2016年11月30日水曜日

キンシャサ便りふたたび13 キンシャサの芋類たち

コンゴ(アフリカ?)には、たくさんの芋の種類があり、食卓を楽しませてくれる。

我が家のお気に入りナンバーワンは、ヤム芋("yam"。ここの人は"myam""nyam"と発音しているように聞こえる)だ。

ポワルー道路沿いのヤム芋売りのマダム 夫とすっかり顔なじみになっているらしい (夫撮影)


ヤム芋3本で3000コンゴフラン  30分ほど茹でて皮むきしたヤム芋

夫は、仕事帰りにポワルー道路沿いでヤム芋を売る、同じマダムからよく買ってくる。馴染み客になっているようだ。3本でだいたい3000コンゴフラン。野菜の中では、ちょっと値が張る。
(ちなみに、やはりいろんな種類のある青菜類は、スーパーの大型ビニル袋いっぱいで300~500コンゴフランだ。)
ずいぶん長持ちする保存食だということだ。
夫の運転手の話では、生の皮付きのままで1年でも2年でも持つという。だから高価なのだ、とは彼の理論?はて?
ヤム芋は、ヤマノイモ科ヤマノイモ属の植物で栽培されるものの総称なのだと資料で見たことがある。日本の山芋 Dioscorea japonica も同じヤマノイモ属だそうだが、日本の山芋よりはるかに粘りは少ないし、ごつごつして、身が固い!
わたしは、ここの"yam"と、日本の山芋とは別種だと思う。
ヤム芋の世界生産量一位はナイジェリアだそうだ(2010年。Wikipediaより)。

我が家では、塩を入れた湯で皮ごと茹でて下茹でをして”あく”を抜き、皮をむいて(茹でると、スルリと簡単に皮がむける)そのまま冷蔵庫に保存している。
料理の時に、適当な大きさに切ってもう一度茹でてポテトサラダにしたり、みそ汁、煮込みに使う。煮崩れしないから、おでんの具材にも適しているはずだ。
日本の料理に合って、重宝する。
この国の主食である”シクワン”(リンガラ語ではクワンガ)は、マニョック(キャッサバ)粉を水で混ぜ合わせて葉っぱで巻いて蒸したもので、一見、日本の外郎(ういろう)を連想する食べ物だ。
もうひとつの主食、”フーフー”は、マニョック粉にトウモロコシ(マサンゴ)粉を混ぜて熱湯でこね合わせて白い饅頭のように丸くした食べ物だが、そのマニョックもまたイモノキ属の植物だ。
生産量一位はナイジェリア。コンゴ民主共和国は世界5位という。(2010年。Wikipediaより。)



マニョックの芋と葉 Wikipediaより

余談だが、マニョックの葉も食用だ。本来固いので、重曹で煮崩して食べる。「ポンドゥー」と呼ばれる、コンゴ料理に欠かせない一品だ。

さて、このふたつの主食のうち、わたしは断然、フーフー派だ。
キンシャサのフーフーはマニョック粉にトウモロコシ粉を混ぜ合わせるが、西アフリカでは、主にマニョック(キャッサバ)、ヤム芋から作られ、タロ芋、バナナプランタン、トウモロコシ、ガリを混ぜる地域もあるとWikipediaでは紹介されている。
松本仁一氏によると、ガーナのフーフーは野菜バナナ(バナナプランタン)とマニョック粉だと書かれている。
今日では、これらの材料は粉末として入手でき、湯と混ぜるだけで簡単にフーフーを作ることができると聞く。混ぜ合わせる粉、その割合が地域や家庭により違うというのもおもしろい。

タロ芋という、一見、里芋ふうの芋も夫は買ってきた。
それもそのはず、タロ芋はサトイモ科の植物で、そのうち、根茎を食用とするために栽培されている栽培種の総称だということだ。
生産量はやはりナイジェリアが一位(2010年。Wikipediaより。)
露店のマダムによると、"NBARAYA LANGA"と言うらしい。("langa"というのは、リンガラ語で”芋”という意味か?)


