2013年3月31日日曜日

手記“バンギの「ある日」”より

 ただ今わたしはフランスの娘のところに来ている。

母となった娘やもうじき10ヶ月になる孫娘を観ていると、娘や息子の小さかった頃のことを懐かしく思い出す。


1992年から1995年まで家族で滞在した中央アフリカ共和国の首都バンギで大変お世話になったかたから、かれが管理するブログの中で滞在記を書いてみないかと誘っていただいたことがあった。「あふりかどまんなか」という中央アフリカ共和国の情報ブログだ。
帰国して1,2年ほど経っていただろうか。
かれは、同時期に中央アフリカに滞在し、夫がコンサルタント業務に携わった舗装道路プロジェクトの建設会社のかただった。現在、ラオスでインターネットと日本語の学校を私費で開設し活躍されている。


北緯4度の中央アフリカ共和国の首都バンギと、南緯4度のコンゴ民主共和国の首都キンシャサ。
バンギはコンゴ河の支流のウバンギ川岸に広がる田舎都市で、キンシャサは大きなコンゴ河沿いに広がるアフリカ第三の大都市。20年前のバンギには固定電話も携帯電話も存在しなかった。携帯電話のはびこる現在のキンシャサとは情報面ひとつ取っても雲泥の差だ。
それぞれ赤道から等距離に南北4度ずつ離れているだけなのに、乾季と雨季が逆で、バンギのほうが一年を通して暑かったことも思い出す。

幼かった子どもたちとの滞在は病気を心配したし、学習面のことも考慮しなければならなかったが、本当に思い出深いバンギ滞在だった。
夜の子どもたちとの読書タイムも懐かしい。

それから、野鳥の種類もずいぶんと違った。
バンギで聴いたうぐいすの鳴き声はまぼろしではなかった。
というのも、ナイロビに長いこと滞在したかたが、アフリカには確かにうぐいすがいる、と証明してくれたからだ。


そんな懐かしいバンギが先週、反政府軍によって占拠されたというニュースが流れた。
息子が憧れたボーイのフランソワおじさんも夫の運転手のジャックも亡くなって久しいが、わたしたちが大好きだった子どもたちの運転手のポールはどうしているだろう。

前置きが長くなった。
以下、“あふりかどまんなか”ゲストコーナーから抜粋した、“バンギの「ある日」” だ。



ゲストコーナー   バンギの「ある日」


Mocaf
<筆者の住んでいたアパート>
外はまだ真っ暗だというのに、もう小鳥がさえずりはじめている。私たちの住むアパートは、6-7mの高さの大木に囲こまれていて、地上から空を見上げると、四分の三は木々の緑に埋まっているという感じだ。
「うぁー、私は世界三大熱帯雨林のひとつの中で生活しているんだー。」と実感する。
小鳥たちはその大木の上の枝のほうで鳴いているのだから、2階に住む私たちには、上から降ってくる音のシャワーに包まれ、音響効果抜群で聴えてくる。
鳥の声もまた、ユニークなのだ。

  「チュー・ビット・チョン、チュー・ビット・チョン」とか「パッ・ピエポッ・ピッ、パッ・ピエポッ・ピッ」とか「ニルソンさん・チチッ、ニルソンさん・チチッ」とか。はっと気がつくと、私も一緒に歌っていたりするほど楽しい。音色からして、私は同じ鳥の種類なのではないかとふんでいる。機嫌のいいときなど、この鳥狂ったかと言わんばかりにめちゃくちゃ声を張り上げてさえずったり、今日は調子悪いなというときは「ジュー・ビッド・ジョン・ヂヂッ」とトーンも下がり気味となる。

  ある夜明け前、私は「ホー・ゲギョ・ゲギョ」という鳴き声で目を覚ました。あれ、これって、うぐいす? まさか、ここはアフリカ熱帯雨林、そんなはずありますまい。しかし、やっぱり、さんざん練習した挙げ句、とうとうホー・ホケキョと鳴けるようになったのは、夜もだいぶ明けてきたころであった。という日もあった。
(多分これは、絶対夢ではなく、本当にあった出来事として私のなかでは、処理されている。)

  2月の乾期の一番熱いときの寝苦しい夜明け前、そうやって早々と起こされるのが日課だ。アフリカの人たちの朝は早い。北緯4度のバンギは大体ほぼ1年を通して、朝6時前に夜が明け、やはり夕方6時前には日が沈む。朝は6時すぎごろから、ぞろぞろ勤務先へむかって人の波が道路にうねる。徒歩通勤が当たり前のところなのだ。

  アパートの隣は国営ラジオ局。電話通信網の発達もなくテレビもニュースが夜1時間あるのみのこの国で、ラジオは庶民のあらゆる生活情報源(個人的にも冠婚葬祭の個人呼び出しなど伝言板的なコーナーもあるらしい。)なのだ。ラジオ局の門番は軍隊で、夜中も常駐していて時折話し声が聞こえてきて目を覚ますこともある。

6:00。目覚まし時計とともに私たちも起きる時間だ。
ウバンギ川から100mと離れていないところに建つこのアパートは朝靄につつまれ、むっと暑い。そんな空気の中を、トランペットの美しい音が朝が来たのを告げる。朝の空気にリーンと響いておごそかに鳴り渡り、しばらく余韻を残して静かに消えていく。

  このアパートはベルギー人経営のビール工場が広がる一角にある。我が家のアパートの家主は、ビール工場の経営者。植民地時代からあるという古い4階建てのコロニアル調のアパートだ。
朝は、主人や子どもたちが、すぐそばにあるホテル・サントル横のパン屋“ソコトラ”へフランスパンを買いに行く。1本75FCFA(約30円)で焼きたてのフランスパンはまあまあの味だ。朝食はテ・オ・レとフランスパンに、バター、ジャム、チーズ。

