2012年3月27日火曜日

我が家のお手伝いさん

じゃーん!!この女性が、毎朝、重役出勤のフロランス、我が家のお手伝いさんだ。
昨日は、国際女性デーの時に夫が贈った布地で彼女自身が縫った服を着てやって来た。いつもおしゃれな彼女だ。
我が家で働くようになって初めの頃、彼女も例に漏れず、”カツラ”を着けて来ていた。それがなんとも不自然で彼女を老けて見せるように感じていたら、ある日、彼女がカツラ無しで現われた。それがとっても自然でチャーミングだったから、「あなたは自分の髪のほうがとっても似合っているよ。」と言うと、カツラ装着をやめたのだった!
とっても魅力的でしょう!

彼女のフルネームは、”FLORENCE MALUNDAMENE NKEMBI”
「あなたの名前の”フロランス”はヨーロッパ的だね。アフリカ的な名前はもう主流ではなくなったの?」と訊くと、「わたしたちはアフリカ的な名前もちゃんと持ってるよ。”NKEMBI"というのがそれだよ。」。
なるほど。ヨーロッパ的な名前と、アフリカ的名前と二つ持っているけど、普段はヨーロッパ風名前をよび合っているらしい。
フロランスはキンシャサの南、バコンゴ出身。洋裁の先生をしていたと聞く。現在、夫、4人の娘と1人の息子の7人家族。夫もバコンゴ出身。
「わたしの夫は一生懸命勉強し大学まで行ったのに、それを生かした仕事に就けなかった、結局わたしの夫は運転手だよ。」と嘆いたことがあった。子ども達にはしっかり学問を身につけて欲しいと言っている。
ある時は、「わたしの国には、資源も豊富にあるし、森も豊かだ。なのに、わたしたちにお金がないのはどうしてだ!」とこの国の政府のあり方を遠回りに嘆くのも聞いた。

彼女は我が家でお手伝いさんをしながら、バナナも売っていて、自宅の庭では野菜も作っているそうだ。もちろん家族が着る服は彼女のお手製。
わたしは小学校の遠足や運動会でバナナを食べ過ぎて(あの時代はバナナは特別な意味を持っていた!)ちょっと食傷気味なのだが、我が夫はあきれるほどのバナナ大好き人間。彼女が持ってくるバナナを昼食用に2本持って毎朝プロジェクト現場に出かける。

彼女からは、食べ物のことや習慣のことをいろいろと教わる。
雨季と乾季しかない常夏のコンゴにも野菜や果物の旬があることも知った。ここの青菜もいくつかあって、”ビテグテグゥ”はお浸しにすると小松菜のようで美味しいし、”ンガイ ンガイ”は茹でると茶色になり酸っぱいが、油とだしの素で炒めると高菜のような味が楽しめる。
中央アフリカで愛飲した”シトロネール”(レモングラス)も彼女が株を持ってきてくれて我が家のプランターに植えられた。シトロネールを植えていると蚊除け効果があるというし、葉っぱを摘んで熱湯に入れてお茶にして飲むとおいしい。
また、”ブルグツゥ”という木の葉っぱを乾燥させたものを熱湯に入れてお茶にして飲むとおいしいし体にもいいんだよ、と持ってきてくれて、我が家のお茶として定着しつつある。
栄養のことも彼女はよく口にし、パーム油はビタミンCが豊富だとか、ピーナッツを食べると良い、とか姉のような口調で教えてくれる。実際、わたしに”vouvoyer”(畏まった言い方)ではなく、”tutoyer"(友達言葉)で話していることがあり、「彼女の親しみ」として受け取って聞いている。

彼女が我が家に来て3ヶ月近くの間に、「娘がマラリアになった」、「わたしは発熱した」から病院に行って薬を貰ってから来ます、と電話があって遅れてきたことが2度あったが、それでも仕事にやってきた。 マラリアの熱だといって来た時は、さすがにだるそうですぐに帰した。

彼女は、家でもしっかりものの奥さんであり、しっかりものの母親なんだろうなと思う。
ときには彼女のやり方が気に障るときもあるが、習慣の違いだと認識しつつ、きちんとわたしの希望を伝えようと思っている。

そろそろ9時になる。フロランスはちゃんと時間通り9時に来るかな。一番下の娘を近所の人に預けて出勤し、キンシャサの朝のラッシュはひどいから、通勤は大変だと思う。
よく「今朝はひどいラッシュだった」、と遅刻の言い訳をするが、時には、「マダム。マダムの時計が進み過ぎているのだ。わたしの時計はまだ9時3分だよ。」と我が時計のほうが正しいと主張する。だったら、3分過ぎているのはどうなのよ、と意地悪く思ったりもするが、わたしも遅刻魔だったしなあ。強くは言えないところがある。

昨日、帰るとき、一番下の娘が熱を出してねえ、せっかく彼女の4歳の誕生日なのに。帰り道で贈り物を買って帰ってあげないと。ごちそうも作らなきゃ。
母親の顔に戻っている。

