2012年11月30日金曜日

L’éléphant vert: 直感こども美術館 プリミティブアートってなあに?

アフリカを中心に、世界中のプリミティブアートをきれいな写真入で紹介するこの本を、いつだかの”夏の絵本屋”で扱ったことがある。
題名に、”こども美術館”と付くが、あらゆる層のかたに手にとって欲しい本だ。
キンシャサの我が家に置かれたプリミティブアートたちとともに紹介してみました。


L’éléphant vert: 直感こども美術館 プリミティブアートってなあに?: 西村書店から出版されているこの写真集。 こども、と言わず、老若男女、一家で楽しめる本だと思う。 ”Primitive art” を辞書で引いてみると、”原始美術” と記されているが、とんでもない! まだ、”芸術”という概念がなかったころ、ただかれらの生活の中で使...

2012年11月29日木曜日

平和なキンシャサのパン工場

 今日、東京の知人が、朝日新聞11月24日夕刊の第一面に掲載された記事、

  「 コンゴ 平和どこに ~ 武装組織 M23,東部を制圧 」

をメイルに添付して送ってくれた。
こんなに大きく、ゴマ、サケの街の写真、地図とともに取り上げられたのなら、首都のキンシャサも危ないはず!、と心配いただくのも当然だろう。

こちらで視聴できる”フランス24”という衛星放送テレビのニュースでも、繰り返し、コンゴ東部地域の闘争の様子が映像で流されて伝えられている。

JICAキンシャサ事務所からも逐一、コンゴ東部情報がわたしのメイルに情報をいただいているし、夫も地元の日刊新聞で情報を得ているので、不安はないし、東部の紛争地域から随分離れたキンシャサでは緊迫した空気は感じられない。

東部のゴマ、サケのある地域は、気候も穏やかで豊かな農作物生産地帯であるのに加え、金、ダイヤモンド、レアメタルなどの天然資源が眠る地域で、コンゴ民主共和国にとってとても重要な地域なのだ。
地理的には、コンゴの東端に位置し、ルワンダと国境を接し、ツチ族のジェノサイドのあったときに多くのツチ族がコンゴ東部に流れ込み、そのまま定住しているとも聞く。
今回、ゴマ、サケの街を占領した反政府勢力のM23の背後にはルワンダ政府が付いているとも噂されている。
ルワンダは公用語がフランス語から英語に変わった国。
もともとコンゴとルワンダの闘争に、欧米諸国が首を突っ込んできて、かき回しているように思えてならない。
はて・・・・。

難民が移動し、疫病も蔓延し食糧事情も悪化していると聞く東部地域だが、コンゴ領土の真反対、西端に位置するキンシャサは、M23によるゴマ占領の情報を受け、デモや集会が一部地域で行われたようだが、穏やかな毎日が流れているだけだ。


そんな昨日、IWC(国際女性クラブ)の企画で、キンシャサの地元民地域”シテ”地区にある、”Pain Victoire”の大きなパン工場の見学に行ってきた。


オートメーション化された工場内
ごちゃごちゃしたシテ地域にありながら、工場敷地内はとてもよく整備されていた。
工場入ってすぐのブースは、洗面台が横にずらっと並んでいて、直角に曲がった次の一辺には、日本のデパートなどのトイレでもよく見かける電動乾燥機が据え付けられていた。
そして、いよいよ工場内へ。
わたしたちはフランスパン製造コースを見学するということだった。

巨大な機械が、巨大な空間に配列されていて圧倒される。
イタリアや日本からのパン製造の機械なのだそうだ。
まず通路の左側に数個の背の高い機械が並んでいるのが見えた。
小麦粉貯蔵庫なのだそうだ。それぞれの機械に入れられて小麦粉の重量も機械制御され管理されている。
その貯蔵庫の前に”コンゴ民主共和国産”と書かれた白い小麦粉の袋が山積みされている。

小麦粉貯蔵庫、重量計、混ぜ合わせてこねる機械、第一次発酵、成形、粉まぶし、パンの上のライン引き、第二次発酵、と機械はゆっくり正確にフランスパンを製造してゆく。
大きなウェーブの凹凸のあるテフロン加工の鉄板の上に落とされるフランスパンを重なりがないか工員がチェックして、ウェーブのくぼみに一列に2つずつフランスパンが並ぶ。それらはベルトコンベアーに載って巨大オーブン室へ流れてゆく。

