2019年6月21日金曜日

さよなら、リヨロさん

 コンゴ民主共和国出身の彫刻家、Liyoloさんが今年4月1日に奥さんの故郷のオーストリア、ウィーンで病気のために亡くなった。75歳だったそうだ。
もう3か月近く経ってしまったが、リヨロさんを偲んで、ふり返ってみようと思う。


Alfred Liyolo Limbe(2015.7.14.Radio Okapiより)

わたしがキンシャサ女性の会の会員たちとリヨロさん夫妻のお宅を初めて訪ねたのは2013年2月だった。
現役で彫刻家として活躍するリヨロさんと、陶芸家のマダムのお宅はキンシャサ郊外にあり、モダンな建物で緑とかれらの作品の溢れる、まるで美術館のような佇まいだった。


リヨロ氏宅玄関前で(2013.2.)

リヨロ氏宅の庭に置かれた自作のオブジェ(2013.2.)

キンシャサ女性の会会員たちと歓談するリヨロ氏(右)、左奥のサングラスの女性がマダム(2013.2.)


オーストリアからリヨロさんの元に嫁いで、モブツ大統領の怒涛の時代もこのアトリエで苦労を共にし、二人三脚で歩いてきたマダムも魅力的な方だった。彼女自身も陶芸家として素晴らしい作品を生み出し、自宅の中にセンス良く飾られていた。
かれは日本でも個展を開き、当時の天皇陛下夫妻とも会談し、とても日本びいきなのよ、とはマダムから聞いた話だ。
その後、日本からの友人ともう一度、お宅を訪れたことも覚えている

わたしが、リヨロさんの作品を初めて知ったのは、キンシャサ大学近くに立つ女性の賛美像だった。


キンシャサ大学近くに立つリヨロ氏作の女性賛美の像

左下に男性が小さく見えるのが分かるだろうか。この女性像はそれほど大作であった。”2011年 LIYOLO作”、と台座に記されている。


わたしが知っているリヨロさんの新作は、キンシャサ中央駅前の噴水の四隅に立つライオン像だ。

リヨロ氏作ライオン像

わたしが2017年にキンシャサを離れる前後の頃、リヨロさんは病気療養のためにマダムの故郷に行ったと聞いた。

4月1日にリヨロさんが亡くなったことは、キンシャサでは当日のトップニュースだったらしい。
4月30日に埋葬されたときのかれのお葬式には多くの関係者が集まり、盛大な見送りだったとキンシャサのラジオ局、RadioOkapiのネットニュースで読んだ。

リヨロさんのお宅を訪ねた時に、かれのアトリエの壁にデッサン用の炭で書かれたいたずら書きのようなものがあったことも思い出される。
リヨロさんは、ふふっと笑って茶目っ気のある表情で言った。
”わたしのアトリエに入ってきてわたしの子どもたちが遊んでいた時代もあった、そして、今では、孫たちのあそび場にもなるんだよ、そこで、ここはわたしの神聖なる場所なのだから静かにね、っと書いてみたのさ。”


リヨロ氏のアトリエの壁の彼自身が書いた落書き

リヨロさんの作品はキンシャサじゅう(コンゴじゅうかな)のいたるところに残っているはずだ。

この落書きの残る、リヨロさんのアトリエは、そして、あの素敵な美術館そのもののようなお宅は今、どうなっているのだろう。


2019年3月25日月曜日

キンシャサで見つけた赤い実




ワガドゥグからこんにちは。
今日は、キンシャサで出会った、この赤い実のことを書いておきたくなりました。

この、赤い実は天然の色!
わたしの大好きな”陽赤”色だ。
大きさは、昔よく見かけた、数珠玉と同じくらい。均等な大きさだ。
数珠玉には、真ん中に天然の「穴」が通っているから、穴の枯れた藁様のものを取り除いて、簡単にネックレスを作れる。
でも、この赤い実には、穴がない!
穴をくりぬこうとしても、堅い!
でも、キンシャサの女性支援団体が企画していた店で、この赤い実のネックレスを見つけて土産に買ったことがあった。その店は残念にも閉店となり、この赤い実のネックレスは入手できないままになった。






