2012年3月1日木曜日

コンゴに生きる人々

これは、朝の通勤風景を、ポワルー道路工事現場に向かう夫が撮影した写真だ。
青と黄色のツートンカラーのタクシーバス目がけて通勤客が走っている。ビニールごみが辺り一帯散らばってゴミ箱をひっくり返したような街、キンシャサ。ラッシュの中をすし詰め状態のタクシーバスに揺られて仕事場に向かう、ここに生きる人々の朝の1コマだ。

我が家のメイド、Florenceは毎朝(月曜日から金曜日まで)15分は遅刻してくる。雨の日は30分とか40分も遅刻することも。わが身を振り返ると偉そうに言えないのだが、「あなたは9時から仕事を始めるのだから9時前に到着していなければならないよ。」と何度も何度も言うのだけど、渋滞だったとか、雨だからタクシーバスになかなか乗れなかったとか、毎回色んな言い訳をする。
賢い彼女なのだが、仕事中もだるそうにのっそりのっそり動き、床も椅子ものの字を描くようにさらり~っと拭くから汚れが取れていない。わたしが、汚れが取れてないからもう一度拭いて、と指示しても、これは拭いても取れない汚れだ、とか、人が頻繁に通る玄関口だから床が黒いのは仕方が無いのだ、とか言い訳するから、貸してごらん!と雑巾を取り上げてごしごし拭くと汚れはきれいに取れたりする。それをまたじーっと見ているだけ。、謝りも、逆に感心もしない。そしてまた、次の日、のっそりふわりん~の拭き方を繰り返している。

彼女が、「わたしの国は、緑もいっぱい、水もいっぱい、資源もいっぱいだというのに、なんでわたしたちにはお金がないのでしょう!?!?」と力説したとき、「だってあなたたちがしっかり働かないからでしょ。」と言いたい気持ちをぐ、っと抑えた。それだけではなく、大統領の一族郎党が国益を横領しているという噂も聞くし、国の指導者からして私利私欲に走る国なのだから、一概に彼らを責めるのは可哀相だ、とも思った。
わたしたちの住むアパートの高齢の女性オーナーは悪名高きモブツ前大統領の妾だと聞く。なるほど、モブツさん、妾にアパートの一つでも建ててやって住む場所と賃貸収入を確保してやれば安泰だと思ったんだろうな。だったら、このアパートなんてモブツさん公金横領の証拠物件の一つでしょうが!!と思うのだけど、ここのオーナーのお妾マダム、「なんとかママ」、とか言われてやけに人気者らしいのだ。この前の大統領選挙の時も立候補者がここの「なんとかママ」のところへ挨拶に来た、とも聞く。
メイドのFlorenceは、彼女をモブツと一緒に”働いていた”女性だ、という言い方をして決して悪く言わない。ものすごい巨漢だと聞くオーナーマダムは海外滞在が随分長く、わたしたちがここに引越してきて1ヵ月半、ずっと留守にしている。
一部の政府高官一族だけが富んでいるという事実を見て、働き口がなかったり低賃金労働で生活に苦しむ一般庶民は富裕層の人々をどのように思っているのだろうか。

Florenceは他人が部屋に侵入したら物を盗まれるのは当たり前だ、みたいな言い方をする。カトマンズでもバンギでもここでも部屋の各ドア、タンスの各扉、各引き出し、すべてに鍵が付いていたし、付いている。人を見たら泥棒と思え、という発想は日本人にはない。
給料の前借りも日常茶飯事。銀行があっても、預金するということをしないらしい。将来のための貯蓄とか、老後の資金という概念がないのかもしれない。
キンシャサに暮らして思うのは、ここの人は着道楽だなあということ。被服費は給料の高い割合を占めるのだろうと予想される。

また、ここの屋台の野菜売りおばちゃんから買物をするとき、決まった売値がない。外国人というだけで、高額を請求されたりする。わたしは主婦根性で値切るのだが、夫はほとんど言い値で買うと言う。「だって、おれ達お金持ってるんだもの。あのおばちゃんたちの生活費になると思ったら、少々ふっかけられてもいいかな、と思うよ。」
そうだなあ、とも思う。

