2014年12月21日日曜日

こぼれ話9 : キンシャサのポインセチア

クリスマスが近づいてきた。
日本列島、寒波に見舞われ、本当に寒い日が続く。
北日本、日本海側では記録的な積雪で被害や死傷者も出ている。

わたしが育った北九州市は、九州といえども日本海側。
玄海灘からの寒風は厳しかった。
八幡製鉄所の起業祭で賑わう11月初めには、どんよりと曇り空が広がって、雪がちらついた。
それでも、学校の教室には暖房設備はなかったなあ。
職員室には達磨ストーブみたいな大きな暖房が赤く燃えて暖かかったけど。

なんてことを思い出すこの頃。

赤羽駅前にはクリスマスイルミネーションが点灯し、花屋には、ポインセチアやクリスマスリースが並べられ、ケーキ屋ではクリスマスケーキの予約申し込みのポスターが貼られて、クリスマスムードが街じゅうに溢れている。


花屋をクリスマスムードに演出するポインセチアたち




花屋のポインセチアの鉢物

ポインセチアはクリスマスシーズンに花屋に登場し、クリスマスを演出する植物としてシクラメンとともに欠かせない鉢物だと信じて疑わなかった。


ところが!
キンシャサのゴルフ場にポインセチアの低木が自生していたのだ。

キンシャサゴルフクラブ内に自生するポインセチア 2014年1月
キンシャサゴルフクラブ内のポインセチアの低木 2014年1月


初めて、キンシャサというアフリカ熱帯雨林気候の都市で、日本で見るポインセチアより背の高い大ぶりな低木のものを見つけたとき、目を疑った。
ポインセチアの原産地って熱帯だったの?

確かになあ、日本ではポインセチアは小ぶりの鉢植えで、室内に置かれるものなあ。


調べてみると、原産地はメキシコ。
メキシコを中心として、中央アメリカに分布する熱帯性の低木で、自生地では3~5mの大きさに達するのだそうだ。

寒さに弱く、15℃を切るころには室内に取り込むこと。
冬期には室内で短日処理をすること。
(※ 日照時間が12時間以下にならないと開花しないため、9月下旬頃から冬期間は毎日欠かさず夕方17時~朝8時は一切の光を遮断することが重要ポイントなのだそうだ。)
そんな育て方のポイントが紹介されている。

ポインセチアの赤いところは茎だそうだ。
キンシャサに自生するポインセチアの写真を見ると、赤い花びらのようにみえる中心にのぞく白い小さな花が確認できる。
これこそが、ポインセチアの花だ。
しっかり開花している。
日本の鉢植えのポインセチアに、ここまで大きく主張するように咲く白い花が存在するだろうか。
おそらく、白い小さな粒、だけのように思う。

キンシャサは南緯4度だから、ほとんど年間を通して夕方6時前に日没、朝6時過ぎに日の出を迎える。と考えると、ぎりぎり、「日照時間12時間以下」という条件はクリアできるのか。


クリスマスシーズンに我が家に来ていたポインセチアもシクラメンも室内に置いていても元気に越冬することはなかったことを思い出す。
ポインセチアは、越冬しても夏になると、赤い部分は消え失せて緑一色になってしまっていたような。


今年は、娘一家がフランスから帰ってきて思いもかけずに2カ月近い滞在となり、2歳半になる孫娘のために、クリスマスツリーを出し、オーナメントを付け、クリスマスの絵やリースを一緒に飾って楽しんだのだった。
ツリーをオーナメントで飾ったのは10数年ぶりだったように思う。

今週初めにフランスに戻っていった娘たち。
部屋のあちこちに、かのじょたちがふりまいていった残り香を感じる。

 JOYEUX  NOEL !!

 メリー クリスマス !!


2014年11月11日火曜日

こぼれ話8 : ウェンゲの芽 成長記録

スイカの種の巨大版のようなウェンゲの木の種

マメ科の植物で、大きな木に藤の花のような紫の花を毎年10月初めに満開にして楽しませてくれたウェンゲの木。フランス語では、ポワ・ノワール、黒い木。家具や木工制作に使われる高品質の木材。

2013.10.8.ゴルフ場 満開のウェンゲの木

今年の10月の満開のウェンゲは見られないのだなと寂しく思いながらの8月の帰国だった。
その時に、ひそかに持って帰ったウェンゲの種。

そのウェンゲの種を9月に入って、赤羽のわが家のベランダの植木鉢に植えた。
4粒植えて、2粒から芽が出た。

10月下旬ころからは、夜はリビングに入れて、気温の低下に気を付けるようにしている。
お日様ぽかぽかの陽気のいい日は、たっぷりお日様に当てて、アフリカを思い出してもらっている。

そして、ここまで大きくなった。

発芽して成長するウェンゲ

大きいほうで、丈7センチほどになった。
このまま、どんどん大きくなりますように。

子供向けの植物生育の指南絵本、「リネアの庭」に、アボカドの種を植えて育てることを指導する箇所がある。そこでは、ある程度まで成長したら、思い切って幹をスパッと切る!、それがうまく生育させるポイントだ、と書いていたことを思い出す。
この、ウェンゲも同じ南国の植物だし、ある時期が来たら、やっぱり幹をスパッと切るべきなのだろうか。
リネアには経験豊富な庭師のおじいさんが指導者にいたからなあ、と羨ましがったりしている・・。
試行錯誤で、とにかく今の目標は、”越冬”!!!

アフリカの植物の1年のサークルはおもしろい。
低木、高木いろいろの樹木の花がほとんど(可憐な草花というのをまず見かけなかった)で、マメ科の植物が多い。これは、中央アフリカ共和国のバンギで、コンゴ民共和国のキンシャサで感じたことだ。
それらの樹木の花たちは、だいたい雨季(9月中旬~翌6月中旬)が始まって1か月ほど経った10月初めに満開となり、11月半ばには実を結ぶ。(中央アフリカのバンギは北半球だったからか、満開時期は4月だった。)

ウェンゲの木はマメ科だから、閉花後、30センチほどの鞘がぶらんぶらんと大量に垂れ下がる。
雨季の間中、緑色の鞘の中で実が数か月かけてゆっくり、本当にゆっくーり成熟し続ける。
翌年、6月に入って乾季になると、これまたゆっくり乾燥し始めて茶色に変色していく。
3カ月ほどして、しっかり乾燥していくと鞘が割れて、実が地面に落ちていく。
それが、8月末から9月あたり。
だから、冒頭の写真の種は前年開花した後の実だ。
ということは、10月初めに満開になった樹木の下には、前年実を結んだ種が落ちているのだ。
上を見上げると満開の花が咲き、地面には前年の花からの種が落ちている。
ゆっくりゆっくりのペースで1年が回っているのだなあと実感する。

10月初めには、東京から、満開になったウェンゲの大木を想い、それから1カ月ほど経つと木の下に紫色の絨毯が敷き詰められたように広がる光景を想像して楽しんだ。

我が家の植木鉢のウェンゲの幼木も、いつか、いつか、あんな紫の美しい花を咲かせ、大空に枝を伸ばしていってほしいな。

2014年10月4日土曜日

こぼれ話7 : 20年前のパミンドゥさんの木彫り人形

 
中央アフリカ共和国・バンギから来た、パミンドゥ作の木彫り人形

これは、20年前に中央アフリカ共和国・バンギの人形作家パミンドゥさんが制作した木彫りのアフリカの人形たちだ。


わたしたち夫婦がまだコンゴ民主共和国・キンシャサにいる頃、 東京のマンションの管理をお願いしていた友人から荷物が届いているという知らせが入ったのは今年4月か5月頃だったろうか。
差出人の名前を見て、夫は以前の勤務先の会長からで、きっと老人施設に入るからお礼の意味のものだろう、と言っていた。

それから程なく帰国し、その荷物を解いてみた。
中からは、20年前に中央アフリカ共和国・バンギをかれが訪れたときにわたしたちからもらった(と記された)木彫り人形10体ほどが出てきた。
老人施設に夫婦で移るので、20年間楽しませてもらったあなたたちからのアフリカ人形をお返しします、という内容の手紙が、当時の懐かしい写真のコピーと共に入っていた。

はて?
こんなにたくさんのパミンドゥさんの人形をプレゼントしたっけ?
かれの人形は一体でも結構金額が張った。
これだけ全部をプレゼントしたとは思えなかった。
ま、いいや。
でも。
木が割れて、壊れた人形まで入っていたのは悲しかった。

わたしは、家のスペースのことも考えて一体だけ人形を選んで、残りの人形は近くの赤羽神社で人形供養をしてもらって処分しようと考えた。

今回、キンシャサのわが家で活躍した太鼓(ンブンダと言ったな。)を日本に持って帰れなかったので、そのンブンダを叩く人形を選んで、わが家に残した。


アフリカの太鼓を叩く、パミンドゥさんの人形

人形の埃をとってきれいにしてから、最初に赤羽神社に持ち込んだとき、社務所はお盆時期で閉まっていた。
人形を最終的に持ち込んで、供養をお願いできたのは、8月17日。
事情を話して、人形供養をお願いできて、ほっと安心した。
人形の供養料は、三千円だった。


