2012年7月29日日曜日

ガソリンスタンドの思い出

キンシャサ市内のガソリンスタンド

キンシャサ市内で見かけるガソリンスタンドは、モダンで日本のガソリンスタンドと見かけはそんなに変わらない。
上の写真は、”ENGEN”という、市内で数多くの店舗を持つ会社のガソリンスタンドだ。

わたしは、ガソリンスタンドを見るたびに思い出す光景と、悲しい話がある。


1992年から1995年まで家族で住んでいた中央アフリカ共和国の首都BANGUI-バンギ-の当時のガソリンスタンドは粗末なものだった。
そんな設備も不十分で数も少ないガソリンスタンドのどこもかしこにも、夕方になると子供たちが小さなポリ容器を手に持って、あるいは頭に載せて、石油を買いに集まってきて行列を作っていた。

当時のバンギの現地の人たちの家には電気が来ているところのほうが珍しく、石油コンロで調理し、石油ランプの照明が一般的だったようだ。
それで、子どもたちは、お母さんの手伝いでガソリンスタンドに石油を買いに来ていたのだ。
石油は高価だから少しずつしか買えないから、子どもたちに打ってつけの手伝いだったのだろう。
小さい子は、ホントに小さなポリ容器を抱えて。大きな子でも、3,4リットルくらいの容器を頭に載せて、楽しげにおしゃべりしながら、でも行儀よく列を作って順番を待っていた。
夕暮れ前の、見るもかわいく微笑ましい光景だった。


当時のバンギで、わたしたちと同じアパートに、エイズの母子感染予防のNGO活動を始めて間もない、徳永瑞子さんという助産師であり公衆衛生のドクターの日本人女性が住んでいた。
ある日、彼女が保健センターからの帰宅途中の車の中で聞いたという現地のラジオニュースをとても悲しそうな顔をして話して聞かせてくれた。


カメルーンでのこと。確か、1993年か94年だったと思う。
カメルーンのどこかの大きな街で、石油タンクローリー車が横転し、積載されていた石油が道路に流出し、石油の海になったのだそうだ。
それを聞きつけた近所の子どもたちが手に手にこぼれた石油を入れる容器を持って集まってきて、皆が必死で石油をかき集めては持参した容器に入れていたそうだ。

石油をなるべくたくさん集めて家に持って帰ったら、お母さんが喜ぶだろうなあ、と思っただろう。あるいは、集めた石油を売ったら好きなものが買えるぞ、と思った子もいたかもしれない。
無我夢中で、洋服や素足や手や顔に石油が付くのも気に留めずにかき集めていたことだろう。

そこへ、通りかかりの煙草を吸っていた男性が、何の気なく、ポイっと煙草を捨てた、という瞬間、辺り一帯、見る間に炎が上がり、火の海と化し、子どもたちの泣き声、悲鳴が響き渡ったという。

その事故でずいぶん多くの子どもたちが犠牲になったのだそうだ。
徳永さんは、顔をしかめて悲しそうに話していた。
貧しいがゆえに起きた事故だとも思う。


現在のキンシャサのガソリンスタンドには、石油を求めて並ぶ子どもたちの姿は皆無だ。プロパンガスのボンベも見かけない。
キンシャサの一般家庭の調理コンロや照明は石油ではないのかなあ。
わたしたちの住むアパートは、おかしいくらいにオール電化(???)だけど。(バンギでは、調理コンロはプロパンガスだった。)



キンシャサのガソリンスタンドの前を通るたびに思い出す、子どもたちが並ぶ夕方のバンギでの光景と、カメルーンでの悲しい事故の話だ。

2012年7月27日金曜日

コンゴの女性、ションタルさん

ポワルー道路沿いに並ぶ飲み物&スナック屋とテント床屋

キンシャサで、とても流暢に日本語を話す女性と知り合った。
ションタルさん、40代半ば、コンゴ人のご主人との間に11歳と13歳の息子さんがあり、仕事を持って働く女性だ。

日本語を話す機会がなかったから日本語を話せて嬉しい、日本人女性は少ないからようこそキンシャサに来てくれましたと、この出会いを喜んでくれた。
彼女は日本語をどんどん忘れてゆくと嘆いていたが、訛りのない日本語を話す。
そして英語も(もちろんフランス語も)とても上手だ。

彼女が14歳の時、父親の在京コンゴ大使館勤務に伴い、家族12人で来日。滞在中もうひとり兄弟が増え、11人兄弟姉妹の4番目の彼女は、飯田橋のリセ・フランコ・ジャポネまで地下鉄と山手線を乗り継いで4年間通ったのだそうだ。
わたしの子どもたちも飯田橋まで通学していて、息子はあなたのリセの隣の学校に通っていたのよ、と言うと、彼女はびっくりして、小学校の生徒が半ズボンを履いてとてもかわいかったことなど、懐かしそうに話した。
2004年に再来日して住んでいた広尾界隈を歩いたが、町の様子が一変していた、とびっくりしていた。リセ・フランコ・ジャポネも移転して、もう飯田橋にはないことも彼女は知っていた。

彼女は、カフェオレ色の肌をして、鼻筋の通ったとても端正な顔立ちをしている。両親のどちらかが外国人なのかなと思ったが、両親どちらもコンゴ東部、ルワンダとの国境にある南キブ州ブカブ BUKAVU出身だと聞き、合点がいった。
キブ州の人たちもルワンダのツチ族やエティオピア民族のように、いわゆるアフリカ人らしくない顔立ちで、肌の色もそんなに黒くないという特徴を持っているのかもしれない。