左は数珠玉のネックレス。右は、赤い実で作った”想像”のネックレス。
キンシャサで出会った、よその国の大使夫人が白い麻ブラウスに数珠玉のネックレスを二重か三重にして合わせていたのがとても素敵だった。
わたしは、そのときに、赤い実のネックレスもシンプルに長く繋ぎ合わせて作れたらなと思った。

キンシャサのゴルフ場には、この赤い実がたくさん生り、落ちていた。





鞘から弾けて落ちてきた、赤い実だ。
このまま、ブローチにしたいくらいだった。

ある時、わたしが持ち帰った赤い実を日本の友人に見せたら、シンガポールでは幸せをよぶ”サガの実”として知られている、と教えてくれた。
友人の話では、シンガポールでは、マレー語で”サガの実”と言い、何粒か財布に入れておくと金運がアップすると伝えられているそうだ。
また、百個集めたら幸せになり、千個集めたら願いが叶う、とも言われているとか。
言い伝えられている内容は多種あるようだが、シンガポールでは、子どもたちが一生懸命集める”サガの実”なのだそうだ。

調べると、シンガポールでも高さが25m(40mの巨木もあるとか)で、幹回りは5m近くもあり、公園や街路樹として植えられているそうだ。
”サガ”の名前の由来は、アラビア語で金細工師を意味する言葉に通じる、と書かれていた。
この赤い実は、大きさや重さが一定していることから、金の重さを量る単位として使われていた、ということから来ているのだそうだ。
また、この実は”ラブ・シード(愛の実)”とも呼ばれていることも知った。
形がハートの形に似ているので、この実を集めて小瓶に入れて、告白代わりに愛する人に渡すのだそうだ。
花は黄色で5枚の花弁を持っている。
日本でも、明治末期に台湾から沖縄に移入されたそうだ。根に根粒菌を持っているので痩せた土地の改良目的だったようだ。

キンシャサでは現地の人はこの赤い実に見向きもしなかったように思う。
そして、誰に訊いても、名前も知らない、と言うのだった。

京都で染色を学ぶコンゴ民主共和国からの留学生が、制作発表の時にこの赤い実のネックレスを藍染のドレスに合わせて使っていた。藍の色と、陽赤色がとてもよく似合っていた。
赤い実の名前をかれに訊くと、リンガラ語で”マイケ”。
フランス語では、Oeil de Paon。(孔雀の目、と訳される。)
 木のことは、Bois de Santal。(白檀の木、か。)
そう教えてくれた。
そして、かれは、わたしにこの赤い実を黒糸で繋げたネックレスをプレゼントしてくれた!

思い出の赤い実、の話でした。
ああ、こうして残しておけて幸せ。

2018年3月30日金曜日

キンシャサ便りよもやま話6 シミ違い!

かれこれ、22,3年前の思い出話をひとつ・・・。

中央アフリカ共和国滞在時 スーダン国境にて 1994.12.30.
これは、中央アフリカ共和国のバンギに家族で住んでいた頃、冬休みのときにスーダン国境まで約二百頭のカバが生息する川を目指してジープで旅をしたときの家族写真だ。

その翌年夏に3年間のバンギ滞在を終えて帰国した。
そして小学校6年生になっていた娘は、中学受験の準備のための塾通いが始まった。

ある日のこと。
娘が、駅向こうの塾からばたばたと息弾ませて帰宅して、頬を赤くして目をランランと輝かせて興奮して言ったのだ。

  「お母さん、どんなシミも消せます、っていうのを見つけたよ。
   わたしのお小遣いで買えるよ。買ってあげるから!」

??? そんな安価なシミ取りクリームって???

