2013年6月29日土曜日

キンシャサの寿司宅配店

5月の初め頃だったか、自身も料理の名人で食べることの大好きなヘーアイチュさんが、
「キンシャサでとうとうにぎりが食べられるのよ。ほら、このパンフレット!」

かのじょから渡された寿司宅配店、”GEKKO'S”のパンフレットがこれだった。


キンシャサの寿司宅配店のパンフレット

かのじょは早速、電話注文して試してみたのだそうだ。
かのじょの夫はフランス人だから、きっと味にうるさいはずだ。
その二人が、美味しかった!、と及第点をつけた。

かのじょが言うには、キンシャサのスーパーに毎週金曜日朝にフレッシュサーモン、まぐろがヨーロッパから入荷してくるらしい。
だから、このGEKKO'Sに、金曜の夜か、土曜の夜に注文すれば美味しい新鮮なにぎりが食べられるのだそうだ。

さらに言うには、ここの経営者は、レバノン人女性で、かのじょの兄弟がキンシャサの大きな銀行の(経営者?)関係者だからバックボーンもしっかりしている、宅配店を軌道に乗せたらレストランも開店予定だ、とどこから聞いてきたのか、そんな情報も教えてくれた。

そして、キンシャサの情報ニュースメイルの”BizCongo”にも、最近、GEKKO'Sの宣伝広告が載った。


話は逸れるが、今週の火曜日に、キンシャサでの友人がナイロビに転出するというので、我が家でかのじょの送別ランチを開いた。
毎回、日本人ではないゲストを招待するとき、メニューに頭を悩ます。
日本の料理は甘いのね、と言われたことは忘れられない。
なるべく、砂糖を使わない料理を、と考えてしまう。
メインの主食に「太巻き」と、甘いのが苦手な人のために「鮭とわかめのふりかけおにぎり」を作った。
そうしたら、太巻きと、海苔を巻いたおにぎりがほとんど手付かずのままで残ってしまった。
なんだ・・。
がっかり、しょんぼり。
前日から仕込んで、当日も朝早くからねじり鉢巻で頑張ったのにな。

フランス人の友人にこっそり訊いてみた。

この黒い紙みたいなのが、わたし、だめなの。

ふーむ。ネックは海苔、か・・・。



そんなことがあって、ふと、キンシャサの寿司宅配店はどんなメニューでキンシャサの外国人客にサービスを展開しているんだろう、と思った。
早速、先月初めに友人からもらったパンフレットを引っ張り出して見てみた。





寿司宅配店 ”GEKKO'S”のメニュー


初めてじっくりとパンフレットのメニューを見た。
なんとおもしろい!
あちこちに、日本料理の単語を見つける。

・ENTREE ET SALADE
・SASHIMI  (5切れ)
・NIGIRI (2個)            ご飯の小さなかたまりに新鮮な生魚、または冷野菜載せ
・MAKI   (1本を6個にカット)    ご飯と付け合せを海苔で巻いたもの
・SUSHI (1本を8個にカット) 外側にご飯が巻かれたもの
・SUSHI SPECIAL MAISON(1本を8個にカット) ※写真では海苔で巻かれている
・PLATEAUX(2人用33個入りから5人用73個入りまで) スシ、マキ、ニギリのメニューの盛り合わせ。サシミ入りのものもある。
・DESSERT            アイス、ケーキなど4品

メニューは、この八項目から成り立っていた。
価格表示は、キンシャサじゅうの店がそうであるように、この店もすべてコンゴフラン表示になっている。(以下、1ドル=920コンゴフランとして換算表示。)


「前菜とサラダ」の筆頭に、”EDEMAME”とある。説明を見ると、”えだまめ”のことだ。5.5米ドル。
海老てんぷら、海鮮サラダ、ともに2米ドルちょっと。


「刺身」では、鮭、いか、まぐろ、すずき(?)が7~8米ドルちょっと、ちょっと高めでほたても。4種盛り合わせ15切れで26米ドルというのもある。


「にぎり」を見ると、ほぼ刺身と同じ内容だ。”UNAGI” anguille fumee~くん製うなぎ? うなぎ蒲焼は、anguille grilleeと言うらしいから、はて、どんな料理だ?
卵焼き(OMELETTE A LA JAPONAISE)もある。
茄子(AUBERGINE)のにぎり、ってどんなのだろう。
”SHIMI SABA”? 括弧して”さば”と仏語で付記している。しめさば、のことだろう。

キンシャサでこんなにたくさんの日本語のメニューに出会うなんて、ちょっと感激だ。
いちばん安いアボカドにぎりの4米ドルからえびの8米ドルちょっとまで。


「巻き」には、きゅうり巻きや、アボカドと鮮魚のコラボ巻き、えび天巻き、太巻きもある。”FUTTO MAKI”と表示されているが、七種の具入りだ。かんぴょうも卵焼きも入っている。
ホントに”ふっと巻き”の感じが漂ってくるようだ。
アボカド巻きの5.3米ドルから、えび天巻きの11米ドルちょっとまで。
でも、海苔で巻かれた巻きもの、って売れ具合はどうなのだろうなあ、と気になるところだ。


海苔で巻いていないという「すし」メニューも興味津々だ。
カリフォルニア巻きが筆頭にきている。
”鶏カツ巻き”・・・鶏カツにマヨネーズ、マンゴ、きゅうりを一緒に巻いたものってどんな味なのだろう。
ベジタリアン向けの巻きもの、中東料理の”FALAFEL”(ひよこ豆を団子にして脂で揚げたものらしい)の巻きものがあるところが、レバノン人経営の店らしいところか。
カリフォルニア巻きの9.5米ドルから、”BEAUTE DE GEKKO'S”(月光・特上)の14米ドルまで、ちょっと値が張る。


「当店独自メニューすし」がまた、おもしろい。
”CONGO”という巻きものには、かえるのもも骨抜きカツに緑野菜、きゅうりが使われている。
”L'ALASKA”は自家製白チーズマリネ入りだそうだが全く想像がつかない。
”NEGI SHAKE”(ねぎ・しゃけ。ねぎシェイク、ではない。)の8米ドルから”フォアグラ”の16.5米ドルまでだ。
 