里芋ふうの”タロ芋” これで1000コンゴフラン

でも、断然、ヤム芋のほうがおいしい。

もちろん、じゃがいもも立派なのがあるし、サツマイモもおいしいのが入手できる。
サツマイモは大きいのを5個で1500コンゴフラン(約1.2米ドル)。ヤム芋の半分の値段だ。

ヤム芋もタロ芋も身がしっかり詰まっているようで固い。包丁で切ったときに、白いものが付着し、スポンジでしっかりこすって落とさないと取れない。それくらい、灰汁(あく)が強いということか。

マニョック(キャッサバ)、ヤム芋(yam)、タロ芋、サツマイモ、ジャガイモ。
アフリカ大陸の多くの国で主食として君臨するマニョックは、世界生産量の1/2強をアフリカ地域が占める。アジア地域は1/4強。残りは、南米地域だそうだ。

2010年時点で、マニョックの全世界生産量は、2億2954万トン。
じゃがいもは、3億2418万トン。
サツマイモは、1億0657万トン。
ヤム芋は、4870万トン。
タロ芋は、901万トン。
興味深い数字だ。

ほかにもまだまだありそうな芋類をキンシャサで見つけて試してみたい。

キンシャサ便りふたたび12 ケイコさんの語るキンシャサ下町地区

2013年公開の映画 「キンシャサ シンフォニー」より

リンガラミュージックの大御所、パパウェンバのバックミュージシャンとしてパリで活躍した日本人女性のケイコさんが雑誌の取材目的で2日前にキンシャサ入りした。そして、コンゴの森で流通と人類文化学を研究する院生のシンゴくんがキンシャサに戻ってきたというので、かれらとわたしたち夫婦で、キンシャサ中心地にある中華レストランで食事をした。

シンゴくんは、今回、森を流れる川に、村人と共に木を切り倒し木材に加工して橋を架けたことを目を輝かせながら話してくれた。
村人と共に設計図から起こした、木製の立派な橋だった。
これまでは、運送用バイクを人力で持ち上げて川を渡り、荷運びにも大きな労力を使っていただけに、橋が架かったことで物資の流れがどう変わるんだろうという期待と、そして、雨季にも耐えうるメンテナンスをこれからどうやって村人が進めていくのだろうという問題も交じって、これからのフィールドワークがますます面白いことになりそうだと話していた。
過酷な環境の森の中にシンゴくん独りで入っていき、現地の食事をとり、マラリアにもかかり、怪我や病気のリスクの中での調査は相当なパワーが要るだろうになあ、と細身のシンゴくんを見て心配すると共に、会うたびにたくましくなるかれに目を細めるキンシャサの母(わたし!)だった。

そして、ケイコさんは、今回もキンシャサの下町地区での民泊滞在を選び、キンシャサのレスリングのコスチュームの取材(とか?)で治安揺れ動くキンシャサに飛んできたのだった。
キンシャサらしい庶民の町でキンシャサを感じて取材したいというスタンスを崩さない女性だ。
かのじょの滞在する場所は、夫の仕事上、わたしたちは出入りを禁止されている地域だ。
特に、大統領選が予定されていた12月半ばに向けて街全体が不安定になっている現在はなおさら入っていけない。

日暮れて走るキンシャサのメインストリート、6月30日通りを目を皿のようにしてケイコさんはびっくり仰天していた。
こんなにきれいな大都会のキンシャサがあったのか!!!、と。


ちょっとカッコよく写りすぎ?キンシャサ夜景の絵葉書

これは、市内の本屋でやっと探し出した、キンシャサの絵葉書のうちの1枚だ。
ちょっと良く撮影されているなと思われるが、キンシャサのメインストリートの6月30日通りを夜、車で走ると、確かにここはアフリカの大都会だ。
正面の石造りのビルは交通部門関連会社(2年ほど前に国営から民間に移行)の建物、手前の高層ビルは雑居オフィスビルだと理解している。
こんなきれいなキンシャサがあったとは!!!、とケイコさんは心底驚いていた。まるで違う国に来たようだとまで言っていた。

それもそのはず、ケイコさんの民泊する地区は、庶民の地域のレンバ地区からさらに10kmほど入り込み、コンゴ人でもあまり行かない(行きたくない?)とかいう地域だということだ。
ケイコさんは言う。
ごみ箱をひっくり返して、そのごみの上で人々が暮らしているような町だ、と。
いろんなごみが交じり合って、あちこちで煙がくすぶっている、という。
発酵した煙なのか、化学反応を起こして発熱しているのか。