また、今日も一日が始まる。

2012年3月24日土曜日

キンシャサにたくましく生きる日本の学生たち

 ・・・・・日本からの学生4人(左端は夫、右から二番目はWFPキンシャサ事務所勤務の友人)・・・・・

昨夜、WFPキンシャサ事務所に勤務する友人が、キンシャサに長期滞在中の日本の学生さん4人を引き連れて我が家にやって来た。

彼らは、慶応大学環境情報学部のゼミの教授の指導の下、大学を休学して、あるいは大学院に在学しながら(1人は早稲田大学を昨春卒業して)キンシャサ市内のコンゴ教員大学(ISP)で日本語をコンゴの人たちに教える目的でキンシャサに来ている青年たちだ。
この写真のかれらのはじけるような笑顔を見ると、かれらがたくましく充実した生活を送っているだろうことが伺える。
かれらは、コンゴ教員大学の学生寮に滞在しているそうだ。4人同室で台所はあるものの、ある時、水道が壊れ部屋が浸水。以来、水道を潰して自炊ができない状態で生活していると聞いた。
食事は、「大学前の路上でパンとかを買って食べているんです。」・・・聞くも哀れな、というか、たくましい”青春inキンシャサ物語”だ。
でも、かれらにはしっかりした将来の目標があるから実に前向きだ!

日本語教師の立場から見えてくる言語習得過程を研究課題にする。
あるいはコンゴ文化(ここは古くから王国が林立していて部族固有の文化は大変興味深い。)を探求すべくコンゴ河(全長4370kmはアフリカ第2位)船の旅を計画する。日本語教師として広がった人脈で、地方出身の日本語生徒たちの実家を拠点にできる。
外務省入省を目指し、将来またアフリカに戻って活躍する足がかりとする。
アフリカの大都市キンシャサで起業する米国人に就いてビジネスの勉強をする。
フリスビー競技(競技名?はて?)をこの国に普及すべく体育管轄の省庁と接触し、講習会を開催する。
色んな目標がそれぞれにあるんだなあとわたしまで夢心地になる。
彼らはISP(コンゴ教員大学)で日本語を毎日、午前中も午後も教えながら、現地の人々と同レベルの生活をし、だからこそ見えてくるこの国の本当の姿、だからこそ培える人脈、コミュニケーション力を体得し、将来の目標に繋げているのだなあ、と感動した。
彼らの日本語講座の生徒の8割がたはISPの学生だということだ。
働きながら日本語講座を受講したい人のために土日も授業をしているとも聞いた。

なるほど。彼らの日本語講座でキンシャサにも日本語が徐々に広まっているのかもしれない。
ボボト文化センターの学芸員っぽい青年からも日本語の挨拶をされたし、街のスーパーストアの駐車場でも日本語で「こんにちは」と若者から挨拶されたし。もしかしたら、かれらの日本語の生徒たちかな。今度、訊いてみよう。
ここの国の人たちにとって日本語の発音は容易なようだ、とかれらは話していた。

かれら、慶応大学環境情報学部の学生達が取り組むキンシャサでのプロジェクトは、”ACADEX"
といい、3つの活動の内容が含まれている。
ひとつは、ISPでの日本語を教授する場の提供。
二つ目は、日本文化センターの設立。草の根無償援助の対象として在キンシャサ日本大使館に申請が認められたそうだ。ISPの敷地に年内には完成し、武道場も設置されるようだ。
三つ目は、キンシャサ郊外、キンボンド地区の小学校の建設。
慶応大学にキンボンド出身の教授がいて、現在もその教授の、80歳を超えてなお元気に大工として活躍する父親がキンボンドに在住。そこに2008年から毎夏、慶応大学で建築を勉強する学生が滞在し、彼らの建築学教授の指導を仰ぎながら、提供された土地に現地の建築資材を使って建設。すでに小学校校舎3棟が完成。屋根には太陽光パネルが取り付けられ、インターネットなどの電源は太陽光利用でまかなわれているそうだ。
小学校建設プロジェクト紹介のビデオを観たが、一棟ずつ分かれて建つ教室のデザインがすべて異なり、とってもモダンで開放的だ。赤レンガやセメント、トタン板といった現地調達の資材を使用しつつも、色んな形の屋根組みや窓枠・扉枠に木材を利用しているのが目を引いた。また、木製の机や椅子もシンプルなデザインだ。こんな学校で学べる生徒たちは幸せだなと思う。実際、どの生徒もきちんとした身なりで、明るい表情をしている。
授業時間は、7:30~12:00まで。この小学校は、サイモン教授が経営する私立小学校という位置づけで、3ヶ月毎に支払う授業料は24米ドル。これは公立小学校より若干安いのだそうだ。
すでに小学校の生徒たちは100人を超えたという。

かれらのキンシャサ・プロジェクト展開のきっかけは、この国出身の教授が大学にいたこと。そのネットワークを活かして計画を推進する実行力のある指導教官がいて、それに参加しようという強い意志の若者がいたことで、ぐるぐると勢い良くプロジェクトの歯車が動き出したのだ。
学生時代に、机上の空論ではなく実際のプロジェクト稼動を経験することは自信にも繋がる。
もちろん辛いこともあることと思う。マラリアに罹患し大変な思いをした青年もいる。
それでも!この笑顔!
事故と病気に気をつけて、将来を見据えて大きく成長していってほしい。
Bon courage !!