「盛り合わせ」は、すし、巻き、にぎりのメニューからの盛り合わせだ。
”ベジタリアン”(38個、3人用)約50米ドルから、”月光特製”(70個、5人用)約100米ドル、そして”LE MIX”(73個、5人用)約115米ドルまで。


「デザート」の中の、”MOSHI GLACE”(モシ・アイス)ってどんなアイスクリームだろう。括弧して日本のアイスクリームと付記されている。これは、2.5米ドル。白チョコのチーズケーキ14米ドル。


すごいメニューだ。
「GEKKO'S」のパンフレットは黒色で、和風の雰囲気を感じる。
日本語だと、店名は「月光家(げっこうや)」になるかな。
丸いお皿にヤモリが載って、皿の下に箸が一膳置かれている、といった商標だ。

日本では、やもり、って”家守”とも書いて、家の守り主みたいに考えられているということを知ってのことなのだろうか、と考えてみたりする。

この「月光家」のメニューを見ていると、相当な日本通のマダムが、レバノンテイストを加味して、女性らしく細かいところまで工夫した料理を並べたなあ、と感心してしまう。

注文した寿司はきっちり保冷バックに入れられて届くのだそうだ。

一度、月光家の寿司メニューを食べてみたいな。
そして何より、この経営者マダムに会ってみたいな。

2013年6月27日木曜日

キンシャサでクラシック・コンサート

向かって左端譜面台前に立つ三浦氏 於:日コンゴ交流センター武道場

三浦氏(左から二番目)とキンバンギスト交響楽団弦楽器7人


日本大使館に勤務する1人の日本人青年でバイオリン弾きの名手が、この前の日曜日にキンシャサでの任務を終え、発っていった。
三浦貴顕さんという若者だ。

6月の初めにかれから、こんなメイルが届いた。
「離任の前、コンゴ人オーケストラの弦楽器メンバーとクラシックコンサートを開きますのでシエステ(午睡)がてらいらしてください。6月15日14時から、日コンゴ交流センターにて。」

かれの演奏は何度か聴いていた。
いつも、すばらしいバイオリン演奏で楽しませていただいた。
かれにとって、キンシャサ滞在最後のコンサートになるんだ。
必ず行こう。夫と即決だった。

かれからのメイルには、
「仕事の面でもやり残したことはありますが(と謙遜しつつ)、最も後悔していることと言えば、もっと遊んでおけばよかった、ということです。そこで最後の最後にコンサートを企画いたしました。」
と添えられていた。

いえいえ、わたしには、ンガリエマ修道院の中村寛子シスターから、修道院ホールでコンサートを開いて楽しまれていたこと、友人だったエフィーさんのご主人のクラリネットとのアンサンブルで楽しんでいたこと、など三浦さんの活躍は聞き及んでいた。
でも、いろいろな場面でいろいろな国からの友人とどんなに音楽を楽しんでも、満足するということは決してないことも理解できる。

そして、
「かなり手広く集客してしまい、当日うまくいくか不安ではありますが、楽しんでいただけますようにがんばります。」
と結ばれていた。


それから数日して、かれから曲目の案内メイルが届いた。

曲目
1. J.S.バッハ 「ブランデンブルク協奏曲第三番」より第一楽章
2. J.S.バッハ 「二つのバイオリンのための協奏曲」(全三楽章演奏)
<休憩>
3. Armand Diangienda 「ルバ」
4. キンバンギスト賛美歌 「Mfumu'a longo tata sepela」
5. 芥川也寸志 「弦楽のための三章(トリプティーク)」より、第一、第二楽章
6. A.ドボルザーク 「弦楽四重奏曲第十二番」より、第四楽章


曲目の3,4でコンゴ人の曲目を入れ、5で日本の作曲家の曲目を入れている。
とても興味深い演目だ。


キンバンギスト交響楽団(L'orchestre Symphonique Kimbanguiste)は、コンゴのキリスト教の一派の教会に属する楽団だ。
サハラ以南のアフリカで唯一のクラシック・オーケストラだとも聞く。
この春、モナコに招かれて演奏し、カロリーヌ王妃からハープとバイオリンを贈られたとも聞く。

キンバンギスト教会にクラシック音楽アンサンブルを作ろうという話が持ち上がったのは1985年のことだったらしい。
そしてその当時の教会代表(教祖?)の息子が中心になって、団員を集め、楽器を集めたそうだ。当初、楽団所有の弦楽器は10丁のバイオリン(実際に演奏できたのはそのうちの7丁)と弓の無いコントラバスのみだったという苦労話も読んだ。
当初、”Le Kimbanguiste Big Band”の団員は29人(20人の奏者、5人の合唱団員、4人の専門家)だったそうだ。
楽団の実質創設者が曲目3の作曲者、Armand Diangiendaだ。
いろいろな協力と出会いがあり、1994年5月に初演。同年12月3日にキンシャサの人民公会堂でコンサートを開いている。
そして、2010年か2011年には、キンバンギスト交響楽団員の日々を追った映画が、ドイツ人監督により製作されている。
”キンシャサ・シンフォニー”という映画だ。


映画”キンシャサ・シンフォニー”のポスター



そんなことはどうでもよい。
6月15日の三浦さんと7人のコンゴの仲間たちとの演奏は本当にすばらしかった。
8人が、本当に楽しんで、クラシック音楽が大好きでたまらないという気持ちを前面に出して演奏している姿に心底、感動したコンサートだった。
上の曲目のうち4番は聴くことができなかったけれど、汗びっしょりになっての熱演だった。
聴いているわたしたちはというと、交流センターの四方八方の開け放たれたドア、窓から爽やかな風が時々入ってきて心地よく、すっかり演奏のとりこになって聴き入ってしまった。

演奏者の向かって右端に、ひときわ目立つバイオリン奏者がいた。
かれこそが、キンバンギスト交響楽団のコンサートマスターだということだった。

会場は満席だった。
キンシャサの日本人も大勢来場していたが、いろいろな国の人たちが集まっていた。
三浦さんの2年間(?もうちょっとかな)のキンシャサでの活発な交流関係がしのばれた。