当時、バンギからのお土産に、わたしたちは好んでこのパミンドゥさん作の木彫り人形を選んだ。
パミンドゥさんも喜んでくれて、いろいろと工夫して技術も上達していったように思う。

あるとき、このパミンドゥさんの楽隊の人形を3,4体セットにして日本の友人に贈ったことがあった。
何日かして、その友人はわが家にはこの人形たちはマッチしないからお返しします、と言って返してきたことがあった。

そんなことを思い出しながら、わが家に残った一体のパミンドゥさんの人形を見てしみじみ思ったこと。
人形をお土産にするということは難しいな、と。 


今回も、キンシャサでずいぶんのオーギーさん作のタンタン人形をプレゼントした。
はたして、喜んでいただけたのだろうか。
人形を贈ったことで、迷惑がかかっていないだろうか。

8月5日、赤羽の自宅に戻り、いちばん最初に対面した、20年前のパミンドゥさんの人形たち。
2日かけてたどり着いた自宅で、荷物の包みを開けて中から出てきた人形たちに再会し、正直、わたしは寂しさと共に疲れを感じてしまったのだった。

2014年9月27日土曜日

こぼれ話6 : キンシャサからのモリンガ粉

キンシャサで愛飲していたモリンガの粉。
それは、モリンガというマメ科の木の葉っぱを乾燥して粉末にしたもの。

キンシャサで、わたしたちは、ドイツの神父様にお願いして分けていただいていた。
帰国日が決まって、神父様にお願いして、ミルク缶1缶分ほどのモリンガ粉を用意していただき、持ち帰ってきたのだった。

毎朝、モリンガ粉末茶さじ1杯を口にパクッと含んで、お茶と飲んでいる。


いつかのブログにも書いたけど、モリンガのことを教えていただいたのは、コンゴ滞在の長い中村寛子シスターだった。
コンゴのどこの教会でもモリンガの木を植えていて、モリンガの葉を乾燥させて粉にして、食事にふりかけて摂取しているのだとのことだった。
そして、今年の初めに国道1号線東部旅行で宿泊したドイツの修道院の食卓でモリンガの葉の粉を発見し、以来、神父様の計らいでわたしたちはこのモリンガの葉の粉を分けていただいていた。

モリンガ!モリモリ!
クロレラてんこ盛り!

そんな心持ちで元気をもらうようなモリンガの葉の粉だ。

ちょっと、粒は粗いけど、葉っぱの粉そのまんま!というところとか、日本のお抹茶に似てる、かも。

マメ科の木の葉っぱ、モリンガを乾燥させて粉末にしたもの


さて、今朝のこと。(というか、もたもたしていたら、話題はすでに昨日のことになった。)
東京に戻ってきて、すっかりNHK愛聴者になったわたしは、”花子とアン”の後に始まる”朝イチ”で”緑色の粉”の偉力の特集を観た。

緑の粉!!!、だって。

こんもり盛られた緑色の粉の画面がズームされると、なんと、上の写真のモリンガ粉にそっくりだった。

でも。
そのテレビの緑色の粉は、なんとミドリムシの粉だったのだ。

ミドリムシ。
驚くことなかれ。昆虫ではなく、藻の仲間なのだそうだ。
体長、0.02~0.5cm

そのミドリムシを乾燥させて粉末にする。
”ユーグレナ”( Euglena )とも言い、それが商品名になっているようだ。

3.5グラムの粉には、5億匹のミドリムシが入っているのだそうだ。
また、ミドリムシは、動物と植物の両方の性質を持ち(葉緑素で光合成を行う。)、ビタミン14種、ミネラル9種、アミノ酸18種が含有され、栄養的にもすばらしいことが実証されている。
さらに、パラロミンという物質(スポンジのような穴の空いた構造をしていて)が腸の不要物をその穴に吸収する性質を持ち、快便を促すのだとも言う。

ミドリムシには、栄養豊富な食品としてばかりでなく、プラスティックの原料やバスの燃料としての使用も実用化されていて、現在とても注目されている生物なのだそうだ。

とうことで、コンゴのミドリの粉、モリンガ。
日本のミドリの粉、ユーグレナ。

マメ科の葉っぱを乾燥させて粉にしたモリンガ。
藻の仲間のミドリムシを乾燥させて粉にしたユーグレナ。
どちらも補助食品として、有益なものだと思う。

共通点がいろいろありそうな二つのミドリの粉の話題だった。


2014年9月25日木曜日

こぼれ話5 : 一緒に帰国したオーギーさんのタンタン人形

これらは、わたしがキンシャサから連れて帰ったオーギー(Auguy)さん作の人形たちだ。

ベーシック・タンタン&サンタ・タンタン&キリン
コンゴの冒険シリーズ&大きいサイズのクラシックゴルファー・タンタン



コンゴ人木工芸作家のオーギー(Auguy)さんのアトリエで作られる木製のタンタン人形や動物たちは、わたしのお気に入りのメイド・イン・キンシャサの土産物だった。

”タンタン”とは・・・。
ベルギー人エルジェによって描かれた少年新聞記者タンタンの冒険物語の主人公の名前だ。
ベルギー人作家によるシリーズもので、世界の国々で繰り広げられる冒険の話だから、タンタンはもちろん、コンゴにも来ている。(タンタンのコンゴの冒険物語はあまり好きになれなかったけど。)


わたしが初めてタンタン人形作家のオーギーさんに会ったのは、キンシャサのゴルフ場でだった。
ゴルフ場の休憩テラスの横のスペースでタンタン人形を展示販売をしていたかれを、タンタン人形を収集するフランス人マダムから紹介された。
そして、かれの作るクラシックゴルファー姿のタンタンと目が合ってしまい、即座にその人形を購入してしまう。それが、上の写真のゴルファー・タンタンだ。

ゴルフ仲間が日本に帰国するときは、ゴルファータンタン人形をプレゼントしたり、ゴルフをしない友人には、本人の日本帰国の記事を名前入りで記載した(?)地元新聞を椅子に座って読むタンタン人形をオーダーしてプレゼントしたりもした。
ワインの好きな友人には、タンタンシリーズの登場人物の執事がトレイに入れてワインボトルとグラスを運ぶ人形をプレゼントしたこともあった。
そんなプレゼントをアレンジしてオーダーするのも楽しみだった。

何度、オーギーさんのアトリエ兼ショップを訪れたことだろう。

所狭しと並べられたオーギーさんのショップ
オーギーさんのアトリエ


キンシャサ・オープン・ゴルフの賞品がオーギーさん作の年もあった。
コンゴの熱帯雨林で育まれた良質の木材で制作されたトロフィーは圧巻だった。

大使が獲得したゴルフボール型のオープンゴルフの賞品が、大使のご厚意でわたしの手元に転がり込んできたのも良い思い出だ。
(現在、わが家のリビングに飾られている!)

オーギーさん作のキンシャサ・オープンゴルフの賞品

残念なことにオーギーさんのアトリエとショップのスペースの一部が駐車場になるというので、かれは新たなショップを今年に入って6月30日通り沿いにオープンした。
とても見やすいスペースだ。
それでも、わたしは、コンテナを利用した狭いスペースにぎゅうぎゅうで人形たちを並べる今までのショップが好きだ。(そのコンテナショップも、どうにか残っている。よかった!)
本当に愉快なスペースだった。

オーギーさん、元気にご活躍ください!
楽しい作品をありがとう!
 Merci beaucoup pour vos poupees de TINTIN et d'animaux.
Je suis tres contente, les mettant dans ma salle de sejour.