2012年3月22日木曜日

住所の訂正!

前回のブログで、お知らせしたキンシャサの住所に訂正がありました。Gombe地区の郵便局の管轄なので、「Gombe」という地区名をKinshasaの前に入れなければなりませんでした。
もう一度、お詫びして訂正させていただきます。

 「B.P.3118 Gombe , Kinshasa , R.D.CONGO」
※ "R.D.CONGO"とは、Republique Demoratique du Congo(コンゴ民主共和国)の略です。
  "R.D.C."でもよいようです。

昨日、我が家に温度計が来ました。
ここ3、4日暑いなあと思っていましたが、我が家リビングの日の当たらないところに置いた温度計は、32℃を指していました。部屋にいても汗ばむくらいでした。これから5月半ばまで暑い日が続くようです。
今日午前中、ゴンベ地区郵便局へ私書箱の鍵をもらいに行ってきました。夫は早速スペアキイを作り、夫婦でひとつずつ鍵を持ち、どちらかが週2回のペースで私書箱を見に行くことを取り決めました。
ゴンベ郵便局の近くには、イエズス会の運営する”ボボト文化センター”があり、ここの古いアフリカンアートのコーナーはわたしのお気に入り。これから、ゴンベ郵便局+ボボト文化センターをセットにしたルートがわたしのキンシャサ生活に定着しそうです。

2012年3月20日火曜日

コンゴ郵便局事情

車内から撮った写真なのでぼけていて申し訳ない。上の写真のクリーム色の建物が、キンシャサの郵便局本局だ。キンシャサのメインストリートである6月30日通りに面していて市内中心部に建っている。そして、本局正面に赤と青の小型トラックが停車しているが、その赤い部分に「EMS」と書かれている。建物はぼろぼろだけど、大きな看板を掲げ、EMSと書かれた運搬車が停まっている様子から、「なんだ、郵便局は機能してるんじゃない!!」と思われるかもしれない。
ところが、この本局は全く機能していないということだ。

20年前の中央アフリカ共和国も公務員の給料遅配で公共機関の機能が麻痺していた。首都のバンギの郵便局本局で手紙を出しても届かないから、パリに向けて出発する飛行機便がある日に飛行場の郵便局に持っていき、援助を受けて発行しているという美しい切手を受付で買って郵便局員に手渡すという手間をかけたらほとんどの手紙が届いていた。しかし海外からの手紙は私書箱を持っていればほぼ間違いなく届いていた。小包は中身を抜き取られたりして届かないことのほうが多かったけれど。

キンシャサではどうかというと、手紙は出せない、飛行場の郵便局から出そうとしても届かない、さらには私書箱を持っていても郵便物が届きもしない!、と聞いた。
全く郵便局が機能していないというのだ。

・・・と諦めていたら、最近になってンガリエマの修道院の中村寛子シスターから、ゴンベ地区の郵便局の私書箱を持っていると必ず海外からの手紙などの郵便物は届きますよ、と聞いた。ただし、キンシャサから手紙を出しても届かないし、第一封筒に切手を貼るスペースが足りないくらいたくさんの切手を貼らないとなりませんよ、とも言われた。

手紙を送れなくても、受け取れるだけでも嬉しいなと思って、私書箱を持つべく、今日シスターにゴンベ地区郵便局へ案内していただいた。シスターの顔で郵便局で強力な効果を持つことができた。
ゴンベ地区には、外国人が多く住み、大使館も多いから、しっかり私書箱を管理しておけば、手紙を受け取れる郵便局として噂が広まり、私書箱の使用料が安定的に(外国人は3カ月毎に支払う私書箱使用料を滞納することなく払うそうだ。)入ってくる、と郵便局員も理解しているのだそうだ。
本局の局員が妬むくらい、ゴンベ地区の私書箱はしっかり機能していて局員は給料を貰えている(多分、独自に)から、さらにしっかり私書箱が管理され、外国人居住地域だから3ヵ月毎の私書箱使用料も安定して入金される、という好循環と好環境の相互作用でうまく機能している、とはシスターの話だ。

私書箱の初回登録料+3ヶ月使用料で25000CF(コンゴフラン)。鍵代+何か(忘れた!)で13000CF。初回だけ38000CF(単純計算で3800円くらい)を払い、以降は3ヶ月毎に24000CFだか21000CFを払えば、私書箱で手紙がほぼ確実に受け取れるとは本当に嬉しい。ゴンベ地区の郵便局限定ということだけど。

さて。ここでこの国の通貨の話。
以前にも書いたが、コンゴの通過は米ドルとコンゴフランの2本立て。コンゴフランは500CF札が通貨紙幣の最高額だから、38000CFを500CF紙幣で払うとなると76枚も要る。それは不可能だから、米ドルで支払うことになるのだが、そこのところがくせものなのだ。
例えば、コンゴでの通貨米ドルは最小5米ドル~最大100米ドルなので、もし「2米ドルです。」と店の人が言うと、1米ドル=1000CFと換算して、「はい、2000CFいただきます。」この額を支払うことになる。
ところが、今日など、500CF札が76枚もないから、「米ドルで支払いたいのですが。」というと、アチラは勝手に1米ドル=900CFの換金率にして、「38000CF」を「42米ドルです。」と言ってきた。
それでわたしが50米ドルを渡すと、”2米ドル札”が流通していないから、「2000CFください。そうしたら10米ドルのおつりをあげます。」と郵便局員は言って、今度は、1米ドル=1000CFに戻った換金率で要求するのだ。
ついでに言ってしまうと、スーパーマーケットのレシートはすべてコンゴフラン表示だ。米ドルで払ってコンゴフランでおつりをもらうときなど、損してるんだろうなあ、と思ってしまう。こういうとき、煙にまかれたような気持ちになり、さっさと換金計算をするコンゴ人って絶対ずるいぞ!!と思う。てきぱき計算できない我が頭を呪うところだ。本当にややこしい。