  牛乳、バター、チーズなどの食料品は、市内3つのスーパーでフランス製の物が買える。毎週木曜日午前中には、パリから生鮮食料品が空輸されるので、野菜、果物、乳製品を目当てに木曜日の午後は買い出しと決めている。その時はスーパーも大勢の外国人客でにぎわう。しかし空輸される食品は高価で、パリの市価より4~5倍にはね上がり、ある時立派なカリフラワーを1玉買おうとしたら、日本円にして1000円以上もするので、驚いた記憶がある。

  玄関のチャイムが鳴った。6:30だ。我が家の私用の運転手ポールだ。
子供たちの学校が始まるのが7:20なので、7:05には、家を出発しなければならない。月曜日から土曜日まで毎朝7:20から12:00までのフレンチスクールだ。ここバンギで外国人子弟の通える学校は、唯一、このフレンチスクールしかない。フランス空軍の一大基地のあるこの国はフランス人が多く、この学校もフランス人経営で教師陣はすべてフランス人(フランス政府派遣の教師もいる。)。幼稚園から高校まで約1000人の子どもが通い、うち半数はフランス人子弟である。

Bangui Map  さあ7:00。子どもたちは、スナック菓子と水筒を持ち、重いカバンを背負い、ポールの運転する年代物の赤いルノーで出発だ。家からホテル・サントルの前を過ぎ、ボガンダ・アベニューを渡り、突き当たりの大統領府を左へ。左側に郵便局を見て、ユニセフ事務所の角を右へとり、さらに左へ曲がるとドイツ大使公邸と大使館、エジプト大使公邸と大使館などが山手側に並ぶ通りへ入る。山の麓なので緑がうっそうと濃い。
それを過ぎて、同じ山手側に見えてくるのが子供たちの通うフレンチスクールだ。


  山の斜面に点在する学校でフランス人らしいセンスでアフリカらしさを取り入れたカラフルな平屋校舎群だ。敷地もゆったり山の斜面を利用しているから休みの時間は子供たちのうってつけの遊び場となる。鳥のひなや蛇や一風変わったアフリカのカタツムリにも出会うらしい。娘はCE2(小3)、息子はMaternale3(幼稚園年長)。
仏語圏外からの外国人子弟のために仏語補習授業が週2回夕方の1時間、学校で行われている。山のふもとの校舎でしかも夕方なのでよく蚊に刺され、予防薬を飲んでいても子供たちは半年間で2度ほどマラリアに罹った。

  今朝は主人がボッサンベレの現場へ出発する。だいたい火曜日の朝にバンギを出て週末に帰ってくるというパターンだ。主人の不在の時に子供が病気になりませんように、何事も起きませんように、と祈りつつの生活だ。主人は現場に行く準備に掛かっている。

  7:30にボーイのフランソワが「ボンジュール!!」と元気よく入ってきた。
本当に良くくるくると働くおじさんだ。53才で子供は12人。ついこの前も女の子が生まれた。運転手のポールもフランソワも熱心なプロテスタント信者で、フランス語の読み書きもする。何せ、我らがフランソワおじさんは村の隣組長なのだ。政治へのポリシーもしっかり持っている。フランソワは植民地時代に教育を受けた人でその頃の方が教育も立派にされていたと懐かしがる。今、公務員の給料未払い問題で公立小中学校から唯一の国立大学まで閉鎖状態なのだ。フランソワはわが子たちのために自費で村の教師私設寺子屋に通わせている。

  フランソワに掃除のことなどを指示して主人を送り出したあと、私はアフリカの布地などを使ってランチョンマットやティーコゼー、カバー類などを作ったりして過ごす。そんな小物類でここでの生活に潤いが生まれるのを楽しいと思う。
掃除の時、蜂が同じルートで飛んできて、私たちのベッドの棚の下に入って行くのに気付く。そういえばこのところいつもこの路線を飛行している。追跡すると何とベッドの棚の下に赤土でできた蜂の巣があるではないか。
「フランソワー!!」。ハッハッと笑ってほうきとちりとりで取ってくれる。その中には蜂の幼虫と白い卵が10個ほど入っていた。

  本当に油断していたらビデオデッキの中とか戸棚の角とかに赤土の巣をこしらえるのだ。この前などはふっと風にひらめくカーテンに“人形用の”と言っていいくらいおあつらえ向きの“素焼き風とっくり”がこびりついていた。1cm×1.5cmほどのものであったろうか。
「フランソワー、来てー!」。おじさんはやっぱりハハと笑って手でつぶした。そんな小さなとっくりの中にも幼虫1匹と、卵2個が入っていたから驚いた。

  もう一つ、主婦としての悩みの種が蟻だ。外のベランダにも家の中にもいたるところに蟻がいて、ちょっとお菓子を置いていたらもうドバッと蟻の黒山。甘いものだけでなく、肉やふりかけ、かつおぶし、歯磨き粉、汚れた下着にも来る。本当にギャーと叫んでしまうほどの蟻の黒山に何度身の毛のよだつ思いをしたことか。
台所には密閉ビンが必需品だし、とにかく保存食品は大型冷蔵庫に入れておくのが確実だ。

  ある日、主人はベランダの蟻をたどってとうとう蟻の大根拠地を見つけた。そこは冷房機のトタンの受け皿だったのだ。暖かくて湿り気もあり、人間も気づかない格好の隠れ家。何万個とびっしり並んだ蟻の卵の光景を私は見たいと言ったが主人は見せてくれなかった。