コンゴ・南キブ州とルワンダはキブ湖を挟んで対峙している。(キブ湖南端より更に南にブカブBUKAVUがあり、そこから約百キロ北のキブ湖北端に北キブ州・ゴマGOMAがある。)
ルワンダの2部族・・フツ族とツチ族・・は独立時から激しい抗争が存在し、多くのルワンダ人(大多数ツチ族)が国境を越えてキブ州高原地帯に定着している、と”モブツ・セセ・セコ物語”で知った。現在も紛争の絶えない地域だ。

ションタルさんは、両親の出身地はとても気候がよく、太陽も強くないからわたしたちブカブの人たちは肌の色がそんなに黒くないのよ、と言っていた。


その彼女が、水曜日は仕事が休みだからキンシャサを案内しましょう、とタクシーに乗って我が家まで来てくれた。きれいなタクシーじゃなくてごめんなさい、と言って。
彼女が交渉して連れてきたタクシーに乗って、半日のキンシャサ周遊に出たのは午後2時だった。


布地が見たいというわたしの希望で、まずコンゴ河のキンシャサ←→ブラザビル間フェリー港近くにある布地横丁に連れて行ってくれた。
何十メートルも続く細い通路の両サイドに極小サイズの店がずらーっと並び、其々のコンパクトな店内の壁にぎっしりと上から下までアフリカの布地が1反6ヤード単位で掛けられている。店主は全員(!!)女性だ。どの女性も、時間を持て余している様子で好き勝手なことをしながら店番をしている。

マダーム、マダーム、高品質の布地があるよー、見て行ってよー、とあちこちから声が掛かる。
以前、夫と一度だけ訪れたことがある横丁だった。
その時は、気に入った布地が見つからず、今回もあまり期待していなかったのだが、ションタルさんが、ていねいに探せば良い布地があるわよ、と数軒の店に入って布地を引っ張り出して広げて見せてくれる。
なるほど。広げるとイメージし易くなる。
おもしろくてお洒落な布地がいくつか目についた。


布地横丁(絵はがきより)
普段は外国人は治安の面でなかなか行けない場所だから、この時とばかり4反の布地を買った。
街なかの高級店”BLISCO” だったら1反80米ドルから130米ドル、隣の”Woodin”(コードディボアール製)でも1反45米ドルはする布地が(もちろん品質の違いはあるが)、ここではションタルさんが値切ってくれて、1反15米ドルで買えた。VLISCO表示の布地を発見したが、ションタルさんは、これは偽物でしょうねと言っていた。

それから、たまに訪れる現地野菜市場、ジギダ・マーケットの横を走り、中国人が多く住んでいるという地域を通り、空港方面まで行って途中で引き返し、現地の人しか行かない地域”シテ”を走った。
たくさんの店が粗末ではあるが、こぢんまりと何かの決まりがあるかのように秩序正しく(?)並んでいる。外壁に直に描かれたペンキの文字や装飾がカラフルでポップな感じだ。
彼女はこの地域で買物をするのだと言う。
イギリス育ちの子どもたちは汚いと言って、決してついて来ないのだそうだ。
ここは歩かないで見るだけにしましょう、と彼女は言った。

わたしは、見ただけだけど、シテ、っておもしろそうねと言うと、彼女は手のひらを広げて、あなたが見たシテ地域はこの手のひらのほんの片隅だけよ、と言って1センチ四方を指で作って見せた。

コンゴの骨董のお面 le masque を見たいと希望したら、彼女はわたしをどこに連れて行くだろう、と興味津々で申し出たら、結局タクシーはドロボウ市場”Marches des Voleurs(Valeurs)”に着いてしまった。
以前は、中央駅近くの一角に土産物屋が軒を連ねていたそうだが、一掃されてしまったそうだ。
もうキンシャサには良い骨董品はない、良いものはナイロビに持っていかれる、と彼女は言った。

わたしはドロボウ市場には何度か来ている。野外の土産物”見せ棚”が集まっている一区画だ。
今回も何も発掘品はなかった。

俗称・ドロボウ市場<Marches des Voleurs>
彼女が昼食を食べていないことを知ったのはもう午後4時を回っていた。
埃っぽい乾季の町なかを走って喉も渇いたし、カフェに入ることに。
コンゴ人しか行かないところに行きましょうと案内してくれたのが、6月30日通りの文具屋”POP SHOP”を入ってすぐ、南アフリカ大使館の前にある店だった。
コンゴ料理をバイキングで食べられる野外レストランだった。コンゴ人しかいないが、こざっぱりした店でバイキング料理がおいしそうだった。
目で食べたくなったが、しっかり昼食を取ってきたわたしは、トニック飲料水だけを注文した。

日本食を恋しがる彼女は、シティーマーケットというスーパーマーケットでキッコーマンしょうゆ、S&Bわさびに寿司海苔が買えることを知らなかった。
彼女は、シティーーマーケットも自宅近くのショップライトも、レバノンや南アなど外国資本のスーパーマーケットは高いから利用しないのだと言った。

出発前に我が家で少し待ってもらう間、家政婦とションタルさんはリンガラ語で話していた。
翌日、家政婦は、前日訪れた女性の夫は外国の人なのかと訊いてきた。
彼女のフランス語、英語がとても上手だったからね、と言っていたが、きっと彼女の身のこなしにコンゴ女性にはない雰囲気を感じたのだろう。
そして、彼女はブカブ出身だと話すと、だからリンガラ語の発音が少し違っていたのね、キブ州はスワヒリ語ですから、と納得するように言った。