3ヵ月後の私書箱使用料支払いの時までには、絶対に500CFを42枚か48枚分を貯めておくぞー!!と強く思う。今日、払った42米ドルなんて、1米ドル=85円で換算しても3570円なんだけど。

ということで、めでたく 私書箱”B.P.3118” を獲得!
これから、「B.P.3118 Kinshasa R.D.CONGO」これでお便りをいただけるとうれしいです。

さて、ゴンベ地区郵便局には、奥の事務室に今日の手続きをしてくれた局員のおじさんが1人。
そして、入り口に私服でたむろ(?)していた4人のマダム。その5人しか見かけなかった。
以前、わたしが中村シスターに、コンゴの切手がほしいと伝えていて、それをここの郵便局員のマダムが覚えていて、コンゴの切手を見るか、と訊ねてきた。見せてもらうと、何と2種類しかない。鷲のような鳥の切手とカビラ現大統領の切手と。それで、鳥の切手を1シート買った。
1枚70CF×15枚=1050CF。おお!根性で財布に1050CFがあった。
ちなみにと、シスターがフランスまで郵便料金いくらなの、と訊くと、「2750CF」なのだそうだ。単純計算で280円くらいか。絶対フランスまで届くはずのない手紙に今日買った鷲もどきの切手を貼ろうとすると・・・
なんと!!40枚貼らないといけなくなる。やっぱり、シスターの言われるとおり、封筒に40枚も切手を貼るスペースなんてない!!
ザイール時代の切手をいつも行くスーパーのカウンターで見つけて(コレクションとして)買ったのだが、本当に多種類あり、どれもきれいな切手だ。


お面、建築物、滝、動物などの図柄が美しい。どれにも、「ZAIRE」と印刷されている。

ところが、現在、ゴンベ地区郵便局にあった切手は2種類だけ。

下の切手が、今日わたしが買った切手のシートだ。

切手の上と下に黒く塗りつぶされている箇所があるのに気づかれたと思う。上の黒いところには、太字の「ZAIRE」の文字が、下の黒い部分には「50000NZ」の文字が消され、それぞれに黒字で下部に「REP.DEM.DU CONGO」(コンゴ民主共和国の意)、「70FC」と訂正されている。ザイール国としての最後の切手だったのだろう。

”NZ”はおそらくザイール時代の通貨単位だ。上の写真で動物の切手に”150NZ"、”350NZ"、

”500NZ”と印刷されたのがわかるが、ザイール時代、物価が末期には100倍、200倍、300倍・・とつり上がっていったのがうかがえる。


さて、娘が先月末にフランスから、ここのアパートの住所で手紙を郵送したらしいのだが、それをシスターに話したら、まず届くことはないだろうということだった。シスターが以前、ゴンベ地区郵便局でお手伝いをされたことがあったそうで、その時、B.P.番号ではなく、住所で郵便局に届いた手紙の束が大量にあり、行く先不明で放置されていたそうだ。

娘の手紙が今日使用許可をもらった”B.P.3118”に運良く入ることを願うのみだ。

2012年3月12日月曜日

キンシャサの1周年祭


昨日11日、朝6:15。衛星テレビ放送”フランス24”をつけると、東日本大震災慰霊祭の模様を中継していた。野田首相のスピーチに続き天皇皇后夫妻の姿が映し出された。退院間もない天皇のスピーチを聞き、わたしも黙祷した。一年前、渋谷のホテルロビーに避難したわたしがテレビ画面で初めて津波映像を観た時の大きな衝撃を思い返しながら・・・。

