2013年1月30日水曜日

頭に載せて運ぶ!

ボノボ救済施設 ”LOLA ya BONOBO” 入り口付近で


コンゴでは、風景写真を撮ることはなかなか難しい。
勝手に写真を撮るとコンゴの人たちはとてもいやがる。
ましてや、人物となるとなおさらだ。
人にカメラを向けただけで、大声を張り上げ、カメラを取り上げんばかりの勢いで詰め寄ってくる。

だから、なかなか取れなかった・・・マダムたちが頭に物を載せて運ぶアクロバットな姿を。


これらの写真はキンシャサ生活1年の間に撮りためたものだ。


アフリカのマダムたちは何でも頭に載せて運ぶ。
だからだろうなあ、アフリカ女性たちは皆、胸を張ってスックと歩き、姿勢がとても良いのだ。


中央アフリカのバンギにいた頃、直径7、80cmもあろうかと思われる金タライに新鮮な野菜や果物を入れて頭に載せて4階の我が家まで売りに来る、陽気なマダムがいた。
我が家の玄関ベルを鳴らしわたしがいるのを確かめ、ゆっくり座ってから門番のお兄さんの手を借りて大きな金タライを下ろすのだ。
そして帰るときも、門番を大声で呼んで、よいこらしょ!、っと金タライを頭に載せるのを手伝ってもらい、それからゆっくり立ち上がって帰ってゆくのだった。
小柄なマダムながら、これぞマーケット・マミー!!、と感服するようなプロ根性の持ち主だったことを懐かしく思い出す。


キンシャサでいちばん驚嘆し、目を見開いたのは、生卵を何段も重ねたものを頭に載せ、背中に赤ちゃんを負ぶい、雨降るぬかるみ道を傘を差して平然と歩くマダムを見たときだった。
何かの拍子に頭上の卵を落としたら大損害だろうになあ、なのにあんなに平然と歩いてまあ!!、と唖然としたものだ。


さて。
上の写真は、プラスティックのタライに洗濯物を載せて、キンシャサ郊外にあるボノボ救援施設近くを通り過ぎるマダムたちを撮ったものだ。
近くに小さな川があって、そこが洗濯場になっていたのだ。
彼女たちはお互いに見つめ合って談笑しながら余裕で歩いていた!



そんなものくらい手に提げたら?、というものまで頭に載せている母親

アフリカの女性は、子どもを負ぶうとき、子どもの脚を開いてしっかり母親の両サイドの腰骨のところに足首を出し、広げたアフリカの布地で子どものお尻を包み込むようにして子どもの頭だけ出して腰辺りに巻くようにして負んぶする。そして、子どもを負んぶしても前かがみにならないから、頭に物を載せられるのだ。
その負ぶいかたは、子どもの股関節にとても理想的な型なのだと日本の助産婦さんから聞いたことがある。


我が家の家政婦も彼女の仕事の一つであるバナナ売りのときは、頭にバナナを載せて運ぶのだと言う。
落としたりしないの?、と訊くと絶対落とさない!、ときっぱりと言う。
小さいときから頭に載せて運んでいたからね,と。
それに、細長い布地をくるくる丸めてまず頭に載せて平らにクッション材みたいに敷いてから荷物を載せるのよ、と実演してくれた。
軽いものは手に下げるけど、重い荷物を下げていたら腕が痛くなるでしょう、とも言う。
そして、もしわたしたちの国に平らな道があったなら、シャリオ(手押し車)を使ったでしょうけど、と。


以前、川魚が揚がって美味しい現地料理を食べさせてくれる食堂がずらっと立ち並ぶKinkoleeという町の”道端食堂”で昼食を摂っていたときのことだ。
テーブルに着いていたらいろいろな物売りが寄ってきた。
8月の夏休みだったせいか、多くの子どもたちも頭に売り物を載せて売り歩いていた。


野菜を売り歩く少年


マボケ(左)や揚げ菓子(右)を売り歩く少女たち
葉っぱで包んだ蒸し物を売り歩く少女


なるほど。
小さいときから、母親の見よう見まねで頭に載せて運ぶことを覚えてゆくのだなあ。


小さい子の中には、頭に載せて物を運ぶ少年も見かけたが、大人の男性が頭に物を載せて運ぶ姿は全く見かけない。
20年近く前のバンギでは、正面がガラスになった四角い木のケース箱に揚げパンを入れて、まるで店のショーケースをそのまんま頭に載せて売り歩いているような(もちろん小型ショーケースだけど・・)若い男性をよく見かけたものだが、キンシャサでは、頭に物を載せて歩く男性は皆無だ。
男性は良いカッコしい、なのかなあ。