2014年9月22日月曜日

こぼれ話4 : アフリカセミナー ”エボラ出血熱” in 赤羽

我が家隣の赤羽文化センター(正面ビルの下方階、濃い目のベージュ部分)
9月20日夕方6時から、JR赤羽駅正面の赤羽文化センターで、NGO団体”アフリカ友の会”主宰者であり公衆衛生学ドクターの徳永瑞子さんの「エボラ出血熱」についての講演があり、キンシャサのプロジェクトに関わる慶応大生と横浜市立大医学生、そして夫と共に参加した。
ほぼ毎月、徳永さん企画で開かれるアフリカセミナーの一環だ。

タイムリーな題目だったせいか、数十名の参加者は、アフリカで活動をする人たち、医療従事者たちで熱気あふれる会場だった。


わたしたち家族は、確か1993年の1月に中央アフリカ共和国の首都、バンギでエイズの母子感染予防のNGO活動を開始するために滞在を始めた徳永瑞子さんに出会い、かれこれ20年来のお付き合いになる。
かのじょはそれ以来ずっと、バンギを拠点にしてエイズ母子感染予防、エイズ啓蒙活動、エイズ患者と家族の援助、そして、栄養啓蒙活動や給食活動、子どもたちの学校設立運営、と着実に現地に根付いた活動を広げていっている。

かのじょは大学の教授職にあり、長期休暇に入ると学生を引率してバンギに入り込んで活動を続けている。
現在、中央アフリカ共和国は戦闘状態が続いていて、かのじょの活動は停止されている。
そこで、かのじょはこういう時だからこそ、日本の人々にアフリカについて色んな角度から理解を深めてもらおうと、地元、東京都北区赤羽で月1回の間隔でアフリカセミナーを企画し、今回で10回目になる。
今年2月か3月には、徳永さんはカメラマンと共に戦闘状況のバンギに入り、あちこちに散らばった患者たちを探し回っている。
また、今夏は、かのじょの学生たちと共にカメルーンのヤウンデに入っている。

かのじょのアフリカとの関わりは40年程前にさかのぼる。
最初のアフリカでの活動は、20年ちょっと前に自身で著した「プサ・マカシ」で読める。
この著書でカネボウ・ヒューマンドキュメンタリー大賞を獲得し、テレビドラマ化され、このときの賞金がかのじょの活動の基金となっている。


まず、かのじょの今回の講演は・・。
かのじょが1976年、コンゴ民主共和国(当時、ザイール)北部のヤンブク村に長期滞在していた時、すぐ近くのヤンブク教会病院のイタリア人シスターが死亡、という第一報からエボラ出血熱大発生が始まった、という話から始まった。
それから18年後の1995年、今度はザイール中央部のキクイットでエボラ出血熱が大発生しているそうだ。
どちらもエボラ出血熱の死亡者のほとんどは医療従事者など患者との接触者だったそうだ。


エボラ出血熱とは・・。
原因はエボラウイルスで、症状として、発熱、頭痛、強い脱力感で、マラリアと同じ症状を呈するそうだ。その後、嘔吐、下痢、発疹、肝機能、腎機能異常と進み、さらに出血傾向へと進むとのこと。
(必ずしも出血が伴うわけではないそうだ。)
治療方法はなく、致命率が50~90%と非常に高い、恐怖の感染症だと説明される。

コウモリが感染原因だとも言われ、ガボン共和国で過去5年間でエボラ出血熱が原因で約5500頭のゴリラが死んでいる、という報告もあるそうだ(安田二朗獣医師による)。

アフリカでは、この病気は”森の中から来る”と言われているらしい。
「森の神様(精霊)が怒って病気を起こしている。」とアフリカの人々は考えている、と徳永さんは話していた。
サルを食べる、コウモリを食べる、象牙を採る、など、人と野生動物との関係を見直す必要がきている、とも。


今回のエボラ出血熱の発生は、
「2013年12月、ギニア共和国(首都コナクリ)において2歳男児死亡→母親、3歳姉、祖母も死亡」
これが発端なのだという。
その後、今年8月8日にWHOのチャン事務長が、”Public Health Emergency of International Concern”を発令したことから、日本で恐怖が広まる。


エボラ出血熱は、患者の皮膚に触れただけでは感染しないそうだ。
エボラウイルスが、粘膜や皮膚の傷に入りこんだときに感染すると考えられる。

人間の体で粘膜が外に露出しているところといえば、口腔粘膜と眼球の球結膜だけ。
だから、患者の嘔吐物などがかからないように、口を覆うマスク、そして、目を覆うゴーグル、そして、万が一の傷のために手袋。それから長靴。
この4種類の装具着用が必要と考えられるが、宇宙服のような重い防御服が果たして必要なのか疑問だとも話されていた。
炎天下のアフリカであのような防御服を着用しての活動は1時間しか持続できず、細かい医療作業の邪魔にもなるということを聞き、合点がいった。


徳永さんは、エボラ出血熱拡散流行の一大原因は、何といっても貧困だ、と言われる。
政治混乱下での貧困、さらに1987年に制定されたバマコ・イニシャティブだと主張されていた。
そのイニシャティブが制定されたことで医療費が有料になり、かれらが病院からさらに遠ざかり、患者がいないから病院が機能しなくなるという悪循環に陥っているのだそうだ。

確かに。
症状が現われて家族ですぐに病院へ連れていく、ということができていれば、こんなに流行しなかったのではないかと思われた。

徳永さんが今夏滞在したカメルーンでは、ラジオで、「握手しないで。ハグしないで。」と定期的に呼びかけていたそうだ。
エボラウイルスが体の粘膜から、そして傷口から入り込むことに注意する、という正しい知識も、人々の混乱を防ぐために必要なのだとも感じた。


かのじょがカメルーンから帰国したときに成田空港でもらった資料プリントには、「エボラ出血熱発生国は5か国(ギニア、リベリア、シエラレオネ、ナイジェリア、コンゴ民主共和国)」と記されている。
コンゴ民主共和国は確か現時点では北部のみのエボラ熱発生だと認識するが、このプリントでは国全体が赤く塗られている。
国土の広いコンゴ民主共和国全体が赤いのは、インパクトが強すぎるなあ、などとちょっと不平等(?!)に思えてしまうのだが。

エボラ出血熱の講演資料


徳永さんは最後に、ウイルス性疾患の場合、ウイルスが体を通過していくときに必要なのは、栄養と体力なのだと力説していた。
十分な栄養、水分補給。点滴はとても有効な治療だろう。
ゆっくり休養できる環境。信頼できる医療を受けられる環境。

日本では当たり前に受けられるこのような治療が、アフリカでは難しいのだ。

今回のエボラ発生のアフリカの国に施した日本からの援助品は防御服だった、と聞く。
本当に必要な援助品は何なのか。
徳永さんは、それは絶対に栄養剤だときっぱり言われた。

海外からの医療従事者の感染予防よりも、アフリカのエボラ出血熱に苦しむ患者側に立った、本当に必要な援助を考える。
こんな「目からうろこ」の視点の必要性も、かのじょの今回の講演からもらったように思う。

余談だが、この講演会で、わたしは2年前に二人でコンゴ川下りの旅を敢行した作家のマチさんと大学院生のシンゴくん、そして、20年前にバンギで大変お世話になった鹿島建設のカマタさんに再会した。
なんともうれしいおまけをいただいた!
ありがとうございました、徳永さん。

2014年9月12日金曜日

こぼれ話3 ː キンシャサにはいなかった蝉

わが家のトイレの陶器製の蝉の掛け物

南仏では、蝉は幸せを運ぶ昆虫だと考えられている、ということはいつかのブログに書いたことがある。
南仏の店では、いろいろな陶器製の蝉の壁掛けが売られていて、本当にバラエティー豊かで楽しい。上の部分が開いていて、壁掛け型花瓶としても使えるようになっている。
わたしは南仏を訪れると、ひとつずつ、そんな陶器製の蝉を買い集めている。

というのも・・・。
何年も前のある夏の夜。
わたしは蝉に追いかけられたおかげで、頭の疾患を見つけることができ命を救われたということがあったのだ。

周囲の人たちから、あのしつこくわたしを追いかけた蝉は亡くなった母だったのだ、と言われたりもした。
亡くなった母が、わたしを病院で脳の検査を受けさせるために、蝉になってわたしを追いかけたのだと。

そんなことがあった後、南仏では蝉は幸せを運ぶ昆虫だと言われていることを知り、蝉はわたしの守り神のような存在になった。

そして、キンシャサへ。
コンゴは常夏の国だし、さぞかし、蝉がたくさんいることだろうと想像して行った。

ところが。
想像に反して、蝉の鳴き声がまったく聴こえない。
1月1日にキンシャサに到着して、2月になっても3月になっても、とうとう1年間蝉の姿を見ることも鳴き声も聴くこともなかった。

わたしは事あるごとに、あらゆるコンゴ人に、”蝉”のフランス語の単語、”la CIGALE” を使って、「コンゴに蝉、”la CIGALE”が生息するのか。」、と尋ね回った。
そして、異口同音、皆決まってこう言うのだった。

「CIGALE.。いますよ。リンガラ語でリケレレ、あるいはマケレレと言います。」

だったら、なぜ、蝉の鳴き声が聴こえないんだ?
不思議でならなかった。

ある時、日本にも何年か滞在した経験のあるコンゴ人のマダムに訊いてみた。
十代に日本にいただけあって、日本を離れて20年は経っているだろうに日本語は未だ衰えていないし、所作がまた日本人っぽい女性だった。

ションタルさん。キンシャサに、蝉、っている?

いるよ。
夜にリーンリーンと鳴く虫でしょ?
ん???
美味しいんだよ~。
んん?????