さかのぼって、キンシャサの街が国際女性デーで賑わった3月8日の夕方6時から、グランドホテル近くにある日本大使公邸で、”東日本大震災・1周年祭”が開催された。
世界じゅうの各日本大使館で3月11日前後に、大震災の犠牲者の慰霊と復興のPR、そして感謝の意を込めて開催されたのだそうだ。
日本大使館から招待状を受け取っていたわたし達夫婦が6時ちょうどに到着すると、大使公邸前にはすでにたくさんの車が停まり、続々と招待客が入っていっていた。
セキュリティーチェックを終え、大使夫妻、大使館員の出迎えを受ける。大使夫人は深い紫色の絽の着物姿で招待客を迎えている。やはり民族衣装はこういう場にふさわしいなと、ちょっと誇らしげに思う。
IWC(インターナショナル・ウイメンズ・クラブ)の代表二人と、並ぶ列で前後し挨拶を交わす。IWCだけではなくキンシャサの女性グループや、コンゴの色々な団体からも日本へ義援金が送られたそうだ。
公邸の庭に向かうスペースの両サイドには被災地から届いた児童が描いた絵が説明書きと共に展示され、足を止めて見入る招待客の姿もあり、徐々に慰霊祭の雰囲気になっていく。
パイヨット軒下にはシックな色合いの折り鶴のオーナメントが吊るされている。
その丸窓のところには横に切った竹を花器にして、落ち着いた色合いの小さな花が活けられたり、そこここに慰霊の心づくしが感じられる。
庭はもうすでに先客で賑わっていた。
間もなく、庭じゅうに響くアナウンスがあり、庭の一番奥に設けられたひな壇にライトが当たりコンゴ民主共和国と日本の二つの国旗が飾られる壇上に日本大使が現われた。二国の国歌が流れた後、黙祷。そして大使のスピーチが始まった。
わたしはほとんどフランス語を聞き取れなかったが、現在の被災地の復興状況、日本の食品の安全性、そして被災地への支援、義援金等の感謝が述べられたのだという。
夫のプロジェクトに関わるこの国の大臣や職員、キンシャサ市長に挨拶して回る。
アフガンの地雷撤去プログラム勤務の後コンゴに来たというアメリカ人男性と夫が話し込んでいる。
そして、国費留学生として20数年前に日本に滞在したという二組のコンゴ人家族を紹介された。一組は夫が医者だというコンゴ人夫妻とお嬢さんと息子さん。夫妻は日本語が驚くほど堪能だった。もうすっかり日本人の雰囲気だ。お子さん二人とも日本生まれなのだそうだ。
もう一組は、夫がタンガニーカ湖の賢魚(!)を研究する生物学の大学教授で、奥さんは何と日本の方だった!いく子さんとおっしゃるとっても控えめな女性は愉快なご主人と4人のお嬢さんと出席されていた。お嬢さんたちも立ち居振る舞いが日本的だ。
お二人は、ご主人が京都大学留学中に結婚。長女は日本で生まれ、次女以下3人はコンゴ生まれなのだそうだ。政情不安定で在外公館も外国人も一斉に引き揚げた時もこの国で暮らし、さぞ大変だったことでしょうと訊くと、「大変でした。」と一言。三人のお嬢さんの出産の時は、ンガリエマ修道院で活動する中村寛子シスターが支えてくれましたと静かに話された。
また、キンシャサに長期滞在し日本の無償援助プロジェクトで働く日本人がこんなにいるのかと改めて思い知らされた。キンシャサの国連機関に勤務する日本人も数名いる。ゼミの一環でキンシャサ郊外の現地小学校建設NGOで滞在する慶応大学生3名と大阪大学の先生にも出会った。
招待客はもちろん皆、なんらかの形で東日本大震災を支えてくださった方たちばかりだろう。300名くらいはいたと思う。
わたしは残念ながら出会わなかったが、キンシャサのトルコ人学校の関係者も出席していたと聞いた。
ここのトルコ人学校の生徒も日本の被災者を支援してくれのだそうだ。公邸に飾られていた日本の被災地児童の絵は、この1周年祭の後、トルコ人学校に展示されて交流を持つのだと聞いた。

この1周年祭に来ていたIWCの代表二人はフランス人とオーストラリア人の女性。
海外に流れるニュースは日本国内のものよりはるかに詳しいと聞くから、きっとわたしたち日本人以上に被災状況を知っているのかもしれない。彼女達に日本への支援をありがとう、と伝えると、今まで日本が色々な国に支援をしてきているからこそ、今度のことでは日本に支援が集まったのは当然です、そしてあんなに大きな被害に遭いながら現在も途上国援助を続ける日本は素晴らしいと思います、と言っていた。
会場から帰る招待客に、福島の工芸品の小さなお土産が手渡された。
こけし、起き上がりこぼし、織物のコースターがコンゴに届いていて、どれか一つを選んでもらっていた。また、それが福島の工芸産業の復興にも繋がるのだなあと感じた。
わたし達は冒頭の写真の、会津の起き上がりこぼしの張子をいただいた。
アフリカで期せずして出会ったにこにこ笑顔の小法師に和む夜だった。

2012年3月8日木曜日

3月8日 コンゴの女性のお祭り

3月8日。今日はコンゴの女性のお祭りなのだそうだ。
この日に着る晴れ着のために、男性たちは女性に布地を贈る習慣があるという。
日本の3月3日のひな祭りは学童年齢の女の子が対象のような感じだが、この「Journee Internationale de la Femme」は小さな女の子からお年寄りまで、全女性のお祭りのようだ。

写真の布地は、今年の女性のお祭りのために夫の事務所から女性の雇用人に贈られたものだ。我が家のメイドは、数日前に、3月8日の女性の祭りのことについてわたしに説明し、男性は女性に布地をプレゼントする慣わしがあるんだよと熱く語っていた。マダムも買ってもらいなさい、と付け加えて。
それを帰宅した夫に話すと前任者もこの祭りに合わせて布地と仕立て代をプレゼントしていて、今年も同様にプレゼントする予定だと言った。そして、その次の日にメイドにも同じ布地が贈られ、彼女はとても喜んで、Merci~と照れたようにお礼を言った。