でも。
ポワ・ルー産業道路(夫が携わるプロジェクトの道路)で、ベッドのマットレスを山積みしてリヤカーを重そうに引いて行く、根性の二人組男性は見かけたが・・・。

工事中のポワ・ルー産業道路を通過するリヤカー

2013年1月25日金曜日

悲しい知らせ

宿舎の庭に咲く花

キンシャサのIWC(国際女性クラブ)で出会った友人たちの中に、ひとりのアジアの若い女性がいる。
彼女のご主人はヨーロッパの人。
年齢より若く見え、お国訛りの英語でよくお喋りする屈託のない明るい女性だった。


ほどなく彼女は妊娠してお腹が大きくなっていった。
出産予定日がわたしの娘の予定日に近く、彼女に会うたびに、ああ、わたしの娘もこれくらいのお腹になっているんだろうなあと、娘と重ねて見ていたように思う。


彼女は自分の国に帰って出産し、そしてキンシャサに戻ってきた。
かわいらしい男の子だった。
彼女はIWCの、ちょっと勝手なことを言う先輩ママたちのアドバイスを受けて戸惑いつつも、コンゴ人女性の養育係を置いて子育てに一生懸命だった。
男の子は、やっぱりわたしの娘の赤ちゃんと誕生日が数日しか違わず、その子に会うたびに、ああもう首が座ったなあ、とか、表情が豊かになっていくなあ、とやっぱりわたしの孫と重なり、かれに会うのが楽しみだった。

彼女自身もわたしの娘と年齢が近く、どちらの夫もヨーロッパの人だし、彼女たち親子を見ると、娘のところもこんな日々を送っているんだろうなあと目を細める気持ちで見ていた。

とっても活発な元気な子で、クリスマスの頃に彼女の家に友人たちで集まったときに、抱っこされてくるくると動き回るととっても喜んでいた。愛嬌が良くてハンサムボーイで彼女の自慢の息子だった。

彼女の家には、ベビー用品があちこちに見られた。
椅子やオルゴールモービルやクッション床材やいろんなものをヨーロッパから持ち込んで、育児環境を整えていた。
父親のキンシャサ勤務が終わるまで、この子はここで大きくなっていくんだなあと思って見ていた。



一昨日の朝、突然、IWCの別のアジアの友人から電話があった。
彼女の赤ちゃんが病気でキンシャサの病院に入院したと言う。
輸血が必要になって、かれと同じ血液型を探しているので協力して欲しいという電話だった。

わたしもできる限りの情報を集めた。
いろいろな制約を受けたのが辛かった。
そのうちに、IWCの会長名で会員全員にメイルで呼びかけが始まった。

そして2人の血液提供者が見つかった。

キンシャサの医師たちは病気の原因がつかめなかったようだ。
急遽、アフリカで熱帯病の権威がいるという病院に飛行機で運ばれた。
ヨーロッパに搬送するよりもその病院のほうが熱帯病に詳しいし、距離的にもより近いということもあったのかもしれない。

皆で祈った。
乳幼児の病気は深刻だけど、輸血も完了したし、良い治療が受けられる今の時代だもの。



今朝、電話が鳴った。
最初に血液型探しで電話をくれた友人だった。
彼女は泣いていた。

彼女の赤ちゃんが今朝早くに亡くなった、という知らせだった。


2013年1月21日月曜日

日本からの中古車が走る!

キンシャサ6月30日通りを走る!

これは、キンシャサのど真ん中を突っ切る6月30日大通りで撮った写真だ。

わたしが車に乗っていたとき、横を通り過ぎた車に何気なく視線を移すと・・・・・。
なんとまあ!!


日本の霊柩車がいた!!!!!