そう言うかのじょの蝉の説明を聞いていたら。
なんだ、それは、こおろぎだった。
リンガラ語で、単数形だと”Likelele”、複数形だと”Makelele”。
リケレレ。マケレレ。
乾季の終わる頃に降る雨を「こおろぎ雨」(”MBULA ya LIKELELE”)と言って、その頃にこおろぎの旬を迎えるのだと、かのじょは自慢げに教えてくれた。

あのね、それは蝉じゃないから。
こおろぎ、だから。

コンゴ人全員が、”la CIGALE”(フランス語で”蝉”)を、母国語のリケレレ、マケレレと思い間違いをしているようなのだ。フランス語で、こおろぎ、”le GRILLON”(グリヨン)って単語、あるんだけどね。

ちょうど今、グッドタイミングにラジオから、どこぞのこおろぎの鳴き声です、と流れてきた。
ふむ・・・。
こうやって聴いてみると、こおろぎの鳴き声と、蝉の鳴き声。
似てる、かも。
日本人は、夏のカンカン照りの太陽の下で鳴くのはセミで、秋の夜長のひんやりした草むらで鳴くからコオロギだ、とシチュエーションで鳴き声を識別しているだけなのかもしれない、とも思えてきた。
・・・なんて。

ともあれ。
わたしがそう説明しても、かのじょはピンと来ないような表情をしていたことを懐かしく思い出す。
かのじょは、外務省勤務の父親の転勤で海外に暮し、コンゴ人と結婚して二児の母親になっても、自分の国に馴染めないでいるようだった。
家族でイギリスに行きます、と言って別れたのが最後だったが、ションタルさん、どうしてるかなあ。

日本で蝉の鳴き声を聞いたのは2011年の夏以来、3年ぶりだった。
そして、蝉の鳴き声に更に暑さを感じて、「あー!!夏だー!!」と実感したことだった。

9月も半ば。今も遠くでときどき蝉の鳴き声が聞こえてくるが、もう、強い日差しの下での伸びやかな鳴き声ではない。
そろそろ、蝉の季節も終わりだな。

2014年9月1日月曜日

こぼれ話2 : 故郷からの”今夜も生でさだまさし”を生で観る

8月30日深夜にNHKで放送された、”今夜も生でさだまさし”は、久しぶりに見る「生」の生さださんだった。
しかも、わたしの故郷、北九州からの中継で。
そして、今回もわたしの葉書が読まれたのだった。


わたしは、8月末の”生さだ”さんが北九州からだということを、先月の生さださんを観た友人から聞いていた。
わたしの帰国を歓迎するかのように(!)故郷の北九州からの放送よ!と、書かれた友人からのメイルを読んで、わたしは、キンシャサからは投函できないけど、乗り換え地点のイスタンブールで郵便局を探してキンシャサの絵葉書にお便りをしたためて生さださんに投函しようと心に決めた。


コンゴの絵葉書が売っているところといえば、キンシャサ中心部にあるスーパー”Extra Plus”しか知らない。
-コンゴ河と丸木舟の絵葉書-
-床屋の絵葉書-
-大きな葉っぱで包んで蒸して焼く”マボケ(リボケ)”の絵葉書-
-アフリカプリントのカラフルで大胆な布地がズラーっと並ぶ布地横丁の絵葉書-
-アフリカンマスク(お面)の絵葉書-
-コンゴ河で行われる地引網(と言うのかな?)漁の絵葉書-

日本の官製はがきより一回り大きいサイズの絵葉書は、決して写真の質も良くないし、埃がうっすら付いているようなシロモノだ。
でも。
そんなコンゴの絵葉書を使って、さださんに最後のコンゴからのお便りを出そうと思った。


わたしはスーパーExtra Plusに行き、絵葉書を何種類か買った。
そして生さださんに投稿するために、広大なコンゴ河と丸木舟の絵葉書を選んだ。

キンシャサで最後の日、わたしは、2年7か月のキンシャサ生活を終えて帰国すること、夫たちのプロジェクトのポワルー道路が無事完成し、たくさんのキンシャサ在住の人々から喜ばれたこと、そんなことを狭い絵葉書のスペースに直書きした。
そして、8月4日にイスタンブール空港の郵便局で投函する。
(でも、トルコの美しい切手がなくて、印刷シールが貼られたのは残念だったけど!)


5日に赤羽のわが家に着いて、怒涛の日々を送り。
北九州にも帰省し。
キンシャサで楽しい交流を持った友人たちと銀座で再会して、まるでキンシャサにいるようだとはしゃぎ。
そして、キンシャサで教育と建築と保健のプロジェクトを展開する慶応大学の先生と学生さんたちに鎌倉の先生のお宅で再会し、コンゴのことを共に考えて楽しい時間を持って幸せ気分で帰宅したその深夜。
待ちに待った、生さださんが始まる。

北九州の小倉のNHK放送局からだった。
さださんが、新幹線到来前の夜行列車で東京~長崎間を往復していたときに本州と九州をつなぐ関門トンネルの入口と出口の下関と門司での思い出を語り、八幡製鉄所のことも出てきて、わたしも一緒になって懐かしい思い出に浸っていく。

さださんが番組中、さて次のお便りは・・・と言って手に取った、その絵葉書こそ!
そう!!
さださんが手に取ったその絵葉書こそ、コンゴ河と丸木舟のわたしが送った絵葉書だったのだった!!!

わー!!!
わたしの絵葉書をさださんが手にしてるー!!!
傍でうたた寝をしている夫を揺すり起こす。
起きてー!!
寝ぼけた夫は、メガネ、メガネと慌てまくって探せずにいる。
わたしも一緒になって探して。
さださんはその間、別の話題になってずっとわたしのコンゴ河絵葉書を手にしたまま。
体制を整えるにありがたい3分間?だった。

ありがとう、さださん!!!
日本の皆さんに、キンシャサのポワルー道路のことを紹介できたこともうれしかった。
ほんのちょこっとのことだったけど。

翌朝、赤羽の友人が早速DVDにして持ってきてくれた。
キンシャサ滞在中、ずっと生さださんや、他のさださんの番組、そして、素晴らしいドキュメンタリー番組やインタビュー番組を見つけては録画し続けてわたしたちに届けてくれたわたしの大切な友人だ。
ありがとう、ユキさん!!!


わたしの大切なキンシャサの思い出がまたひとつ、積み重ねられたな。


友人たちからのプレゼントの”今夜も生でさだまさし”DVD






2014年8月28日木曜日

こぼれ話1 : 帰国して3週間が経って

JR赤羽駅西口あたりの風景

8月5日に、赤羽の自宅に到着して、早くも3週間が経った。
3年近く空室にしていた自宅マンションに再び息吹を入れ込み、銀行や役所や郵便局で諸手続きをして回り、電話やインターネットを整備して日常生活が始まった。
ふるさとに帰省し、老親や親戚や友人たちとの再会を楽しんだ。

東京生活再開でいちばん手間取ったのは、通信情報網の設定だった。
電話がなければ何もできないことを痛感した。

わたしたちがまずしたことは、近所の携帯電話ショップに行き、スマートフォンを入手したことだった。
わたしのパソコンはキンシャサで処分したので、慣れないスマートフォンをいじくって友人たちにメイルを送った。とはいえ、慣れないスマートフォンの上、画面が小さくて、目が疲れて頭痛はするし、普段の何倍も時間がかかった。
夫のパソコンが使えるときは、スマートフォンのテザリングを使ったりも。
まだ、お礼を済ませていない友人たちもたくさんだ。
少しずつ、少しずつ。

わたし用に購入したパソコンがやっと届き、昨日からまたパソコンからネットが使えるようになった。
その設定も夫頼みで、頭痛がしてストレス貯まりまくり!!、だった。
(この3年近くの間に、日本のネット環境が一新し、浦島花子状態だ。)

それにしても、日本の生活の中で痛感することは、時間、空間、サービスなどあらゆる面で息が詰まるほど緻密なこと。それが便利でもあるのだが。

街中でいたるところに貼られる広告の多さに目を回す。
電車に乗っても、吊り下がる広告をはじめ、車内のすべての空間に広告が貼られている。
(キンシャサで走り始めた路線バス内にこんなにも広告が氾濫しているだろうか。わたしは残念ながら乗車したことがないからわからない。)

キンシャサの街中では、店舗の看板以外は、道路脇に立つ大判広告塔が遠くに見えるくらいだった。
キンシャサでは、わたしの視線ははるか遠く数十メートル先にピントを合わせていたのだなあ。
東京の街中では、数十センチ先の車内広告から数メートル先と、狭い空間の中でピントがクルクルと動いて、本当に目が疲れてしまう。

とはいえ、レトルト食品、冷凍食品、惣菜、半惣菜といった便利食品が並び、簡単にご馳走にありつけることに感謝するのだが!(キンシャサでの手間取った食事準備をなつかしくも思ったり。)


JR赤羽駅 北改札口



ということで、またこうやって、”キンシャサ便り・こぼれ話”を更新できて、ありがたき幸せ~!
もうしばらく、お付き合いください。

2014年8月3日日曜日

L’éléphant vert: スイミーと、キンシャサのンブンジ

キンシャサのゴルフ場でいつも出会う、ンブンジという小人のような小さな小さな小鳥がいる。そして、かれらはいつも集団で飛んでいた。
そんなかれらの姿と重なるのが、「スイミー」の物語だった。
そんなことをキンシャサからの最後のブログにつづってみた。

8月3日、今夜の便でキンシャサを発ちます。
まだまだ書いておきたかったことは、キンシャサ・こぼれ話として、更新していきたいと思います。
もうしばらく、お付き合いくださいませ。
2年半ちょっとの間、どうもありがとうございました。


L’éléphant vert: スイミーと、キンシャサのンブンジ: 娘が小学校2年生のときの光村図書出版の国語の教科書に「スイミー」の話が載っていた。 黒い小さな魚のスイミーは、とても賢く泳ぎも得意だった。 かれだけ黒くて、兄弟たちは赤い。 ある日、兄弟たちが大きな魚に食べられてしまい、スイミーひとりぼっちになってしまう。 ひ...