そこで思い出したのが、白戸圭一さん著の「ルポ 資源大陸アフリカ~暴力が結ぶ貧困と繁栄」(朝日文庫)だ。
その第3章で、コンゴ民主共和国を取り上げている。
毎日新聞ヨハネスブルグ駐在員だった白戸さんは2006年7月にキンシャサ入りし、アフリカ庶民の暮らしを見慣れていたはずのかれが腰を抜かさんばかりに驚いた光景のことを、2ページ以上を割いて写真入りで描写している!

”通訳者として雇った若者ビリーの知人宅(57歳男性)を訪れた時のことだった。
マブングさん宅には行き場を失ったゴミが押し寄せ、家に近づくには長さ50メートル、高さ10メートル、幅10メートルほどのゴミの山をかき分けて進まなければなかったのだ。腐った残飯に始まり、紙類、シャンプーや洗剤などのプラスティック製容器、果ては注射器、家畜とおぼしき動物の骨まで捨ててある。ビルなどの建造物と膨大な人口を残したまま、行政機能だけが消失した大都会の哀れな姿だった。
 「1990年代後半に行政が崩壊して、ゴミ収集が行われなくなったんです。私の家はたまたま周囲より低い土地にあるので、地域の人々が捨てたゴミが雨のたびに流され、自宅前を埋め尽くしたのです。もう手の付けようがありません。」
マブングさんは諦め顔で肩をすくめた。
(中略)
幹線道路から路地裏に入れば、未舗装道路は汚水の海。素足の子どもたちが、犬の腐乱死体が浮く水溜まりで遊んでいる。コンゴで5歳未満の子どもが死亡する確率は2007年現在、千人当たり161人。病気が蔓延しないほうがおかしい。キンシャサ市民には申し訳ないが、私は未だかつて、これほど汚い街を見たことがない。”
そして、白戸さんは続けている。
”私はこうした劣悪な衛生状態の下で暮らすことが、どれほど危険なことかを身をもって知る羽目になった。マブングさん宅を訪れ、調子に乗ってゴミの山を歩いたその日の夜、激しい喉の痛みと共に高熱を発したのだ。ホテルのベッドで一晩のたうち回った揚げ句、翌朝、在キンシャサ日本大使館の医務官に連絡を取った。大使館内で診察してもらったところ、呼吸器に急性の炎症があるという。「何か吸い込んだのではありませんか」という医務官の問いに、私は「昨日、ゴミの山から舞い上がる埃を吸い込んだかもしれません。軽率でした」と答えながら頭をかいた。”

わたしも、前回の滞在時にキンシャサの下町地区、庶民の市場、船着き場辺り、キンシャサ郊外の村、そして、バンドゥンドゥ方面や、マタディ、ボマ方面も訪れている。
確かに、キンシャサ中心部からちょっと外れると、ゴミの山。特に、劣化しなくて最後まで残るといわれるビニル袋は地表から風に舞って汚い風景を作っていた。
でも、発酵した匂い、化学反応?を起こして煙が立っているくらいひどい、街全体がゴミ溜めになっている地区まで入り込んだことはない。
ケイコさんの話を聞いて、ああ、わたしはやっぱり、キンシャサのごく一部しか観てこなかったんだなあと痛感した。

前回の滞在で出会った、コンゴ人の元外交官を父に持つ女性のことを思い出す。日本語の上手なヨーロッパナイズされた女性だった。
かのじょは小さい頃から日本やヨーロッパで暮らし、コンゴ人男性と結婚してキンシャサに住んではいるものの、どうしてもシテ(コンゴ人庶民の暮らす地域)での生活に馴染めないと暗い表情で言っていた。最後に会ったかのじょから、家族でイギリスに行くと聞いたのが最後。連絡は途絶えた。

街にあふれるゴミや私営のゴミ収集車の話題は違う機会にもう一度触れたい。

国の玄関口と言える国際空港で賄賂を請求される、ビザを取るのも一苦労。郵便局の局員たちはサービス精神のかけらもない。公立の病院や学校はどのように運営されているのか。