  そんな、主婦としての虫との戦いの内にも子供の迎えの時間となる。
校庭の木陰で子供たちを待っているとお友達のお母さんと出会う。最初フランス語でペラペラッとやられるのが怖かったがずいぶん度胸もすわってきた。分からなくてもウィ、アボンと言ってしまう悪い癖が付いてしまった。
「ボンジュール」。男の人の声に振り返るといつものムッシュだった。彼らは入学の日、日本人家族のように(この学校にはアジア人もほとんどいない)見え、話しかけたことから挨拶を交わしたり話をするようになった。

  この人たちはベトナムかラオス人と思われるが、「私たちはフランス国籍を持ったフランス人です。」と自己紹介した。フランス政府派遣の人でこの学校に通う3人の子供がいて、このムッシューが子供の送り迎えをしている。いつもニコニコとあたたかい人柄だ。
じっと待っていても2月の太陽は人の影までも焼き尽くしてしまうほど暑い。空がどんより黄色っぽいのはハルマッタンが始まったせいか。
子供たちが汗びっしょりの土まみれでTシャツをどろどろにして坂を下りてきた。今日も元気に遊んだようだ。帰ったらシャワー室へ直行だ。

  今日の昼食はスパゲッティにチーズをたっぷり載せ、フランソワおじさんの特製のスープをかけたもの。ふだんは私が昼食を作るが、時々子供たちが大好物のフランソワおじさん特製のスープを注文するとおじさんは朝からグツグツと手間暇かけておいしいスープを作ってくれるのだ。

  午後からは日本の子女教育財団から毎月送られてくる通信教育のワークをする。毎日算、国、理、社のどれか1枚ずつやって月末にまとめの添削問題をこなしてゆくと日本の学校と同じペースで勉強ができるというシステムだ。国語の音読や、日本の歌、日本の季節の語などの入ったテープも2か月に1回届き日本の四季を懐かしんだりしている。

  子供の習い事として娘は週2回フランス語の家庭教師をお願いしている。息子も小学校へ入ったら家庭教師を付けねばなるまい。今日は息子は3時から空手(先生は若い中央アフリカとポルトガルのハーフ)で、今日は4:30から娘のバレエのある日だ。バレエの先生はイギリス系カナダ人でその昔、英国ロイヤルバレエ団にいたかくしゃくとした初老の婦人。その先生の家で週2回レッスンがある。空手はその先生のお宅の広い庭でやはり週2回行われている。バレエ着もバレエシューズも胴着もバンギにはなく、パリで買ってこなければならない。生徒は圧倒的にヨーロッパからの子供たちだ。

  娘はピアノも習っている。ピアノも日本から運べず、バンギで買えるはずもなく小さなキーボードを日本から持ってきて練習している。先生を捜すことすら苦労して、今はエジプト人の先生について習っているが、娘はジャズっぽい弾き方をする先生に嫌悪感を持っている。もう少し良い先生がいないものかいろいろお友達のお母さんに聞いてもらっている。

  ボーイのフランソワは洗濯物にアイロンをかけると3:00で帰ってゆく。運転手のポールは普通4:00までだが主人のいない日は子供の送り迎えがあるので5:30くらいまで残業してもらう。

  子供は本当に精力的に遊び回る。お稽古や家庭教師、日本の勉強の合間を縫ってしっかりお友達とも遊ぶ。泊まりあいっこもする。当初日本人の子供は我が家の2人だけだったが、去年の暮れに大使館に2人の姉弟がふえた。年頃も同じくらいなのでよく遊ぶ。バレエや空手を通しても友達がふえていっているようだ。おけいこの送迎はなるべく私も一緒に行くようにしているがポールは一人でも良くやってくれる。

  日没はだいたい5:45頃だがうっそうとして高い木々に太陽が隠され5時を過ぎるとだんだん薄暗くなり始める。。川に近いせいか木々が多いせいかこのあたりは蚊が多いから5時前には窓を閉め、日没とともに蚊取り線香をたき始める。リビングの天井の扇風機もガランガランと回り始める。
娘がバレエ教室から帰ってきてポールも帰ってしまうと主人のいない夜に備えて玄関のドアの鍵を上中下と3つ閉める。3人だけになると本当にがらんと広く感じられる。トイレと台所はリビングからベランダにいったん出て向こうにあるので、主人のいない日はなるべく日が暮れる前に夕飯を終えておきたいのだが、バレエのある日だけは仕方がない。夜になるべく台所に立たなくていいように水やお茶など必要なものはリビングに運んでおく。ただし、蟻の攻撃にあわないようにタッパウェアや密閉ビン入りにして。停電に備えて懐中電灯もそばに置いておく。

  夕飯を済ませてシャワーを浴びる。シャワーの湯はイタリア製の電気温水器を使っているが家族3人までは続けてシャワーを使っても充分に湯が使える。ネパールにいた時はインド製の電気温水器で1人分の湯すら充分でなく、髪を洗っていたらもう水になり本当に心して使わねばならなかったことを考えるとありがたい。しかし、バスタブがないので日本の風呂が無精に懐かしくなる時がある。



The Inoue's
<筆者(左から2人目)と家族>
娘の仏語の宿題にはホトホト閉口する。
主人のいない日は私も一緒に辞書と首っ引きだ
が今日の宿題はライオンのオス、メス、子供はそれぞれ何という? 鶏は? 羊は? 犬は? 猫は? フランス語は男性形女性形とあって動物にはおまけに子の形まであったりして頭の回路はぐちゃぐちゃに絡み合い情けなくなる。本当にフランス語が恨めしい。こんなことで子供たちはフランス語の授業についてゆけるのだろうか。フレンチスクールに入学してもうじき半年になる。