しかも新車のようにぴかぴかに磨かれている。
霊柩車の窓ガラスからは、内部に簾(すだれ)のついた障子様のついたてが見える。
どう見ても使い古した中古車ではないし、どう見ても日本の霊柩車だ。
そして、なんとなく、日本の霊柩車はキンシャサでも”本来の目的”で使われているように思われた。実際には日本の霊柩車がどのように使われているのかはわからない。

夫に話すと、夫が勤務する産業道路(Poids Lourd)近くのLimete通りでよく見かけるのだそうだ。そこに霊柩車の会社(?)があるのかな。

コンゴの人たちは、結婚式と葬式にはお金を使う、と聞くが、日本の霊柩車に着目した最初のコンゴ人、っていったいどんな人なのだろう。


日本の霊柩車発見には驚きまくったが、キンシャサでは日本の会社名の入った中古のライトバンやミニバスが走行しているのを頻繁に見かける。
しっかり使い古されたライトバンのものが多い。
なんとか電装とか、○×茶園というのもあれば、△◎仏具店と書かれたバンが走っていたりする。
自動車学校のミニバスも見かけたことがある。



日本の電気会社名の入ったライトバン 6月30日大通りで


おそらく日本から来たすべての中古の商業用ライトバンやミニバスは塗装し直さずに、日本語の会社名を表示したままで走っているのではないか。
日本から来た車なのだよ、という証明になるからか、ただ単に塗装代をケチっているだけなのか。



新車同様のバスも!


ほとんどが日本でしっかりお役目を果たしたような中古車なのだが、こんなぴかぴかにきれいな幼稚園バスも発見した。
なんでこんなにきれいな幼稚園バスがキンシャサに???、なんて不思議に思ってしまう。

ここは、キンシャサでいちばん大きなホテル(評判はかんばしくないが。)、グランド・ホテルの駐車場だ。
この国に観光客などいる訳がないから、ホテルの会議室などの利用者たちの送迎に使われているのだろうか。
利用者はこのバスが日本で幼稚園バスだったなんて思いもしないのだろうなあ。

日本語表示と、キンシャサでの利用目的があまりにかけ離れていることにわたしは毎回強い違和感を覚える。


これらの中古車は、日本からどういうルートで運ばれてくるのだろう。

ドバイまで日本の中古車会社が船で輸出しているとも聞く。
ドバイからコンゴのボマ港までさらにどこの国かの海運業者によって運ばれ、そこから陸路で走行してキンシャサにたどり着いたと考えると、ようこそはるばるキンシャサへ~!!、とねぎらいの気持ちで中古車たちを見てしまう。

でも、とさらに考える。
かれら、日本の中古車たち自身に立ち返れば、自分の人生の最後をはるばる遠いコンゴで終えるなんて考えもしなかっただろうなあ。

2013年1月19日土曜日

スカイプで続くリコーダー教室

キンシャサから参加するリコーダーのスカイプ教室

今朝もキンシャサ時間で朝7時から、リコーダーのスカイプ教室に参加した。
わたしが心待ちにする毎月1回のリコーダー教室だ。


先生は都内小学校で音楽教師として勤務し、音楽をこよなく愛する友人だ。
生徒たちは、一昨年の夏まで期間限定で開店していた”夏の絵本屋”の仲間たち。


わたしたちのリコーダーの先生は夏の絵本屋でのコンサート企画でもお世話になった。
初回の開店のときは、絵本の”ぞうのババール”の物語のピアノ組曲を元に、素敵な歳の重ね方をされる日本人ピアニストの演奏に90歳近いチャーミングなフランス人マダムの朗読を織り込んで、見事なプロデュースをしてくれた。
それから、彼女が弾くチェロと義妹が弾くケルトハープのコラボコンサートや、やはり彼女のチェロ伴奏での詩の朗読コンサートも企画してくれた。
このコンサートでは、朗読者の声色とチェロの音色が合わさり、心に沁みわたっていくのを堪能する素晴らしい内容だった。



生徒たちは、そんな彼女の人柄を慕って毎月1回、彼女の自宅に集まってリコーダーを教えてもらっている。
スカイプのお陰で、わたしはキンシャサからも参加できて継続している。



わたしたちが練習するリコーダーは、アルトリコーダーだ。
今朝は初めてヨウムのぽんちゃんもわたしの隣でリコーダー教室に参加した。
演奏中は静かに神妙に聴いているのが可笑しい。