発酵室内とオーブン内は、均等に発酵し焼けるように、パンを載せたテフロン加工の鉄板がゆっくりとぐりぐりと上下左右に動くのが見える。温度と湿度はやはり機械制御で管理されているのだそうだ。

20年前にバンギで見たパン屋のオーブンでは、波打ったトタン板(当時の庶民の家の屋根に使われていたのと同じトタン板だった!)の凹凸を利用して、くぼみ部分にフランスパンを横たわらせて、満タンに載せたトタン板をそのまま庭のオーブンに入れて焼いていた。そんな光景を懐かしく思い出す。
キンシャサのビクトワールパン工場でも、トタン板そっくりの凹凸板にフランスパンを載せて焼いていたが、違うところは、そのトタン板がしっかりした作りの黒いテフロン加工の板になっていた、というところだ。
20年も経ち、ここはコンゴ一の設備と規模を誇るビクトワールパン工場なんですから!

そしてもうひとつ、感心したこと。
それは、ただ一つの原料を除いて、すべてコンゴ国産のものを使用しているということ。
ただ一つの例外は、イースト菌。
これはフランス産のものだった。


こんがり香ばしく焼かれたパンが、トタン板から、下に置かれた大きな青いプラスティックかごに落とされていく。
フランスパンが満載されたかごがどんどん高く積まれていくと、工場の最後尾に並ぶ数字が付いた両扉のドアのところまで運ばれる。そして、もう一つ先のドアが開かれると、そこにトラック、あるいはパン売りのママたちが待ち受けているのだった。

この工場は、レバノン人経営なのだそうだ。
わたしたちに、流暢な英語とフランス語で丁寧に説明してくれたフランス人男性はビクトワールパン工場のディレクターだということだった。
彼の説明によると、この工場は、一日24時間、週7日間、毎日休みなく、一日70万本(わたしの耳には、seven hundred thousandと聞こえた。)のフランスパンが製造されているのだそうだ。ここでは、フランスパンのほかに、小ぶりの山形食パンも製造されていた。
この工場は、コンゴの人々に働く場を確実に提供しているのだ、ということにも大きな感銘を持つ。

このビクトワールパン工場の前を朝6時くらいに通ったことがあるが、工場内にはたくさんのアフリカ女性たちが焼きたてパンを、「Pain Victoire」と茶色の文字が書かれたベージュの大きなプラスティック”たらい”にぎっしり立てて入れられたフランスパンを受け取って、そのたらいを頭に載せて街に散らばっていくのだった。
そんなコンゴのママたちの伝統的な労働力を、パン販売網に組み入れているパン会社のシステムにも共感を覚える。

一時期は、七千人のママたちが毎朝小さな村から工場まで来てパンを受け取り、それぞれの村で売っていたそうだが、トラックが普及して、直接工場まできてパンを持っていくママたちは、現在では二、三千人ということだ。
ビクトワールパンの工場はコンゴ国内ここの一箇所だけ。
あとは、トラックや飛行機(?)でどこかまで輸送され、それ以外は、全部、ママたちの手でコンゴ中にビクトワールパンが届くのだ、と想像してひとり感動していた。
きっと1本五百フランのフランスパンを売って百フランか二百フランの儲けにしかならないのだろう。たらい一杯に50本のフランスパンを入れて、全て売りさばいても五千フランから一万フラン(五百円から千円)にもならないだろう。
現在、慶応大学の英語講師として勤務するコンゴ人のサイモン先生の母親は、毎朝パンを売って子どもたちの学費を稼いで学校にやったという話を思い出す。


さて、工場見学のあと、新しくシテ地区に”Chez Victoire”というパン屋兼カフェを開店したので、そこへ移動して、菓子パンの試食をしましょう、ということになった。
工場から車で7、8分のところに、そのカフェはあった。