「どこに売ってたの?」
駅前の雑居ビルの中の文具屋で見つけたのだと言う。
娘の優しい熱意に込み上げるものがあった。
中央アフリカ共和国に丸っと3年いて、ゴルフはするし、旅には出るし、ハイキングには行くし。
シミだらけだ、と嘆く母の声を娘なりに心痛めて聞き続けていたのだろうな。

娘と一緒に、そのお店に行ってみた。
確かにあった。
”どんなシミも消せます、落とせます”と書いたチューブ入りのクリームが。
・・・文具屋さんに。

はい。どんな醤油のシミも油のシミも落とせます。

シミ違い、だった。

3年間、毎日聞く日本語と言えば母の話す九州訛りの日本語だけだった。
週末にしか、父親は工事現場から帰ってこなかったのだから。
娘には、”シミ”といえば、皮膚にできるシミしか知らなったのだ。

受験まで、国語には相当手こずった。
それでも、希望校に入学できたのは、毎月日本大使館経由で送られてくる日本海外子女教育財団発行の30枚足らずのテキストと教科書で母親と勉強した漢字と算数のお陰だったかなと思う。
今もあるのかな、日本子女教育財団作成のあのテキスト。
一日1ページをこなすだけで、日本の小学生と同じカリキュラムを修了できます、と書いてあった。隔月で、カセットテープが1本入っていて、日本の季節の話と、季節の歌を聴くことができた。常夏のアフリカで感じることのできる、日本の四季だった。
そして、年に一回、コンクールがあって、作文部門と俳句部門で作品募集というのもあった。
娘はある年、作文部門で賞をいただき大きな盾が送られてきた。
それを見た弟が僕も欲しいと言い出し、ひらがなをどうにか書けるようになった段階だったので、親子で俳句作りをすることに。指を折りながら五、七、五、と数えて季節の言葉も入れて楽しんだ。
そして、翌年5歳の息子は見事、俳句部門で盾をいただいたのだった。
懐かしい思い出だ。

そうそう、夜にはベッドの中で物語の読み聞かせで色んな世界に母子で飛んで行ったな。
それから、親子でそれぞれに、月1回発行の新聞作りもしたな。
母親の魂胆は、国語力を少しでも伸ばそうというものだったが、子どもたちは一度も休刊(!)することなく、楽しんで(かな?)帰国まで新聞発行は続いた。
娘は”Bonjour便り”として、息子は”ライオン新聞”として、わたしは”バンギ便り”として。
まだ、ブログというものがなかったから、手書きで書いて、コピーして、家族や友人知人に郵送していた。
バンギでは、週に2,3便飛んでいたエアフランスのパリ行きの便がある日のみ空港内の郵便局が開き、そこでカウンター越しに局員に手紙を手渡すと切手を貼ってくれて郵便袋に入れられる。その作業をしっかり見届けて帰ったものだ。
きれいな中央アフリカ共和国の切手が貼られた封書は必ず日本まで届いた。

と、そんなことまでとりとめもなく懐かしい思い出がよみがえってくる。

でも、娘には、”シミ”といえば、母の顔にできた茶色い斑点でしかなかったのだなあ。
またまた、いじらしい娘の気持ちにツンとくるものを感じる母心なのだった。
1995年のことだ。     

2018年2月14日水曜日

キンシャサ便りよもやま話5 マタディ橋キンシャサ会

2月11日、渋谷エクセル東急ホテルで開催された、マタディ橋建設当時の関係者のキンシャサ会に夫婦で出席する機会に恵まれた。

マタディ橋は日本の援助で約35年前に完成した、全長720mの吊り橋だ。
河川港としてコンゴ河の入り口から三番目の港となるマタディ港近くに架かっている。世界第2位の流域面積を誇るコンゴ河に架かる唯一の橋でもある。
わたしたちも2013年にこの地を訪れたことがある。

コンゴ河に架かるマタディ橋 全長720m (2013.8.9.撮影)

マタディ橋入口 日本とコンゴ民主共和国の国旗モニュメントを発見(2013.8.9.撮影)
マタディ橋上からのコンゴ河マタディ港を望む (2013.8.9.撮影)

マタディ橋の工事が始まって37,8年。
詳しいところは知らないが、調査も含めると、コンゴ民主共和国とのかかわりはもう40年も前に遡るのかもしれない。
キンシャサ会には、当時、現場で工事に携わった技術者と家族、大使夫妻、商社の方たちが多く参加され、当時の貴重な話を聞くことができた。
70歳代、80歳代になられても皆さんはつらつとされて、若さを感じるかたたちばかりで、また皆さんの長い親交に感動をいただいた。

