあった。すべて小さなボノボたちばかりだ。

数人のボノボたちは取り付けられた遊具で仲良く、あるいはけんかしたりして遊んでいたが、母親役のふたりのコンゴ人女性が椅子に腰掛け、彼女たちのお腹にくっついて離れずにいるボノボが2,3人いた。1人は母親を目前で殺されて間もないボノボの子だと聞いた。養育員のお腹の上でじっとうつぶせにへばりくっついている。その昔、我が息子もよくこんな風にわたしのお腹の上で安心したように寝ていたなあ、と懐かしく思い出したりする。

と突然、もう1人の養育員の女性に叱られて、ギャアギャアとわめいている子の声が響き渡った。

ようやく環境に慣れてきて養育員の膝から抜け出して水浴びをして、濡れたまま養育員の膝に載って抱きついてきたらしい。養育員女性が叱ったら、キイキイギャアギャアと騒ぎ出したということだった。

なんだか、母親に叱られて、泣きながらごめんなさーい、ごめんなさーい、と全身で謝っているようで、心底、人間の子と同じ感情をしているのだなあと抱きしめてやりたくなった。

こんなに養育員にしがみついて離れないボノボの子も、その状態をしっかり受け止めてやっていると、しばらくすると仲間とコミュニケーションを取り始めるのだそうだ。本当に繊細なボノボたちだ。

そして、ボノボ社会が母親社会だということもうなずける。

「ボノボの共同体の中に、本当に”長”はいない。しかし、大人女性の結びつきはとても固く尊敬され、大多数の決議を取り、食物を割り当て、男の攻撃を回避する。」という箇所をみつけたとき、母親社会の集団で育つボノボたちの平和的な様子を思い出し、合点がいく思いだった。



このサンクチュアリに保護されて養育されているボノボたちが、いつかは赤道州やその周辺の生まれ故郷の森に帰れますように。


ボノボは小さく生まれて、ゆっくりと成長する。大人の身長は90cmから110cmほど(もっと背が高いボノボもいるように感じたが・・)で、自然の状態で50歳まで生きられるそうだ。人間と同じような病気に罹り、人間と同じ薬で病気が治るのだとサンクチュアリの職員が話していた。

また、ボノボたちは現地語のほかに仏語、英語、中国語(??)も理解するのだとも言っていた。

この本にはたくさんのボノボたちの写真が掲載されている。そして、ボノボの生物学的位置づけや生態について解説され、”Lola ya bonobo"の活動と役割について分かり易いイラストで説明されている。そして、最後は彼女たちの希望で締めくくられている。






今回のサンクチュアリ訪問ではクロディーヌさんには出会えなかった。きっとボノボのために講演会で世界中を飛び回っているのだろう。

広大な敷地を管理し、ボノボのサンクチュアリを運営してゆくのは多くの困難を伴うだろうと簡単に想像がつく。

コンゴ民主共和国は森林と天然資源の豊かな大きな国だ。周囲は9カ国の国々に囲まれている。地方に続く国内道路は整備されていなくて、河川交通に頼るしかない地方もあるそうだし、民間飛行機会社の国内線は整備されているとは言えない状況にあるようだ。国連職員は国連機で地方出張しているし、キンシャサから行くよりも隣国経由で再入国するほうが簡単に行けるという地方もあるらしい。東部では天然資源の採掘権問題で内戦が絶えないとも聞く。

今、キンシャサ市内は一見平穏だ。市内には、大型スーパー、アパート(外国人向けの)、ホテル、レストランがあちこちで完成している。しかし、その平和が本物かどうかは疑わしい。この国全体に本当の平和が訪れることこそがいちばん望まれることだ。

京都大学のボノボ調査隊員たちは、ワンバ村のボノボたちと再会できたのだろうか。在コンゴ邦人の緊急連絡網に「京大ボノボ調査隊」の名前が載っている。早期に調査が再開されますように。

いろんな援助や保護の手がこの国全域に伸びていってほしい。

それまで、ボノボたち、がんばれ!!

フロランスのバナナ

昨夜は雷雨で停電となり、断水が続いていたが、今朝9時過ぎて水が出てほっとした今日の始まり。
今朝もずっと小さな雨が降り続き、重たい雲が広がって太陽が完全に遮断され、気温も28℃と、ひんやりしている。空気は重たいが夏の軽井沢にいるようにひんやり感じる。

洗濯機も回し始めるのが遅かったし、この天気では洗濯物も乾かないな。
フロランスは仕事がない、とまたベランダの椅子でぼー、っと2時まで過ごすのだろうが、今日のこんな天気にこそ窓拭きをしてもらおう。