彼女は外交官の娘として数カ国に暮らし、コンゴ人男性と結婚してイギリスの暮らしも経験し、今、キンシャサに根を下ろそうとしている。
両親もすでに亡くなっている。
何だか、彼女は今、一生懸命に自分の国で、自分の居場所を探している、そんな落ち着かなさを感じてしまった。
コンゴで女性が働くのは大変難しい、と彼女は言う。確かにそうだろう。
男性ですら、コネがなければ仕事にありつけないのが現状だと聞く。
でも、しっかり者とも感じる彼女は、いくつかの”山”を超えてキンシャサに根を張っていくのだろう。


「自分の国ではない先進国」の生活を知ってしまった人が、「発展途上の自分の国」に帰って暮らすこと~身の置き所というのか、価値観の転換、経済的な面などなど~をどのように適応させ処理してゆくのだろう。
そんな困難さを、彼女と別れた後深く考えさせられた一日の終わりだった。

2012年7月22日日曜日

コンゴ料理 Maboke - マボケ -

コンゴ料理Maboke(左)

夫が携わるプロジェクト、”ポアルー道路改修工事”の一期区間工事が完了し、いよいよ二期工事が始まった。
それを受けて、20日、金曜日の夕方、夫の会社の現地スタッフ全員が就業後、事務所に集まり、慰労感謝夕食会を開いた。

わたしも招かれ、バナナをたっぷり混ぜ込んで焼き上げたバナナケーキを作って現場事務所を訪ねた。事務所は総勢10人のスタッフで、皆、和気あいあいとしたとても良い雰囲気だ。

到着すると、女性事務員と女性掃除婦(どっちも名前はミレイユ!)が市場で買ってきた現地の料理をテーブルにきれいに並べていて、乾杯のビールが数種類置かれ、慰労会が始まろうとしているところだった。

上の写真の右の皿に載っているのは、時計に見立てて12時の位置から、唐揚げ風鶏肉、川魚の炭火焼き、マニョックを蒸したもの(夫の発音だとShokuwan。??。 白い輪切りのもの。一見、ちくわ麩みたい。)、バナナフリッツ、ポテトフリッツだ。どれもおいしい。

そして、左の皿に載っている、大きな葉っぱで包まれたものが、”Maboke” だ。日本のちまきの親分みたいな感じ。
新生児の頭くらいの大きさがあるかもしれない。
コンゴ料理の中で、わたしがいちばん食べてみたかったのが、Mabokeだった。


Maboke 葉っぱを開くと・・


"Maboke" は、リンガラ語だそうだ。
用意されていたMabokeは、川魚のキャピテンだった。ほっぺたが落ちそうなくらい美味しい!!
包む葉っぱが大きすぎて魚が小さく見えるが、キャピテンはとても大きな川魚だ。

今日のMabokeはキャピテンだけど、豚肉のもあるよ。そして、ヘビのMabokeもね。
コンゴ人技師のおじさんが説明してくれる。

Maboke は、大きな葉っぱ5枚で包まれていた。
おじさんは、森の木の葉っぱだよ、と大ざっぱな説明だったが、フランス語の先生に尋ねると、市場に行けば、Maboke用の葉が売られているそうだ。特別に、この葉っぱでなければダメだ、ということはないようだ。
味付けは、油(これも普通の油で良いようだが、ピーナッツ油などが使われるようだ。)、塩、たまねぎ、にんにく、キューブマジック(スープストック?)、白胡椒、なのだそうだ。しょうゆ味が見え隠れする感じだけど、しょうゆはもちろん使われていない。
わたしのMabokeには、赤い小さなピーマンみたいなのが入っていたが、アフリカの赤唐辛子なのかな。

まず、肉か魚を生のまま調味料と共に、数枚の大きな葉っぱを放射状に重ねた上に入れて包み、茎を合わせて葉の上部と茎の狭間部分を紐で結わえて中身を封じ込み、まずフライパンに水を張って熱し、そこにMabokeを入れて蒸す。
水が無くなると、次に鉄板で焼く。そのとき炭火で焼くととても美味しくなるということだ。

フランス語の先生の話では、Mabokeは、この国ではとてもポピュラーな料理だそうだ。でも、値段が高いから、特別な時にしか食べられないのだ、とも。
慰労会でのMabokeは、1個五、六千コンゴフラン(五百円くらい。)だったとか。我が家の忍者ハッタリくん(!)は言っていた。

また、フランス語の先生に、へびのMabokeもあると聞いたことを伝えると、びっくりして、キンシャサではへびは食べないとのこと。
中アではヘビを食用としていたことを話すと、なるほど、バンギは赤道州(コンゴ民主共和国の北部の州。中アとはウバンギ川で国境を接している。)と隣同士だから、ヘビなどの動物がたくさん棲息しているんだね、ということだった。


中央アフリカ共和国の北部を旅したときに食べた、ピーナッツペーストと砂糖、生姜で煮た鶏肉料理の味が忘れられなくて、日本でも瓶詰めのピーナッツバター(砂糖入りのパンに塗って食べる瓶入りのもの。)を使って料理していた。隠し味でちょこっとしょうゆを入れたりして。「茄子の味噌煮」の作り方と同じような感覚だ。
Mabokeも、どうにか、あの味を再現できないかなあ。

2012年7月17日火曜日

L’éléphant vert: タンタンも冒険したコンゴ・キンシャサ

エルジェ作 ”タンタンのコンゴ冒険”という絵本は、まさにコンゴ民主共和国をタンタンが冒険したときの話だ。もっとも、ベルギーの植民地だったころの80年も前のころのコンゴではあるけれど。
そんなタンタンの冒険絵本のことを書いてみた。

L’éléphant vert: タンタンも冒険したコンゴ・キンシャサ: この本は、福音館発行のペーパーバック版”タンタンのコンゴ探検”(原題:”TINTIN AU CONGO”)だ。 物語の作者は、ベルギー人のエルジェ(Herge)。 タンタンの冒険シリーズは、ブリュッセルの新聞社の週1回発刊の子ども版の企画として誕生したのだそうだ。 そ...