今日の練習曲は、ヴィヴァルディの”四季”より”春”の第1楽章と、ハイドンの”皇帝”より第2楽章だった。
楽譜は2パートに分かれていて、ひとりで演奏するより合奏のほうが断然楽しいし、聴き応えも大幅アップする。

先生は、季節に合わせて練習曲を用意してくれる。
春には”さくら さくら”、夏には、”夏の思い出”、クリスマスの時は”もみの木”、”聖夜”、”荒野のはてに”、といった具合だ。
さだまさしファンのわたしのために、”北の国から”も練習した。
らっぱのマークの胃腸薬のCMソングとかいったお楽しみもあったな。

昨年6月に日本へ戻られた中村寛子シスターの送別会のときに、わたしは初めて人前で演奏した。
緊張しまくったが、”ふるさと”、”喜びの歌”、”夏の思い出”を選んでシスターのはなむけに演奏できたことは良い思い出だ。

わたしがキンシャサへ来る時、先生からソプラニーノとソプラノリコーダー、そして親指ピアノ(アレンジ盤)をいただいた。
ソプラニーノは小鳥が歌を練習(?)するための縦笛だということだ。
ぽんちゃんにも楽しんでもらおう。

2012年のわたしの手帳を開いてみると、初めて東京のリコーダー教室とキンシャサが繋がったのが1月28日の土曜日になっている。

1年経ったのだなあ。

リコーダー教室の先生と仲間たちに感謝だ。
ありがとう~!!


2013年1月14日月曜日

ZONGO旅の道々の思い出

今日は、ZONGOの旅の道中で出会った人々、車、村並み(?)のことを書いてみたい。


1月4日朝9時にキンシャサ・ゴンベのアパート出発。
市内の6月30日通りを過ぎ、中央駅から115km(国道1号線)地点のKISANDUまでは舗装された道路だった。

キンシャサを出るところにあった料金所

ここでキンシャサは終わり、というところに周囲に不釣り合いなほど立派な料金所があった。漢字の表示からみて、中国からのプレゼントなのかな。

大西洋からコンゴ河に入った大型船が荷揚げする港、MATADIへ続く国道1号線は快適な舗装道路だ。
それを実証するかのように、コンテナを積んでキンシャサへ向かう大型トラックと何度もすれ違う。

途中で、TOYOTAの同じ車種が約30台、駐車灯を点滅させながら列を成してキンシャサに向かっているのに出くわす。もちろんナンバープレートは無く、フロントガラスにシールを貼り付けているのが見える。
圧巻だ。
BOMA港で陸揚げされた新車は陸路で走行してキンシャサへ運ばれるのだなあ。もの凄いスピードで走行していて、”新車”として売られるなんてなんだか詐欺みたい!とか思ってしまう。


右手にMATADIへ続く線路が走る鉄橋が見え、しばらくして右折したところで踏切を渡った。
MATADI~KINSHASA間を走る貨車が通過するまで待ちたい気分だった。

MATADIへ続く鉄橋


KISANDUから国道1号線を外れて右折すると土道が一本通っているだけだ。
前日の雨で、遠回りだけどこっちのほうが良い道だ、という情報を得て選んだ道だったが、それでもかなりのぬかるみだ。
まるでトランポリンの上を走っているような箇所も通過した。
わたしは後部座席で、ぽんちゃん(我が家で飼っているヨウム)のかごをひたすら押さえる。
ぽんちゃんは止まり木に前のめりに脚を折り曲げて必死の様相でつかまっている。

溢れ返った人と荷物を載せた乗り合いタクシーやバスとすれ違う。
タンクローリー車が2台続けて走行中に、2台目がぬかるみから脱出できずにエンジンが苦しそうにもがいている。運転手も必死だ。
パイナップルを満載したトラック、木炭の入った俵を積み込んだトラックともすれ違う。
全てが、ゴミ箱をひっくり返したような大都会キンシャサへ向かい、消費されるのだ。


人と荷物でひっくり返りそうなトラックが陽気に走り抜ける

出来上がった木炭を俵にして山積みにしている村、とうもろこしの出荷に忙しい村を通過してゆく。
カプリというのだろうか、子ヤギのような家畜が囲いのない庭で飼われていたりする。