そんな一日の始まりだったが、家政婦のフロランスは、今朝も「良いバナナが手に入った。」とビニル袋を提げて出勤して来た。
どうだ、この立派なバナナ!、とばかりに袋から取り出す。房の付け根が黒くなったバナナは夫が嫌がるのを彼女はしっかり心得ている。
ついわたしも、う~ん、いっぱいだねえ!
言ってしまってからシマッタ!と思った。
いくら?、とわたしが訊くと、彼女は2,4,6・・と大げさに数えて3千フランだね!!
わたしが、いっぱいだあ、と言ったばかりに。2500フランでどう?、と値段交渉しても後の祭り。
これで彼女の5人の子どもたちの学費の助けになるのならいいか。
3千フランを払った。300円弱だ。

こっちの黄色いバナナはバスに揺られて傷ついてるけど・・・バナナケーキに使うといいね。彼女は、わたしが古くなったバナナを皮をむいて冷凍して、バナナケーキ用にストックしているのを知っている。
3本のバナナと、ンガリエマ修道院の中村寛子シスターのところで分けていただいている地飼いの鶏卵3個とバターを使って1本のパウンドバナナケーキが出来上がる。

アフリカのバナナは味が濃厚なのか、焼き上がったケーキの、封じ込められたバナナの香りがとても好評だ。冷凍庫に保存して、我が家の定番のデザートになった。

週に2回、正午前後に1,2時間だけ、夫が車を回してくれるから、そのときに数日分の食糧や日用品の買物に出かける。
今までは、キンシャサ生活の始まりには私用車も調達できないでしょう、と買物やIWC(インターナショナル・ウイメンズ・クラブ)に出かけるのも知り合いの車に便乗させてもらっていたが、ここでの生活も4ヶ月目となり、そうそう頼ってばかりもいられなくなった。
大使館員のところのようにオフィスワークのご主人なら、事務所への往復だけ車を使って、あとは奥さんと子ども用に車を使えるだろうが、我が夫は事務所と現場と政府省庁間の移動に勤務時間中ずっと車は手離せない。一日に2,3時間使うか使わないかのためだけに、わたしだけの専用車として運転手を雇い車を購入することは予算オーバーだ。

今日も一日、我が家で過ごす雨の一日になるのだろう。

2012年4月9日月曜日

Acadex小学校 in Kimbondo

                   Acadex小学校教室にて生徒と先生たちと

3月30日に日本の若者3人とKimbondoの「Acadex 小学校」を訪れ、授業に参加した。
Kimbondoは、キンシャサの郊外。中心地から東に車で2時間ほど行ったところにある。途中で2,3の町を通り抜け、徐々に坂道を上がってゆくと、展望が開けてキンシャサ市内を見渡せ気持ちの良い道が続くが、幹線道路から右折した途端に悪路となり、途中で道路が10mも陥没していて迂回路を模索しながら、村の人々に尋ねながらの道中であった。村の人々は皆、”Acadex小学校”を知っていて、最後は小さな子どもが1人代表して、助手席の日本人学生の膝に載って道案内をしてくれた。


そして、とうとうたどり着いたのが、ここ、Acadex小学校の敷地に完成した2棟の校舎と1棟の建設中の校舎であった。
ここで、休暇を利用して帰省中の、Kimbondo出身のサイモン先生(慶応大学講師)が私たちを出迎えてくれた。そして、わたしたちが校庭に入ってくるのを待って、Acadex小学校のかわいい生徒達がぞろぞろと校舎から出てきて2列に並んで、歓迎セレモニーを開いてくれた。



皆、制服を着ている。授業中に身につけるエプロンもかわいらしい。このエプロンは、サイモン先生の日本人の奥さんが幼稚園の先生をされていて、その助言でデザインを決めたのだそうだ。ボタンがなくて、肩から紐が落ちないように工夫されたシンプルなエプロンだ。


生徒たちの間に立つ先生方も見える。

いくつかの歌がお遊戯付きで披露され、一生懸命なおもてなしがかわいらしくて、涙が出た。
そして、生徒たちと共に教室内に入り、授業に参加させてもらった。

今日は、日本からのお客様のために特別なプログラムが組まれているようで、全員が白い校舎に入った。一つの校舎に一つの教室だ。




左の緑のシャツの女性教師は、息子ばかり7人の母親だそうで、家でも学校でも叫びまくっていると話す愉快な先生だ。


白、赤、黄色、青、紫。5色の椅子は、学年別なのだろうか。2008年夏から校舎の建設が始まり、今夏で5年目。ということは、毎秋、新入生を向かえていって現在、4学年の生徒がいるのかな、と考えたりしてみる。


わたしたちは一人一人自己紹介をした。学生達はリンガラ語で、1週間の予定で滞在中の洋一くんとわたしは簡単なフランス語で話す。

学生の1人が、今日はサッカーボールを持ってきているから皆でサッカーをしましょう、と言うと歓声が上がる。どの子達も目が生き生きと輝いている。


その後サイモン先生が、わたしたちの自己紹介の内容を生徒たちに質問してゆく。

どの生徒も真剣に聞いているからすぐ答えられる。

「ヨウイチ」ってさあ、どんなつづりかな?書ける子いるかな?