 宿題はほどほどに切り上げて、母子の就寝前のお楽しみ、読み聞かせの時間だ。
子供たちはそれぞれのベッドに入り蚊帳をしっかりマットの下に挟んで、“虫かごの虫”と化す。
今読んでいるのはイギリスの物語“飛ぶ船”(岩波)だ。イギリスの4人の姉弟たちが骨董屋で見つけた不思議な飛ぶ船で時間的移動と空間移動をして巻き起こす楽しくてスリルあるファンタジックな物語だ。ヨーロッパ大陸を渡り、地中海を越えサハラ砂漠を南下してアフリカへも来ているし、私たちが以前滞在していたネパール方面へも行っているから、ますます身近に感じてしまう。この話を読んでいると子供たちにとって蚊帳のベッドが飛ぶ船になってどこへも自在に飛んでゆける楽しい時間なのであろう、うっとりと聞き入っている。
古代エジプトの探検に没頭していると私は蚊に刺された。植民地時代に建てられたアパートでよろい戸式のガラス窓は建て付けが悪く、よく閉まらないから蚊はしっかり入り込んでくる。

  さあもう9時。今日は停電もなく病気も怪我もなくネズミにもゴキブリにも出会わず安らかな日であった。「おやすみ」と電気を消すと静かなアフリカの夜が広がる。

アフリカの人々は夜明けとともに行動が始まり日没とともに終わる。夕食後、庭に置いた食卓テーブルのランプに家族が集まり今日一日のことを話しているのか。老人の昔話に耳を傾けているのか。そこここでゆらゆらと温かに灯る明かりが点在する。
アフリカの人たちが住む所はここからは見えないが、あの森の向こうのアフリカの人たちの生活を思いつつ空を見上げるとあふれんばかりの満天の星空であった。

1993年2月
井上 寛子



筆者:
井上 寛子(いのうえ ひろこ)
1992年から1995年にかけて建設企画コンサルタントに勤務する夫の中央アフリカ駐在に従い、2児とともに3年間バンギに滞在した。
この手記は当ホームページの依頼により1997年2月に当時のことを回想して書いたものである。





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2013年3月22日金曜日

キンシャサの”ERIC KAYSER” と カフェ事情

”ERIC KAYSER”とは、パリを本店としたパン屋とカフェだ。(と思う・・。)

キンシャサにも、この町に不釣り合いな店構えで、スーパー”CITY MARCKET”隣にこのチェーン店が開店した。パン屋にカフェが併設されている。


ERIC KAYSER 店内入り口

店内 奥の様子

”ERIC KAYSER”のウィンドウガラスに世界に展開する支店のある都市が列記されているが、TOKYO,OSAKA,NAGOYA,HOKKAIDOを見つけた。
SEOULの名もある。

アフリカ大陸では、キンシャサ店は3番目の支店らしい。
モロッコのどこかの都市に1店、セネガルの首都ダカールに2店目、そしてキンシャサに3店目。
どれも仏語圏だ。



一昨日、隣のスーパーに行った帰り、太鼓おやじの一件で凹みまくっていたわたしを夫がめずらしくカフェ”ERIC KAYSER”に誘ってくれた。
(夫を撮るふりして店内を撮影したから、微妙に端っこに見え隠れしているのが夫だ。)

わたしが注文したキャラメルを織り込んだパイ風菓子パンが3000FCちょっと(約300円)とキンシャサのパン屋・ヴィクトワールに比べるととても高い。
でも、とっても美味しかった。
隣席の人たちは食事メニューを取っていたから、店内で軽い食事ができるらしい。

帰りに持ち帰ったフランスパン2種(一つはオールドスタイルのフランスパンだとか。)も1本1500FC(約150円)くらいだっかな?高いが、塩味がきいてもっちりと美味しかった。

”ERIC KAYSER”のある界隈は商業地域で、路上駐車した車でごちゃごちゃしている。
中華食材が購入できる”CITY MARCKET”にやむなく行く以外は足の向かない地域でもある。



すぐ前には、フランスの田舎風の店構えの”Nouvelle Patisserie”があるが、ここのパンもケーキ類もエリックカイザーと同じくらい値段が高い。

同じ”Nouvelle Patisserie”でも、我が家に近いほうのフランス大使館傍の支店のほうが広々として緑も見えて落ち着く。こちらもフランスの田舎風の建物と店内だ。
昼休み時間にこちらの支店に行くと、きっと仏大使館勤務の人たちなのだろうと思われるワーカーたちが昼食を取っている風景に出くわす。
キンシャサにいることを忘れる瞬間だ。


キンシャサにはパン屋が経営するカフェがいくつかある。
以前、紹介した”Chez Victoire”というキンシャサ庶民のパン屋が経営するパン屋兼カフェ。
現在キンシャサ市内に4店舗あるのだそうだ。

我が家の近くの6月30日通り沿いの”CROWN TOWER”というビルの1階に昨年末に”Chez Victoire”が開店し、外観からして清潔そうなカジュアルな雰囲気の店内はいつも多くの客で賑わっている。
わたしはまだここの支店には行ったことがないが、行ってみたい店だ。


そして同じビルのすぐ隣にもパン屋兼カフェの”Patachoux”がある。
こちらもおしゃれな店構えだ。”Chez Victoire”より先に開店してる。
ここのパンもまあまあ美味しい。
2店並んでのカフェだが、どちらも店内は賑わっているように思う。おそらく、この2店は価格もリーズナブルなのだろう。


それからもう一軒。
キンシャサのカフェの草分け的存在、”Cafe Mozart”を忘れてはいけない。
庭付きの一軒家風の店構えで、きれいな濃い黄色の建物だ。
店内は落ち着いた雰囲気の喫茶店という感じだ。
パン屋も兼ねていて、ランチ定食もある。キンシャサ芸術大学の近くにある。

わたしは、モーツァルト好きな外国人が経営するカフェだとばかり思っていた。
ところが、この店は、ストリートチルドレンや色んな事情で身寄りのない少女たちを引き取って育てる施設を開設し、その子たちの職業訓練学校も併設するドイツ出身のカトリックシスターを中心とした団体が経営母体なのだ。
わたしは、先月のIWC(国際女性クラブ)のモーニングコーヒーの会でそのドイツのシスターの講演を聴いて初めて”Cafe Mozart”の経営理由を理解できた。

