2013年1月14日月曜日

ZONGO旅の道々の思い出

今日は、ZONGOの旅の道中で出会った人々、車、村並み(?)のことを書いてみたい。


1月4日朝9時にキンシャサ・ゴンベのアパート出発。
市内の6月30日通りを過ぎ、中央駅から115km(国道1号線)地点のKISANDUまでは舗装された道路だった。

キンシャサを出るところにあった料金所

ここでキンシャサは終わり、というところに周囲に不釣り合いなほど立派な料金所があった。漢字の表示からみて、中国からのプレゼントなのかな。

大西洋からコンゴ河に入った大型船が荷揚げする港、MATADIへ続く国道1号線は快適な舗装道路だ。
それを実証するかのように、コンテナを積んでキンシャサへ向かう大型トラックと何度もすれ違う。

途中で、TOYOTAの同じ車種が約30台、駐車灯を点滅させながら列を成してキンシャサに向かっているのに出くわす。もちろんナンバープレートは無く、フロントガラスにシールを貼り付けているのが見える。
圧巻だ。
BOMA港で陸揚げされた新車は陸路で走行してキンシャサへ運ばれるのだなあ。もの凄いスピードで走行していて、”新車”として売られるなんてなんだか詐欺みたい!とか思ってしまう。


右手にMATADIへ続く線路が走る鉄橋が見え、しばらくして右折したところで踏切を渡った。
MATADI~KINSHASA間を走る貨車が通過するまで待ちたい気分だった。

MATADIへ続く鉄橋


KISANDUから国道1号線を外れて右折すると土道が一本通っているだけだ。
前日の雨で、遠回りだけどこっちのほうが良い道だ、という情報を得て選んだ道だったが、それでもかなりのぬかるみだ。
まるでトランポリンの上を走っているような箇所も通過した。
わたしは後部座席で、ぽんちゃん(我が家で飼っているヨウム)のかごをひたすら押さえる。
ぽんちゃんは止まり木に前のめりに脚を折り曲げて必死の様相でつかまっている。

溢れ返った人と荷物を載せた乗り合いタクシーやバスとすれ違う。
タンクローリー車が2台続けて走行中に、2台目がぬかるみから脱出できずにエンジンが苦しそうにもがいている。運転手も必死だ。
パイナップルを満載したトラック、木炭の入った俵を積み込んだトラックともすれ違う。
全てが、ゴミ箱をひっくり返したような大都会キンシャサへ向かい、消費されるのだ。


人と荷物でひっくり返りそうなトラックが陽気に走り抜ける

出来上がった木炭を俵にして山積みにしている村、とうもろこしの出荷に忙しい村を通過してゆく。
カプリというのだろうか、子ヤギのような家畜が囲いのない庭で飼われていたりする。




沿線にはこんな日干し煉瓦の民家も点在している。
パルミエの木が多いなあ。
小さな子たちが、通過するわたしたちの車に向かって「わあー!!」っと歓声を上げて手を振ってくる。
わたしも小さいとき、遠くから来た観光バスに向かって手を振って、乗客が手を振り返してくれて、そんなことで温かい気持ちになって嬉しかったことを思い出して、わたしも必ず手を振り返すことにする。
体じゅうで喜んでいる子どもたちを見て、わたしも嬉しくなる。


沿道の売店とパルミエの木

車を停めていたら、子どもたちが白い液体の入った小さなサイズのペットボトルを片手に寄って来る。
パルミエの果実から作った発酵酒のツァンバ(MSAMBA)だ。一つ買ってみる。
日本の白酒のような味だ。

車窓からの風景でいちばん違和感を感じて驚くのは、アフリカのブッシュからブッシュへと送電線が張り巡らされていることだ。
壮大なアフリカの緑の中に無機質のグレーの鉄塔と送電線が繋がってゆく風景にはちょっとびっくりだ。
コンゴ河に建設されたダムで作られた電気をキンシャサへ送っているのだろうか。

ブッシュに立つ送電線とコンゴ河


いよいよ宿泊予定の”Seli Safari”に到着か、という頃に小規模のZONGOのダムが見えてきた。
この古い建築物にも違和感を感じてしまう。
コンゴ河の支流のZONGOには2つの小規模ダムが存在すると聞いた。
本流には大規模ダムがあるのだそうだ。
それでも、キンシャサの庶民の居住地域では電気が制限されているようだ。
我が家があるゴンベ地域でもここ2,3日、停電が頻繁に起こっている。