2014年8月1日金曜日

ゴンベ郵便局私書箱3118号

コンゴ民主共和国の郵便局は機能していない。
2年半前にキンシャサに到着したとき、そう聞いていた。

だから、手紙は投函できないし、郵便物も受け取れないのだと。
確かに、6月30日通りにデン!と建つ郵便局本局は立派だけど、中身がスッカラカンっぽく見えて機能しているとは思えなかった。

ところが、キンシャサに着いてすぐ中村寛子シスターにお会いしたとき、シスターからゴンベ地区の郵便局だけは機能していて郵便物は出せないけれど、私書箱を設けていれば郵便物を受け取れるということを聞いた。
(長くコンゴに在住されたシスターには、郵便局のことだけでなく、布地屋,文具屋などの日常生活情報、コンゴの食事や文化の話など色んなことを教えていただいた。)

そして、シスターに連れて行ってもらい、ゴンベの郵便局長さんに紹介してもらった。


2012年10月のフランス語圏会議を機に入り口に鉄格子が入りペンキも塗り替えられたゴンベ郵便局

シスターの話では、ゴンベは外国人が多く居住している地域で、その地区の郵便局は航空便で到着した郵便物を私書箱に入れ続けることでゴンベ郵便局の私書箱は機能していると認識されれば独自に外国人から私書箱代や小包に対して手数料、税金を回収できる、ということを学んだ局員が働き始めたのだ、と言うことだった。
(週に2,3回の航空便が届く日以外は、いつ行っても局員たちは入り口に椅子を出して日向ぼっこで井戸端会議を楽しんでいるのだったが。)

シスターに連れられてゴンベ郵便局に足を踏み入れたときは、局内は埃だらけで雑然としているし照明も付いていなくて暗く、果たして本当にここは郵便局として機能しているのか、と疑問に思ったものだ。
私書箱番号を書いていない郵便物は局内の棚の上に山積みされて放置されていた。

シスターは以前、ボランティアでここの郵便局で郵便物処理の仕事を手伝ったことがあるのだそうだ。だから、局長さんとは顔なじみで、シスターの修道会の私書箱に郵便物が入ると電話をくれるのだと言われていた。
局長さんは、小柄な穏やかそうなムッシュだった。
局長さんの部屋には日本の外務省が配る生け花のカレンダーが飾られていたことを思い出す。


そうして、わたしたちはキンシャサのゴンベ地区の郵便局内に私書箱を持つようになった。
私書箱設置では、最初に鍵代金や設置料を取られ、3ヵ月毎の使用料支払いということだった。
最初の設置時には使用料を多く請求され2倍くらい払わされた、とは夫の話だ。
でも2回目の使用料支払いでは、半分の3ヶ月16米ドルになったのだと言う。
1ヶ月で500円ちょっとだ。


扉が無かったり壊れたりするところもある私書箱コーナー


私書箱コーナーには、当初鉄格子が無く、外部から侵入することは簡単で、よく私書箱前の通路に人がごろりと横たわっていたりした。涼しくて風通りも良く、昼寝には格好の場所だった。

2012年にキンシャサで初の仏語圏会議は開催され、他国からの来賓もあるというので、ゴンベ郵便局にも手が入り、ペンキが塗り替えられ鉄格子が付き、外部からの侵入ができなくなった。
さらには、ゴンベ郵便局前の片側2車線の道路の間に横たわる草むら空き地がグリーンベルトに整備され、庶民の憩いの公園になった。
(今では、キンシャサの恋人たちのデートスポットだし、結婚写真の撮影スポットになっている。)
また、郵便局沿いに歩道も確保されて、郵便局界隈は見違えるようにきれいになっていった。



我が家の史書縛3118号

ある日、我が家の私書箱に、宛名は日本人だけど明らかに他人の郵便物到着通知書が入っていた。
通知書は我が家のものではないと局員に言うと、郵便物保管の部屋に通され小包を提示された。驚いたことにキンシャサの通り名と番地が書かれたキンシャサの住所と日本の建設会社名と個人名が記入されていた。
途上国で、私書箱を通さずに郵便物を受け取れる国をわたしは知らないので、本当に驚いた。
事情を聞くと、日本からの郵便物なのだから、3118号の日本人の私書箱に通知を入れておけば、同じ日本人同士ということで郵便物の当人に知らせが行くだろうという算段だったらしい。
関税という名目で現金徴収につながると考えたのは明らかだった。
運よく,夫のプロジェクトに関わる方の郵便物だったから、すぐ連絡は付いた。
その後、わたしは郵便物(建設の専門書だった)の価格を尋ねられたりして(日本円表示だった。)、結構な額の関税を取られた。
その税金が政府に回って国の運営資金になるのだったら喜ばしいことだが、そこは??

さらにまたある日、本当にコンゴ国内から郵便物を出せないのかと思い、局員に訊いてみたことがあった。
案の定、郵送機能は動いていなくて、切手すらなかった。
ただ、ザイール時代に使用されていたという鷲の図柄のたった一種類の切手があった。
その切手の価格の部分がシルバーのインクで訂正されていて、ザイールフランの表示がコンゴフラン表示になっていたが、現在、使用できないということだった。

キンシャサの会社組織やプロジェクトから書類を送るときは、DHLなどのプライベート会社の郵送手段を利用しているようだ。(各国大使館は独自の郵送システムを持っているようだ。)

最近、キンシャサ本局から郵便小包EMSを海外に送れるという話を小耳に挟んだ。
キンシャサ本局から日本に荷物を送ったら2週間で届いたというのだった。
何ヶ月か前にキンシャサ本局前を、EMSと書いた軽トラックが通るのを見たことがある。
少しずつ,少しずつ、本当に少しずつでもコンゴの国が改善されていくのはうれしいことだ。


ともあれ、わたしたちがキンシャサのゴンベ地区郵便局に私書箱を持って2年半近く、たくさんの手紙を受け取ることができた。
私書箱を鍵で開けて、手紙を発見したときのうれしさは格別だった。
郵便小包も届いた。
北九州の八幡でひとり暮らしする90歳の父は、海外暮らしで手紙を受け取る喜びはひとしおだろうと言って、こまめに手紙を送ってくれた。
季節のこと、新聞記事のことなど、たあいの無いものだったが、2年半の間に受け取った父からの手紙は36通だった。
ありがとう、お父さん!
ありがとう、友人たち!
ありがとう、ゴンベ郵便局私書箱3118号!

2014年7月23日水曜日

2014年度第4回キンシャサ日本大使杯ゴルフコンペ優勝!!!

第4回キンシャサ日本大使杯ゴルフコンペ優勝カップ

さかのぼること、2011年9月。
前々任大使の離任ゴルフコンペとして開催されたのが初回日本大使杯ゴルフコンペだったと聞く。
前々任大使は夫妻でゴルフを楽しまれていたそうだ。
そして前大使が赴任されたのが2011年10月。
前大使もゴルフの上手なかただった。
そのまま、日本大使杯コンペは毎月開催で引き継がれた。

わたしたちが2012年1月1日にキンシャサに到着して、夫は早々の2012年1月30日開催の第5回コンペに初参加している。
わたしは、翌月2月開催の第6回コンペに初参加。
もう心臓バクンバクンの緊張しまくりの初参加で、結果はスコア146。
多分、ブービーメーカー。ビリだったと思う。
女性は他に、在コンゴ民・日本大使館現地職員のゲルダさんがいた。
かのじょは若くてドラコン賞常連の上級ゴルファーだった。
初参加では、ゲルダさんと参事官の3人で回り、どれだけ気遣いいただいたことか。

プレイ後の、成績発表を兼ねた食事会がまた楽しみだった。
ゲルダさんや、大使、参事官、JICA所長、無償プロジェクトで滞在中の企業の方々の和気あいあいとした雰囲気が心地よくて、以来、毎月のキンシャサ生活の”要”だったと思う。
(その後、ゲルダさんは小さいお嬢さんの育児のため、午後開催になった大使杯コンペに参加できなくなった。)