コンサート終了後、用意された飲み物で歓談する時間が用意されていたこともうれしいことだった。
7人のコンゴ人演奏者のうち、いちばん若い(と思われる)2人の青年と話すことができた。
16歳と17歳。高校生だそうだ。
小さい頃からバイオリンを習っているということだった。

そうなんだなあ、かれらが生まれた時にはすでにキンバンギスト交響楽団の演奏活動も軌道に乗っていたのだ。かれらは、そんな環境でクラシック音楽と接してきたのだ。
キンシャサはリンガラミュージックだけだとばかり思っていた。
しっかり、クラシック音楽も音楽好きのかれらの間に根付いていっているのだ。
それでも、コンゴの国で弦楽器,管楽器などの楽器を入手するのは難しいはずだ。

タカキもぼくたちにバイオリンを教えてくれるから、とうれしそうだった。
タカキ?そんな日本人がいたかな?、と思っていたら、三浦貴顕(たかあき)さんのことだった。
皆から、タカキ、タカキ、と慕われ、三浦さんはキンシャサ滞在中、共に音楽を楽しんできたのだろう。

現在、キンバンギスト交響楽団は合唱団員も入れて総勢200人くらいだとコンゴの若いバイオリニストたちは教えてくれた。かれらのどちらかが、コンサートマスターの弟なのだそうだ。


わたしは、わたしの亡くなった母がピアノを習いたかったという話をしてくれたことを思い出していた。
母が小さい頃、近所に教会があってそこに住む外国人宣教師の女性が弾くピアノに魅了されて毎日教会に通ってピアノを聴き続けていた。ある日、親にピアノを習いたいと言ったら、それを聞きつけた母の祖母が、外国の楽器なんて習うことは許しません、と言って、お琴を習わされた、という話だ。
戦前のことだ。
だから、わたしたち姉妹がピアノを買ってもらい、ピアノ教室に通い始めると、母も一緒にレッスンについて来て熱心に耳を傾け、帰宅するといちばん熱心にピアノに向かっていた母だった。

コンゴでは、まだまだクラシック音楽は馴染みの無い音楽だろうし、第一、キンシャサで楽器店を観たことが無い。

そんな中で、本当に楽しそうに演奏を楽しむかれらの姿を間近にみて、これこそ本来の”音楽”だと感じた。

そんなすばらしいコンサートをプレゼントしてくれて、三浦さん、ありがとうございました。
次の任地でもきっと温かい,音楽を通しての交流を楽しまれるのでしょう。
どうぞ、お元気で。

2013年6月20日木曜日

日々、このごろ

コンペ前緊張の瞬間 キャディーと



今日は6月19日。

先月の5月19日、ちょうどキンシャサ・オープンゴルフの後夜祭ディナーが始まった時に降り始めた雨。
その雨以来、キンシャサでは一滴も雨は降っていない。

キンシャサは毎日、午前中は厚い雲に覆われて薄ら寒く、午後になって薄日が差しても室内にいる限りひんやりしのぎやすい気候が続いている。
今もわたしはタートルネックの半そでTシャツに長袖カーディガンを羽織っている。
午後1時、気温24℃。


先週は、"Operation smile"という名称の元で口蓋裂患者の無償の手術を世界各地で行っている賛同者が、今年もキンシャサのンガリエマ・クリニックに集まり、手術活動を実施した。
わたしが参加しているIWC(国際女性グループ)も、昼食を医療関係者とボランティア学生に届ける活動をしたのだが、わたしも一日だけ、参加させてもらった。
ひとりでも多くの口蓋裂障碍を持つ人たちが、この"Operation smile"の活動で手術を受けられ、笑顔が取り戻せることを思うと、どんなちいさな手伝いでもさせてもらいたいと思って、今年も手を挙げたのだった。


そして、金曜日にはわたしたち夫婦の憩いの場、英国大使館のバーベキューの夕べへ。
今月からJICA保健プロジェクトで長期滞在されるドクターと久しぶりに再会し、また、日本大使館医務官夫妻と合流し、楽しい食事会となった。
その席で、医務官を訪ねて来られていた、ガーナ・アクラの野口英世記念研究所で細菌学の研究をされる日本人医師を紹介していただいた。


翌日,土曜日午後は、在キンシャサ日本大使館に勤務する日本人青年が企画しキンバンギストオーケストラの弦楽器奏者7人と開いた演奏会に夫婦で出かけた。
かれ自身が、すばらしいバイオリン奏者なのだ。
約2年間のキンシャサでの勤務を終え、次の任地へ移るかれにとってキンシャサでの最後のコンサートだった。
かれの真摯な生き方と、そしてコンゴの演奏者との共演を同じ音楽家として楽しむ姿にすばらしい感動をもらった演奏会だった。
この演奏会のことはあらためてじっくり紹介したいと思う。


日曜日は、午後から日本大使杯ゴルフコンペに出場した。
夫が幹事だったので数日前から賞品準備の手伝いをしたり、当日は早々に出発して練習にも余念がなかったが、練習し過ぎ(?)で出場前から疲れてしまっていた。
わたしはメンバーにも恵まれ、和気あいあいとした雰囲気の中を5番目グループで出発。
とはいえ、コンペの前はやっぱり緊張する。
池ポチャを繰り返して、永遠にボールが池に落ち続けたらどうしよう、とかいう思いに駆られたり。

実際、今回も数回、池にボールを落とした。
11番ホールでは三回池ポチャを繰り返し、4回目でやっと池をクリアできた時には全身脱力感が走った。

また、出発まもなく、こんなことも起こった。

 ショートホールの2番ホールでほとんど毎回、ティーショットでグリーン手前の池に落とすのがお決まりパターンなのだが、そのときも(池よりバンカー入りのほうがマシだと思って)池の右横のバンカーを狙って打ったティーショットがどういうわけか池めがけて飛んでいき、あわや毎度の池ポチャか、と思われたボールが池を飛び越えてぎりぎり着地!
そして何を思ってくれたか、ボールはコロコロと、というかヨタヨタとグリーン方向へ転がっていき、何とカップ左2.5m、というところにつけたのだった。
奇跡的な動きが連続して起こり、次の最終グループでもわたしの距離に及ばず、なんとわたしはニアピン賞をゲットしたのだった。