シテ地区にあるビクトワールパン直営カフェ一号店


工場もカフェもわたしたちが時々訪れるジギダ野菜市場の近くの、シテ地区、つまり庶民のカルチェにある。
シテ地区のカフェ一号店は新しくモダンな明るい清潔な内装で、多くの地元の若者たちで賑わっていた。平和そのものの光景だった。

フランスパンや小ぶり食パンのほかに、たくさんの種類の菓子パンがガラスケースに並んでいる。
IWCメンバーが、シティーマーケット(外国人が利用するスーパーマーケット)内のパン屋の半分の値段に設定されている、と驚いている。
シティーマーケットでは、フランスパンは1本1000フランだが、ここのシテ地区のChez Victoireのカフェでは、1本500フラン(約50円)だ。ドーナッツが250フラン(約25円)。
どれも見た目もきれいで、とてもおいしい菓子パンだった。
庶民でも買えるように、最高価格のチョコパンでも1500フラン(150円)にしている、と仏人ディレクターは言っていた。
店内の国産のペットボトル入りレモネードが500ml入りで500フラン。
千フランで菓子パン2個と飲み物が買えるのだ。
ちょっとしたお礼のチップとしてコンゴ人に渡す金額として、ビール代やお茶代分の五百フランから千フランという相場は妥当だな、と思う。


”Chez Victoire”シテ地区店内 IWCメンバーと共に
キンシャサ市内のゴンベ地区(外国人居住地域)の6月30日通りに面したクラウンビル1階に、”Patachoux”というケーキとパンのカフェが開店して1ヶ月ほどになるが、近々、同じビルのその隣に、この”Chez Victoire”(おそらくコンゴ2号店)が開店する。
果たして価格設定は?
シテ地区店の倍の設定になるのか。

キンシャサには、こうやってこざっぱりしたカフェが増えている。
先ほど出てきた外国人が利用するシティーマーケットには、ペットショップコーナーもできたと聞く。
ペットショップこそ、なんだか平和の象徴のような気がする。
たしかにそのスーパーマーケットは、外国人と富裕層のコンゴ人しか利用しないが、それでも、キンシャサの治安が安定してきた証拠かなあ、と思っていた矢先のゴマ地域の闘争悪化のニュースだった。

反政府勢力のM23軍は、キサンガニやキンシャサまで進軍する可能性を示唆していたが、今日夕方のJICAからの情報によると、MONUSCO(国連平和維持軍)情報として、M23が今朝から占領地域から撤退を始めている、とのことだ。

我が家の家政婦は、わたしたちキンシャサ市民は、”souffrance”(心身の苦しみ、苦悩)を持っている、という言い方をしていた。すべてはコンゴ政府が決めることだから、と言うのだ。

コンゴ中の人々に、毎日おいしいパンが届く平和な日々が続きますように。

2012年11月24日土曜日

いよいよ 「Iroko」の木について

これまでのわたしのブログの中で、二度ほど「Iroko」の木のことに触れたことがあった。

20年前、中央アフリカ共和国の首都、バンギで、子どもたちの学校の教師ジョスリンさんから、アフリカにはあなたと同じ名前の木があると聞いて以来、ずっと気にかかっていた木だった。

そして数日前、隣人のSドクターが、見つけましたよ、Irokoの木についての情報です、とWikipediaのページを転送してくださった。


http://en.wikipedia.orq/wiki/Iroko


Iirokoの木。
Hirokoの木。わたしの木。
そんな気がする木。
いよいよIrokoの木について書くときが来たように思う・・・。

まず、Irokoの木、ってこんな木、なんだそうだ。


Iroko の木 ~ Wikipediaより


Wikipediaによると・・・

Irokoの木は、大きく堅い木質を持つ。また、熱帯アフリカ西岸からの木だ。
Irokoは、”アフリカンチーク”といわれる木のひとつだが、チーク科とは関係がない。
木の色は、初めのうちは黄色だが、時が経つと濃い茶色になり色が深まってくる。それは、おそらく”Milicia excela”によるものだろう。
学名は、”Chlorophora excela”、”Chlorophora regia”という。
Irokoの木は、発祥地の文化風習の中で、畏れられてもいるようだ。それゆえ、避けられもし、あるいは供物として崇められもする。
ヨルバ族たちは、その木には精霊が宿っていて、その精霊を向かい合って見てしまった者は狂って死ぬのだと信じている。
また、ヨルバ族たちの中には、Irokoの木を切り倒した者は、彼自身や家族が不幸になるという言い伝えもある。
さらに、Irokoの精霊が木の中に宿っているならば、その木で建てられた家の中で精霊の声を聞くであろう、とも言い伝えられている。
ナイジェリアには、ヨルバ族のIrokoと同じような言い伝えを持つ木がほかにもある。