引き取った子どもたちに学校教育を受けさせた後、施設に併設する職業訓練学校でパン食人、ケーキ職人、喫茶店給仕人などの訓練を受けさせて自立させ、かれらに仕事の場を与えるため、そしてカフェの利益で施設経営資金を得るため、という理由から開店したカフェなのだ。

講演後、送迎車を待つシスターと話す機会があった。
カフェ・モザールを知ってますか、と訊かれ、わたしはよく行きますよ、パンも食事もとても美味しいですねと答えた。
またカフェ・モザールに来てくださいね。
小柄なシスターだった。
キンシャサやルブンバシに30年も住み、コンゴの身寄りのない子どもたちの(特に少女たち)の救援のための施設や職業訓練学校を運営する。また近々、どこか違う場所に施設を新しく開設するということだった。


これらカフェはすべて、外国人の行動範囲の地域に開店されている。
考えてみると、”Chez Victoire”を除いてどのカフェも、ある程度以上の経済力のあるコンゴ人と外国人しか利用していない。利用できない。
一般庶民には近寄れない場所なのだと思う。

かれらは、こういうカフェで憩う人たちを見て、どう感じているのだろう。

庶民の居住地区や貧民街にわたしたち外国人が足を踏み入れないのと同じように、一般庶民や貧民街の住民たちは外国人が入り込める地域には来ないのかもしれない。

アンバランスなアフリカの大都市、キンシャサだ。


2013年3月20日水曜日

うそつきー!!!!!


コンゴの太鼓、”ンブンダ”を、ウェンゲの木で作ってほしいと注文してから6ヶ月近く経った。


約束のたびにすっぽかされ、言い訳を聞かされ、待って、待って、待ちくたびれて、今日とうとうわたしは職人が教えた住所を頼りにアトリエと自宅に行ってみた。


アトリエがあるはずの番地には全く違う店が、そして自宅の住所は架空の・・・全くでたらめの住所だったのだった。



<コンゴ博物館展示物~楽器> 右端2つがコンゴの太鼓”ンブンダ”



昨年、10月初め、知人の紹介で知ったRogerというコンゴ人職人にアフリカの太鼓、”ンブンダ”を注文した。日本へ一時帰国する前日だった。

Rogerは、わたしが希望したウェンゲの木は高いから前金をくれと懇願した。

電話番号も教える。ほら、これがわたしの電話番号だ、かけてみてくれ。
そーらベルが鳴った、わたしの電話番号に間違いないだろ。
わたしもマダムの電話番号をこうして登録した。
信じてくれ、前金で100ドルくれ、嘘は言わない、必ずマダムがキンシャサに戻ってきた翌日、10月31日にはウェンゲの木で作ったンブンダを持ってくるから。
必死の様相だった。

そして、わたしはRogerに100ドルを渡した。
彼を信用したのだ。
平和の国から来たわたしは、100ドルを渡したと言う領収書ももらわずにRogerに前金を渡したのだった。


10月31日。
約束した日にRogerは現れなかった。

その日からずっと、何度も何度も懲りずに電話し続けた。
いったい何度かれに電話したことだろう。

約束の日の朝、確認の電話をしようとするとRogerは電話を切っていた。
約束の時間に現れなくて電話をすると応答がなかった。
そして数日後にやっとつながった電話で言い訳を聞かされた。


マダム、停電で工具が使えなかったんだ、来週木曜日には必ず持って行くから。
マダム、雨が降りそうだったから運べなかったんだ、来週月曜日には必ず持って行くから。
マダム、あともう少しで完成だ、2つ作ったから選んでくれ、今週金曜日に2つとも持って行くから。・・・・・



Rogerを紹介した知人は一時期キンシャサを離れていたが、最近再会し、彼女の電話番号を聞いた。Rogerのことを聞こうと彼女に電話したが、何度電話してもつながらなかった。


何もかもが、嘘八百だった。
何もかもがでたらめだった。
よくもこんなにも嘘で固められるなあとびっくりする。あきれ返る。悲しくなる。


悪名高きモブツ大統領の悪政に何十年も耐え抜いて、生き抜いてきた国民だ。
わたしは世界中で2番目に金持ちだ、と言って憚らなかったと言うモブツ氏。
国家財政を私物化し、外国の銀行に財産を預け、外国に不動産を所有していたモブツ氏。
そんな大統領の下で、コンゴ国家は疲弊し実質崩壊していた。そういう状況を生き抜いてきたコンゴ人たちなのだ。


先週、ゴルフ場の練習場で見るからにリッチなコンゴ人男性が練習していた。
わたしに付いたレッスンプロが、かれはモブツ元大統領の息子だよ、と言った。
外国や、コンゴ国内に不動産を持っていて管理に忙しいから、かれはあまりキンシャサにいないのだとも言った。
かれを遠くから睨みつけてやった。


なにもかもが嘘で固められた国。
だから、嘘の上塗りも平気なのか。

あーあ。
地球上に嘘を平気で言える人がいる、ってことにむかっ腹が立つ!!!!!