日本人の名前は生徒たちの耳には奇異な発音に聴こえるのだろう。それでも数名の手が挙がる。

どの子にもやはり難しいらしい。ようやく3人目の子が、チョークで「Youyiti」と筆記体で書いた。

こちらでは、「イ」の音を”yi ”と表すようだ。



わたしの名前はフランス語では発音されない”h ”と、巻き舌で発音される”r ”が入るから、チョークで「Hiroko」と板書した。サイモン先生が、あなたの名前はどういう意味があるのですか?、と訊かれたので、「大きな心を持つ子」という意味です、と説明すると、黒板いっぱいに大きなハートマークを描いてくださった。

生徒の1人が「ようこそわたしたちの学校へお越し下さいました。」と前に出て挨拶をする。

そして、なんと日本語で、♪大きなくりの木の下で♪をかわいい振り付けと共に大きな声で披露してくれた。毎夏訪れる、日本からの教育学科の学生たちの指導なのかな。


授業は12時半までだそうだ。

終礼を校庭で行い、放課となる。


と同時に、慶応の学生の審判の下で、男子全員と少数の女子が2組に分かれてサッカーの試合が始まる。

ゴールは、竹3本を組んで作られたもの。

真剣でリズムのある試合展開は、アフリカの人々の身体能力を垣間見る思いだ。

女の子たちのゴム縄跳びにしても、リズム感や跳躍力に目を見張った。


裸足になってやっぱり真剣に遊んでいる。

どの子も髪をきれいに編みこんでいる。あなたの髪はお母さんが編みこんでくれるの?と訊くと、どの子もそうだよとにこにこと答える。


ひとしきり校庭や校舎で遊んで、お腹が空くころに生徒たちは三々五々下校していった。


Acadex小学校の生徒は現在108人にまで増えたのだそうだ。公立小学校よりも少し安い授業料設定にしているらしく、生徒数が増えると、サイモン先生のポケットマネーから出る負担金が軽減されてゆくのかな、とも思う。

サイモン先生が確保した敷地は広い。ここに、6棟の校舎を建設するのだという。

建設中の3棟目の校舎は仕切りがあって、一角に図書館を作りたいと考えているのだそうだ。

太陽光利用で照明を完備し、生徒たちだけでなく、夜も村の人々のために開館したいのだとサイモン先生は希望を語っていた。



Kimbondoはまだ、水道も電気も通っていない。黄色いポリバケツを頭に載せて共同水汲み場から水を運ぶ女性や子どもたちを見かけた。電気も今のところ太陽光発電に頼るしかない。


サッカーボールを学校に置いておくと、盗まれて明日の朝には対岸のブラザビルの市場に並んでいることでしょう、とサイモン先生は明るく冗談を言われた。


Acadex小学校には数名の先生がいるが、音楽の先生がいないのだという。ここの先生が教えるアフリカ音楽ではない音楽教育を生徒たちに授けたいとサイモン先生は熱心に語っていた。

ここには、楽器といえばピアニカが数台あるだけなのです、音楽教育はこれからのことです、とも話された。

今夏も日本から、建築系の学生と、教育系の学生がこのAcadex小学校にやってくるのだろう。


小学校校庭からすぐ近くに、大工のお父さんが建てた、サイモン先生のご自宅があり、そこに学生たちは滞在するのだそうだ。


そしてまたそのすぐ近くに、フランスのボルドーで心臓外科医をされるお兄さんの家族のための家も建設中だった。こちらも大工のお父さんが手がけているそうだ。


近所の人たちは、サイモン先生のお宅を"La maison japonaise"、そしてお兄さんのお宅を"La maison francaise"と呼んでいると聞いた。お兄さんのお宅の完成済みの一部にご両親がすでに住まわれていて案内していただいき、運良くご両親にお会いすることができた。


肌の色が違うだけで、日本の仕事一途な大工の棟梁と、夫を盛り立てるしっかり者のおかみさん、といった風情のご両親だった。


サイモン先生の私財で敷地を購入し、慶応大学環境情報学部の建築の先生(芸大建築家出身だそうだ)の指導で建築学科の学生が毎年訪れて校舎を建設し(サイモン先生の大工のお父さんも参加している。)、教育学科の学生が授業をサポートし、サイモン先生が経営する小学校、「Acadex 小学校」。


サイモン先生はどういう意図で、ご自身の郷里に小学校を創設されようとしたのか。


サイモン先生ご自身、8人兄弟の6番目で、貧しい家庭でありながら、父親は大工をして、母親はパンを仕入れて売りながら、子どもたちを全員学校に通わせたのだという。サイモン先生は、心からそんなご両親を大切に思い、とても尊敬していらっしゃる。そんなところに、Acadex小学校創設の真意が見え隠れしているように思われる。

2012年4月5日木曜日

初のキンシャサ来訪者!