バンギにいた頃、何かを買ったとき偽物をつかまされて結構な値段で買ってしまい、悔しい悔しいと連発していたら、家族ぐるみでお付き合いのあった日本の男性から、マダムは良いことしたねえ、と言われた。きょとん、としていたら、今夜はそのおじさん家はごちそうだよー。おじさんがただいまあ、とにこにこしながら帰ってきて、今日は父ちゃん一儲けしてきたから肉買ってきたぞお!ごちそうだぞ~、って声に、子どもたちが父ちゃんすごい、うれしいな~って。今頃、一家で賑わっているんだよ。良いことしたねえ。と。
なるほど。そういう考え方をすると、こちらも幸せをもらえるんだなあ。
余談だが、その幸せな発想を教えてくれた男性は、現在、ここの日本大使となられて、奇遇にもまた出会いを持つことができた。

開発途上の国に生活していると、そこの国の人を差別するまではいかなくても、見下げた言い方をついしてしまう。

コンゴ民主共和国はベルギー領だった。ベルギーの新聞記者だったエルジェが1929年に書き始めたタンタンの冒険物語は現在も世界中で人気のシリーズだ。
彼が「TINTIN au CONGO」を世に送り出したのは1930年。書籍として白黒で出版されたのが1931年。この「タンタン、コンゴを行く」には、コンゴを植民地としていた当時のベルギーの世相を反映する描写があり、「現地の黒人が”野蛮で愚かで下等な人間”のように描かれている」ということで古くから批判にさらされ、作家エルジェは、戦後1946年の改訂の際、植民地支配に関する部分だけ削除したのだそうだ。英語版は、長い間、白黒版のみの出版だったが、2005年に子ども向けのカラー版が出版された時、後に作者自身も認めているように、「当時の欧州人のステレオタイプ的な見方に基づいてアフリカの人々が描かれ不快に感じる読者もいるでしょう。」という断り書きが巻頭に付記されたそうだ。

キンシャサの街を車で通ると、タンタンや他のキャラクターの木彫りの人形を製作して売っている現地の人を見かける。かれらにエルジェの差別描写を尋ねたら、「タンタンが人種差別主義者だってことは分かっている。でも、生きてゆくためには金が要るんだ。」と製作の手を休めず答えたという。

わたしは、メイドには働いてもらう以上けじめを持って接しようと思っている。色々な彼女の言い分も呑んではきたが、ひとつしっくりいかないことがあった。変な話だが、彼女がわたしたちと同じトイレを使うことだ。洗面台はしっかり手を洗って欲しいし身だしなみも整えて帰りたいだろうから使ってもらうことは良しとした。だが、このアパートには使用人棟があってそこに使用人用トイレがあるのだ。
わたしはそのことをずっと彼女に言えないでいた。

わたしたちと同じトイレを使わないで。トイレは1階の使用人トイレを使いなさい。こんなことを言うのは、アメリカのキング牧師やバスの乗車を続けたローザ夫人の時代に差別の言葉を投げた白人と同じなのではないか。我が家には抵抗力の弱い乳幼児がいるわけでもないし・・等等、色んなことが頭をよぎった。彼女だってプライドを持った1人のアフリカの女性だ。

・・・そしてとうとう昨日、彼女に思い切って伝えた。
彼女は、普段どおりにあっさり了解しました、と言っただけ。使用人トイレがあることをおそらく彼女は知っていたのだろう。
果たして彼女が1階のトイレを使うようになるかはわからない。

アフリカの人々のおおらかさとたくましさと、狡猾さ。
それを批判がましく言った時、何を基準にかれらを非難しているのかと思ってしまう。
そんな時、アンゴラとコンゴ民主共和国・キンシャサで長く活動されている中村寛子シスターから、16人の宣教者+曽野綾子著「生きて、生きて、生きて」(海竜社)という本をお借りした。”16人の宣教者”の中に中村寛子シスターもおられる。アフリカ、アジア、南米の貧困層の人たちの中に入って共に生きる宣教者たちの言葉、そしてそれを支援する曽野綾子さんの言葉が胸に響いてきた。

「アフリカは強靭な大地であった。貶(けな)した意味でもなく、褒めた意味でもない。ただ、日本的判断を大きく超えた人間の生の闘いが挑み続けられている土地であった。」

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