2013年3月17日日曜日

映画『魔女と呼ばれた少女』 のこと

コンゴ民主共和国は広い。

国の西部にある首都キンシャサはアフリカ第三の大都会だ。
なのに人々はとても貧しいし、外国人にとっても治安良好な都市だとは言えない。
それでも、とても平和だ。
子どもたちは学校へ通い、学生街を通るとおしゃれした学生たちが楽しげにお喋りしながら通り過ぎて行く。

でも、この国の東部は、気候も穏やかで農作物も豊富だし、また天然資源に恵まれ、本来ならばその恩恵を受けて豊かな地域であるはずなのに、資源採掘権争い、先進諸国の国益などが絡み合い、紛争状態が続く地域だ。
その紛争に少年兵が仕立てられ闘いの渦中に投げ込まれているという地域だ。


こんな話を耳にした。
この国の最高学府と言われる、国立キンシャサ大学がある。
わたしは訪ねたことはないのだが、キンシャサ大学の立地場所が信じられないほど辺ぴなのだそうだ。
キンシャサ郊外の山の上にあり、大学正門に続く道路は片道1車線でしかもとても狭い道幅だと言うのだ。

なぜ、最高学府がそんな場所に建っているのか。

それは、政府に反乱を起こす時先頭に立つのがキンシャサ大学の学生たちだから、かれら反乱学生たちがキンシャサ中心部に到達する時間を稼ぐためだ、と言うのだ。

実際、昨年11月に東部ゴマが反政府軍に占拠されたときもかれらは真っ先にデモを起こしたのだそうだ。
愛国心に燃える若者たちの行動を、政府は警戒しているのだ。
かれらのデモ活動や反乱行為がすぐキンシャサ中心部に波及しないために、敢えて大学立地を辺ぴな山の上にしたのだ、というのだ。
なるほど、と納得する説明だった。



さて、コンゴ民主共和国東部の紛争地域を舞台に少年兵を描いたカナダの映画が日本でもとうとう封切られた。

「魔女と呼ばれた少女」という映画だ。


映画「魔女と呼ばれた少女」より

映画『魔女と呼ばれた少女』 - シネマトゥデイ


多くの日本人がこの映画を観て、コンゴ民主共和国の東部地域の実情に目を向けてくれたらと願う。

教会付属のクリニック

庶民の居住地区に建つプロテスタント教会

3月15日に、IWC(国際女性クラブ)が準備した寄贈品を持って、クラブ会員たちと共に、空港近くの貧民地区にあるプロテスタント教会を訪れた。

わたしたちを出迎えてくれたのは、韓国人の四十歳代後半くらいのソフトな印象の牧師さんだった。


このプロテスタント教会の敷地内に、一棟の古ぼけたクリニックが開設されている。
クリニックでは、産婦人科中心の診療を4人のコンゴ人医師と4人のコンゴ人看護士、そして1人の検査技師が勤務して運営されているそうだ。

クリニックは、キンシャサ中心街からずいぶんと空港寄りに進んだ幹線道路沿いの密集地区を左折し、さらに車で数分ほど入り込んだ、マッシーナという貧民地区に建っている。

空港近くに位置するクリニックでは、時おり飛行機発着の騒音に包まれるが、治療を受けるために待つ人々はとても穏やかな顔をしていた。



教会付属のクリニック Centre Medical MEAC



クリニックの受け付けのところに掲示された診療時間を見ると、日曜日も診療が行われ、朝、昼、夕方の3つの時間帯に分かれて日曜日のみ19時まで、それ以外は19時半まで開かれているのがわかる。
受付のところに掲示された診療時間


クリニック内の施設は古いけれど、しっかりと整えられていると感じた。

検査室のテーブル

診察室の医師たち



また、クリニックに入ったところに産科の分娩費用の案内が張られていた。

分娩費用の案内掲示

出産の費用は普通分娩(normal)で15,000FC(千五百円弱)、難産の場合20,000FC(二千円弱)と表示されている。
日本人の感覚では信じられない低料金だろうが、コンゴの国の貧民地区の女性にはこの料金でも大金なのだと思う。


この日、クリニックには4日前に出産したばかりの女性と女の赤ちゃんが入院していた。
初めての赤ちゃんだと言い、本当に愛おしそうに抱きかかえ、幸せそうな穏やかな表情の母親だった。

出産5日目の母子


また、クリニックの外には2人の妊婦が診察を待っていた。

2ヵ月後に出産予定の15歳の女性(左)と6ヵ月後に出産予定の24歳の女性

出産で命を落とすことがまだまだ多いこの国で、このクリニックでは受診代や出産費用を他の病院より安く設定して通院し易くし、女性の出産リスクを下げることに貢献しているのだと感じた。
実際、妊婦検診は1回500FC(五十円弱)なのだそうだ。
この日の彼女たちの検診は無料だということだった。

牧師さんが言われた。
妊婦たちは、お金がない、夫がない、知識がない。いろいろな問題を抱えて出産するのだと。

ここは、彼女たちにとって人生航路の”灯台”なのだろうなあ。



生後5日目の赤ちゃんは、この日IWCから贈られた体重計で計測すると、3600g弱だった。
母親はわが子の体重を知ると、とても満足そうにしていた。


IWC寄贈の新生児用体重計


ある病室内では、1人の老婦人が点滴を受けていた。
ここは朝来て入院し、夕方になると自宅に戻るという形式の入院なのだそうだ。

クリニック内の受付そばの長椅子には、骨折した青年のほかは、老婦人が数名、そしてクリニック外の長椅子に妊婦2人と、子どもや女性たちが診察を待っていた。

ふとクリニックの庭に目を移すと、出産5日目の母親が洗濯して干している。手厚く看護される日本の妊婦さんとは大違いだ。


わたしたちは、ひと通りクリニック内を案内されたあと、寄贈品を車から出して、ベッドなどの組み立てに入った。

寄贈のベッドを組み立てるIWC会員たち
病室内に運び込まれた寄贈ベッド


簡素だが新しい7台のベッドが運び込まれた。

また、分娩室にも新しい分娩台が入った。


新しい分娩台を組み立て中
看護士だったIWC会員が分娩台の取扱説明をする



クリニックの庭には、今まで使われていた分娩台、ベッドが運び出されていた。
今までのお役目、ご苦労様。


庭に運び出された古い機具




クリニックの外の長椅子におよそ病人らしくないはつらつとした女性の一団がいた。
彼女たちは教会員で、IWCメンバーが寄贈品を持って訪問すると聞いて、賛美歌を歌って返礼するために集まったのだということだった。
アフリカの女性たちのはじけるようなダイナミックな歌声に耳を傾けていると、彼女たちの真心がずんずん伝わってくるようだった。