2012年7月16日月曜日

セミがいない!!


我が家ダイニングのベランダからの風景

キンシャサゴルフ場には大木も池もいっぱい
 南フランスに住む娘が、何日か前のブログに、”今日も朝から鳥のさえずりとともに、セミのにぎやかな声が鳴り響いています。”
と書いていた。
それを読んで、いつも頭をかすめる、ある思いが浮かび上がってきた。

キンシャサに来て、ずーっと不思議に思っていたことがある。
常夏の国だというのに、蝉の鳴き声を聴かないのだ。

蝉がいない!!

これだけ木がたくさんあるのに!!、だ。


ゴルフ場には大木が並び、いろんな鳥のさえずりが聴こえてくる。
白い鳥、青くて小さなきれいな小鳥、すずめの小型でいつも群れを成している、リンガラ語で”ビュンジ”(ビュジ?)というかわいい小鳥。
もちろん一回り小さいカラスもいる。

それからゴルフ場には、モンシロチョウ、モンキチョウもいるし(今日もモンキチョウがひらひら飛んでいた。)、トンボだっている。

大使夫人の話では、公邸庭にはうるさいほど蛙の鳴き声が聴こえるそうだ。(わたしは残念なことに聴いたことがない。)

でも。

セミがいない。

家政婦のフロランスに聞いてみた。

セミ、”la cigale”、知ってる?
知ってるとも! (ちょっと怪しい・・)

じゃあ、キンシャサにセミっている?
ン~ン、いると思うよ(自信無げ・・)。 fourmi(蟻)の大きいやつで地面を歩くやつでしょ。
違う違う。これくらいの大きさで、木の幹にくっついてジージーと鳴く(南仏のセミはジージーと鳴いていた。)虫で、決して地面を歩かないよ。

 フム・・・(思案顔・・) 今日、夫に訊いてみるから待ってて。

そして翌日。
彼女の答は、「いるよ。」だった。
「それは、リンガラ語で”ケレレ”と言ってね。リーンリーンと夜鳴く虫よね。マダムの大嫌いな虫と同じ色してて。」

彼女の言う虫は、きっとこおろぎか鈴虫か、だろう。

で、フランス語の先生に訊いてみた。
"cigale"という単語は知っているけど、キンシャサにはその虫は多分いない。
そう言った。

運転手にも訊いてみた。
"cigale"という単語からして知らない風だった。

ということで、少なくともキンシャサには、蝉はいない、のだろう。




プロバンス柄の布地たち





上の3枚の写真は、南フランスのプロバンス柄の布地だ。
これら、プロバンス柄は、セミをモチーフにしていると聞いたことがある。
わたしは、このプロバンス柄が大好きだ。

南フランスでは、「セミは幸せを運ぶ虫」、と言われている。
実際、南フランスを旅すると、陶器でできた大小様々の壁掛け用のセミが土産物店で売られているのを見かける。日本の我が家にも2つの陶器製のセミが壁に掛けられていて、わたしの宝物だ。


7年前の夏、8月12日の夜、日本の自宅マンション通路で、わたしは、セミにうるさくつきまとわれ、逃げまくった挙句にすっ転んで、転倒。通路突き当たりの水道メーターなどの入っている鉄扉に激突した。その夜、病院でみかん大の脳腫瘍が見つかった。
幸いなことに良性のものだったが、出来ている場所が微妙なところだった。
だからこそ自覚症状が全く無く、もしセミに追いかけられていなかったら、更に発見が遅れていたことだろう。
幸運は重なり、信頼できる脳外科医と整体師に出会い、無事に手術を受け、何の後遺症もなく、今ではゴルフを毎週楽しんでいる。

あのころ、周囲の者たちから、よく言われた。あのセミはわたしの亡き母だったのかもしれないね、と。

それから、毎夏、8月半ばになると、我が家のベランダに必ずセミがやって来た。
マンションを引っ越しても、セミは迷うことなく、大きなオリーブの鉢植えのあるベランダに来た。


”セミ”の話から、あちこちに話題が飛んでしまったが、セミにまつわるわたしの思い、だ。

今夏は、キンシャサにいるしなあ。
しかも、キンシャサにはセミはいないっていうことだしなあ。

今年の8月は、セミに再会できないのだろう。
ちょっと寂しい気がする。

2012年7月12日木曜日

コンゴに生きる人たち

我が家ダイニングのベランダからの景色

今日もキンシャサは朝からどんよりと重い雲で空は覆われ、太陽は見えない。
半袖、素足ではちょっと寒い。靴下を履いた。

我が家の温度計は、やっぱり25℃を指している。この温度計、いつも25℃を指しているような気がするけど、壊れてないかと疑ってしまう。(温度計にまで疑心暗鬼になっている!)