その時点で、どうも有頂天になっていたらしい。
バーディー狙いだ、とか言われつつ、そのホールでなんと3パットもしてしまう。
結局,スコア132で終了。


そしてその夜から扁桃腺を腫らしてダウン。
平熱が34度台という半分死にかけたような体温で生きるわたしが39度近い熱を出し、これは抗生物質をのまねば、と薬袋を引っかき回してやっと探し当てた抗生物質をのみ、ひたすら眠り続けた。
マラリアの熱というのもあり得る、というので、当てにならないと言われつつも簡易マラリア鑑定キットでマラリア検査もした(夫がわたしの指先に刺した針の痛かったこと!チョコンと刺せばいいものをズブリ!と刺してきた!!)が、マイナス判定だった。
そして今朝、また34度台の平熱に戻ったのだった。
喉の痛みはまだ続いているが、一件落着。
今日から主婦復帰、せねば。

今週は木曜日まですべての約束をキャンセルした。


今日、ヨウムのぽんが我が家に来て半年が経った。
一言くらい言葉覚えてみぃ!、と言いたくなるところだが、賢母はひたすら子の成長を耐えて待つのみ!、と深く反省した経験を持つわたしは、ひたすら、♪三百六十五歩のマーチ♪を手拍子で足踏みしながら歌って見せるのだが、ぽんはキョトンと見つめるのみ。
近所に住むドイツ人マダムが母親の代から飼い続けて50数年というヨウムにマーチを歌って聞かせると、かのじょのヨウムは止まり木の上で足踏みして調子を取って踊る場面を見てしまった。
以来、わたしが唯一歌えるマーチといえば、「三百六十五歩の・・・」しかないし、明るい曲だからと思って歌い続けているのだが、一向に踊ってくれる気配は、ない。

そんなふうにして6月中旬の日々が過ぎていっている。

2013年6月15日土曜日

危険はいたるところに

キンシャサ 6月30日通り

 わたしのブログは、旅ブログではない。
住環境を整え安全情報を受けながらキンシャサで生活し、その中で観たもの,感じたことをつづっている。ここでの今までの生活で、わたしは身の危険を感じたことはない。
でも、だからといって、キンシャサが安全な町だとは思わないでほしい。


先日、キンシャサ在留邦人の女性が、こう話すのを聞いた。

知り合いの若者がコンゴ民主共和国に来たいと言っているが、欧米の先進国を旅行するような気分でいるからとても恐ろしく感じた、と言うのだ。
また今月初めに、横浜でアフリカ開発会議が開催され、ずいぶんと日本人の目がアフリカの国々に注がれ、アフリカ旅行にも興味を持たれた人が多くいたのではと思われる。

でも知っておいてもらいたいことは、サハラ以南のアフリカの国々は、欧米の国々とはまったく違う。アジアの国々ともおよそ事情は違っている、ということだ。
旅を計画するときは、風土病対策、宿泊ホテルの周辺地域の治安、空港からホテルまでの交通手段、滞在中の移動手段などしっかりと現地の情報を集めてほしい。


キンシャサに旅をすることを考えてみると。

まず、知り合いにキンシャサ・ンジリ空港まで迎えに出てもらう、あるいはキンシャサの信用できる旅行社の送迎車を予約しておく、ということがない限り、ンジリ空港からキンシャサ中心部に出ることは非常に危険を伴うことを覚悟しておいて欲しい。
ヨーロッパ路線を飛ぶエアフランス、ブリュッセルエア、トルコエアのンジリ空港到着は夕方から夜にかけてだ。
それから、入国審査、黄熱病接種証明書提示カウンターをやっとの思いで通過し、無秩序,混沌とした人いきれでむせ返る荷物コンベアーの前で待機しどうにかトランクを受け取り、建物内部に入り込まんばかりに待ち構えるポーターの人たちを押しのけ、迎えの車に乗り込もうとするときにはすっかり夜から深夜になっている。
空港からキンシャサ中心地までの道路沿いは現地の人たちしか行かない混沌とした居住地域だ。そして辺り一帯、真っ暗だ。
そんな中を、タクシーに外国人独りで乗り込むのは、誘拐してくださいと言っているようなものだ。
外国人には乗り合いバス利用はまず無理だろう。
空港からの客を運ぶ電車などあろうはずはない。

空港からキンシャサ中心地までの交通手段からして危険極まりないのだ。

ホテルも地域周辺の治安状態を吟味するべきだと思う。
キンシャサ滞在中、あるいはキンシャサから旅に出るときの交通手段も、タクシー,乗り合いバス、長距離バスが挙げられるが、どれも外国人の利用には向いていない、と断言できる。

キンシャサ在留邦人は、乗り合いバスはおろか、独りでタクシーに乗ることも禁止されている。


6月30日通り。 黄色と青の乗り合いバス。 右横のバンも乗り合いバスだ。


町なかの歩行も禁止されているから、キンシャサに住むには自家用車と運転手は必須だ。
実際、キンシャサの町なかを歩いている外国人はまず見ない。

アフリカを熟知している日本人のライターが昨年、キンシャサの大通り、6月30日通りを歩いていて、一台の車が停まり、警察手帳をかれに見せ、警察の者だがパスポートを見せろ、と詰め寄って来たそうだ。パスポートはない、宿泊所に置いてきた、と言うと、ではそこまでこの車に乗ってお前のパスポートを提示しろと言い、拒否するかれを無理に車に引っ張り込もうとしたということだ。
かれは、今からちょうど日本大使館に行くことになっているから、大使館員に電話すると言って携帯電話を出したことで、警察署員を名乗るコンゴ人たちは退散したということだった。
この手口は何度か耳にした。