布地に、「3月8日 女性の祭りの日」と書かれて、扇の下に”8”の字の模様がプリントされていて、おもしろい。メイドは、これで”Pagne”(腰巻という意味だが、おそらく巻きスカートとブラウスと腰巻)を作って3月8日に着て踊るんだよ、女性の祭りだからね、ととっても楽しみにして、語る表情がそれは生き生きと輝いている。
「マダムも布地をプレゼントしてもらって祭りに着るものを作ってもらいなさい!そうねえ、マダムはパンタロンにしなさい。アフリカの女性じゃないんだから、パンタロンがいいわ!」と温かい(?)アドバイスまでいただいた。
昨日、帰る間際に、彼女が「明日もわたしは(ここに)来るのか?」と訊いてきた。確かになあ、明日は女性の祭りだしなあ、と思って夫に電話で訊くと、3月8日は国民の祝日ではないから勿論働いてもらうよ、と言う。彼女に伝えると、たちまち曇った表情になった。
そして今日。
相変わらずの遅刻。仕事を始めてもだるそうにしている。わたしが寝室に引っ込んでいたら、リビングのソファに座って転寝している!!
Florence!どうしたの、と訊くと、わたしは昨夜遅くまで娘達のパーニュを縫っていたから疲れてるんだ、と主張してきた。4人も娘がいるからねえ、と。
なんだかわたしの亡き母を思い出した。わたしの母もお祭りだ、旅行だといっては前日徹夜してわたし達3人姉妹の服を縫ってくれたなあ、新しい洋服でお出かけするのがどんなに嬉しかったことか。わたしの母はもういないけど、あなたの娘達は幸せねえ、と話したら、とても誇らしげで、そしてわたしを哀れむような複雑な顔になった。
さ!!仕事をしてね!
そうして、ひょい、と彼女をみると大きなあくびをしている。どこの母親も同じだなあ、と思ってしまう。

正午前に買物に出た。車窓から、街行く着飾った女性があちこちで目に入る。
おおっ!!キンシャサの叶姉妹のような女性二人連れが日本の着物柄のようなスリット入りロングスカート&ブラウスでしゃなり、しゃなり、とお出かけだ。すごい迫力に男性達の目が注がれる!
あらあら、おませな女の子が母親とお揃いでロングスカート姿で気取っている。
幸せな光景だ。
運転手に訊いてみた。あなたも奥さんに布地をプレゼントしたの?
そうですよー、男性は皆、奥さんや娘達に布地をプレゼントして、女性達は皆、それで服を作って着飾ってお祝いするんですよー。
なるほど。でも、今日はスクールバスから制服を着た生徒達も降りて来て家路に急いでいる風だったし、仕事の日でもあるし、きっと夕方から賑わうのかなあ~、と想像したのだった。
ところで、わたしの布地は?と夫に尋ねると、お前は別だ、とさ。そうだろうとは思っていましたけど。

また明日、我が家のメイドは大きなあくびで転寝するのかな。

2012年3月6日火曜日

3月4日キンシャサに爆発音が轟く

昨日、午前8時半頃、キンシャサ市内のゴルフ場に夫と車で向かう途中、キンシャサの街のメインストリート、6月30日通り路上で大きな爆発音が聞こえた。
わたしは乗っている車がパンクしたのかと思った。と、その途端、運転手イーッグが何か口走ったかと思うと、車を突然Uターンさせて逆方向に走り始めた。夫が運転手にどうしたのかと聞くと、大砲の発砲音だから直ちに家に戻ったほうがいいと言っている。今の発砲音は2度目だ、と平静を装いながらも不安を隠しきれない運転手の様子にわたしの中にも不安が急激に広がっていった。

夫は、ゴルフ場のすぐ近くまで来ているし、日本人仲間もいるはずだからゴルフ場へ行くように、と指示している。大通りから右折すると、現地の人たちが数名単位で集まって爆発音の方を見ながら不安そうに話してる光景があちこちで見える。

ゴルフ場に着いて、ゴルフ客たちも落ち着かない様子だ。
それぞれが携帯で連絡を取り合っている。様子がわかるまでむやみに動き回らず待機しているのが賢明だと話している。
大使館員、国連平和維持軍などの関係者もゴルフ客の中にいるようだ。誰もがせわしなく携帯で話している。
待っている間にも、爆発音が何度か響き渡り、その音の正体がわかるまでは、皆、不安そうにしていた。そのうちに、日本大使館、JICAから連絡が入り始める。
ブラザビルの弾薬庫が爆発している。キンシャサの反乱軍の戦闘でもブラザビルからの攻撃でもないので、キンシャサの街は異状なし。落ち着いてその場にとどまるように。
その情報が確実なものか、詳しい情報を待った。
やはり、ブラザビルの弾薬庫の爆発で、戦闘を意味するものではないとのこと。
直ちにテレビ、ラジオでキンシャサ住民に向けて真実が伝えられ、戦闘的なものではないので落ち着いて対処するようにという呼びかけが流れたそうだ。