これまでコンゴ民主共和国の道路公団職員たちにより維持管理がしっかり続行され、また3年ほど前に別の日本の支援プロジェクトとして大規模改修工事も実施されている。
わたしたち夫婦が2013年8月に訪れた時、管理の行き届いた吊り橋の雄姿に大きく心動かされ(大規模改修工事はその後だった)、橋の周辺には厳かなオーラが漂っているようだった。

思い返せば、マタディ橋のお陰でわたしたち夫婦は恩恵をいただいてきた。
まず、2011年の東北大震災直後に商船会社に入社し、社員寮に入った息子の話から。
息子が入寮した寮長さん兼コックさんが、なんとマタディ橋の建設資材を運搬した船にコックとして乗船し、資材の積み下ろしのためにしばらくマタディに滞在したというかたで、息子が両親がキンシャサに出発する(わたしたちは2011年大晦日に出国している。)と話したら近しく感じてくれて、いろいろと温かく目をかけてくれたのだそうだ。

また、わたしの知人が、マタディ橋建設のために家族で滞在していた友人を訪ねてはるばるマタディまで1981年に訪れている(キンシャサからマタディまで約400kmの距離がある)。知人は、わたしたちがキンシャサに行くことを知ると、当時の思い出を懐かしく語ってくれたものだ。

ある年のキンシャサゴルフクラブのオープンゴルフ大会前夜祭で出会ったビール会社のコンゴ人社員が、わたしたちが日本人だと知ると、かれの叔父さんがコンゴ人技術者でマタディ橋の維持管理のための研修で日本に行ったことがあるらしく、叔父さんから日本滞在の良い思い出話をよく聞いていたと言って喜んでくれた。後日、ビール会社工場内にある売店に案内してくれて、そこでしか買えないグッズを買えたということもあった。


マタディ港はコンゴ河の河川港としてキンシャサへの最終の積荷港で、そこからは陸路でキンシャサまで運送される。マタディ橋は陸運の要衝として経済活性化に寄与していると聞き、コンゴ民主共和国における日本の援助の象徴といえる存在だ。

その建設に30数年前に携わり、完成30周年記念式典がマタディで盛大に行われたときには7人の日本人が私費でマタディを再訪している。その「七人の侍の武勇伝」は、かれらの”誇り”そのものだと思った。
その時、わたしたち夫婦はキンシャサにいて、かれらの高齢の身での長旅を押しての再訪を感動して聞いたものだ。

これからも、マタディ橋キンシャサ会が盛況でありますように。
心から願って、会の締めくくりにわたしもエールを送った。

2018年1月18日木曜日

キンシャサ便りよもやま話4 三度目の「フェリシテ」


先日、夫とヒューマントラストシネマ有楽町へ映画「わたしは、幸福(フェリシテ)」を観に行ってきた。夫は2度目、わたしは3度目の鑑賞だった。
3度見ても、新たな発見があって、叙情詩的な奥深い映像と音楽はやっぱりすばらしかった。
わたしはいろいろな見方をしてみようと決め、今回も映像をまた違った方面から理解してみようと思った。

映画「わたしは、幸福(フェリシテ)」の日本版ステッカー(画・南Q太)