大通りではないところを歩行中に、「シノワ!」(中国人)、と叫んでとつぜん殴られた日本人の話も聞いた。

実際に、スーパーなどで買い物中に、「シノワ!」、「シノワーズ!」(中国人)と蔑むように罵られることがある。
在留邦人の女性は身の危険を感じて、日本の国旗のバッジを付けて外出しているということも聞いた。
日本のプロジェクトの車も、日本の国旗を車内の見えやすいところに取り付けたり、JICAのロゴの入ったプロジェクト証をフロントガラスの隅に張ったりして自己防衛している。

中国人がどうしてここまでコンゴ人に蔑まれるのかは、また別の機会に考えてみたい。


今日、日本大使館領事部から、注意喚起のメイルが届いた。
コンゴ民主共和国の地方都市で中国軍教官がコンゴ兵士を殺害したという記事が6月13日付の地元日刊新聞紙に載ったそうだ。記事には、中国人の非人道的行為に対する非難の言葉もあったらしい。
(中国軍教官が飼うリスがコンゴ人兵士の姿を見て驚き、逃げてしまった。それで教官がリスを捕獲するように指示したが、兵士はリスの捕獲に失敗した。その報告に激怒した教官は兵士を至近距離から撃ち殺した、という事件だったらしい。)
しばらくの間,当国国民の対中感情が悪化することが懸念されるので、在留邦人が中国人と間違われて襲われることを避けるため、危険を感じたら、早い段階で日本人であることを告げ,その場に留まることなく即、現場から離れるように、という内容だった。

わたしたちキンシャサ在留邦人は、個人で身の安全を守るように日々の生活で気をつけているし、日本大使館領事部やJICA担当官からも、キンシャサ治安情報メイルが届く。

また、日常生活で不自由を感じている同志として、外国人女性のグループの活動が盛んなのだとも思う。相互扶助の精神で、というか、友好の精神で、とても良い活動をするクラブが国際的なものとして2グループがキンシャサに存在する。(わたしはその中のIWC  International Women's Club に所属している。)

安易なコンゴ民主共和国への一人旅は、お勧めしない。
まだまだ、この国は、観光立国としては程遠いと感じる。

2013年6月13日木曜日

コンゴ産のラム酒



コンゴ産ラム酒 KWILU


今夜は、日本の米焼酎をオンザロックで飲んでほろ酔い気分でパソコンに向かっている。
キンシャサに来てから、すっかりオンザロックの焼酎党になってしまった(もちろん辛口日本酒もGood !だけど)。

今夜は、上の写真、コンゴ民主共和国で生産されるラム酒についての話だ。



先月16日のキンシャサ・オープンゴルフの前夜祭カクテルパーティーの席で初めて目にしたカクテルがあった。
オレンジ色のものと、ハーブが浸ったものとがあり、瓶には、”KWILU”と書かれていた。


オレンジ色をしたKWILUと、KWILUの名入り小ぶりグラス 


この写真の瓶は、前夜祭カクテルパーティーで撮ったオレンジ色をしたKWILUだ。

一緒に出席していた日本人のYさんが、これはコンゴのお酒でとても美味しいんですよ、と太鼓判を押された。
なるほど、オレンジ色のKWILUは果物のグァバジュースで割ったものだろう。
何のハーブだかわからないが茎が固いハーブが浸されたKWILUもあった。
どちらも口当たりが良くて、美味しい。

すっかりファンになり、早速スーパーに行って探してみた。

我が家のドライバーに聞くと、KWILUはどこのスーパーにも売ってるだろうけど、アルコール分の強いお酒だよ、マダムが飲むのか?、と驚いていた。
Yさんの話によると、キンシャサのペルーストアとハッサン・エ・フレールで見つかると言うことだった。ペルーストアでは古ぼけた瓶が2本並んでいるだけ。しかも、透明のKWILUだけだった。
ハッサン・・のほうは在庫たっぷりで瓶の状態も良かったけれど、やっぱり、透明のKWILUだけしか見当たらない。
尋ねると、KWILUラム酒は透明の1種類しか作られていないと言う。
おそらく、オープンゴルフのカクテルパーティー用に作られた、特製グァバ果汁入りラム酒とハーブ入りラム酒だったのだろう。
1瓶、10米ドル!


ということで、めでたく我が家の酒棚にKWILUが加わった。


瓶に書かれた”KWILU”の名まえの上に、「THE CONGO'S FINEST RUM」、コンゴのいちばん素晴らしいラム酒、と記されている。
750ml入りで、アルコール度40%。
瓶の反対側面には、こんな説明書きが英語で書かれている。

KWILU 瓶の反対側面にある説明書き

”コンゴ民主共和国産
このラム酒は サトウキビで作られています。
KWILUラム酒の繊細で独特の風味を 水で割らずに ロックで 或いはカクテルでお楽しみください。”

その下に、”Ngongo、 クィル製糖会社製” と付記されている。
わたしのフランス語のコンゴ人教師によると、Ngongoは、バコンゴの一都市だとのことだ。
バコンゴはサトウキビの一大産地でもある。

アルコール度40%で、サトウキビ原料。
まるで日本の焼酎だ。
(ちなみに今わたしが飲んでいる米焼酎はアルコール分41%、と表示されている。)

Yさんお勧めの飲み方は、コンゴ産のレモン果汁をたっぷり絞って入れて飲む、ということだ。
夫は、インディアントニックで割って、レモン果汁を入れて飲んでいる。
アルコール度が強いから、冷凍庫でキンキンに冷やして飲むのも美味しいだろうとも聞いた。

わたしは、CERES(セレ・南アフリカブランド)のグァバ果汁100%ジュースで割って氷を浮かべて飲むのが好きだ。インディアントニックで割るのも美味しい。

キンシャサ・オープンゴルフのときに飲んだ、ハーブ入りKWILUの味が忘れられない。
いったい何のハーブだったのだろう。ローズマリーっぽい固い茎のハーブだったけど・・。


地方に行くと、ヤシ、とうもろこし、などで作られたにごり酒もあるが、家庭で作られているお酒の範疇で、工場で大量生産されて商品化されるところまでは行っていないようだ。

キンシャサ市内のジュスティス通りに、「KWILU」という同じ名まえのバーがある。
夫がKWILUラム酒の種類を尋ねようと、店内に入ったそうだ。
やはり、KWILUは透明のラム酒1種類だけの生産だということだった。
(この国では”裏づけ”をしつこいくらいに取らないと真実にたどり着けない、と言うが夫の持論だ。)
このバーがクィル製糖会社直営かどうかはわからない。


今夜はほろ酔い気分の、コンゴ版焼酎、”KWILU”の話をお届けしました。

2013年6月11日火曜日

寒いー!!キンシャサの朝

我が家のベランダから西の空を望む

今、朝8時10分。
気温23℃。
色んな鳥のさえずりが空を響き渡っている。

寒い!!