次の第7回コンペ(2012年2月)でも、わたしのスコアは139で、大した進歩なし。
キンシャサの街中は徒歩禁止だったから、緑豊かなゴルフ場は格好の散歩コースだった。
最初は、そんなすばらしい自然の中でのゴルフコースを歩くだけで満足,幸せだった。

その年の5月に、キンシャサ・オープンゴルフが開催され、前夜祭に参加したことで,来年はわたしもオープンゴルフに参加したい!、という意欲が出た。
それからかな、少しずつゴルフを楽しみ始めたのは。

とはいえ、初参加1年後の2013年の2月のコンペのスコアは、144。
それでも、韓国人の友人ソリムさんはゴルフプレイを誘ってくれて、クラブコンペに参加することを勧めてくれ、いろんな人たちとのプレイを楽しみ始めた。

2013年5月には夫婦でオープンゴルフに初参加。
何も分からないままに3日間プレイし、朝から夜までお祭り気分を満喫した。

それから、スコアは130台になり,時々120台を出すようになった。
8月に、韓国に帰るという友人夫婦と最後のプレイをしたときはなんと114を出した。
でも、その後、スランプ状態で伸び悩む。
紆余曲折の後、レッスンプロ(キンシャサ・ゴルフクラブには3人のレッスンプロがいる。)のカップンバさんに行き着く。
カップンバさんは、南東部の銅山都市ルブンバシ出身で、わたしが幼い頃は日本人が町にたくさんいました、と懐かしそうに話し、あいさつのときはボンジュールと言ってお辞儀をするのだった。
カップンバさんは、上手な英語も話す。
キンシャサの3人のレッスンプロのうちで唯一のスポンサーの付くゴルファーだそうだ。
レッスンのとき、わたしが疑問に思うことを尋ねると、まずいつも通りに打ってごらんと言ってフォームをチェックする。その後、理論を持って説明してくれ、だからあなたの場合はここに気をつけてプレイしてみなさい、と的確なアドバイスをくれるのだ。
納得のいく説明だから,すとんと腑に落ちて実践できる気がした。

日本大使杯コンペに参加して2年目の2014年2月のスコアは127。
そして、新しくゴルフ仲間になったミョンスさんという韓国人マダムと毎週ゴルフを楽しむようになり、かのじょのゴルフに対する姿勢に鼓舞されたように思う。
スコアの数え方も、「各ホール、7平均で回る」という数え方から、「各ホール、ダブルボギーで回る」という考え方に変えた。

スコアのカウントの数え方を変えただけで、先月から110台が出るようになる。
7月13日の日本人のポワルー道路完成記念コンペでは、109という新記録を出す。
初めて110を切ったのだ。

そして、翌週の21日。
私たち夫婦にとっては最後のキンシャサ日本大使杯コンペだった。
朝から緊張していたが、1995年7月、中央アフリカ共和国・バンギでの最後の月例・鹿島杯コンペでどうしても優勝したくて、がんばって優勝したときのことを思い出していた。
あのときも、緊張しまくったが、自分を信じて淡々と集中してプレイしたら想いが叶ったではないか。

夫に緊張するから握手してと頼んだ。
こっそり握手してもらってパワーをもらって、さあ出発だ。

仲間2人も優勝を狙う若者とムッシュ。
淡々とプレイをする姿にわたしも集中して心地よく楽しむことができた。
なにより、キンシャサ最後の大使杯コンペで自己記録を更新することだけを考えた。
緊張して硬くなって、納得のいかないプレイをすることはやめようと思った。
日本に戻ってずっとずっと後になって、最後のコンペでのプレイを後悔することはしたくないと思った。
その日は乾季のキンシャサとしては日差しのあるちょっと蒸し暑い日だった。
それでも、緑の中を吹き抜ける風は本当に気持ちよく、これから先の人生で、この日の、この瞬間の、この幸せ感溢れてプレイするわが身のことを懐かしく思い出すのだろうなあ、と思ったりして、独りで感動するのだった。


キンシャサ・ゴルフクラブ9番ホール左のパームヤシ林


順調だったわけではない、大ピンチのときもあった。
それでも自分に言い聞かせたこと。
1コース、1コースを丁寧に集中してプレイすること。
コースを終えたら、忘れて次のコースに集中すること。
ひとつ、ひとつ、乗り越えていこう。

18ホールを終えたときの達成感は心地よいものだった。

そして、スコアを計算してみると,108。
自己記録を更新!!

やったー!!

楽しい2年半のキンシャサでのゴルフの締めくくりとして、最高の結果をいただけたことを誇りに思い、またゴルフを通して楽しい交流をいただいたたくさんの友人たちに心からお礼を言いたい。

ゴルフ仲間の皆さん!
キンシャサを離れていった友人も!
そして、キンシャサゴルフコースにも!

この2年半、楽しいゴルフをありがとうございました!!!!!!!!!!


キンシャサ・ゴルフクラブ14番ホール池から13番ホールを望む



キンシャサ・ゴルフクラブ最終ホール右向こうを望む





2014年7月20日日曜日

近所のカフェへモーニング!

この前の土曜日、近所のパン屋&カフェ、エリック・カイザーへ、朝7時開店めがけて夫と歩いて出かけた。


朝7時 自宅前Avenue de la paix を歩いてカフェに向かう
朝7時 エリック・カイザー前 (向こうの建設中の建物は完成時期不明のヒルトンホテル)

ひんやり肌寒いくらいの朝の空気に浄化されたような、清清しいキンシャサの都会の通り。
通る人はまばら、車もほとんど見かけない。
一日の活動が始まる前の、半分寝ぼけ眼のようなひっそりしたキンシャサの顔を初めて見た。
そんな朝の空気の中をのんびり、ゆっくり歩いて、エリック・カイザーに到着する。


朝7時、開店直後の店内パンの棚 香ばしい香りが漂う

朝7時ちょっと過ぎ、カフェ店内はすっかり開店準備を終え、客の到着を待ち構えている。
パンの棚にもフランスパンやクロワッサン、菓子パンが並び始めている。
パンの香ばしい香りに食欲をそそられる。
店内は、パンを買う客が2,3人いるくらいだ。

わたしたちは、その日初めてのカフェの客となり、ウェイトレスににこやかに迎えられて通り側のテーブルに着席。

モーニングセットのメニュー


ウェイトレスによると、毎朝5時からパン職人はパンを焼き始め、ウェイトレスたちは6時から店内の準備を始めるのだそうだ。

わたしたちは、これからのゴルフプレイを考えて、あまり重いモーニングセットは避けようと、夫はL'ORIENTALを、わたしはL'EQUILIBREを注文。
本当は、わたしはパンとジュースとカフェオーレのセットが欲しかったのだから、LE PARISIENを注文すべきだったのに、と大後悔する。
というのも、L'EQUILIBREとは、”バランス、平衡”とかいう意味で、ダイエットメニューだったのだ。
テーブルに並んだのは、コーヒー、ヨーグルト、ハチミツ、シリアル、そしてフルーツサラダ。
エリックカイザーの美味しい焼き立てのクロワッサンを食べたかった!
ということで、わたしはウェイトレスにパンを追加注文する。

夫の注文したL'ORIENTALは、中東のベジタリアン向けのようなメニューだった。

モーニングセットの並ぶテーブル イメージした内容と違っていて戸惑う著者?!

ともあれ、キンシャサで迎える朝とは思えないような雰囲気のカフェで、オシャレに朝食が取れて満足!!
次回は、メニューの最後に並んだ、きっとカフェ推奨のLE KAYSERを注文するぞ、と心に誓うが、時間切れかな。


窓際のテーブルから、テラス席とキンシャサ大都会風景を望む

窓際テーブルから、テラス席と正面通りを望む

朝7時のエリック・カイザーでの朝食。
キンシャサ大都会が持つ違った顔も見られて、そんな空間をゆっくり歩いて堪能する。

一石三鳥の土曜の朝の時間。
ここ、キンシャサの商業地区中心地での生活を楽しみ始めている。

2014年7月15日火曜日

自転車競技 Tour de France と、 Tour de Congo

昨夏,7月初旬に娘たちの宗教的結婚式(教会での結婚式)のために、娘の夫の故郷、サンジャン・ド・モリエンヌを訪れたとき、フランスの自転車競技である、”Tour de France”が開催中で、そのサンジャン・ド・モリエンヌの街を通過するということで町中が静かに盛り上がっていたことを思い出す。

”Tour de France”.。
今夏は、7月5日(土)から7月27日(日)までの開催で、101回目なのだそうだ。
1903年、フランス人の自転車選手兼ジャーナリストのアンリ・デ・グランジュが創設した、フランスを舞台にした国際的規模のロードレース。
2度の世界大戦時以外は毎夏開催される、フランスの夏の国民的行事となっている。
ジロ・デ・イタリア、ブエルタ・ア・エスパーニャと共に世界三大ロードレース(グランツール)といわれる。
コースは周辺国のベルギー、イタリア、ドイツ、スペインも含む約3600km。
それを約20のステージに分け、1チーム9選手で3週間ほどをかけて走るのだとか。平坦な舗装道路から山岳地帯の急勾配の傾斜面のコースもあり、テレビを見ていると怪我で棄権する選手も出て過酷なレースだ。
通算成績を毎日集計し,全ステージの総合タイム首位の選手が優勝。
勝者には名誉の”マイヨ・ド・ジョンヌ”と呼ばれる黄色のシャツが贈られる。

わたしたちが5月に南アのヨハネスブルグから喜望峰に飛んだとき、”Tour de Cape”という自転車競技があることを知った。
アップダウンの続く断崖絶壁の、強い海風に当たりながらの海岸線のコースはかなり厳しいレースだろう。それでも、海外からの(日本人も!)参加もあって盛況だそうだ。


そして。
ここ、コンゴにもなんと、”Tour de Congo”なるものがあった!