キンシャサの酒場で歌手として生きるフェリシテのかたくなな表情が何度もアップされる。
ゴミ箱をひっくり返したような混沌とした街で、もちろん道徳も理性もなにもかもが吹っ飛ぶような、すべてが混沌としたアフリカの大都会、キンシャサ。
その街で一人息子を抱えて肩で風を切るように生きる女性。フェリシテの歌う歌も強く熱情がほとばしるようだ。
交通事故で手術をしなければならなくなった息子のために、かのじょはプライドを押し込めて、ありとあらゆる人を訪ね歩いて手術費の工面をする。
一人息子の父親であり、フェリシテの元夫のところにも行く。
その元夫は、「お前は一人で生きていくと強がって出て行ったんじゃなかったのか。その挙句に一人息子は不良少年になり、バイク事故を起こしただと!知ったことではない。」
激怒してフェリシテを追い返す。
さらに、かのじょは叔母を訪ね、叔母から「一度は死んだお前に、親の思いを込めて命名した”フェリシテ~幸福”という名まえなのに。」とかのじょを侮蔑の目で見る。
フェリシテという名の”幸福”とは無縁のような暗く突っ張った表情に、叔母は冷たくわずかなお金を突き出す。(叔母も苦しい生活なのだ。)
どんな手段を使ってもお金を集める無表情のフェリシテを見て、こんなに硬く生きる女性がいたのかと改めて思う。

かのじょの職場の仲間が、フェリシテのためにいくらかでもお金を寄付してやろうとグループの長老が声を掛けても、フェリシテは仲間に懇願することはしない。あくまでも、誇り高い女性の姿勢を崩さない。
健気、という言葉の対極にあるような女性、フェリシテ。

フェリシテの歌う酒場の常連客にひとりの大酒飲みの男性がいる。
かのじょが大枚をはたいて手に入れた中古の冷蔵庫が運ばれてきて早々に壊れ、やって来た修理屋がこの男性、タブーだった。
タブーは、本当の修理屋かどうかはわからない。キンシャサには偽りも真実さえも混沌としている。
生き方さえ適当なように思われるタブーがフェリシテに思いを寄せる。いつからなのかはわからない。
母親の生き方に呼応するかのようにかたくなに生きるフェリシテの一人息子が交通事故で足を失い、荒れた生活を送って来たであろう息子もさらに心を隠し、無表情のままだ。生きる力さえ無くしたようだ。
その母子を、ちゃらんぽらん人間?のタブーがかれなりの愛情でかれらを包む。

フェリシテの心情を描く、イマジネーションの映像で、フェリシテは、ただ森の中をさ迷うだけだった。水の流れの音だけが聞こえる映像。
それが、あるとき、フェリシテは川だか、水の中に身を入れて進む。そして、森の中で、オカピという動物に出会う。(冒頭に載せた写真、映画のステッカーにも描かれている。)
そして、ついにフェリシテはオカピと触れ合う。

フェリシテの心が和らいだ瞬間だったのか。
オカピの”虚像”がフェリシテの歌う酒場にも見え隠れする。
”幸せ~フェリシテ”が見えた、のだ。

キンシャサで購入した木工のオカピの置物


フェリシテはいつもエクステの編み込んだ長い髪を、歌う時は垂らして、強がった虚栄の姿勢になるときは、髪を後ろにひとまとめに上げてさっそうと歩いていた。
そんなフェリシテがエクステ(付け髪)を外して、自然の地毛だけにして、再び歌い始める。
フェリシテが虚栄の鎧を外したのだ。(とわたしには受け取れた。)

キンシャサでは、98パーセントの女性が(と言っても過言ではないほど)カツラかエクステを付けて、頭にボリュームを持たせる。
1990年代に中央アフリカ共和国のバンギにいたころは、アフリカ布地の一反6ヤードの1/3を使って頭に巻いて地毛を隠して華やぎを出していた。1/3はブラウスに、1/3は巻きスカートにしてアフリカンプリントでお洒落をしていたものだった。
それから25年が経ち、アフリカンプリントでワンピースに身を包むか、ジーパンとTシャツ姿の女性たちの頭は、まるで帽子をかぶるかのような感覚で(カツラだとバレバレの)カツラか、エクステでヘアーファッションを楽しんでいる。地毛の短いアフリカの女性は長髪が憧れなのだろうな。


そんな中、フェリシテはすっぱり、エクステを止めて地毛で歌を歌い始めた。
一時期は歌を忘れたかのような状態だったフェリシテが、地毛のまま、”天国の歌”のような柔らかいタッチのリンガラミュージックを歌う姿があった。
自然体のフェリシテを見たように思えた。
フェリシテが”脱皮”したのだ。