笑顔はじける合唱隊マダムたち



IWC団体がどのようないきさつからこのプロテスタント教会に寄付することを決定したのか、また寄贈品目の選定がどのように行われたのかは役員ではないわたしには分からない。

でも、クリスマスバザーの収益金がこのような形で役立てられることをうれしいと思うし、IWCのメンバーであることを誇りに思った。

このクリニックが、空港に近い密集した貧民地区の人々の心のよりどころとして、良い診療活動を続けられますように、と心から祈って帰途に着いた。

2013年3月13日水曜日

日本文化センターの開館式

日本文化センター会館正面入り口

キンシャサのISP(Institut Superieur Pedagogique、コンゴ教員大学)敷地内に建設中だった日本文化センターが完成し、昨日(3月12日)、その開館式が行われた。

ISPは慶応義塾大学と提携しているそうで、長期滞在の慶応大学生が校内の一室で日本語習得の教室を設けて1年半前から活動していた。

慶応大学湘南藤沢校の先生と学生達が、かれらの日本語教室の拠点とするべく、また日本文化をキンシャサで発信する場所として、昨年春から在キンシャサ日本大使館の草の根無償援助資金をもらって設計、施工し完成させた建物だ。


日本文化センター建設用地(昨年の風景)

一年近く前は、こんな草地で、ここにどんな建物が完成するのだろうと楽しみに待ち続けていた。



建物は4つのパートで成り立ち、その一室が日本語教室として使われ、一室は武道伝授の場として使用されると聞いている。

実際、開館式では、キンシャサJICA事務所長と日本大使館員の二人が剣道の模擬試合を行い、来館者たちから喝采を浴びていた。
おそらく、コンゴの人々には初めて見る剣道だっただろう。

日本文化センター開館式での剣道模擬試合


最後に、日本語習得者の認定書授与が行われた。
この1年半でこんなにも日本語が上達するのか、と驚くほどの語学力を持つ学生もいて、成績優秀者3人は昨年、日本に招待され、3ヶ月間の日本滞在を経験している。
今度はかれらが日本語の教師として指導者側に回るのだろう。
一人は、法律を学ぶ学生で、日本への留学を目指して勉強を続けると話してくれた。


約2年のキンシャサ滞在を終えた日本人学生の別れの挨拶

上の写真の左3人が、昨年、日本滞在を経験したコンゴの学生たちだ。

そして上の写真中で挨拶をしている日本の若者が、日本語教授プロジェクトの創設当初からキンシャサに滞在し、推進役を務めた慶応の学生、伸吾くんだ。

かれは、この1年半の間にコンゴ人も驚くリンガラ語能力を習得し、昨年9月には、キサンガニ~キンシャサ間1700キロのコンゴ河の旅を慶応OBの作家と共に1ヶ月かけて成し遂げた素晴らしい経験をしている。
そして、かれは今春、アフリカ文化を究めるために京都大学大学院に進学するべく、今日、キンシャサを発っていった。


慶応大学日本語教授プロジェクトは、かれらの活動拠点となる”城”を構え、新たに2人の学生が活動を支えるためにキンシャサ滞在を始めている。

慶応のプロジェクトのもう一つの大きな柱である、アカデックス小学校建設と教育実践という活動も展開している。そこにも、教育学を専攻する大学院生が一人長期滞在で入ってきた。



このプロジェクトの指導者のひとり、長谷部葉子先生の著書に、こんな言葉を見つけた。

「コンゴは、世界トップクラスの鉱産資源国で、銅やコバルト、ダイヤモンドなどが大量に出る国です。日本はそれがないけれど、資源を最大限に活かす技術をもっています。二つの国は豊かさの質が違っていて、しかも、ちょうどお互いにあるものとないものが上手く噛み合っています。
ここには、双方が手を取り合って、ともに未来を歩める可能性が大いに眠っています。
だとすれば、コンゴを支援するということは、一緒に働く仲間を育て合っているということなのです。」
(”今、ここを真剣に生きていますか?”(講談社)より抜粋。)


この国の現実を見れば、中国の天然資源採掘権をねらっての進出は脅威を感じるし、その天然資源をめぐってコンゴ東部では紛争状態でもあり、列強各国の国益と相まって難しい様相を呈していて、先生の言葉のようにはなかなかいかないようにも思える。

でも、と考えてみる。

お互いの国を支える次の世代に、このような未来を目指す連帯感が育つ土壌が今、出来上がろうとしてるのかもしれない、と。
かれらが今、一生懸命取り組んでいる活動は、新しい”芽”を共通の土壌から噴き出させようとしてるように思えた。
真に支えあい、補い合って生きてゆく地球の仲間としての出発点を見ているようだった。

わたしは、その”時”に立ち合っているのだなあと感じた。
かれらの活動をそっと見守って、陰ながら応援していきたい、と思えるホットな開館式だった。

”ぽん”をかさねて ~ L’éléphant vert: ラン パン パン

わたしが毎朝、ヨウムのぽんの鳥かご掃除とご飯やりのときに歌う(?)景気付けの歌が、♪ ラン パン パン ♪ だ。
そのおおもととなっている絵本が「ラン パン パン」。

その絵本を絵本屋ブログで紹介したので、よろしかったら覗いてみてください。
そして、図書館か書店でこの絵本を手に取って、クロドリのくるみのかぶとに、くるみの太鼓の完全武装姿のページを探してみてください。
笑えますよ~。


L’éléphant vert: ラン パン パン: 絵本”ラン パン パン”の表紙 先日、我が家のヨウム(コンゴのオウム)、”ぽん”が逃避行を果たした。 我が家に来た時にはすでに羽の一部を切られて飛べなくなったと聞いていたのに、三階の我が家のベランダの鳥かごから逃げ出し、庭へ飛行滑降したのだ。 門番の通報(!)で、残...