沿線にはこんな日干し煉瓦の民家も点在している。
パルミエの木が多いなあ。
小さな子たちが、通過するわたしたちの車に向かって「わあー!!」っと歓声を上げて手を振ってくる。
わたしも小さいとき、遠くから来た観光バスに向かって手を振って、乗客が手を振り返してくれて、そんなことで温かい気持ちになって嬉しかったことを思い出して、わたしも必ず手を振り返すことにする。
体じゅうで喜んでいる子どもたちを見て、わたしも嬉しくなる。


沿道の売店とパルミエの木

車を停めていたら、子どもたちが白い液体の入った小さなサイズのペットボトルを片手に寄って来る。
パルミエの果実から作った発酵酒のツァンバ(MSAMBA)だ。一つ買ってみる。
日本の白酒のような味だ。

車窓からの風景でいちばん違和感を感じて驚くのは、アフリカのブッシュからブッシュへと送電線が張り巡らされていることだ。
壮大なアフリカの緑の中に無機質のグレーの鉄塔と送電線が繋がってゆく風景にはちょっとびっくりだ。
コンゴ河に建設されたダムで作られた電気をキンシャサへ送っているのだろうか。

ブッシュに立つ送電線とコンゴ河


いよいよ宿泊予定の”Seli Safari”に到着か、という頃に小規模のZONGOのダムが見えてきた。
この古い建築物にも違和感を感じてしまう。
コンゴ河の支流のZONGOには2つの小規模ダムが存在すると聞いた。
本流には大規模ダムがあるのだそうだ。
それでも、キンシャサの庶民の居住地域では電気が制限されているようだ。
我が家があるゴンベ地域でもここ2,3日、停電が頻繁に起こっている。

古びた小規模のダム

KISANDUから始まった土道は、ZONGO宿舎まで56kmの道のりだった。
ガタガタ土道もなんのその。安全にびゅーんと突っ走った運転手さん、止まり木にしがみついていたぽんちゃん、お疲れさま。



翌日。
”Seli Safari” から”Plage”と呼ばれるもう一つの滝を見に行ったときに通った”ETAKA”という村があった。
小さな村だった。
ETAKA村やZONGO周辺の村の家は、日干し煉瓦を使わずに、竹(?)を組んで練り土を塗りこんだ壁だ。キンシャサでは決して見かけない塗り壁だ。

どこの家でもドラム缶を短く切ったものを薪の上に置いて何か煮炊きしていた。
この辺りの村の出身の家政婦に写真を見せると、シクワンガを作っているのだということ。マニョックの粉を水で練って大きな葉っぱで巻いて蒸すのだ。

ETAKA村の家

家政婦はさらに続けて言った。
昼間は家には子どもたちと老人しかいなかったでしょう、と。
確かにそうだった。
働ける者たちは、畑へ行って、、とうもろこし、いんげん、落花生などを作っているのだと彼女は言う。



ETAKA村で唯一の雑貨屋
きれいに陳列された商品たち

わたしたちの運転手が、サーディンの缶詰を買うと言って、ETAKA村で家が数軒集まっているところで車を停めた。
どこにも店なんて見当たらない。
変だなあと思って、彼にくっついていった。
運転手が村の誰かに声を掛けると、すぐに若い男の人が手に鍵を持って現れた。
小さな小屋みたいな建物の扉を開けた。

なんとまあ!!
コンパクトな可愛らしい空間が目に飛び込んだ!
クリスマスの飾りも質素だけど店主の気持ちが伝わってほのぼのする。
カラフルなカッチン留めやカチューシャまであるぞ!
それぞれの商品に値段も表示している。
小ぎれいな店内にも感心してしまう。

店主に、コンゴの国に来たくても来れない遠い日本のわたしの父にぜひあなたの店の様子を見せたいのだが写真を撮ってもいいか、と訊くと、即座にどうぞと快諾してくれる。
でもわたしは撮らないでくださいね、と恥ずかしそうにわたしの後ろに回った。

こんな小さな村まで商品を仕入れて運んで売るのだから、キンシャサと比べて高いのだろうなあと思ってしまう。
運転手に聞くと、キンシャサで1200フランだけど、彼の店では1300フランだった、そんなに高くしていないよ。


気づくと村の子どもたちに囲まれていた。
みんなにこにこしている。
フランス語は話せないんだね。
わたしはキコンゴ語を知らないんだよ。
ただ、にこにこ笑ってBonjourと言うだけだ。