10月31日に5枚の絵葉書を日本に向けて再度、ゴンべ郵便局から発送したが、その時は、切手の入っている引き出しの鍵がない、でもちゃんと切手を貼って投函しておくから大丈夫だ、前回も届いただろうと、局員たちから言いくるめられ、葉書1枚7米ドル×5枚で35米ドル(局員たちにとって、大金だっただろう。)を払って郵便局から出てきたが、結局、1か月になるというのに、わたしの投函した葉書は日本に届いていない。
この前も、ゴンべ郵便局の私書箱に手紙を見に行ったが、もうしばらく手紙が入っていない。不審に思った夫のプロジェクトの運転手が、局員に尋ねた。すると、なんと、鍵の掛かった書類棚から出てきたのは、JICA宛ての封書だった。わたしが日本人だから、JICA事務所まで封書を届けてくれという。運転手は、それはかれらの仕事なのだから、引き受ける必要はないと断っていた。わたしは、絶対にかれらはその郵便物を運ぶことはないだろうと思って、JICAの方にこのいきさつを伝えた。
やっぱり、郵便事情も全く変わっていなかったということだ。

ゴミ溜めの上に出来上がったキンシャサの庶民の地域の話をケイコさんから聞いて、次々に色々なことが思い出されて、コンゴ民主共和国の国の成り立ちを憂えてしまった。
12月半ばには、現大統領の任期が切れる。それなのに、選挙の実現は全く見えていない。
12月から1月にかけて、ほとんどの外国人はコンゴ民主共和国から脱出すると見られている。
そんな国に、輝く未来はおとずれるのかなあ。

2016年11月18日金曜日

キンシャサ便りふたたび11 ベルギー杯ゴルフコンペに夫婦で参加


ベルギー杯”MBOTE BELGIQUE” 参加賞のポロシャツ ベルギー国旗を胸に、両袖にはスポンサー名が入っている

11月12日未明からキンシャサは土砂降りの雨が降り始め、午前中もしばらく雨は降り続いた。
キンシャサはただいま、雨季真っ最中だから仕方がない。

その日は、毎年恒例の、キンシャサ在住のゴルフ愛好者たちが楽しみにするベルギー杯ゴルフコンペ、”MBOTE BELGIQUE”(”こんにちは ベルギー”)の開催日だった。
毎年、たくさんのスポンサー(今年は7社)が名を連ね、11月に旬を迎えるベルギー名物のムール貝料理を囲んで行われる夜の表彰式パーティーがまた楽しい、キンシャサゴルフクラブの一大イベントなのだ。
ベルギーから、スポンサーのブリュッセル・エアラインで空輸される新鮮なムール貝料理が食べられるというのもあって、多数の参加者が集まる。

朝7時開始で、午後2時まで10分毎に3人一組で参加者120人がぎっしり組まれたコンペだった。
この雨では開催はどうなるか心配された。
新鮮なムール貝の料理が待っているのだから、延期はないものと思われた。

ゴルフクラブから2回の案内メイルが届き、結局、1時間遅れでスタート。
ハンデの少ない上級者から順に雨の中をプレイが始まる。
わたしたち夫婦は、もともと午後からの出発だったので、ほとんど雨の影響は受けなくて済んだ。
辞退者もいたので、わたしは違うグループに入って、予定よりちょっと早めにスタートした。フランス人の若いとても楽しい親切な夫妻とのプレイで、しかも、キャディーも友人の顔なじみのキャディーが務めてくれて、ラッキーなスタートだった。
成績はステーブルフォー方式のポイント得点で、カテゴリー3の優勝はポイント38だった。
わたしはポイント27で、カテゴリー3の中で中ほどの成績で、ほっとする。

表彰式は、キンシャサの老舗ベルギー系のHOTEL MEMULINGで、夜7時からのアペリティフで始まる。このホテルはスポンサーのひとつだ。
いろんな出会いが持てるのも、コンペ参加の特典だ。
全参加者120名のうち、日本人はわずか5人というのは、ちょっと寂しい。
アペリティフが終わると、丸テーブルの大宴会室に移動し、お目当てのムール貝料理が振る舞われる。セロリが効いて美味しい。ベルギー式に、ムール貝中身を空のムール貝殻の二枚付きでピンセットのごとく摘まんで取り出して、マスタードを付けて食べる。鍋の蓋に殻が積まれていき、最後に残ったスープまでしっかりいただく。

ムール貝料理の入った鍋!