ただ今午前11:15。家政婦のフロランスはまだ現れない。
通常は9時始まりなのに。
彼女は、一昨日、頭痛がするから病院に行ってから出勤する、と言って12時近くに我が家到着。
そして、昨日。明日は薬を貰いに行ってから来ます、と言って帰って行った。
何日か前に、頭を強打して以来、頭痛がするのだ、と言う。
午後2時に仕事が終わってから薬局に行けばいいのに。
そう言ったら、午後からではだめなのだと言う。悔しいことに、その「ダメ」な理由が聞き取れない。

人を使う、ということは骨が折れる。

本当にストレスが溜まる国だ。


国連職員でこの国が嫌いだ、と言い捨ててよその国に行ってしまった人がいた。
この国の人を絶対信じないことにしている、どんなに良い人だと思っても裏切られてきたから、もう傷つきたくないから、この国の人を信じない。
その言葉を反すう胃のごとく噛み砕いてみる。

IWC(国際女性クラブ)の大部分のマダムたちが、この国は住みにくい、と不平を口にする。
クラブの年度末の最後のニュースレターの代表者の挨拶文の中に、
”Kinshasa is an incredible city.”
という箇所を見つけた。

”incredible” ・・・ 辞書を引くと、「信じられない、信用できない」または、「途方もない、並外れた、異常な」とある。 
最近、キンシャサにあった韓国レストランが店を閉じた。この地で店を維持することに疲れてしまった、と言っていたそうだ。
わたしのフランス語のコンゴ人の先生も、不動産のことで裏切られたらしく、涙ぐみ激昂して、この国の人たちは大嫌いだ、だから、わたしは将来いつかよその国で暮らす!と、言っていた。


確かになあ。
家の修理ひとつとっても、何度言っても来てくれない。
本当に修理人なのかと疑うほど技術が下手だし、ゴムを巻いたりセメントで埋めたりして微妙な折衷策(?)で平然と修理したと言いのける。
そして、屁理屈をこねるのが上手だ。

ある時、台所の水道の蛇口から水がポタポタ落ちて来るので、修理人を呼び、水道の蛇口ゴムパッキンが磨耗しているから新しいのに取り替える必要がある、今から買って来るから水道蛇口代金としてこれこれの金額が欲しいと言う。
わたしが、この修理代はアパートの持ち主が支払うべきものだろう、と主張すると、修理人も我が家の家政婦も二人して、壊れたのを見つけたあなたが支払うべきだと言ってきた。
何言ってるの!!日本では、アパートの持ち主が修理代を払うのだ、とわたしが呆れて言い返すと、ここはコンゴだ、見つけた人が修理代を払うのだ、と屁理屈を通された!

ここに引っ越してまもなく、部屋の害虫駆除に来た、と言って、殺虫剤入り(と思われた)の立派なバキュームを背負って部屋に入り込み、あちこちに殺虫剤をばら撒いてまわり、このまま明朝まで放置してください、そして後は軽く拭いてください、部屋中の害虫が駆除されました!と言って何十ドルだか百ドルだかを取って帰っていったが、ちっとも殺虫剤の臭いがしない。殺虫剤とおぼしき液体は、何の臭いも発することなく、シミにもならずきれいさっぱり蒸発してしまった。
ただの水だったのだ。

誰かが、この国の人は、中国人より屁理屈を通すのにかけては一枚上手(うわて)だと言っていた。どんなに間違った主義主張も堂々と立ち向かって自分の主張を通してしまうのだ。

この国で仕事を持つ外国人はさぞストレスの溜まることだろう、と思う。
中央アフリカにいる時、無償援助の道路工事に従事していた日本人が、現地の労働者を使っていて、200人いたらその中に信頼できる者が1人だけ見つかる、と言っていたそうだが、果たしてこの国にも当てはまるのだろうか。


この国に1997年まで32年間もの間、君臨してコンゴの国益は我が利益と言わんばかりに私腹を肥やし続け、コンゴの国と国民生活を破壊し尽した暴君、モブツ元大統領の下で、それでも生きていかねばならなかったコンゴの人たちを思えば、その時代を生き抜いて来た”したたかさ”、というのか”生きる知恵”を身にまとった経緯を非常に納得できる。
井上信一著「モブツ・セセ・セコ物語」(新風舎・絶版)を読んで、心底、コンゴ国民の人格形成の根本を見せつけられた思いだった。


”モブツ・セセ・セコ物語”

”・・・本来豊かであるべきコンゴの農業、林業、漁業、そして、ついには鉱業までが疲弊し、危機的状況に落ち込んでしまいました。その上国民にとっての最大の悲劇は、モブツが自らとその一族のために国のお金を湯水のごとく使い、この豊かな国を破産状態にしたことです。モブツはある外国人記者とのインタビューの中で、自分が世界第二の資産家であると言ってはばかりませんでした。
国民のために使われるべき予算は手荒く減らされ、教育、保健衛生、インフラの整備など行政のあらゆる面にそのしわ寄せがきました。独裁政治の下で、国民は苦しい惨めな生活を強いられ、自由に自分の意見を述べることが出来ませんでした。モブツ体制の下で命を奪われた人の数はどのくらいに上るのかわかりません。・・・”

この本の序章からの抜粋だが、ここの箇所を読んだだけでも虐げられた生活を30数年も(その前はベルギーの植民地として80年も!)送らざるを得なかったコンゴ国民の様子が理解できるかと思う。

この「モブツ・セセ・セコ物語」について書きたいことが山ほど(!)あるがまたの機会に。
隣に住む日本の医師が、この本は隠れた名著だ、と言われていたが本当に素晴らしい本だと思う。