Iroko材は、造船や屋内床板、家具を含めて、いろいろな目的で使われている。
1990年代末から、Txalapartaという木板を組み立てたバスク音楽の楽器のパーツに使われるようになった。生き生きとしたサウンドを作るためだということだ。
また、Iroko材は、伝統的な西アフリカの太鼓ジャンベ(Djambe)の木のひとつでもある。

Iroko材は、とても耐久性のある木材で、室外用として使用する時、油やニスを塗装する必要がない。
チーク材と同じくらい耐久性に優れてはいるが、Irokoとチークはおなじ生態系は持たない。

イギリスでは、機械加工されたIroko材の貿易制限がない。
唯一、報告される有害結果は、Iroko材からの埃によって引き起こされることで知られる、喘息、皮膚炎、じんましんだ。

・・・そんなことが書かれていた。


さらに調べてみると、Irokoの木は、クワ科クロロフォラ属。
チーク材に似ているので、商品名でアフリカンチーク、ナイジェリアチークとも言われているそうだ。
耐久性に非常に優れているから、船の木材としても適材であるし、虫の害にも強いのだそうだ。

精霊が宿る、とかちょっと畏怖の念にも駆られるが、堅い木材だからこそ、バスク音楽の木琴(?)や、アフリカの打楽器にも好んで使われるのであろう。
どこかの項に、Irokoの木は、「キューバの音のリズムをきざむパーカッション、ジャンベが作られる木材である命の木」であるとの表記を見つけた。キューバはアフリカからの移民が多く住む国だ。
また、夏の絵本屋でアイリッシュハープとチェロのコンサートを持った時に、ハーピストが、アフリカの堅い木で作られたハープは本当に良い音色を奏でる、と解説していたことも思い出されることだ。

Wikipediaには、Irokoの木の分布はアフリカ西岸、と記されているが、中央アフリカ共和国でも、ここコンゴ民主共和国でもおなじみの木だ。
Irokoの木の解説として、こんな表記も見つけた。

「Irokoの分布範囲は広く、西アフリカのシエラレオネから東へガーナ、アイボリーコースト、カメルーン、ガボン、ザイールを経て東アフリカのタンザニアにまで、アフリカを横切って分布している。それぞれの国で重要な木材となっている。」


Irokoの木材は、Wikipediaの解説にもあるように、淡黄色から濃いチョコレート色までの幅があり、淡色の細い縞があるのだそうだ。

こんなに濃い茶色もある。
どこかのメーカーから、ipod touch のプロテクターに、”Iroko”の品名表示でこんな色のものがあって、「売り切れ」と書かれてあった。(ちょっと、エッヘン!したりして。)










本当にいろんな色目があるものだ。わたしの大好きな北欧のシンプルな家具デザインが似合いそうだ。







切り倒されてきた、Irokoの丸太だ。見るからに堅そうな木質だ。

Irokoの木もどんどん伐採されて森が消えてゆくのかな。
ヨルバ族の言い伝えはちょっと怖いけど、”恐れ”ではなく、木の精霊への”畏れ”として、乱伐の戒めにしてもらいたい気もする。

2012年11月23日金曜日

11月のくだものと、コンゴ情勢



11月に出回るくだものたち
 
ここ2,3日、コンゴ民主共和国の東部、ゴマ辺りがいつもに増して予断を許さぬ状況になってきていることが報じられている。

ゴマ近辺が反政府軍(M23)の占領下となったというのだ。

ゴマは、ツチ族のジェノサイド(集団殺戮)で知られるルワンダとの国境に位置し、地下資源も豊富、農作物も豊かに取れる風光明媚なところだと言われる。

反政府軍によるゴマ占拠を受けて、国内各地で対政府デモが起きているらしく、キンシャサでもいつ暴動が起きるのか、わたしたち外国人にも緊張感が出ている。
さらに、大量の難民・避難民が発生し、キャンプ地区の衛生状態が懸念されているということだ。