10人着席の丸テーブルが12テーブル!
和気あいあいと、いろんな会話があちこちで弾んでいる。
わたしのフランス語力でも楽しめてしまう。でも、もっと微に入り細に入り、いろんな説明ができたらなあと、こういう席に出ると思ってしまう。


成績発表 表彰式もユーモアたっぷりに進行するステージ

ステージに向かって最前列左のテーブルには、ベルギー大使夫妻が着席し、楽しまれていた。
カテゴリーごとの成績発表にはあまり関心がない、というのも、わたしたち夫婦は身のほど、実力をわきまえているから。
ブービー賞はなく、1位から3位、そしてドラコン賞、ニアピン賞の表彰だ。
同じグループだったマダムがドラコン賞をもらって、わたしまで誇らしい気分になる。
それぞれに立派な賞状が渡されていた。

そして、第二のお楽しみの”くじ引き”タイムが始まる。
金のボウルに、コンペ参加者全員のスコアカードが入れられて、ひとりのかわいい少年がくじ引き係としてステージに上って、スポンサー7社から提供された景品がくじに当たった人に渡されていく。
スポンサーからは、すでに、参加費30米ドルを支払ったときにたくさんの参加お土産をいただいていた。その上に、くじ引きで、ブリュッセル・エアラインのキンシャサ~ブリュッセル往復航空券とか、ホテル・メムリン宿泊券とか、スマートフォンとか、豪華景品が用意されている。
一瞬、シーンと静まり返ったとき、HIROKO~!、と呼ばれたときは本当にびっくり!!!
なんと、わたしは、くじで「iPod nano」をいただいてしまった。

ゴルフは、毎度のぱっとしない成績だったけど、楽しくプレイができ、いろいろな人たちと出会えて、美味しいパーティーに出席して、たくさんのキンシャサの企業のお土産とiPod nanoまで(!)手にして、更けゆくキンシャサの夜の中を帰宅の途に着いたのだった。

わたしは前回の滞在のときにも一度、ベルギー杯コンペに参加している。
その時は、ベルギー大使公邸の庭での着席パーティーだった。
今回は、公邸の改装工事?のためにホテルでの開催になったのだそうだ。
来年は新しくなった公邸で、と大使はスピーチで話されたという。

話は逸れるが。
キンシャサのメインストリートの6月30日通り沿いのゴルフ場近くにモダンで大きな建物が建設中だ。ベネルクス(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)三国の大使館の建物だと聞く。なんでまた、こんな大きな建物を、と思ってしまうくらい大きい。旧宗主国ベルギーの国威象徴のためかとか、ヨコシマな見方をするのはわたしだけかな。

で、今回のわたしのベルギー杯コンペの参加は2回目だった。
多分、キンシャサでの最後のベルギー杯、”MBOTE BELGIQUE”。

またひとつ、キンシャサでの良い思い出をありがとう!!!

2016年11月14日月曜日

キンシャサ便りふたたび10 キンシャサの路線バス大健闘中

2013年7月31日付けのわたしのブログ、”ボノボの森から”で、キンシャサに路線バスが運行開始、という記事を載せた。

「キンシャサに路線バス走る」

2013年キンシャサに走り始めた頃のピカピカのTRANSCO路線バス(手前は乗り合いバン)

これは、路線バス、”TRANSCO”がキンシャサ幹線道路を走り始めて間もないころに撮った写真だ。


”政府によって発注された50台のバスがキンシャサに到着”の新聞記事 2013.1.23Observateurより

これは、ドイツのベンツ社のバス50台分の第一便が2013年1月21日にキンシャサに到着した、という2013年1月3日付けの新聞記事(キンシャサの日刊新聞”Observateur”)だ。
3月末にはさらに150台が到着予定で、コンゴ政府は2700万米ドルを投資したと書かれている。