”Tour de la Congo”のマーク


今年で2回目の開催。
6月18日から25日まで、コンゴ民主共和国内の703kmの距離、7つのステージを走り抜く自転車競技だった。

Tour de la Congoスタート (FecocyのH.P.より)

まず、コンゴ南東部のコルウェジ→リカシ→ルブンバシ(カタンガ州)へ。
第1ステージのコルウェジ、リカシ間は、シマウマ、鹿などの動物が見られるようだ。
第2ステージでは鉄橋を渡っていた。

そして、第3、第4ステージ。
西部→キンペセ(バコンゴ州)→キンシャサへ。
キンシャサでは、スポンサーなのだろう、選手たちは”Hotel KWILU”というホテルに泊まっていた。
”KWILU”といえば、わたしたちの贔屓のコンゴ産さとうきび焼酎のメーカーだ。
そのKWILU直営ホテルなのだろうか。
確かに、KWILUは直営のバーも持っているし。
なかなか感じの良いホテルだったが、キンシャサのどこにあるのか。

話を元に戻して、最後の第5、第6、第7ステージ。
東部→ケンゲ(バンドゥンドゥン州)→セレ→キンシャサへ。
第7ステージでセレからキンシャサ入りし、トリアンフ通りのサッカースタジアムがゴールだったようだ。
トリンフ通りのサッカースタジアム前のTour de la R.D.Congoゴール(fecocyのH.P.より)

北部の赤道州や、停戦になったばかりの東部の南・北キヴ州はルートに入っていなかった。

わたしは、このツール・ド・コンゴの自転車競技をフランスからの衛星放送、”TV5”の特集番組で知った。
思えば、ここ1,2年でキンシャサ市内を競技用自転車で疾走する選手たちをよく見かけるようになった。しっかりしたスポンサーが付かなければ、自転車も競技用スーツも入手できないはずだ、と思っていた。

テレビ番組で観る限り、競技ルートは舗装道路(国道1号線がメインルートだった?)を走っていたし、動物保護の自然公園、そして、キンシャサ郊外にあるボノボ保護園辺りも通り、コンゴ観光PRも兼ねたようなルートだったように思う。
それでも、過酷なコースだったのは間違いなく、タイヤが外れる事故が起こったりしていたし、もちろんバイクや自動車の伴走が続いていた。
Total(石油),Scole(飲料),RawBank(銀行),Bank Africa(銀行),AVIA(レンタカー)など多くのスポンサーも付いて、沿道の人々の声援を背にツール・ド・フランスと比べて見劣りしない盛り上がりだったように感じる。
参加国も、コンゴのチームはもちろん、フランス,ベルギー、アフリカからは、コート・ジボワール、ルワンダ、ブルキナ・ファソ、タンザニア、ガボン、マダガスカル、そして嬉しいことに、中央アフリカ共和国からの参加チームを見つけた。

この自転車競技大会の正式名称は、
”Tour Cycliste International de la R.D.Congo”

主催は、
La Federation Congolaise de Cyclisme (Fecocy)

この国、コンゴ民主共和国に平和が続く限り、(少しずつかもしれないが)発展を続けると確信する。
平和が続いて、この ”Tour  de la R.D..Congo”の自転車競技も続いて発展し、立派な国際競技大会に育つことを祈り続けたい。



ポワルー四車線完成記念コンペ

昨夜は、ワールドカップ・サッカーでドイツが優勝して沸きに沸いてワールドカップ・サッカーが閉幕した。
キンシャサのいくつかのホテルでも、大型スクリーン観戦と飲み物,軽食付き入場チケットが販売されたりして(どこかのホテルのチケット料は50米ドルだったとも聞く。)、ドイツ対アルゼンチンの試合に盛り上がったようだ。
ドイツ大使館での決勝戦観戦ではきっと大興奮の渦だったのだろう。
というのも、準々決勝くらいからか、ドイツの試合があるたびに、ドイツ応援観戦のためにドイツ大使館の庭に大型スクリーンを置いて開放していたのだそうだ。
観戦のための来訪者が多すぎてスクリーンが見えずに自宅に戻ったという友人の話も聞いた。

ヨーロッパの人たちはワールドカップのサッカーの試合に本当に熱くなる。
ドイツの今回の優勝が24年ぶり,4回目というのだから、歴史の深さがうかがい知れる。

今回のベルギーのチームでコンゴ出身のルカク選手が活躍していて、キンシャサの大型スクリーンを設置するレストランやカフェでは、かれを応援するためにやはり盛り上がっていたらしい。


優勝ということで、今日はこんな話題を・・・。


ポワルー道路四車線完成! photo by Sho.Inoue


夫がコンサルタント業務として携わってきたプロジェクト、ポワルー道路四車線拡幅改修工事が無事、完成した。

わたしがキンシャサに来て2年半、工事が進むにつれ、キンシャサ在住の人々から道路の素晴らしさ、工程の素晴らしさを褒められ、わたしは日本人としてどれだけ鼻高々だったことだろう。
本当にすばらしい四車線舗装道路が完成した。
それと連動するかのように、ポワルー道路入り口の中央駅前広場もきれいに生まれ変わったし、近々,広場横に新しいホテルも開館するようだ。


そのポワルー道路の完成を記念したゴルフコンペが日本人ゴルフ仲間で行われた。
道路施工会社の北野建設の主催の、仲間内のお祝いコンペだった。

朝の(寒いくらいに)ひんやりした日本の夏の高原を思わせる緑多いキンシャサ・ゴルフ場で、8時半にスタート。
4グループに分かれて、わたしは3番目のスタートだった。

わたしは、それぞれのコースのパーより2打多い”ダブルボギー”でプレイすることを目標にし、スコア110を切りたいという思いも胸に秘めてのスタートだった。
連続の池ポチャもあって、試練に立たされる場面もあったが、歯を食いしばって(ホントに!)乗り越えた。
集中してプレイを続けられ、また楽しみながら回れて、終わってみるとわたしのスコアは109!
目標達成できた自分に祝福した!
もうそれだけで十分だった。

成績発表で、同スコアのかたがもうひとりいた。
さらに、ハンディキャップの少ないかたで、ネットで同スコアになったかたもいた。
でも、なぜだか、わたしが優勝してしまった。

きっと、日本人女性の(色あせても)紅一点で頑張ってきたマダムに花を持たせてくれたのだな。なんと幸せなことだろう。
ゴルフ仲間の皆さん、どうもありがとうございました!

ゴルフ場のパイヨットで表彰式が行われたとき、わたしがレッスンを受けるコンゴ人レッスンプロのカップンバさんを見かけたので、109のベストスコアを出したことを報告した。
わたしがゴルフで分からなくなって質問をするたびに、しっかりと理論を持って分かりやすく説明してくれて練習を付けてくれる、いつも紳士的なゴルファーのカップンバさん。
かれも満面の笑みを浮かべてとても喜んでくれた。


・・・ということで、思いもかけずに、日本人のゴルフコンペで優勝してしまった、という話でした。
キンシャサでの良い思い出がまたひとつ持てました。
再度、ゴルフ仲間の皆さんに。
心から、どうもありがとうございました。


2014年7月14日月曜日

パルミエの木

乾季に入ってそろそろ2ヶ月。
キンシャサ上空は厚い雲に覆われ、太陽が出ないから気温が上がらない。
今年の乾季は例年よりも冷えると誰もが言う。
今朝も運転手が長袖のトレーニングウエアを着て、ファスナーをしっかり首の上まで閉めて肩をすぼめて運転席に座っていた。寒い寒いといいながら。


さて今日の本題へ。
ヨウムのぽんを養子に出して3週間が過ぎた。
ぽんの大好物のひとつが、パルミエpalmierの実 ”noix de palme”だった。
この脂質たっぷりの赤い実のお蔭で、ヨウムのしっぽの鮮やかな赤色が保たれるのだと聞いたことがある。
(パルミエの実からできるパーム油は、コンゴ人の食生活において欠くことのできない食材だ。)


パルミエの実 poix de palme


コトー通りのアパートの隣人、清水ドクターのお宅にもヨウムがいて、清水ドクターがパルミエの実は種なのだから、土に埋めたら芽が出るはず、と思って植えたら、はい、芽が出ました~、と言われて、ドクターが日本に帰国されるときに鉢植えのパルミエの幼木を譲り受けた。
最初、縦じわを持つ濃い緑色の広い葉が1,2枚出ているだけだった。
8ヶ月ほど前のことだ。


左の鉢植えがパルミエの幼木(6月中旬)

そんな感じで、葉はパルミエ(日本ではパームヤシ?)とはほど遠い形だった。
蘭の葉のようだったし、寿司の盛り合わせに使われる”バラン”の葉を彷彿とさせた。

ところが、そのうちに葉の先端が二つに分かれ、それから葉のすじが深くなって、下部から細く割れていったのだった。

最初、バランのような一枚の葉だった!
しばらくして、葉の先端が2つに分かれてきた!
先端が2つに分かれたと思ったら、下のほうから葉が細く割れていった!