本当に寒い。
キンシャサでは5月19日夜の雨ーキンシャサ・オープンゴルフ最終日の夜のパーティーが始まったときだったーが最後で、乾季に入った。

冒頭の写真は今朝撮った写真だ。
空には厚い厚い雲が垂れ込めて、どのくらいの厚さの雲をくぐり抜けたら太陽に出会えるのだろう、と想像して呆然となるくらい、ぶ厚い雲の層だろうと思われる。
キンシャサ全体が重く、暗く、そしてひんやり、肌寒い。


”キンシャサは乾季です。”というと、ああ、雲一つない青空が広がり、太陽がギンギン照りつけて、きっととんでもなく暑いアフリカなのだろう、と思い描くのだろう。
ところが。
期待を裏切るようだが、キンシャサの乾季は気温が低めでとても凌ぎやすい季節なのだ。
キンシャサの(コンゴ民主共和国は広大は国土だからキンシャサに限って書き進める。)乾季の間は、本当に1滴たりとも雨は降らない。
降らないけれども、いつもいつも空はどんより曇り、重く厚い雲で覆われ、太陽が顔を出せないでいる。
午後になって、ぶ厚い雲の切れ間から太陽が顔を出すと気温ももちろん上がるけれど、それでも室内にいる限り、空気はひんやり気持ちがいい。
重く厚い雲からは今にも雨が落ちてきそうなのに、絶対に雨は降らない。この微妙なバランス具合といったら、ない。
かといって、そんなに湿度も感じないし、もちろん乾燥しているとも感じない。

以前にも書いたが、軽井沢かどこかの夏の高原の気候だ。

雨が降らないのだったら、草木の緑も枯れてしまうね、と思うなかれ!
我らがコンゴの大河のお蔭で(多分)、朝晩には緑は露でしっとり湿り、乾季の間もしっかり草木はきれいな緑を保ったままだ。

キンシャサの乾季というベストシーズンを考えるとき、コンゴの大地をくねくねとうねって流れるコンゴ河の存在の偉大さを感じないではいられない。

わたしのフランス語の先生(コンゴ人女性)は、これがわたしたちの”秋”なのよ、と言う。
確かに去年も今年も、いよいよ乾季になるなあ、と空気の変化を感じる頃、空には日本の秋を思わせるようなうろこ雲が空一面に広がった。


雨季から乾季に移動するころ、うろこ雲が広がる


彼女は昨日もオフホワイトのパンツ、白い木綿のブラウスに真珠のネックレスを付け、デニムの長袖ジャケットを羽織って、すっかりシックな秋の装いだった。

わたしたちも夜は厚手の毛布にすっぽりくるまれて寝ている。

ゴルフプレイヤーにとっても6月7月8月はベストシーズンだ。
プレイ中も、汗をかかない。

昼近くになって、ひょこっと太陽が顔を出したりする。
今は、北回帰線辺り(ちょこっとだけ南)を通過中だから、南緯4度のキンシャサで見える太陽は東から北側の空を通って北中(!)し、西へ沈む。
春分の日よりちょっと前くらいから秋分の日ちょっと過ぎくらいまで、我が家の南向きの窓からはお日さまの日差しは入ってこない。
これが不思議だった。
北回帰線より北に位置する日本列島からは、一年中お日さまは南の空から顔を出しているのだから。

ということで、外にいても、我が家にいても、お日さまとは顔を合わせない日々が続くキンシャサの乾季だ。
紫外線で痛めつけられた(きっと!!)お肌にはしばしの休息のときなのかもしれない。

キンシャサの人に乾季っていつからいつまで?、と聞くと皆が口を揃えて、5月15日から8月15日(或いは20日)までだ、とこれまたぴしゃりと日にち限定で言ってくる。
なにを根拠に言っているのか。それがまたおもしろい。

さあ、今年のベストシーズンも楽しまなくちゃあ。

2013年6月8日土曜日

ンガリエマ浄水場拡張工事プロジェクト完成!

コンゴ河に突き出た取水管上の桟橋からンガリエマ浄水場を望む


完成予想図の赤点線囲み部分が今プロジェクト;ンガリエマ浄水場拡張工事プロジェクト・パンフレットより


私たちが住むキンシャサのアパートに、日本の建設会社の方たちが住んでいる。
かれらがキンシャサに駐在し、2011年7月から工事を開始した、”ンガリエマ浄水場拡張工事”が、6月初めに完了した。


この国の水道は、”RESIDESO”という水道局が運営している。
キンシャサ全体で一日50万トンの水が消費されるのだそうだ。
そのうちの8万トンが既存のンガリエマ浄水場で供給されていた。
そして新たに一日3万トンの水を供給するべく建設・設置されたのが、このンガリエマ浄水場拡張工事プロジェクトである。
日本国政府の無償援助プロジェクトだ。


浄化される一日11万トンの水は飲める状態でこの浄水場を出て行くのだそうだ。
我が家の水道水はこのンガリエマ浄水場からの水だ。
3階の我が家にたどり着くまでの水道管や水槽タンクが古いからなのだろう、我が家の水道水では水質が良くなったという実感は湧かなかった。
ところが、1階のアパート入り口の水道水をバケツに汲んでみて驚いた。澄んで透明な水なのだ。
それくらいに、ンガリエマ浄水場からの水道水は確実に水質が改善されたのだそうだ。