前年の2012年にキンシャサで開催された仏語圏会議を目前に、キンシャサの乗り合いタクシー、乗り合いバンが3日間のストライキを起こし、キンシャサの通勤客の足が奪われ、大混乱を起こした。
確か、あまりに危険な走行をする(ドア無し、ガラス窓無し、ぶら下がり乗客で定員オーバーの無謀な走行!)乗り合いバンに対して禁止条例を出した(仏語圏の代表者が集まる中で交通マナーを守ろうという)政府に対してのストライキだったとわたしは記憶する。
当時、公営の交通網を持たなかった政府は、その時の交通大混乱に何の解決策も打てなかったことを反省し、公共交通機関を整備することを決断したのだと新聞記事には書かれていた。
コンゴの運送機関 ”Transports du Congo”から命名された、政府直営の”TRANSCO”。

さらには、同年8月には、キンシャサ市営のバス、”TRANSKIN”も運行を開始した。TRANSCO同様に大型のバスも、そして中型のバスもあった。こちらは中国製で60台で運行が開始されたと聞く。


あれから、3年以上の月日が流れて、現在、キンシャサの路線バス”TRANSCO”はどうなっているのか。
わたしは、今回のキンシャサ滞在で一番、気に留めて、期待(心配?)していたことが、実はこのTRANSCOバスのことだった。

果たして、路線バスTRANSCOがキンシャサの庶民の足としてどのくらい定着しているのだろう。
祈るような想いで、キンシャサに降り立った。

そして。
なんとびっくり!!!
TRANSCOバス、大奮闘で、しっかりと庶民の足となっていた!!!
バンザーイ!!!
しかも、側面に全面広告を載せて走行するTRANSCOバスも見かけて、進化していた。


2016年10月 改装された中央郵便局前を走行中の広告入りTRANSCO路線バス~6月30日通りで


2016年10月 全面広告の入ったTRANSCO路線バス(その先を走る青黄二色の車は乗り合いバン)~6月30日通りで

上の写真2枚は、今回キンシャサに来てから撮ったものだ。
キンシャサのメインストリート、6月30日通りを走るTRANSCO路線バスだ。
全面に広告を載せて走行するTRANSCO。メンテナンスもしっかり施されていると感じる。

バスのガラス窓のところに、2つのメッセージがフランス語とリンガラ語で書かれているのを発見した。
一つは、このバスに不満がありましたら、この電話番号にお知らせください、というもの。
もう一つは、バスの広告の申し込みはこの電話番号にどうぞ、というもの。
なるほど、広告費でも稼ごうというのは良いアイデアだ。
そして、走行中に何か不都合があったら知らせてほしい、という案内も、交通マナーを守ります、という意思表明だとわたしは受け取った。

2012年にキンシャサに来た当初は、ドアや窓の外れたおんぼろ乗り合いバンが走行していた。
普通は3列か4列しか取り付けられていない座席をさらに2列ほど増やして、満員どころか、バンにぶら下がる乗客もいて、定員オーバーもいいところ!車体が傾いて走行する危険な乗り合いバンが通りにあふれていた。
そんな乗り合いバンを人々は、”ESPRIT DE MORT”と自嘲するように言い合っていた。
直訳すると、死の霊。死と隣り合わせの乗り合いバン、死を覚悟して乗車する乗り合いバン、ということなのだろう。

さて。緑色の車体のキンシャサ市営バス”TRANSKIN”は、キンシャサ中心部から全く影をひそめて見かけなくなっていた。
代わりに(?)、なんと、”ESPRIT DE VIE”(命の精神、命の霊)と車体側面に書かれた、白地にやはりレインボーカラー使いの中型バスがあちこちで走行する姿を見かける。
命を乗せた乗り合いバン、命を大切にする乗り合いバンですよ、と、ちょっとユーモラスなネーミングに笑ってしまう。
以前の”ESPRIT DE MORT”に引っ掛けたことは言うまでもない。
この路線バスの話題を我が家の家政婦に向けると、
「おもしろいネーミングでしょ。わたしは金輪際、あのおそろしいESPRIT DE MORTには乗らないよ。」
と大きな体を揺すりながら笑う。