一方、首都キンシャサはどうかというと、一部地域で市民が結集する動きも見られたが、それ以外では通常と変わりなく、平和な空気が漂っている。


今朝も、我が家の家政婦は、いつも通りに出勤してきた。
そして、依頼していたバナナに加え、美味しそうなマンゴ、パパイヤ、アボカドを見つけたからといって、旬のくだものたちを持ってきてくれた。
パパイヤとバナナは年中、手に入るくだものだが、雨季に入り値段が安定し下がってきたようだ。

アボカドは、あともう少し待たなければならないらしい。
12月、1月になるとおいしいアボカドが出回るよ、と彼女は言う。
そうだった、キンシャサで生活を始めたばかりの今年1月は、毎日アボカドを食べていたように思う。
ということで、11月のアボカドはまだ品薄で高めの値段だそうだ。
アボカド1個600CF(60円)なりー。
(でも、今夜食べたアボカドは熟してとても美味しかった。)

バナナは18本で3000CF(三百円)、パパイヤ1個1000CF(百円)、小ぶりマンゴ2個500CF(五十円)なりー!

11月、12月は一年でいちばん雨の多い時季だそうだ。
たっぷりの雨で実が熟し、12月、1月は、アナナ(パイナップルのこと)、アボカド、そして、サフという紫色の卵形のくだものが旬を迎えるらしい。

家政婦に、キンシャサでデモがあったら参加するのか、と問うと、行くもんですか、わたしは母親だし、家でじっとしていますよ、と応える。
キンシャサで暴動が起こると、外国人が国外退去になり、そうなるとかれら国民は、経済がストップし収入が途絶え、苦しい生活を余儀なくされることを20年ほど前の動乱で経験済みだ。
さて、コンゴの人々はどう動くのか。
ゴマ地域を手放すことになるのか、固守するか。

スワヒリ語を話すゴマ地域は、リンガラ語のキンシャサとは言語も違うし、民族も違う。
またキンシャサ~ゴマ間の道路は整備されてないらしく、空路利用で行くしかないと聞く。
それも一旦ウガンダだかルワンダだかに出て、自国に再入国するルートを取るほうが容易だとも聞いたことがある。

コンゴ民主共和国の国土は、統治するには広すぎるのかもしれない。

家政婦は、いたってのんびり、ゴマ地域がよその国に取られたら、ゴマで取れるおいしいジャガイモもにんじんも食べられなくなるなあ、と残念そうにつぶやいた。
かの地に眠る天然資源の採掘収入のことより、農作物のことを憂えるのは、もちろん家族を思う主婦の発想なのだろうなあ。

2012年11月17日土曜日

ゴンベ郵便局の私書箱

私書箱が並ぶコーナー

この前、わたしのfacebook に「我が家の私書箱です。」と記して上の写真を載せたら、娘がびっくりしていた。

えっ!!
私書箱って、こんなぼろぼろなところだったの?

さもありなん・・。
壊れた扉の私書箱、扉の無い私書箱もあるんだもの。

我が家は、ここ、ゴンベ地区の郵便局内に私書箱のひとつ、3118番を借りている。


今年3月19日、ンガリエマ修道院の中村シスターに連れて行ってもらってゴンベ郵便局長さんを紹介してもらった。
そして、私書箱賃貸料6か月分(?5か月分?25000CF),私書箱鍵代(10000CF)、登録料(?3000CF)、合わせて38000CFになります、と言われた。

ここから郵便物は出せないが、私書箱を借りていれば、わたしたちがきちんと該当の私書箱に手紙を入れますよ。
郵便局長さんも局員の(おそらく!)マダム2人も、ドンと請け負ってくれた。

コンゴフラン札でいちばん大きな千フラン札を38枚も持っていないので米ドルで換算してもらって(コンゴフランと米ドルの2重通貨構造も近々終わりになるとも聞く。)、42米ドルを払ったのを思い出す。