退院してきた息子を祝うために集まってきた近所の人々に、退院してきたばかりで疲れが出ているからとさりげなく近所の人に帰ってもらう気遣いをみせるタブー。
ぼくはいつもフェリシテ、きみのそばにいるよ、と言い続けるタブー。
自分の生き方をしてこなかったフェリシテの一人息子が足を失い、もぬけの殻になっていた青年に自然に寄り添い、アルコールを飲むかと誘い、一緒になってふーっと息を抜くことを伝えるタブー。
そんなちゃらんぽらんだけど、優しく柔らかい風船(身も心も!?)のようなタブーの気持ちが、フェリシテ母子の硬い心をやわらげたのかな。

1月26日まで、ヒューマントラストシネマ有楽町で上映されるようだ。ただ、上映時間が日によって変更になるからチェックが必要だ。
そのあとは、全国で上映が始まると聞く。

キンシャサの今の様子がちりばめられた映画。
一般庶民の住む地区は、もっと汚くて治安もさらに乱れていると想像される。庶民が通う公立の病院も、もっと非衛生的なのだろう。2012年から2016年の間、4年ほど住んだキンシャサで、自由に徒歩で歩くことはできなかったし、庶民の居住地区に踏み込むことも禁止されていたから、深いところでの本当のキンシャサの姿は分からない。
それでも、キンシャサをはっきり感じる映画だ。
はるか遠い、アフリカ大陸の大都会で繰り広げられる普通の人々の日々の生活を観て、何かを感じてほしい。
これからの上映情報はこのHPで。
http://www.moviola.jp/felicite/theaters/index.html
DVD化されますように!

2017年10月19日木曜日

キンシャサ便りよもやま話3 わたしは、フェリシテ

映画「Felicite」より

今日、わたしは、映画「Felicite」の試写会に行ってきた。

上の写真が、この映画の主人公、フェリシテ。
キンシャサのバーで歌手として生きる、誇り高く、どっかりたくましく生きるコンゴ人女性だ。かのじょは、一人息子を持つシングルマザーでもある。

映画は、かのじょが生きるキンシャサの夜のバーの音楽場面から始まり、しょっぱなから、もうキンシャサの空気満載だ。
(バーで演奏する面々は、世界的に活躍し、「原初的かつマジカルな響きで世界中の聴き手を魅了してきた」と評されるカサイ・オールスターズ。パパ・ウェンバの出身地でもあるコンゴ南部のカサイ州出身の、個々のメンバーから集まって2005年に結成されたグループなのだそうだ。~映画パンフレットより)
冒頭部分だけではなく映画全編がキンシャサそのものだ。
気だるく目覚める主人公の住む地区界隈の朝。ゴミ箱をひっくり返したような町で、交通ラッシュの中に身を投じるエネルギッシュなキンシャサ市民の暮らし。コンゴ人の小金持ちの、中心地よりちょっと離れた高台?に建つ邸宅。夜の飲食街・・・。
映画全体にキンシャサの空気が流れる。
監督が、まだ若いフランス系セネガル人で、キンシャサロケにこだわったと聞いて納得した。

そんな、貧しくも図太く、助け合いながらも欺き合い、プラスとマイナスが背反して存在する、全てがカオスのアフリカ大都会に生きるキンシャサの人々の中で、女性たちこそ、いちばんたくましく生きているのではないかと思えてくる。
そのひとりが、この映画の主人公、フェリシテ。

中古のオンボロ冷蔵庫を言葉巧みにつかまされたばかりにさっそく修理して大金をつぎ込まなければならなくなったと嘆くかのじょのもとに、一人息子が交通事故で大けがを負い、病院に運ばれたと連絡が入る。
入院費用と手術費用になりふり構わずに東奔西走するフェリシテの姿をカメラが追う。
もちろん、ゴミ溜めのようなキンシャサの町を背景にして。
貧しい町で生きてゆくには、誇り高くも、口八丁手八丁、ついでに足八丁さらには心も張っていかなくてはならないのだ。