3月27日夜便で、キンシャサの我が家に日本から1人の青年が到着した。
東京芸大建築科を今春卒業し、そのまま大学院に進み建築の道を進む青年。息子の中学時代からの友人だ。
アフリカ、といえば大自然と動物を連想されるだろうが、キンシャサにいる限りそんなアフリカは存在しない。
ここは街中を歩いて散策するということも危険が伴うし、車がなければ身動きが取れない。車で2時間ほど郊外に行かないと「自然の風景」がない、混沌としたアフリカの大都会、キンシャサ。

かれには、ここで暮らすアフリカの人々の生活に触れ、アフリカの、ゴミ箱をひっくり返したようなエネルギッシュな大都会の雰囲気を感じて欲しい、日本にいて身についた既成概念を取っ払い、自由な柔軟な視点を持って欲しい、そしてそんな体験を将来に繋げて欲しい。そんな思いで、キンシャサに来ることをかれに勧めたのだと思う。

極力、母親みたいなわたしが彼にくっ付いて回らないようわが身を戒めたつもりだったが、あちこちでわたしも出没して一緒に楽しませてもらった。
かれにとってラッキーだったのは、キンシャサで日本語を教えたり、キンシャサの起業家の元でインターンとして働く日本の学生に出会えたこと、そして彼らを通して色んな人たちに出会え、情報を得られたことだろう。
夫も、わたしと同じ思いからかれをフォローしていた。
かれにくっ付いてわたしが見聞したことはこれから追々書いてゆこうと思う。

上の写真は、キンシャサから2時間ほど行ったところにある、ボノボのサンクチュアリ、”Lola ya bonobo”(リンガラ語で、”ボノボの楽園”)を訪ねた帰り道にある、「Lac de Mavalee」湖畔のレストランで昼食を取った時のものだ。左から、日本からの青年・洋一くん、運転手・Land、そして夫。

また、慶応大学のプロジェクト”ACADEX”の一つ、Kinbondo小学校も訪問した。ちょうど春休みを利用して帰省中の慶応大学英語講師のサイモン先生にもご両親にもお会いでき、その学校の生徒達からかわいい歓迎セレモニーを受けた。

滞在中には、夜の大雨と雷の中を慶応大学の学生たちがずぶ濡れで我が家にたどり着いて一緒にご飯を食べながら語り合ったり、2回の停電に見舞われ、ろうそくの灯りの中でお客さんを招いての食事会があったり、悪路のドライブがあったり、レンタカー運転手とのネゴで鍛えられたり。キンシャサ美術大学を訪れて学生とも交流もあったようだ。
アフリカ生活ならではのハプニングも後々良い思い出に変わってゆくのだろう。

かれは一昨日の21:05発の便で出国したのだが、当日キンシャサから飛行場までの道路が大渋滞だという情報が入り、夫のプロジェクト事務所を15時に出発した。
すると渋滞も難なく切り抜け、16時過ぎに飛行場に到着してしまった。その日の午前中に市内のホテルにあるエアフランス・カウンターでチェックインも済ませていたし、ンジリ飛行場2階のレストランに入り、時間つぶしに「氷無しで!」と付け加えて飲み物を頼んだ。
何の障害物もない、窓の向こうに広がる雄大なコンゴ川風景を見ていたら、だんだん西の空が赤く染まってきた。
きっとコンゴ川の向こうに真っ赤な夕日が沈むんだね、夕日が地平線に沈むのを見届けたら、わたしは帰るね、と言って、夕日を見つめ続けた。
コンゴ川の上の空気は蒸発する川の水でもやっていた。案の定、地平線手前で夕日は蒸気で隠されたが、コンゴに来て初めて見る、真っ赤な大きな夕日だった。
夕方18:00ちょっと過ぎ。
さあ、帰るとするか。洋一くんも道中気を付けて。良い旅を。

階下の出発入り口で握手した。またおいで!
かれは、初めてのアフリカでどんな印象を持ったのだろう。
アフリカでの記憶は日本に戻って日々の多忙な流れの中に遠のいてゆくのだろうが、きっとかれの将来のどこかで蘇って彼を助けてくれるはずだ。そんなことを思いながらかれの後姿を見送り、運転手の待つ駐車場へと引き返した。