その後、9月に賃貸更新に行った。
こんなぼろぼろの私書箱にも、手紙はきちんと(多分。そう信じる。)届いている。


わたしは、週2回、車を使える(繰り返すが、車での移動ではないと、治安上、街中を動けない。)火曜日と木曜日の昼過ぎにいつもゴンベ郵便局私書箱3118号を覗きに来るのが日課だ。
昼過ぎに行くと必ず、入り口ロビーにプラスティックの椅子を持ってきて局員マダムや近所の人たちがのんびりと井戸端会議している光景に出くわす。
のどかな光景だ。
郵便物の受け取りもない、もちろん貯金業務もない。
ただ、航空便で届いた郵便物を仕分けすることと、荷物が届いたら該当私書箱に郵便物到着のお知らせの紙を入れ、その紙を持ってきた人に荷物を渡してウソか本当か知らないけど、税金を受け取る・・・これだけの業務だ。
はたして、ここの郵便局には週に何回の郵便袋が届くのだろう。

わたしが、私書箱に手紙を見つけると、彼らもいっしょになって喜んでくれる。



さて、これが、ゴンベ地区郵便局の正面だ。
先月、キンシャサで開催されたフランコフォン会議に合わせて、ゴンベ郵便局建物も、ペンキが塗り替えられた。
そして、玄関入り口に白い鉄格子がはめ込まれた。
それまで、正面玄関の階段を上がって、私書箱に続く通路はオープンスペースになっていて、郵便業務が終わると、そこに住みついた人々の”ねぐら”になっていたのだった。



ゴンベ地区郵便局の正面

郵便局前の広いスペースも、フランコフォン会議開催日までには間に合わなかったけれど、道路に挟まれるようにして緑地帯公園が完成した。
道路を渡ると、キンシャサ教員大学キャンパスだ。慶応大学の学生たちが教鞭を取る日本語教室を開設する大学だ。
そこの構内には、着々と「日本文化センター」の建物も出来上がってきている。
来年の3月11日には開館式があると、プロジェクトに携わる慶応大学の方たちから聞いている。

さらに、ゴンベ郵便局から斜向かいの敷地には、ボボトセンターなどのイエズス会の施設が広がる。

ちょっと充実した地域になりそうだぞ!

ゴンベ郵便局よ、おまえもがんばれ!

2012年11月12日月曜日

真ん丸綿毛の木

11月のキンシャサは雨季真っ盛り。
降雨量も一年で一番多い月なのだそうだ。

今日、ちょうど昼の12時頃、ブログを書こうとしたら、空が真っ暗になり、風が吹き始めた。
マダム、じきに雨が降り始めるよ、気をつけてー。
部屋中の窓を閉めて回り、ベランダの洗濯物を取り入れた。
ほどなくして横なぐりの土砂降りの大雨となる。
そして、停電。
いくら待っても今日は自家発電機は作動しなかった。
どうやら雨季に入ると停電が多くなるようだ。


さて、下の写真は、11月4日に撮ったゴルフ場でのものだ。
遠くから撮ったのでよく見えないが、コース芝生上に無数のコロンとした綿状のものが点在していた。
芝生上で誰かが布団やクッションの綿の詰め物を取り出したのではないか、と疑りたくなるような有様だ。

説明を追加
なぜ、こんなに綿が点在しているのかとキャディーのおじさんに訊いた。
あそこを観てごらん、あの大木を!
この写真の向きの真反対を振り向き、左側上方を見上げると・・・まあ、かわいい!!
枝にびっしりと、丸い綿毛をつけて、ひときわ高く天にそびえる木が見えた。


丸い綿毛を付けた木
  まるで誰かが綿をくるくるっと丸めて枝に飾ったのではないかと思えるかわいらしさだ。

キャディーのおじさんに木の名前を尋ねるとバオバオの木だ、と言った。
ホントかな??
この綿毛はクッションの詰め物に使われるんだ。
でも気をつけないと鼻に入ると病気になるよ。