大きなダブダブのTシャツを着せられた2歳くらいの男の子が訳も分からず大きな子の後をとことこと付いて回るのが愛らしい。
ひとりの利発そうな女の子が、「ビスキュイ、ビスキュイ」とにこにこして手を口に持っていってわたしの後を追ってくる。悪びれもせずに。
ちょっと悲しくなった。
日本の戦後もこんな風にGHQのアメリカ人にチョコレートをせがんでいたんだな。

Non.Je n’ai pas de Biscuit.
手を横に振る。
それでもにこにことビスキュイ、ビスキュイと言いながらついて来た。
わたしが車に乗り込むと、皆がバイバイと手を振りながら何メートルか走ってきて、そのまま見えなくなるまで手を振り合った。
あちこちの村で出会った子どもたちには、自分たちの住む村だけが彼らの”全世界”なのだろう。
いつか彼らも学校で世界地図を知って、大きくなって世界に出て行くのかな。
かれらに幸せな人生が続きますように。


キンシャサへの帰り道は、通過する沿道の青空市場で果物や野菜を買う、という楽しみが待っていた。どの店も売っているのは女性たちだけだ。
キンシャサでは決して見かけないマンゴスチンも買った。
ぽんちゃんの大好物の殻付き落花生も見つけた。
心残りだったのは、あれこれ迷い続けてとうとうパイナップルを買いそびれてしまったこと。


ZONGOへの道中のこんな風景や出会いにも胸躍るものを感じたのだった。


2013年1月13日日曜日

ZONGOの滝

ZONGOの滝を中腹から望む

1月4日から6日まで滞在したZONGO。
滝のあるコンゴ河支流そばに広がる宿舎のわたしたちの部屋からも、ごうごうと滝の落下する轟音が鳴り響く。夜中もずっとわたしの夢の底で聴こえ続けていた。


宿舎の敷地脇の小道から下りていくと、滝の下方にたどり着く。
もちろん土のでこぼこ道だが、ここまでは鉄の手すりが備わっていた。

滝の下方には大きな岩が横たわっていた

地面はしっとり濡れて辺りは暗い。
ガイドが滝へ下りていく入り口にたむろしていたが、ガイドがいなくても小道が続いているのが分かるので迷うことはない。
小道を下りきって川岸に出ると、今度は小道は上っていく。
足元の踏み場を選んで上るから、結構緊張する。

滝の落下音を聴きながらどんどん上っていくと、突然視界が開け、冒頭のような滝の光景が広がる。
11月,12月と一年で最多降雨量の時季を過ぎ、滝を落下する水量はダイナミックだ。
小道は囲いがあるわけでもなく滝のすれすれまで行けるが、地面が濡れていて滑って危険な状態だ。
ビーチサンダルを履いたどっしりとしたインド人観光客のマダムが派手に転んだ。

更に小道は上へ上へと続き、わたしたちも小道を登って行った。
てっぺんに着いた。
細かい水の粒子が霧雨のように降ってくる。
太陽光線が霧雨に当たって、虹が架かっている。

川岸を登りつめたてっぺんから滝を見る

ものすごい轟音を立てて落下する水。
水煙で下が見えない。
こんなところに落ちたら命ないよね、と夫に話すと,加速度だ何だと物理学的な説明が始まって、耳のふたが閉まった。
地面に水たまりができ、足元が悪い。
滑って転んで滝にまっさかさまに落ちたら大変!、と思いながら、怖いもの見たさで、首を突っ込んで滝を覗いてみる。
脚がぞくぞくする。
自然の力ってすごいなあ。

中学1年生の時だったか、通っていた塾の地理の授業で、先生が、なぜアフリカ大陸は開発が遅れたと思うかい、と問いかけてきた。
わたしたちは一生懸命考えた。その昔、ヨーロッパの冒険家がアフリカ大陸を発見し、奥地へ奥地へと入り込んでいった様子を想像した。
そして先生はしばらくして、川の滝が内陸へ進むのを阻んだのだ、と言った。
ふーむ、なるほど。
しばらく、教室はしーんと静まり返った。
そんな40年も前のことをはっきりと思い出す。