日本政府援助の浄水場の拡張工事プロジェクトが完成し、水道水の水質が大幅にアップしたことを、キンシャサのどれだけの住民が知っていることだろう。
わたしが参加するIWC(国際女性クラブ)で、そのような水道水の話題は一度も出たことはない。
わたしたちの水道水の水質がグンと良くなりましたよー!、とスピーカーで街じゅうに宣伝して回りたいくらいだ。


浄水場の建て屋~右の黒い管がコンゴ河からの取水管

右の建物が今プロジェクトで建てられた事務棟


 プロジェクト現場は、キンシャサの真ん中を走る6月30日通りのソシマット交差点から細いでこぼこ道に入り、800メートルほど進んだ突き当りのコンゴ河そばにある。

浄水場の門をくぐり敷地内を進むと、視界が一気に広がって雄大なコンゴ河が一望できる。
大河がちょうど曲がった内輪部分の河岸にある現場なので、河にせり出した半島のようなところに浄水場敷地が横たわっているように見える。
そんなオープンスペースの河岸に白とブルーの事務棟、浄水棟が建つ。

現場は人の目に付かない奥まったところにある。
だから、浄水場が新しく建設されたこと、そして水道水の水質が改善されたことがあまり知られていないのはしかたがない。

今日来たコンゴ人の仏語先生に、我が家の隣に住む日本の会社、日本の技術員たちが建設したンガリエマ浄水場拡張工事が完了したことを話すと、
「そういえば昨夜のテレビニュースで日本の援助で浄水場が完成したと言っていたわ。」
彼女はキンシャサのテレビニュースで知ったのだった。


日本の援助現場はどこも理路整然として、技術もすばらしい。
所長さんの方針で仕事環境を工夫して整えたプレハブ工事現場事務所にも感動したものだ。
わたしはかれらのプロジェクト現場を幾度となく訪れた。訪れるたびにスタッフの皆さんが歓待してくれた。

また、この浄水場から眺める夕陽の美しいことと言ったらなかった。
広大なコンゴ河の上に夕陽が赤く染まってゆき、いよいよコンゴ河上の地平線に沈むかと思うその前に夕陽は川の上空のもやにかき消されて見えなくなってしまうのだったが。


2012年 建設中の現場に沈む夕陽


そして、6月4日。
このプロジェクト施設をコンゴ政府に引き渡しする直前の多忙な時に、わたしは最後の見学をお願いした。
技術者の皆さんは、それぞれの持ち場で最後の点検に一生懸命に取り組まれていた。
まるで手塩にかけて育んできた娘を嫁に出す父親のような心境に違いない。
多忙な中を、所長さんと技術員のかたがわたしの見学に付き合ってくださった。


完成した、コンゴ河からの取水管、それに続く浄水棟施設は本当に素晴らしかった。



コンゴ河に突き出た歩行スペースの右下に黒い取水管が通っている

浄水棟の施設

浄水棟の施設


浄水システムは日本の様式で、機械装置はすべて日本の製品だ。
それ以外の建築資材はコンゴで調達したものだと聞いた。

浄水場を見渡すと、建て屋もコンゴ河との境界を囲んだ鉄柵も、白とブルーで統一され、とてもクリーンな印象を持つ。(どこの浄水場も白とブルーなのだそうだ。)


このプロジェクトに関わったすべてのスタッフの皆さんの2年間の活動が結集されて完成したンガリエマ浄水場の最後の見学を終え、わたしは大きな感動を抱えて帰宅したのだった。

この浄水場施設が、これから先ずっとコンゴ政府の手でキンシャサ市民のために適正に運用され、維持されていくことを願う。

ンガリエマ浄水場の事務棟玄関前に立つプロジェクトの碑

2013年6月4日火曜日

第5回 アフリカ開発会議

キンシャサ6月30日通り沿いの風景


6月3日。
横浜で開催された3日間の第5回アフリカ開発会議(TICAD)が終わった。

20年前から5年ごとに開催され、今年で5回目となる”アフリカ開発会議”。
安倍首相の「TICADを契機として,アフリカと日本の経済を新たに躍動させるべく、誠意を持って本会合に臨む。」の言葉で始まった会議だったが、疾風怒濤のごとく、日本を駆け抜けていったのではないだろうか。

アフリカに絡んだイベントも多く企画されたことだろう。
今回のことで、アフリカがちょこっとは日本で話題に上る機会も増えたのではとキンシャサから想像している。

アフリカ54カ国から51カ国が参加し、39カ国から”首脳”が来日したそうだ。
でも、”首脳”って?
大統領や首相を含む大臣クラスのことを指すもの?
この国RDC(コンゴ民主共和国)からは大統領も首相も参加していない(外務大臣だけなのかなあ。)と聞く。ちょっとガッカリ。
(同時期に、モロッコ、マラケシュでアフリカ開発銀行の会合が開催されていたことを昨夜のフランスの衛星テレビ放送ニュースで伝えていた。)

この横浜での会議にほぼ全部と言っていいアフリカの国々の各政府が真剣に祖国の実情を訴え、真剣に祖国の発展と将来のために来日、参加したことをわたしは信じたい。

アフリカの国々で中国が官民共に援助と商売を繰り広げていることが日本のメディアで大きく取り上げられ、天然資源採掘権狙いの援助だと非難されているのは知っている。
では、欧米諸国のアフリカでの動向は伝えられているだろうか。
アフリカの旧宗主国でありアフリカを知り尽くしているヨーロッパ諸国、そして地球のリーダーとでも言わんばかりのアメリカの影が、キンシャサに住んでいてちらちらと見え隠れする時がある。
アフリカ国家にもアフリカ住民にも疎い日本人は、これからいろいろな試練が待ち受けていそうだ。

でも!と思う。
アフリカの治安の悪さ、気候、文化や思考の大幅な相違ばかりが強調され、日本人はアフリカに対して慎重になりすぎたようにも思う。
アフリカへの政府支援も大切だが、「民間部門の進出は、アフリカの成長の原動力として必要不可欠だ」(安倍首相)の言葉を、キンシャサ生活で日々実感している。