夫の運転手も爆発音を大砲の発砲音だと思って、咄嗟に車をUターンさせたくらいだ。キンシャサの人々には、市街戦の記憶が生々しく残っているのだ。戦闘ではないので慌てないように、という報道でどれだけの住民が安心したことだろう。

ゴルフ場では、そんなに大きな爆風も感じなかったが、今日になって、ブラザビルの対岸となるコンゴ川に面している建物のガラスが風圧で割れる被害があちこちで聞かれた。
昨日は、爆発音が午後2時くらいまで十回近く聞こえていたように思う。
その頃、コンゴ川からブラザビルを見渡せる建物の7階に上って見渡すと、黒煙が2箇所から立ち上っているのが見えた。

”日常”のすぐ傍に横たわる”非日常”の存在をいつも感じて生きている、政情不安定な国に暮らす人々の心情を見た1日だった。

2012年3月1日木曜日

コンゴに生きる人々

これは、朝の通勤風景を、ポワルー道路工事現場に向かう夫が撮影した写真だ。
青と黄色のツートンカラーのタクシーバス目がけて通勤客が走っている。ビニールごみが辺り一帯散らばってゴミ箱をひっくり返したような街、キンシャサ。ラッシュの中をすし詰め状態のタクシーバスに揺られて仕事場に向かう、ここに生きる人々の朝の1コマだ。

我が家のメイド、Florenceは毎朝(月曜日から金曜日まで)15分は遅刻してくる。雨の日は30分とか40分も遅刻することも。わが身を振り返ると偉そうに言えないのだが、「あなたは9時から仕事を始めるのだから9時前に到着していなければならないよ。」と何度も何度も言うのだけど、渋滞だったとか、雨だからタクシーバスになかなか乗れなかったとか、毎回色んな言い訳をする。
賢い彼女なのだが、仕事中もだるそうにのっそりのっそり動き、床も椅子ものの字を描くようにさらり~っと拭くから汚れが取れていない。わたしが、汚れが取れてないからもう一度拭いて、と指示しても、これは拭いても取れない汚れだ、とか、人が頻繁に通る玄関口だから床が黒いのは仕方が無いのだ、とか言い訳するから、貸してごらん!と雑巾を取り上げてごしごし拭くと汚れはきれいに取れたりする。それをまたじーっと見ているだけ。、謝りも、逆に感心もしない。そしてまた、次の日、のっそりふわりん~の拭き方を繰り返している。

彼女が、「わたしの国は、緑もいっぱい、水もいっぱい、資源もいっぱいだというのに、なんでわたしたちにはお金がないのでしょう!?!?」と力説したとき、「だってあなたたちがしっかり働かないからでしょ。」と言いたい気持ちをぐ、っと抑えた。それだけではなく、大統領の一族郎党が国益を横領しているという噂も聞くし、国の指導者からして私利私欲に走る国なのだから、一概に彼らを責めるのは可哀相だ、とも思った。
わたしたちの住むアパートの高齢の女性オーナーは悪名高きモブツ前大統領の妾だと聞く。なるほど、モブツさん、妾にアパートの一つでも建ててやって住む場所と賃貸収入を確保してやれば安泰だと思ったんだろうな。だったら、このアパートなんてモブツさん公金横領の証拠物件の一つでしょうが!!と思うのだけど、ここのオーナーのお妾マダム、「なんとかママ」、とか言われてやけに人気者らしいのだ。この前の大統領選挙の時も立候補者がここの「なんとかママ」のところへ挨拶に来た、とも聞く。
メイドのFlorenceは、彼女をモブツと一緒に”働いていた”女性だ、という言い方をして決して悪く言わない。ものすごい巨漢だと聞くオーナーマダムは海外滞在が随分長く、わたしたちがここに引越してきて1ヵ月半、ずっと留守にしている。
一部の政府高官一族だけが富んでいるという事実を見て、働き口がなかったり低賃金労働で生活に苦しむ一般庶民は富裕層の人々をどのように思っているのだろうか。

Florenceは他人が部屋に侵入したら物を盗まれるのは当たり前だ、みたいな言い方をする。カトマンズでもバンギでもここでも部屋の各ドア、タンスの各扉、各引き出し、すべてに鍵が付いていたし、付いている。人を見たら泥棒と思え、という発想は日本人にはない。
給料の前借りも日常茶飯事。銀行があっても、預金するということをしないらしい。将来のための貯蓄とか、老後の資金という概念がないのかもしれない。
キンシャサに暮らして思うのは、ここの人は着道楽だなあということ。被服費は給料の高い割合を占めるのだろうと予想される。

また、ここの屋台の野菜売りおばちゃんから買物をするとき、決まった売値がない。外国人というだけで、高額を請求されたりする。わたしは主婦根性で値切るのだが、夫はほとんど言い値で買うと言う。「だって、おれ達お金持ってるんだもの。あのおばちゃんたちの生活費になると思ったら、少々ふっかけられてもいいかな、と思うよ。」
そうだなあ、とも思う。