この古くて修理ばかりしている、自家発電機の備わっていないアパートから抜け出したい一心で、会社の規定内の家賃の新築アパートを見つけたのに、大家(このマダム、悪名高きモブツの妾だったという女性!)の手下(と言葉まで悪くなってしまった!)が、
「入居時に交わした誓約書に、”1年間は居住のこと”という項目がある。あなたたちは1年住んでいないのだから、いくら3ヶ月前に引越しを言ってきても入居時に払った3か月分の保証金は返金できない。」
と言ってきた。
或いは、「あなたたちが出て行こうとしている部屋を誰かに紹介してくれるなら話はまた別だが。」とも。

こんな水も出ない、電気もない、修理だらけ、継ぎ接ぎだらけの部屋を誰に紹介できるって言うのよ!!
・・・と面と向かって言いたいところだが、そんなフランス語力を持ち合わせていない、平和的な日本から来たわが身には、できない相談だ。悔しいけど。

シャワーを使っていてもいつ水が止まるか冷や冷やものだし、お客さんを迎える日は、食事の準備中にいつ電気がストップするかと緊張するし。

毎晩のお酒が進むようになってきた。
(暗い話、愚痴ばかりでお許しを。)

2012年7月10日火曜日

L’éléphant vert: アフリカの夕暮れ

3年前の夏から毎夏、都内で開店していた絵本屋「L'elephant vert」のブログのほうに、”アフリカの夕暮れ”というタイトルで絵本3冊と絡めて書いてみました。


L’éléphant vert: アフリカの夕暮れ: これは、絵本”だれかが星を見ていた”(アスクミュージック出版)からのものだ。 動物園勤務経験のあるあべ弘士氏の絵には、大雑把なのにしっかりサバンナの動物たちが描けていると感心する。 動物たちの一頭一頭のシルエットが夕陽の雄大さを教えてくれる。 わたしの大好きなアフリカ...

2012年7月4日水曜日

額が出来上がってきた!

今日も朝からひんやり、寒いくらいだ。半そでTシャツでは寒いから半そでカーディガンを羽織って、ソックスを履いた。
正午の室内温度は25℃。
雲が広がっているが、決して雨は降らない、らしい。太陽が出ないから肌寒い。
聞くところによると、コンゴ河の水が蒸発するから、乾季といえども雲が広がるのだとか。
一昨日から、寝具を厚手の毛布に換えた。もちろんエアコンなしで、厚手の毛布に包まって寝てちょうど良い。

さて、10日ほど前に注文していた額が2つ出来上がってきた。
前回書いた、”Artisanat et Developpement” の製品だ。

一つは、先月滞在した、南仏 アンティーブの画廊で見つけた黒人ジャズグループの油絵に合わせた額だ。絵から四方3cmほど空間を取って黒の木枠を付け、ガラスをはめ込んでもらった。



もう一つは、コンゴ、クバ族のラフィア織物用に注文した額だ。
やはり、同じ黒の木材で額を作り、両面をガラスにして織物をはさんだ。
どちらの額の木材もかなり重くて、かなり堅い。なんという木なのだろう。

先日、IWCのモーニング・コーヒーの集まりのときに出会った、フランス人の建築家だという男性から、私の名前を聞いて、「あなたの名前はアフリカの木の名前と同じですね。」と初めて言われた。
アフリカに”IROKO”という堅い良質の木があるということは、Banguiにいたとき、子どもたちの学校の先生から聞いていた。Bangui市内に、”IROKO Hotel”というホテルがあって、そのことから、”IROKO”の木の話になったのだ。教えてくれたのは、ジョスリンさんというマルティニック(カリブ海辺りにあるフランスの海外領土圏)出身のお洒落な女性だった。

わたしは、まだ”IROKO”の木に出会っていないが、いつかの出会いを楽しみにしている。



上の写真がクバ族の・ラフィア・ビロード織物をガラスで挟んで額装したものだ。

壁にもともと釘がはめ込まれいたので、それを利用し、夫が日本で買ってきていた釣り糸用兼額縁吊り下げ用のビニルロープ(?)に専用金具で輪を作って吊り下げた。
両方の額ともかなりの重量なので少々心配だが、別名”ハッタリショウゾウ”の夫が、「大丈夫だよ。」と言うので、一応、懲りずに(!)信じてあげることにした。
(新婚時代、夫は、自身で天井に取り付けた照明器具をその日のうちにわたしの肩の上に落下させた、という前科がある・・・あの時も、「大丈夫だよ。」と自信満々だった・・。)

リビングとダイニングに絵がある、というだけで、グン!!と雰囲気がアップした。

さらに、わたしのタムタムがとても良いインテリアになっている。


ちなみに、この写真の中の照明器具は、先月、娘の住む町を訪れた時に、読書用の灯りが欲しいと思って買ったものだ。ジュアン・レ・パン駅前通りの電気屋の年配の老夫婦が、「アフリカに持って行きます。」というと、丁寧に分解して梱包してくれて、はるばるキンシャサまで運ばれてきたものだ。
この照明器具のお陰で、薄暗かった夜のリビングが少し明るくなった。

今日も午前中、水が来なかったけど、少しずつ、住み心地のよい住空間を作っていきたい。

2012年7月3日火曜日

キンシャサの家具屋事情



最近、家具探しを始めた。
キンシャサの街を車で通っていると、家具屋を結構見かける。

路面店として、”HABITA”という店が市内に3店舗くらいある。フランスのブランドだと記憶している。ずいぶん前に東京でも、西武池袋店にアビタの店舗が入っていた。その後、デンマークのインテリアショップに変わったが。
他に、”American Eagle”という4階建て(?)の日曜大工道具店の最上階に家具のフロアがあるのも知っている。まさに日本のデパートの家具コーナーのような雰囲気ではあるが、ここには派手な御殿に置くような家具ばかりが並んでいる。