2013年3月8日金曜日

ぽんの逃避行

今朝、夫が7時半に仕事に出た後、しばらくして背の高い門番のガードマンが我が家にやって来て言った。

マダムのとこのヨウムが庭に逃げ込んでいます、と。

え????
まさか!!!

ベランダの鳥かごはもぬけの殻・・・・・。
ヤラレター!!

びっくりすることに、”ぽん”は鳥かごの後ろ部分の扉(下の写真。ぽんの背後に見える籠の背面全面が開閉できるようになっている。)の錠を引き抜いて開けて、かごから逃げ出していたのだ。

わたしが鳥かごの床の新聞紙を敷き替えるときに、正面の扉(これは重い鉄扉で引き上げ式になっているからまず開閉不可能だ。)からだと狭くて手を突っ込みにくいので、2,3度だけ、後ろ部分の全面開閉する扉の錠を引いて、開けたことがあった。
そのときに、”ぽん”はしっかり学習していたのだ、扉を開けるための錠の抜き方を。

※ ”ぽん”とは・・・・昨年12月19日に我が家にやってきたコンゴのオウム、”ヨウム”をぽんちゃんと名付けて、我が子のように思って飼っている(のはわたしたち側の一方的な思い込みか・・・。)。



逃亡後、なにくわぬ顔の籠の中のぽん!

いかついガードマンのおにいさんに”ぽん”の捕獲をお願いした。
ヨウムを捕まえて入れる容器が必要だというので、いちばん最初に夫がスーパーのペットコーナーで買ってきた青い鳥かごを彼に手渡した。

3階の我が家のベランダから見ていると、”ぽん”はアパート裏庭の低木に止まっていた。
当初、ガードマンにいさんに威嚇して鳴いていたが、そんなに抵抗することもなく青い鳥かごに収まった。

ガードマンにいさんは、棒切れ一本で”ぽん”を棲家の籠に移してくれた。
”ぽん”は、我が家に来た時には、すでに羽の先を切られて、飛べない状態になっていたはずなのに、3階のベランダからアパートの庭に滑降、低木の枝に止まっていたのだった。


”ぽん”は最近良く、籠の天井に2本の脚とくちばしの3点でぶら下がり、羽をバッサバッサと広げる動作をしていた。
暑いから体に風を入れて涼しくしているのか、あるいは、体が痒くて羽をバサバサさせているのか、と思っていた。

かれは、ただただ、飛びたかった、のだろうか。

そして相変わらず、籠の床のベニア板をバリバリと噛み破り、自分の止まり木さえ噛んで細く細くしていって、ついに止まり木がぽとん!、と一方が下に落ちて斜めになっているのに、その斜めになった止まり木の隅っこに平然と止まっている。



そんな”ぽん”の様子を思い出して、こんな狭い籠に入れられるより広い自然の世界に帰すべきなのかもしれない、と考えた。

不憫なぽんめ、としばしわたしは悩んだ。


だがしかし!
逃げてごめんなさい、とは言えないにしても、悪びれもせず、悲しげな表情をするでもなく(・・これも無理な話?)、またいつものように、籠の中でだみ声で「ギャーイ、ギャーイ」と鳴き続ける”ぽん”なのだった。

ね、ぽんちゃん。諦観、してるの?

2013年3月1日金曜日

キンシャサのセロリ

現地産 セロリ !


今日から、3月。
キンシャサは、まだ雨季。
でも、雨の降る回数は減った。
そして、むっと暑い日が続いている。


さて、冒頭の写真の野菜について。

初めて野菜売りのマダムのところで見たとき、わたしはてっきり、”みつば”だと思った。
ちょっと茎は硬そうだけど、きっと”みつば”だろう、と。
しばらく、そう思い込んでいた。

でも、ちょっと匂うこの匂いはなんだったっけ?
思い出せない。
なつかしい匂いだし、わたしが好きだった香りの野菜だ。
この香り、なんだったっけ・・・・。

わたしの頭は、この野菜は”みつば”なのだ、という思い込みで占領されていた。

そして思った。
緑色鮮やかな”みつば”のような香り野菜をからし醤油で”おひたし”にして食べるとおいしいだろうな。


この”みつば”と思い込んでいる野菜を熱湯でさっと茹で2,3cm長さに切り、鶏ささみの酒蒸しを裂いたものを混ぜ、煎った白ゴマを混ぜてみた。

おいしい!

何度か、お客さんを招待したときに食卓に並べた。
みつばのおひたし、です・・たぶん、みつば、です。

すると、ある日、夫が、や、これは”セロリ”だよ、と。

ああー、そうだ、この香り!
みつばじゃない、”セロリ”だった。

よく買いに行く屋台の野菜売りのマダムも、これはローカルのセロリだ、と言っている。
日本で見るセロリに比べて緑が濃く、ひょろっと細く、でも茎はしっかり硬めで、小ぶりだ。
そして強い香りを持つ。

もちろん、キンシャサのシティーマーケットなどで、日本のセロリと同じもの(萎びていることのほうが多いけれど。)も買える。きっと、南アフリカかヨーロッパからの輸入品だろう。


ということで、昨夜もお客さんを招いた夕食の献立にこのローカルセロリに鶏ささみ酒蒸しを和えたおひたしゴマ風味が加わり、好評をいただいた。・・かな。