古びた小規模のダム

KISANDUから始まった土道は、ZONGO宿舎まで56kmの道のりだった。
ガタガタ土道もなんのその。安全にびゅーんと突っ走った運転手さん、止まり木にしがみついていたぽんちゃん、お疲れさま。



翌日。
”Seli Safari” から”Plage”と呼ばれるもう一つの滝を見に行ったときに通った”ETAKA”という村があった。
小さな村だった。
ETAKA村やZONGO周辺の村の家は、日干し煉瓦を使わずに、竹(?)を組んで練り土を塗りこんだ壁だ。キンシャサでは決して見かけない塗り壁だ。

どこの家でもドラム缶を短く切ったものを薪の上に置いて何か煮炊きしていた。
この辺りの村の出身の家政婦に写真を見せると、シクワンガを作っているのだということ。マニョックの粉を水で練って大きな葉っぱで巻いて蒸すのだ。

ETAKA村の家

家政婦はさらに続けて言った。
昼間は家には子どもたちと老人しかいなかったでしょう、と。
確かにそうだった。
働ける者たちは、畑へ行って、、とうもろこし、いんげん、落花生などを作っているのだと彼女は言う。



ETAKA村で唯一の雑貨屋
きれいに陳列された商品たち

わたしたちの運転手が、サーディンの缶詰を買うと言って、ETAKA村で家が数軒集まっているところで車を停めた。
どこにも店なんて見当たらない。
変だなあと思って、彼にくっついていった。
運転手が村の誰かに声を掛けると、すぐに若い男の人が手に鍵を持って現れた。
小さな小屋みたいな建物の扉を開けた。

なんとまあ!!
コンパクトな可愛らしい空間が目に飛び込んだ!
クリスマスの飾りも質素だけど店主の気持ちが伝わってほのぼのする。
カラフルなカッチン留めやカチューシャまであるぞ!
それぞれの商品に値段も表示している。
小ぎれいな店内にも感心してしまう。

店主に、コンゴの国に来たくても来れない遠い日本のわたしの父にぜひあなたの店の様子を見せたいのだが写真を撮ってもいいか、と訊くと、即座にどうぞと快諾してくれる。
でもわたしは撮らないでくださいね、と恥ずかしそうにわたしの後ろに回った。

こんな小さな村まで商品を仕入れて運んで売るのだから、キンシャサと比べて高いのだろうなあと思ってしまう。
運転手に聞くと、キンシャサで1200フランだけど、彼の店では1300フランだった、そんなに高くしていないよ。


気づくと村の子どもたちに囲まれていた。
みんなにこにこしている。
フランス語は話せないんだね。
わたしはキコンゴ語を知らないんだよ。
ただ、にこにこ笑ってBonjourと言うだけだ。

大きなダブダブのTシャツを着せられた2歳くらいの男の子が訳も分からず大きな子の後をとことこと付いて回るのが愛らしい。
ひとりの利発そうな女の子が、「ビスキュイ、ビスキュイ」とにこにこして手を口に持っていってわたしの後を追ってくる。悪びれもせずに。
ちょっと悲しくなった。
日本の戦後もこんな風にGHQのアメリカ人にチョコレートをせがんでいたんだな。

Non.Je n’ai pas de Biscuit.
手を横に振る。
それでもにこにことビスキュイ、ビスキュイと言いながらついて来た。
わたしが車に乗り込むと、皆がバイバイと手を振りながら何メートルか走ってきて、そのまま見えなくなるまで手を振り合った。
あちこちの村で出会った子どもたちには、自分たちの住む村だけが彼らの”全世界”なのだろう。
いつか彼らも学校で世界地図を知って、大きくなって世界に出て行くのかな。
かれらに幸せな人生が続きますように。


キンシャサへの帰り道は、通過する沿道の青空市場で果物や野菜を買う、という楽しみが待っていた。どの店も売っているのは女性たちだけだ。
キンシャサでは決して見かけないマンゴスチンも買った。
ぽんちゃんの大好物の殻付き落花生も見つけた。
心残りだったのは、あれこれ迷い続けてとうとうパイナップルを買いそびれてしまったこと。


ZONGOへの道中のこんな風景や出会いにも胸躍るものを感じたのだった。


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