RDC(コンゴ民主共和国)に限って見ていくことにする。

RDC(コンゴ民主共和国)は、豊富な地下資源を有するばかりに欧米諸国から狙われ、東部では内戦状態が現在も続いている。
豊富な地下資源を有する国の悲劇だ。
RDCに豊富に横たわる天然資源として、ダイヤモンド、銅、コバルト、レアメタル各種、金、石油、亜鉛などが挙げられる。
(余談だが、アメリカが広島や長崎?に投下した原子爆弾の材料(ウラン)は、RDC産のものだということはよく知られていることだ。)


2011年の一人当たりGDP(国内総生産)世界ランキングでは、他のアフリカ諸国を抑えてRDCが186位で最下位だった。
モブツ政権時代(1965年11月~1997年5月)に、かれの悪政で国は行き詰まり、1990年代に起こった”Pillage(略奪)”で国民の生活は崩壊、モラルのかけらも無くし、キンシャサの在外公館もキンシャサの外国人もすべて国外退去する。

そんな時代から20年。
東部の戦闘状態は相変わらずだが、この国の経済は外面だけでも(?)、上向きなようだ。
2013年の経済成長率(GDPの前年比)を見ると、RDCは世界第5位、8.8%となっている。
ちなみに1位から5位までここ数年の間に内乱で国政が乱れた国で占められている。
「崩壊→秩序へ」をたどる国が高い経済成長率を示すのは理解できることだ。
RDCも東部のことを除外して考えると、国政修復中だと言えそうだ。

この国が抱える問題点のひとつに、国土が広大すぎて都市間が陸路で結ばれていない!、ということが挙げられる。
(国土面積235万k㎡。日本の6.3倍!)
(人口6600万人。日本の人口の半分ちょっと!)

熱帯雨林を蛇行して走る大河、コンゴ河は、全長約4370kmでナイル川に次いでアフリカ第2位。世界第5位。また、流域面積約369万k㎡。アマゾン川に次いで世界第2位。
そんなコンゴ河も、キンシャサから上流のキサンガニ間1600kmのみ航行可能だが、その間の定期航路は存在しない。
怪しげな海路か、これまた墜落事故も珍しくない空路に頼るしかない、という国内道路未整備の実情。
(コンゴ河を利用した輸出入品運送について記すと、キンシャサから下流に滝があり、コンゴ河口からキンシャサまでのダイレクト航行は不可能。下流のマタディ~ボマ~河口までは航行可能なので、船で運ばれて来た荷物は大西洋からコンゴ河を上り、マタディで陸揚げされ、そこからキンシャサまでトラック輸送されている。)


また、電気、水道などの生活インフラも整っていない。
そして文化の違いなのか、金銭感覚、時間感覚、衛生感覚のルーズさに驚き、自己弁護の雄弁さ、巧みな詭弁にはただ呆然とするばかりだ。
長い間、植民地の住民としてヨーロッパ人たちから虐げられてきた経験、モブツ時代に藁をも摑んで懸命に生き延びてきたしたたかさなどに由来する人格形成なのか。人間関係にも辟易することだろう。


そんな国情ではあるが、民間部門の進出はRDCでの日本の位置づけに重要なポイントになるはずだ。
1990年代のPillage以来キンシャサに戻っていないのは日本の企業だけではないか。

欧米の企業や商売の進出はいわずもがな、中国もいわずもがな。
そんな中で韓国人のたくましさ、民間部門での活躍ぶりには目を見張る。

キンシャサの街中を走行する自動車は圧倒的に日本車が多い。
しかし、家電製品のほうは、まず日本製品を見かけない。空港などの公共機関に設置されるテレビやエアコンは、韓国製品だと思って間違いない。携帯電話機器も韓国製品ばかりで圧巻だ。
最近、フランスの携帯会社Orangeがキンシャサに進出してきて、大々的に店舗を展開している。
自宅に固定電話を持たないキンシャサの人々には、携帯電話は必需品。
そんな中で、日本製の携帯電話は全く出回っていない!


 日本政府の無償援助プロジェクトも首都のキンシャサだけではあるが、3年前くらいから徐々に再開され、現在、市内道路、浄水場整備、保健衛生プロジェクトの建物とソフト面、人材育成センターの建物とソフト面でのプロジェクトが進行中だ。
今回の会議で、日本政府はアフリカ支援への相当額の資金援助を明言している。


キンシャサが活気付いているという証拠として。
冒頭の写真のビルは、6月30日通りに建つ数棟の近代的ビルの一つだ。
私たちがキンシャサに来た2012年1月1日時点でほぼ完成していたが、1階部分の店舗はずっとシャッターが降りたままだった。
6月30日通りから入り込んだ側面にレバノン人経営のクリーニング店が入り、角のところにパンとケーキの店兼カフェが入ったのが昨年10月くらいだったか。
そして、コンゴ庶民のパン工場Victoire直営の喫茶店が入店し、昨年のクリスマスは電気事情で暗闇のクリスマス街灯の中をこの界隈がひときわ明るかったことを思い出す。

クラウンビル 6月30日通り沿いのカフェ2店




今年に入って、側面の店舗にフランス?からの紳士服の店が入り、そして、先月末、スペインのユニクロ的存在のZARAが市内外れの冴えない店舗から引っ越してきた。
1年半かかって全てのテナントが揃ったのだった。


華やぐクラウンビルのテナント
キンシャサのコンゴの人々皆が、ここの店を利用しているかといえば決してそのようには思えないし、6月30日通りにはストリートチルドレンを見かけるが、少しずつ、少しずつこの国が、そしてアフリカの他の国々も平和を基底に経済が上向くことを願っている。

アフリカ支援の鉄則。
アフリカ自身の意志を反映する”オーナーシップ”と、国際社会の”パートナーシップ”。

アフリカ自身の取り組みを、サポートする日本であってほしいし、アフリカ自身にもしっかり責任を持って国づくり(平和、安定、公正)を進めてほしい。
将来の国づくりを担う子どもたちにバトンタッチする、あなたち自身の国、なのだから。