アフリカの自然は偉大だ。
ジャングルが広がり、川のいたるところに滝が横たわる。
ワニや象やカバや、大型昆虫なんかもきっとうじゃうじゃいるだろう。
でも、と考える。
赤道に近い南緯4度のZONGOの地域が、こんなにも快適な気候だと、誰が想像できるだろう。

自然のエアコンが効き、きれいな空気が作り出され、よくぞZONGOにたどり着く道と宿舎を用意してくれたものだと感激した。

わたしたちが泊まったZONGOの宿舎、”Seli Safari Resort”は、全てが平屋の建物が点在するゆったりとした宿泊施設だった。

正面の赤い屋根はロッジ 右にテント群が見える

わたしたちの部屋はとても明るく中庭に面していた。

すべての部屋にコンゴの都市名がついていた
昼食も夕食も、庭のパイヨットでゆっくりと食事を取れる。
そばには川が流れている。

きれいに整備された庭とパイヨット

わたしたちはキンシャサの疲れを忘れ、三日間のZONGO滞在でリフレッシュされたのだった。



2013年1月10日木曜日

香りを楽しむための果実

芳香剤の役目をする?果実

昨日のブログで、写真挿入ができなくなった、と書いた。
娘と連絡が取れてスカイプでも伝えたのだが娘も分からず、以前からわたしのG-mailに”Chromeにアップロード(?)してください。そうしないと一部、機能しなくなります。”とかいう表示が出ていたのを無視し続けていたのを思い出し、夫に話してChromeをインストール(?)してもらった。
そうして、めでたし、めでたし。
またブログに写真をアップできた!!よかったな~。


ということで、ZONGO旅編は次回にして、今夜は小手調べにちょっとした小話を聞いてください・・・・。



ZONGOから戻ってきた6日の午後、夫とわたしは何と呆れることに旅の疲れも物ともせず(!)、ゴルフをハーフだけ回ったのだった。

ゴルフ場を出る時に、受付横に停車中のカートのかごにゴロンと3つ、大きな柿の親分のような果実が入っているのを見つけた。
あれは何?
受付のムッシュに尋ねた。

ああ、これは香りのための果実なんだよ。部屋に置いておくと良い香りが楽しめるよ。
ひとつでもふたつでも持っていきなさい。
表面に切れ目を入れると、香りがもっとはっきりするよ。

へーえ。食べる果実、ではなくて、香りの果実、か。
ムッシュは決して、食べて美味しいとは言わなかった。
果たして食べられるのかは分からない。

名前を尋ねても、知らないと言う。リンガラ語も知らないと言った。
近くにいたキャディーにも尋ねてみたが、この果実の名前を知っている人はいなかった。

ゴルフ場の16番ホールに行ってごらん。
この実をつけた木が何本か見つかるよ。

わたしが、”ハイジの丘”と(勝手に)名づけた、グリーンに向かってなだらかな下り坂になっている見晴らしの良いコースだ。

その、「香りの果実」をひとついただいて帰り、リビングのテーブルに載せている。
本当に柿の親分だ。
高さ約15cm。最大直径約13cm。

熟した柿の香り、というのかなあ。
わたしの亡くなった祖母が赤く熟しすぎたくらいの柿が好きだったなあと、小さい頃の祖母の思い出がよみがえる。

いや、しっかり甘い西洋梨の香りに近いかもしれない。
部屋中に果実の甘い香りが漂う。
自然の芳香剤だ。

こういう果実の使い方も、ここの人たちの生活の智恵なんだろうなあ。



2013年1月9日水曜日

今年も1週間が過ぎて

早いもので、今年に入ってもう1週間が過ぎた。


年末年始は暦どおりに夫は仕事を続け、今年に入って4日、5日、6日と事務所が休みになったので、夫婦(+ヨウムのぽんちゃん)でキンシャサから140km(雨季中の道路事情を加味して、わたしたちはより良いという情報を得たルートをとったので170kmちょっとの道中だった。)ほど南西にあるZONGOの滝を見に行った。