2012年 朝の通勤客でごった返す、舗装前のポワルー道路界隈の乗り合いバン

2013年 6月30日通りを走行中の乗り合いバン2台

上2枚の写真は、仏語圏会議後の乗り合いバンで、ずいぶんマナーは改善されている。以前は本当にドア無しで人間がぶら下がって走る乗り合いバンだった。
ドアや窓がちゃんと付いて走行する、見かけはスマートに見える乗り合いバン。だが、座席が増設されて定員オーバーで運行されている。
TRANSCOや、ESPRIT DE VIEといった小ざっぱりとした路線バスがしっかりと庶民の足として定着している影響なのだろう。ずいぶんと、乗り合いバンも乗り合いタクシーも見かけ上のマナーは改善されてきたなあと感じる。

下の二枚の写真は、走行中のESPRIT DE VIE路線バスだ。

2016年10月 キンシャサ6月30日通りを運行中の路線バス”ESPRIT DE VIE”

昼間も、夜も、庶民の足として活躍している。
そして、車体に、「もし、わたしに不都合な振る舞いがありましたら、この電話番号にお知らせください。」と書かれているのを発見した。
なんと涙ぐましい努力だろう、とうるうるしてしまった。


キンシャサ郊外へ向かう、夜7時頃の路線バス”ESPRIT DE VIE” 2016年10月キタンボマガザン辺り

このESPRIT DE VIE 路線バスはどこが運営しているのか、わたしはわからない。夫のプロジェクトの運転手は、キンシャサ市営バスだと言っているそうだ。もう少し情報を取らなければ。

運行を開始して3年以上が経つTRANSCO路線バスは、しっかりメンテナンスされているし、バス停もまあよく管理されていると思う。側面のプラスティック板(アクリル板?)が割れたり、シールが貼られたりはしているが、ベンチに腰掛けてバスを待つ人々の姿をよく見かける。

2016年10月 キンシャサ6月30日通りのTRANSCOバス停

朝、夕の乗降客の多い時間帯では、路線バス運行開始当初もそうだったように、、現在も市民はしっかりと列を作ってバス停で待っている!
キンシャサ中央駅前や中央銀行などの官庁建物横のTRANSCOバス発着起点と思われる大きなターミナルでは長蛇の列を作っているが、皆、文句も言わず、寡黙にそれぞれの行き先のバスを待ち続けているところがほほ笑ましい。
だって、かれらの運転マナーのひどさと言ったら!
我先にと車の割り込みは日常茶飯事だ!
ンジリ国際空港に向かう途中で、2車線道路のはずが、3車線にも4車線にも膨れ上がって、身動きが取れなくなって墓穴を掘るような最悪の渋滞に巻き込まれたこともあった!
そんな運転マナーの酷い状況を普通に見かけるキンシャサの中で、バス停で黙々ときれいに列を作ってバスを待つ姿は奇跡!とも思えるのだ。
心から感動してしまう。

先月初めだったか、キンシャサ郊外で、黄土色に塗られた中型の”TRANSKIN”バスを見かけた。キンシャサ市営のTRANSKINも、郊外の路線で運行が続行中だと知ったが、どのくらいの規模で運行されているかは分からない。

TRANSCOバスは、始点から終点までずっと乗り続けても500コンゴフラン。乗り換えるとまた500コンゴフランを新たに払うのだそうだ。
キンシャサのンジリ国際空港までの路線バス運行は聞かないが、キンシャサ中央駅から空港手前のマシナという庶民の町のバスターミナルまで、ポワルー道路とルブンバ通りを繋ぐ直通のTRANSCO路線が運行され、日本の技術で舗装されたポワルー道路には頻繁にTRANSCOバスが走行していると夫から聞いている。
一般市民の多く住む町への路線バスの運行はずいぶん広がっているようだ。

前回の滞在時にポワルー道路から見かけた、朝夕の通勤時間帯だけ運行する(超満員の)電車も、夫からの話によると、現在も運行されているそうだ。
ただ、乗客はずいぶん減っているとも聞く。TRANSCOバスのほうが便利だからだろうと夫は言う。

2012年 ポワルー道路から撮影した朝夕のみ運行の、乗客で満員の通勤電車


ただ、外国人(とひとくくりに表現したが、ここで商売をして生活をするインド、レバノン、シリア人たちは利用しているような?)がこういった公共交通機関を利用できるのか、ということになると、首をかしげる。
まず、キンシャサの町中を外国人は自由に闊歩できない現実がある。