バンギにいた頃、何かを買ったとき偽物をつかまされて結構な値段で買ってしまい、悔しい悔しいと連発していたら、家族ぐるみでお付き合いのあった日本の男性から、マダムは良いことしたねえ、と言われた。きょとん、としていたら、今夜はそのおじさん家はごちそうだよー。おじさんがただいまあ、とにこにこしながら帰ってきて、今日は父ちゃん一儲けしてきたから肉買ってきたぞお!ごちそうだぞ~、って声に、子どもたちが父ちゃんすごい、うれしいな~って。今頃、一家で賑わっているんだよ。良いことしたねえ。と。
なるほど。そういう考え方をすると、こちらも幸せをもらえるんだなあ。
余談だが、その幸せな発想を教えてくれた男性は、現在、ここの日本大使となられて、奇遇にもまた出会いを持つことができた。

開発途上の国に生活していると、そこの国の人を差別するまではいかなくても、見下げた言い方をついしてしまう。

コンゴ民主共和国はベルギー領だった。ベルギーの新聞記者だったエルジェが1929年に書き始めたタンタンの冒険物語は現在も世界中で人気のシリーズだ。
彼が「TINTIN au CONGO」を世に送り出したのは1930年。書籍として白黒で出版されたのが1931年。この「タンタン、コンゴを行く」には、コンゴを植民地としていた当時のベルギーの世相を反映する描写があり、「現地の黒人が”野蛮で愚かで下等な人間”のように描かれている」ということで古くから批判にさらされ、作家エルジェは、戦後1946年の改訂の際、植民地支配に関する部分だけ削除したのだそうだ。英語版は、長い間、白黒版のみの出版だったが、2005年に子ども向けのカラー版が出版された時、後に作者自身も認めているように、「当時の欧州人のステレオタイプ的な見方に基づいてアフリカの人々が描かれ不快に感じる読者もいるでしょう。」という断り書きが巻頭に付記されたそうだ。

キンシャサの街を車で通ると、タンタンや他のキャラクターの木彫りの人形を製作して売っている現地の人を見かける。かれらにエルジェの差別描写を尋ねたら、「タンタンが人種差別主義者だってことは分かっている。でも、生きてゆくためには金が要るんだ。」と製作の手を休めず答えたという。

わたしは、メイドには働いてもらう以上けじめを持って接しようと思っている。色々な彼女の言い分も呑んではきたが、ひとつしっくりいかないことがあった。変な話だが、彼女がわたしたちと同じトイレを使うことだ。洗面台はしっかり手を洗って欲しいし身だしなみも整えて帰りたいだろうから使ってもらうことは良しとした。だが、このアパートには使用人棟があってそこに使用人用トイレがあるのだ。
わたしはそのことをずっと彼女に言えないでいた。

わたしたちと同じトイレを使わないで。トイレは1階の使用人トイレを使いなさい。こんなことを言うのは、アメリカのキング牧師やバスの乗車を続けたローザ夫人の時代に差別の言葉を投げた白人と同じなのではないか。我が家には抵抗力の弱い乳幼児がいるわけでもないし・・等等、色んなことが頭をよぎった。彼女だってプライドを持った1人のアフリカの女性だ。

・・・そしてとうとう昨日、彼女に思い切って伝えた。
彼女は、普段どおりにあっさり了解しました、と言っただけ。使用人トイレがあることをおそらく彼女は知っていたのだろう。
果たして彼女が1階のトイレを使うようになるかはわからない。

アフリカの人々のおおらかさとたくましさと、狡猾さ。
それを批判がましく言った時、何を基準にかれらを非難しているのかと思ってしまう。
そんな時、アンゴラとコンゴ民主共和国・キンシャサで長く活動されている中村寛子シスターから、16人の宣教者+曽野綾子著「生きて、生きて、生きて」(海竜社)という本をお借りした。”16人の宣教者”の中に中村寛子シスターもおられる。アフリカ、アジア、南米の貧困層の人たちの中に入って共に生きる宣教者たちの言葉、そしてそれを支援する曽野綾子さんの言葉が胸に響いてきた。

「アフリカは強靭な大地であった。貶(けな)した意味でもなく、褒めた意味でもない。ただ、日本的判断を大きく超えた人間の生の闘いが挑み続けられている土地であった。」

PRIMUSビールと、コンゴ民主共和国の国旗

これがPURIMUSビールの瓶の表ラベルと裏ラベル!72cl(720ml)入りの大瓶だ。
今日も、夫は空瓶12本入りケースを持って店にPRIMUSビールを買いに行った。空瓶持参が鉄則で、一本1100コンゴフラン×12本分の支払い。
ついでに左端は、工場見学のときにお土産でいただいたCocaのペットボトル。50cl(500ml)入りだ。開封前なのになんだか量が微妙に少ないような・・・。そんなさもしいことをアフリカの大地で思うのは島国育ちのわたしだけ?

ちょっと小さい画像だけど、これがコンゴ民主共和国の国旗だ。
2006年2月20日に制定されたのだそうだ。
水色は「平和」を、赤色は「国家のために殉じた者の血」を、黄色は「国富」を、また、星は「国家の輝かしい未来」を象徴していると聞いた。

赤と黄色と水色と。
PRIMUSビールのラベルと蓋の色と、この国の国旗の色。コンゴカラーと言えるのかもしれない。

そういえば、コンゴ人画家の描く油絵には、赤と黄色がやたら目に付いてエネルギッシュというか疲れるというか。わたしには落ち着かない色合いだ。