そんな町で生きる、たくましいフェリシテにも、ふ・・っと萎えてしまう時がくる。
その心の葛藤を描く、詩的な映像の美しさ。
熱帯ジャングル、というより優しい心の森でもがくフェリシテと戯れる生きものが、コンゴ民主共和国にしか棲息しないと言われるオカピ。美しい絵のような場面だった。

映画に使われるリンガラ音楽と対照的に、キンバンギスト交響楽団の演奏するクラシック音楽も効果的に使われている。
この交響楽団は、映画「キンシャサ・シンフォニー」(ドイツ・2010年)で団員の日常生活が描かれたことで世界的に知られるようになった。キリスト教系の教会に属する、サハラ以南のアフリカで唯一のアマチュア交響楽団だ。

「幸福」という名を持つ主人公は、どのように自身の幸福にたどり着くのか。

邦題 「わたしは、フェリシテ」

東京では、12月16日から、渋谷と有楽町で上映予定だそうだ。
この映画は、2017年ベルリン国際映画祭で銀熊賞を取っている。

監督に、どうしてこの映画の舞台が ”キンシャサ” でなければならなかったのかと問うたとき、「キンシャサには音楽があるから。」と答えたと聞く。



2017年10月4日水曜日

キンシャサ便りよもやま話2 コンゴ週間 in 新宿


先月9月23日から今月1日までの9日間、新宿丸井1階のイベントスペースで、慶応藤沢湘南の長谷部葉子先生の研究会主催で、第1回の「コンゴ週間」が開かれた。

これは、キンシャサの外れで、シングルマザー自立を目指して運営される職業訓練学校の洋裁教室で技能を身に着けた女性たちが制作したエプロン、ブラウス、バッグやポーチ、クロスなどを商品として日本に持ち込み、販売し、彼女たちの現金収入を目指して、また学校運営の活動支援のために開催された商品ブースだった。

その職業訓練学校と、そしてまた学校に通うことの困難な児童たちのための初等教育の学校を運営するコンゴ人女性のママセシールが、今秋から医師として勤務が始まる息子さんを伴って私費で来日。連日、店内で接客をして交流し、また日本での商品展開事情の視察を兼ねた来日だった。本当に、ダイナミックな女性だ。

丸井で、”店”として企画展開することから、六百数十点を、長谷部葉子先生とママセシールの厳しい目で点検して商品管理をし、今夏、コンゴに滞在した慶応の学生たちなど関係者が日本まで運んできた商品だった。
もちろん、アフリカのカラフルで大胆な元気いっぱいのプリント地を使っての商品だ。

店内の飾りつけも慶応の学生たちのアイディアで制作された作品や、ティンガティンガのペンキ画のSHOGENさんの作品で色鮮やかなスペースが出現した。






わたしたち青猫書房は、アフリカを舞台にした絵本、物語、随筆、写真集など27点を店内で展示して来場者に紹介し楽しんでもらい、アフリカへの視点を多角的に持ってもらう、という役目ができたのではないかと自負する。また、選書27点を紹介するために、コメントを載せたリーフを作成して店内に置き、選書に興味を持たれた来場者にコメントリーフを持って行っていただいたことも嬉しいことだった。

SHOGENさんのペンキ壁画も2点、会場でライブで描かれ、多くの方が足を止めて見入っていた。


また、開催期間中、丸井屋上で、コンゴ出身の打楽器奏者が中心になって、アフリカンリズムを作り出すワークショップなどもあり、賑わっていた。

今回は、ママセシールの学校運営の日本での支援バザーの第1回目だった。
慶応藤沢湘南の長谷部葉子先生のゼミも、キンシャサで現地の子どものための学校運営と大学構内で開講される日本語クラスの活動が10年続いて、すばらしい架け橋を作ってきている。その活動を通して出会った、コンゴ女性、ママセシールの職業訓練学校と初等教育学校運営の活動。彼女の、その活動を、長谷部葉子先生とゼミ生が支援しようと東京で企画された、「コンゴ週間」だった。
本当にすばらしい企画だった。

来年もまた、ぜひ何らかの形で手伝いができたらと思う。
これからも、ずっとずっとこのような草の根のコンゴとの繋がりが続きますように。