なんとびっくり!
ここまできたら、やっぱりこれはパルミエの木(パームヤシ)だ、と分かってくる。

現在住んでいるアパートのお隣の通路にも、パルミエの木の植木が置かれている。


隣人の通路に置かれたパルミエの木

もうしっかり葉は細く割れている。
(わたしのパルミエの幼木も、これくらい大きくなるまで手元に置いて育てたかったな。)

コトー通りのアパート敷地内にもパルミエの木が植えられていた。
キンシャサ中、あちこちでパルミエの木を見かける。

コトー通りのアパートのパルミエの木

また、ゴルフ場には、パルミエの木がたくさんだ。
下の写真は、ゴルフ場18番ホールのティーアップスペース近くに理路整然と続くパルミエの並木道だ。

18番ホールティーアップスペースから眺めるパルミエの並木道

9番ホール左側のパルミエ林


キンシャサのゴルフコースの土地は、コンゴ政府所有の土地で、政府から借り受けているものだそうだ。
その昔、ここは、パームヤシ油採取のためのプランテーションをしていたのではないか、という人もいる。それくらい、たくさんのパルミエの木が等間隔に整然と植林されている。
そして、ヨウムの好物のパームヤシの赤い実がたくさんあるから、ゴルフ場には野生のヨウムが集まってくる。
赤い実がたわわに実ると、人が木に登ってどっさりと丸ごと実を取って荷車に載せて運んでいる。


また、10mくらいまで伸びたパルミエの木の下枝の処理のために、コンゴの人は幅広の帯状の布を輪にしたものを枝に付けてひょいひょいと体重移動してその帯をずらしながら木によじ登っていき、枯れた枝を切り落とす作業をしている。
枝処理をしていかないとまっすぐ伸びていかない、とか?

ゴルフ場には、まだ子どもの背丈ほどのパルミエの木から、幹に苔が生えたり、寄生植物が生えたりして10mほどに伸びた老木まであちこちに立っている。

ある程度まで大きくなったパルミエの木の枝の真ん中から新しい枝が出ているが、しっかり硬い枝だ。幼木の蘭のような柔らかい葉からはほど遠い、”硬い尖った棒”のような新しい枝が出ている。


清水ドクターからパルミエの芽の植木を譲り受けていなかったら、パルミエの最初の葉が割れていくことなんて知らないままだったはずだ。自然の不思議だ。
その、自然の不思議に深く感動し、その感動をおすそ分けしたくてブログに書いてみた!


2014年7月12日土曜日

うれしい合格!!

先月27日、キンシャサのフランス学院で実施されたDELF(Diplome elementaire de langue francaise)のB1レベルの試験に再挑戦した。


キンシャサ・フランス学院中庭~6月27日朝~携帯電話の小屋モニュメントとDELF受験者たち


初めて受験した2月の試験で、わたしは聞き取り問題にまったく歯が立たず、合格を果たせなかった。


わたしのフランス語の出会いは、1992年7月から滞在した中央アフリカ共和国のバンギでだった。
8歳の娘と4歳の息子を伴って夫の仕事で滞在したバンギは、フランス語オンリーの空間だった。だから、子どもたちも、フレンチスクール通学という選択肢しかなかった。
週に2回、子どもたちのためにフランス語の家庭教師に来てもらって学校の授業の補習をお願いした。
わたしは、日本大使館経由で送付される、海外子女教育財団発行の日本の学校カリキュラムに沿った教材を子どもたちと一緒に勉強するほうを担当した。

自身のフランス語学習は、日本から持ってきた「フランス語の最・初歩」とかいう文法書で自学自習。フランス語でのコミュニケーションの難しさに辟易した。


1995年7月に帰国して、娘は海外子女枠での中学受験の準備に忙しくなり、娘の受験が終わったら今度は息子の一般枠での中学受験の準備で忙殺され、フランス語のことなど、どこかにふっとんでしまった。

子どもたちが引き続きフランス語を学習できる環境に入ると、わたしもまた細々とNHKラジオ講座のテキストを買ってフランス語の勉強を再開した。
ラジオ講座の週の前半の3日間が基礎編だったので、その3日間だけでも聴講しようと決心したが、子どもたちの学校の行事などで聴けない日が続いたりもした。

子どもたちの学校のフランス語の教材を覗いたりもした。
地元の公民館のフランス語教室に通ったこともあった。
そんなふうに細い細いフランス語の道を通ってきた。

そして数年経って、わたしは頭の手術を受けた。
2、3年ほど、わたしのフランス語自学自習は途絶えた。

その間ずっと、夫は仕事でアジアやアフリカに調査に出かけた。
フランス語圏の仕事が多かった。

わたしは、子育てもそろそろ終了の時期に来ていて、何かを見つけなければと試行錯誤を始めた。
三回の夏と、冬の一回に、期間限定の絵本屋を開店したのもこの時期だ。

絵本のことと平行して、いつかまたアフリカのフランス語圏に夫に同伴して行きたい、滞在したい、という夢も持ち続けた。
夢を持ち続けて、また細々とフランス語自学自習を再・再開した。

それから。
娘が縁あって、フランス人と結婚し、フランスに家族ができた。
これはもう、フランス語をやるしかない。
時期を同じくして、夫がキンシャサに一緒に行こうと言ってきた。


娘たちを2011年の12月初めにフランスに見送り、大晦日にわたしたちはキンシャサに旅立った。

今回がわたしの人生最後のアフリカ滞在になるかもしれない。
それに、今回の滞在は子どもたちがいないのだから、自分自身に目標を持とうと思った。

・ たくさんの人たちに出会おう。
・ ゴルフをがんばろう。
・ フランス語をしっかり勉強しよう。

この3つだった。

そして、2012年2月からだったか、友人の紹介で週2回のフランス語の個人レッスンを受け始めた。
その先生とは、しっかり話すために、まず文法を復習した。
書くこと、読むことも重視する先生だった。
わたしは、もともとおしゃべりな性格だから、持っている語彙で話すことは好きだ。
でも、聴く姿勢を持っていなかった!

「エステの好きなヒロコサン。エクテの苦手なヒロコサン。」
とごまかしてきたが、本当に聴くことが苦手だった。


フランス語学習の一つの指針として、キンシャサで受験できるDELFにトライしてみたら、と夫が提案した。
フランス語教師に受験のことを話すと、B1レベルに挑戦してみたらと言う。
フランスに行ったときに、DELFの過去問題集を買ってきた。

今年2月。
過去問題集にまったく手を付けられないまま受験し、聞き取り問題で失敗。
ショックだった。
もう二度と受験はしないとも思った。

でも夫は、一度や二度の失敗でへこたれるなと言って、6月末に再挑戦することを勧めた。
フランス語教師も受験を続けるべきだと背中を押した。

そうだな、カッコつけてもしかたない。
等身大でいこう、合格するまで受験し続けたらいいんだ。
でもなあ。
キンシャサでの2年半のフランス語学習の集大成として、何らかの形に残せたら幸せだろうなあ。
ともあれ、今の実力でトライあるのみ!

6月27日、朝。
上のレベルを受験する夫と共に、フランス学院へ向かう。

難しかった。
やっぱり聞き取りができない。
でも、耳の穴全開!、で聴き入る。
読解、フランス語作文は何とか奮闘。
昼食時間を挟んで、口頭試問。
口頭試問での試験官二人とのやり取りは楽しめた。


そして、今日7月11日。
午前中、夫から電話が入る。

「ふたりとも、合格してたよ。おめでとう。」

しばらくして、事務所の夫から、わたしのパソコンに合格証が添付されて送信されてきた。



DELF B1 合格証