コンゴ河の支流を落下するZONGOの滝は、雨季ということで水量も豊かで、落差は30mはあるだろうか、ダイナミックな落下の光景が見られた。
滝のふもとからてっぺんまで山道を上り下りして滝を眺められるのだが、てっぺんでは細かい水しぶきが上がってまるでシャワーのようで、太陽光線のプリズムで虹が架かっていた。
滝の傍に広がる”Seli Safari”は地の利を生かして建設された素晴らしいリゾート宿泊施設だった。
自然のエアコンでひんやりした清浄な空気の中でリフレッシュされ、のんびりゆっくり、とても良い滞在だった。

道中は、外国からの船が寄港するBOMAやMATADIへ続く国道をキンシャサから115km地点まで走ったので、大きなコンテナを積載したトラックや、列を成して30台ほどのTOYOTA新車がキンシャサに向かって走行する光景に目を見張ったり、いろいろなところで興味津々の出来事に遭遇した。

ZONGO旅行の3日間のことは、また詳しく伝えたい。


今日は朝起きた時からしとしとと雨が降っていた。
先月の後半から雨が小休止したようだったが、まだまだ季節は雨季。
それでもピークの11月、12月は過ぎたので、これからはそんなに雨は降らないかも。

今日も午前中には雨が上がり、青空が広がる南の空を太陽は元気に通過中。

さあ、アボカドの季節がやってきた。
そして、ZONGO旅途中でパイナップルをぎっしり積載してキンシャサに向かって走るトラックを何度も見たが、美味しいパイナップルの季節でもある。
旅の道中でたくさんの”サフ”という卵大の紫の果物が木にたわわに実っていたし、道沿いの市場では、美味しいマンゴスチンも見つけた。
豊かな降雨量で実った果実や野菜が楽しめる季節なのだ。


昨日から、クリスマス休暇から戻ってきたというメイルが届き、今朝は電話もあった。
またキンシャサに外国人が戻ってきている。
今日、ゴルフ場でも韓国のマダムたちに会った。
来週からはまた、IWC(キンシャサ国際女性クラブ)のモーニングティーが始まる。


1週間ぶりにブログを、と思って開いたら、写真の挿入の項目が消えていて、どうしても写真を載せられないのだ。
困ったなあ・・。
そんなわけで、だらだらとした近況報告になった。


今晩、アルプスの夫の実家に滞在する娘に連絡が取れるかな。

このブログは、コンゴで暮らしてきっと時間を持て余すだろうわたしのために、一昨年暮れに、こちらもまたフランスへ拠点を移していった娘が超多忙な合間を縫って、セッティングしてくれたHPなのだった。
パソコン音痴のわたしがブログのセッティングなんてできようはずもない!

ありがたい、ありがたい。


20年前の中央アフリカ滞在時は、母子で毎月発行する新聞がそれぞれあって、それぞれが手書きで書いてイラストも添えて、それをコピーして手紙に添えて封書で日本へ郵送していた。バンギでは当時、パリ行きの飛行機が発つ日に空港の郵便局カウンターへ持って行き、購入した切手を貼って直接、局員に手渡し郵便袋に入れるのを確かめるということをすれば間違いなく外国郵便は配達されていた。

小学校4,5,6年生だった娘は、”Bonjour便り”を、幼稚園から小学校2年生だった息子は、”ライオンしんぶん”を、そしてわたしは”バンギ便り”という通信を綴っていた。

20年経って、完璧なインターネット社会となってしまうなんて。想像もつかなかった”未来”へ来てしまったんだなあ。


それでは、写真もなく、まとまりのない文章になってしまったが、これで「公開ボタン」を押します。エイッ。

2013年1月3日木曜日

ようこそ、へび年 2013年!~L’éléphant vert: へびのクリクター

新年おめでとうございます。

2013年はへび年。夫の干支でもある。
我が家のハッタリくん、今年9月で60歳になる。ちょっと驚きだ。
30年も一緒に歩いてきたんだなあ。

さて、アフリカといえども、キンシャサで”へび”を見かけたことは一度もない。
へびと暮らすフランスの上品な夫人、ボドさんの物語を紹介しながら(?!)、2013年の皆様の幸せを祈念したいと思います。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

L’éléphant vert: へびのクリクター:  絵本 へびのクリクター
キンシャサから、新年おめでとうございます。 2013年はへび年。 へびが登場する絵本、といったら何と言ってもこの絵本、”へびのクリクター”だ。 作者は、以前このブログでも紹介した絵本、”ゼラルダと人喰い鬼”も著した...