そして、キンシャサの外れ、道路の両サイドに家具職人の店が軒を連ねる野外家具店街がある。砂地の上で、木材や籐素材で家具を制作し、そこで売っているのだ。
粗悪な木材でニスをたっぷり塗りたくった家具。椅子に座ると木材のささくれが皮膚に突き刺さりそうな粗末な加工で、ニスでべたべたしている感じがする。砂地の上で作業するから、家具の脚元がすでに土ぼこりとニスで変色して汚れている。
ある人の話では、道路端で売られる家具は、虫に食われているから避けるべきだ、と言う。
さもありなん。

現在居住中の我が家のドレッサーとソファに虫が湧いた。
ドレッサーのほうは、殺虫剤を撒けども撒けども、未だに木材を蝕み続ける虫が奥深くに入り込み巣食ったままだ。これがベッドでなくてよかったと真剣に思う。
ここの家具は、確かに他の家具店より”0”が一つ少ないが、食指は全く動かない。
いくらテンポラリーなキンシャサ暮らしでも、住環境はある程度しっかり整えたい。

そういった意味で、キンシャサ駐在生活を終え、本国に帰国する人たちの中古品セール情報は貴重だ。IWC(国際女性クラブ)のNews Letter や、アメリカ大使館発行のCongo Bongo,イギリス大使館発行のNews Letterに掲載される情報は見逃せない。

ここの野外店の革張りや布張りのソファの製造過程を見て、びっくりした。
外観は、どこぞの成金お宅のリビングに鎮座する豪華御殿風ソファなのだが、中身は木枠に使用済みプラスティック梱包財を切って貼り付け、その上に劣化しかけで変色したウレタンスポンジをホッチキスで留めていき、さらにスポンジを重ねてソファとして形成されていた。
見てくれだけカッコイイ!、というのはこの国の得意技だ。


こことは真反対のシンプルかつ作りのしっかりした家具制作工場を教えてもらった。飛行場近くにある、”Scan Form”だ。名前の通り、北欧家具のオーダー工場だ。
展示ルームは、もはやキンシャサではない。
銀座マツヤの北欧家具コーナーと並べても遜色はない。
よく見ると仕上げがイマイチだったりもするが、シンプルなデザインで、木材の材質も良く、申し分のない家具だ。ただ如何せん高い。
4人がけの丸いダイニングテーブルと、デンマークのデザイナーズ家具に似た座位部分がロープで編まれた椅子が4脚で2190USドル。シンプルな無地布張りソファ3点セットが3320USドル。クイーンサイズベッドが2520USドル。サイドボードも上品でシンプルな仕上げだ。
注文して納品まで45日かかるそうだ。
いいなあ、ここの家具!夢心地になるが、1,2年の滞在のためにこんな高価な家具は買えないことは承知している。

ここよりグンと質は落ちるが、道路端家具職人の家具よりはマシなオーダー家具屋として、”Artisanat et Developement”がある。材質の割りに高価な印象だ。
1週間ちょっと前に、この店で、アンティーブで購入した油絵とクバ族の織物のために木製額をそれぞれ注文した。
明日あたり受け取りに行こうと思うが、果たしてどんな風に仕上がっただろう。
木製額のオーダー価格は一つ80USドルだと言われ、交渉して2つで150USドルになった。

さて、いちばん最初の写真は、夫が、「キンシャサにイケアができた!キンシャサのイケアだから、キケアだ!」とか平然と信じがたいことを言うので、百聞は一見にしかず!いつもハッタリでモノを言う夫の説明に半信半疑でついて行ったら、こんな家具屋が夫たちの道路工事現場近くにオープンしていた。
市内から空港へ向かう平行して走る2本の道路、ポアルー通りとリミテ通り間をあばら骨のように何本も通る道路のうち、12番通りに”Scan Form”のショールームと工場が、14番通りに”KITEA "の店舗がある。
KITEAは、日本の”ニトリ”のような感じか。組み立て家具とリビング&ガーデニング&キッチン用品が置かれている。
店の責任者らしい男性がいたので尋ねたら、モロッコからの家具屋で4月にオープンしたのだそうだ。店の名刺がほしいと言ったらまだ準備されていないとのこと。
ニトリ製品には及ばずちゃちな製造のイージー組み立て家具の割りに高い。価格的には”Artisanat et Developement”と同じくらいか。

よくよく店の名前を見上げたら、" KITEA"だった。
スウェーデンの"IKEA"とは全く無関係で、モロッコ国内で展開している家具屋だということだった。

”KITEA"ってなんだか、「来てや」みたいだなあ、と思ってもう一度見上げると、店名の下にフランス語で”Bienvenue”・・・(いらっしゃいませ)、「よく来てくれました」、と書かれていて、何だか愉快になる。
モロッコ滞在経験者に聞くと、モロッコ国内のKITEAは、IKEAのようなシンプルな家具を扱う店だそうだ。彼女は、きっとコンゴの人たちのニーズに合わせて豪華装飾の家具を置いているのだろう、と言っていた。


街の中心にある、”UAC"という大きな店構えの家具屋もあるが、わたしは店内にまだ入ったことがない。
IWCの今年度版”Newcomer's Guide to Kinshasa”の冊子には、キンシャサ市内に計14店の”Furniture shops”が掲載されている。すべての家具屋をのぞいて見たいと思っている。