それでも、この3年の間にキンシャサ中心部へ働きに出る人々の足としてしっかり定着している路線バス”TRANSCO”たちには、本当に感動する。
小規模会社や個人経営の乗り合いタクシーや乗り合いバンもずいぶんマナーを守って活躍するのを見受けて、まだまだ公共の路線バスの需要は満たされていないのだろうと感じる。

この国の東部では紛争が続き、国土が広大でキンシャサ政府の力が国全体に届いていないという現状が頭をかすめる。国道などの道路が整備されていなくて、移動手段は飛行機かコンゴ川の不定期の船便しかないという有様だ。

そんな国の首都であるキンシャサの公共交通機関は、これからどのように発展していくのだろう。

2016年11月1日火曜日

キンシャサ便りふたたび9 キンシャサゴルフクラブの10月

ゴルフクラブ10番ホール



ゴルフクラブ18番ホール

キンシャサは10月半ば頃から少しずつ雨季に移行してきている。
ウェンゲの、藤のような紫の花の満開は終わったが、今度はこんなピンク紫の花たちが満開だ。
街路樹としても満開の花をつけているが、どのコンゴ人に訊いても、名前は知らないという。
季節季節で満開の木々の花たち。
日本では、たとえば、桜、藤、ツツジ、モクレン、金木犀など。
日本人だったら知らない人はいない季語にもなっている木の花の名前。
でも、コンゴ人は答えられない。時々、リンガラ語なら知っているが、フランス語では何というか知らない。こんな答えかたをする人もいる。
以前、住んでいた中央アフリカ共和国の人たちもやはり、木の花の名前を答えられなかったのを思い出す。

南アフリカ共和国では、今、ジャカランダの青紫の花が満開だと聞くが、キンシャサではジャカランダの木は見かけない。

火炎樹も朱色の花をつけ、一方で同時に30センチ以上ものこげ茶色の硬い鞘をぶらぶらとぶら下げ、その下を見ると、双葉から本葉を出した幼芽があちこちの芽を出している。

火炎樹の朱色の花

火炎樹の大木の下で幼芽がたくさん芽吹いている

地元の銀行の商標として使われる火炎樹の大木

キンシャサゴルフクラブでのたくさんの自然のお土産の中でもうれしいのが、こんなきれいな朱色の種だ。数珠玉のように種の中に穴がないから、ネックレスにするのは素人には大変だが、町中ではこの朱色のネックレスが売られている。


天然の朱色の種

鞘からはじけた朱色の実

朱色の種で作られたネックレス

乾季には、水がなくなって雑草が生い茂っていた池だったが、雨が降るにつれて水が溜まり始めた。
つい先日まではホテイアオイが花をつけて楽しませてくれた。

わたしのゴルフバッグに飾られたホテイアオイの花

雨季の頃には、大きい、きれいな蓮の花が池を覆う。
わたしたち日本人には、ついお釈迦様を連想してしまうが、コンゴ人は?はて?

それから、とても不思議なのが、これだけ大木があって緑も池も多いゴルフ場なのに、セミが一年を通して(!)いない!ということだ。
トンボも蝶も飛んでいるのに。
ミーン、ともツクツク、とも聴こえてこない。
キンシャサやこれまで訪ねたバコンゴやキクイット方面でも、セミの鳴き声を聴いたことがない。
世界に二千種のセミがいると聞くのに。
そういえば、カブトムシもクワガタもいないなあ。


季節折々の歳時記が繰り広げられるキンシャサゴルフクラブ。
鳥や木々や草花の美しさを切り取った写真集が前回の滞在時に出版された。
本当にきれいな写真が満載で、わたしはお土産に何冊も買ってしまった。
キンシャサ在住の写真家(ベルギー人かな)二人が、ゴルフクラブの自然の美しさを共有しましょうという趣旨から出版された写真集だ。
そのうちのひとりが、先週、わたしたちがプレイしているとき、電動車に乗ってぐるぐると場内を回っていた。写真を撮っているんだよ、ということだった。
かれらの写真集第二集を楽しみに待ちたい。

11月になれば、綿の玉が場内をころころ転がる季節になる。
16番ホールでは、もうそんな風景が始まった。

ゴルフ場16番ホールに転がり始めた綿の玉