これだけの家具屋が存在し、多種類の家具がキンシャサにそろっているのも、この国に港があり、港からコンゴ河を遡ってマタディー(Matadi)まで大型船が入港できるからだと思う。(マタディー~キンシャサ間は今では陸路で運ばれるということだ。)
そして、キンシャサに空路で入る路線が多く飛んでいるということも挙げられる。

ケニア・ナイロビ便、エチオピア・アジスアベバ便、そして南ア・ヨハネスブルク便は毎日就航し、パリ便、ブリュッセル便は週4,5便、モロッコ・カサブランカ便やカメルーン・ドアラ便もあるそうだ。

キンシャサではお金を出せば色々なものが入手可能なのだなあ、と家具ひとつ取ってみても感じることだ。
この国で一民間企業の駐在員家族として限られた期間を暮らすには、上を見ることなく、下を見ることなく、どこかで折り合いをつけて、アイディアと発想の転換で乗り切ることが”鍵”なのだろう。

2012年7月1日日曜日

6月30日 コンゴ独立記念日に

今日は、6月30日。コンゴの独立記念日の祭日だった。

当日、キンシャサ市内の”勝利の通り”で独立記念集会が開かれる模様だから、充分気をつけるようにとJICAから連絡網が回ってきたが、その集会も中止となり、結局はとても穏やかな祭日だった。

わたしたち夫婦は、夫の仕事が休みだった(普段は土曜日も出勤している)ので、ゴルフクラブ主催のコンペに参加した。
キャディーと2人ペアになり、1人ずつ打って、どちらか良いほうのボール位置から次を打つ、ということを繰り返す変則的なルールでのコンペだったので、精神的にもゆとりがあり、しかもわたしのキャディーが上手い!、ときているので、初参加のわたしでも緊張することなくプレイすることが出来た。

わたしが打ち損なうと、キャディーのカンザが良い一打で救ってくれ、カンザがたまに打ちそこなうとわたしが奇跡的に良い一打を投じ、初回からパーを重ねてゆく、という前代未聞のプレイが続いた。

そしてわたしたちと一緒に回ったもう一組のペアが、とてもフレンドリーな穏やかな方たちだったのも幸いした。ミリアムさんというベルギー人マダムと若い”プロゴルファー猿”の主人公のようなキャディーで、かれはゴルフクラブを持っていないのでマダムのクラブを借りながらプレイしていた。

わたしのキャディーのカンザとて、とても古い、くたびれたクラブを使っていた。ウッドは本当の木製でヘッドが小さい古いタイプのものだった。

わたしたち2組のペアーは、薄曇の乾季の爽やかな気候の中で、和気あいあいとプレイすることができた。結果は、わたしたちはグロススコア(なんと!!)85。ハンデ14でネット71、というもう驚きの奇跡的な数字を出して、第3グループ(第1から第3まで分かれていたから、初心者グループ、なのだろう。)で3位になってしまった!

3位の賞品の小麦粉
賞品は、今日のスポンサーの"MIDEMA"社の帽子、fufu(こちらの主食)の粉(とうもろこし)5kgと、小麦粉2.5kg×3袋だった。それが、わたしとキャディーそれぞれに同じだけ与えられたのだ。
上の写真のMIDEMAブランドの小麦粉の袋の下に、
”Produit en Republique Democratique du Congo”
 とある。また、側面には、”MATADIの製粉工場”、”30年以上前からの自家製小麦粉”とも書かれている。

今回のコンペに参加しようと思ったのは、キャディーのカンザから一緒にコンペに参加して欲しいと懇願されたからだ。参加費20USドルでキャディーがコンペに出場する機会を作れて、頑張れば賞品をもらえるのだ。よし、これで参加しなかったら、女が廃る(すたる)、と一大決心して参加したのだが、ああ心底、キャディーと参加してよかったと思う。
わたしがもらった、fufuの粉5kgはカンザにプレゼントした。彼の実力にのっかって3位入賞を果たしたのだから。そして、かれは、最初から最後まで、わたしが打ち損ねても、「Pas de probleme」、問題ないよ、大丈夫だよ、と言い続けてくれたのだ。
ありがとう!優しいカンザ!

そして、同じグループで楽しくプレイできたことに感謝して、ミリアムさんに小麦粉を1袋、プレゼントした。ミリアムさんは打ちそこなうと、いつも、「オオオー!ミ~リア~ム!!」と大らかに嘆く姿がチャーミングだった。

コンペが終了し、夕方6時半からの表彰式に合わせて、たくさんのキャディーが奥さんや恋人(?)と共におめかしして集まってきた。そして多くのコンペ参加者も集まり、コンペ主催者が用意したクレープに舌鼓を打ちながら、皆が平和なキンシャサを楽しんでいるようだった。

ゴルフクラブの歌なのか、ゴルフクラブのパーティーのときに必ず歌われる歌を拳を上げて意気揚々と歌い合い、結果発表と表彰が続き、最後に、コンゴ国歌を皆で起立して声高らかに合唱した。
旧植民地の支配者側も被支配者側もない、皆がくつろぐ、独立記念日の夜だった。

6月30日、コンゴの独立記念日にふさわしいキンシャサゴルフクラブの企画コンペに参加でき、わたしたちも光栄だった。
コンゴの東部のほうでは、現在も戦闘状態が続いているという。この国全体が本当の平和に包まれる時が早く訪れますように。