詰め物に使われるんだー。
でもよくよく見ると、タンポポの綿毛をもっともっと密集して親分にしたような固まりで、ちょっと細い綿毛なのだ。
中央アフリカで娘が持って帰ってきたことのあるカポックの実を思い出す。
その実の中の綿毛は繊維も長くしっかり太くてしっとりしていた。
カポックの茶色い硬い殻を割ると、パフっと音を立てるかのごとく、中でぎっしり詰まって寝ていた綿毛の繊維が目覚めたようにふっくりと出てきた。


我が家の家政婦に訊くと、ああこれは知っている木だけどバオバオではないよ。
名前は何だったかねえ・・・。
この木の幹を下までたどって行くと、バオバブの木の幹に形は似ているが、あんなにどっかりと太くはない。

芝生にコロコロ転がっている丸い綿毛は、あの枝から落ちてきたんだ。


9月中旬から10月初めにかけてゴルフ場の大木の紫のマメ科の花が満開になり、ゴルフ場が華やいだ。ちょうどその大木の下の砂地のバンカーのくぼみに、藤の花そっくりの紫の花が落ちて埋まり、遠くから見ると、きれいな紫の花の池のようだった。
今では、紫の花たちは見る影も無く、見上げると枝に豆の入った緑の莢(さや)がぎっしりと垂れ下がっている。この木こそ、ウエンゲの木。
とうとう発見したウエンゲの木!
黒っぽく、硬くてしっかりした木質で家具や楽器に使われる木だ。
ウエンゲもアカシアの木もマメ科だし、ゴルフ場にはマメ科の木が多いように思う。

キンシャサのゴルフ場には何本の木が植わっているのだろう。
18ホールある中で、1ホール当たり少なく見積もって50本の木があるとしても900本だ。
ゴルフ場の周りも木で囲まれているし、千本は下らないだろう。

余談だが、わたしの名前は、「Hiroko」。
フランス語では、”H”が発音されないから、「イロコ」となる。
それと同音の、”Iroko”の木が、中部アフリカ一帯に自生していると聞いた。
とても堅くて良い木なのだそうだ。
ことあるごとに、「Iroko」の木を尋ねてみるのだが、まだ出会ったことはない。
いつかの出会いをわくわくする思いで待っている。

2012年11月8日木曜日

キンシャサ 米事情

日本に帰って、まず幸せだなあと感じたのは、ふっくら美味しく炊き上がったご飯を食べる時だった。日本のお米ってほんとに美味しいなあ、としみじみ思った。

そして、よく訊かれたことは、キンシャサで暮らして普段はどんな食事をしているの?、ということだった。
食事作りも、食器片付けも、台所仕事はわたしがしているのだから、食事も日本にいたときとほぼ同じものを作って食べている。

ということで、今回はキンシャサで手に入る”米”について書いてみたい。


我が家でつい最近まで食べていた米は、キンシャサ市内のアラブ人経営のスーパー、”シティーマーケット”で購入する、エジプト米(900g入り袋 約300円)だった。
キンシャサで購入したおもちゃみたいな電気炊飯器にBikai米を仕込み、目盛りより多めの水加減で炊いて、まあどうにかおむすびが握れるくらい。ちょっと臭うけれど、値段のことも考慮して日本の米に一番近いかな、と思ったのが夫の選んだ理由だったらしい。


エジプト米 ”Bikai” 900g入り袋
 以前から、IWC(国際女性クラブ)のメンバーの間で、カリフォルニア米を現地市場で25㎏45米ドル(約4200円)ほどで入手できる、とか、現在カリフォルニア米在庫がなくなって、輸入米がマタディー(コンゴ河河口の港)まで来ている、といった情報を小耳に挟むことがあった。

そして、この9月末。
我が家の家政婦が、今、ジギダ市場(現地市場)でおいしい日本米(と彼女は言った・・)が入荷している、と教えてくれた。
彼女はバコンゴ(コンゴ南部地方)出身で農耕民族の地域らしく、主食はマニョックやとうもろこしではなくて米なのだそうだ。しかも、丸い米を好むのだそうだ。
わたしも月末に給金をもらったら早速日本米を買いに行かなくちゃ!、と主婦の顔になって言った。

その情報を夫に知らせると、夫は早速、事務所からの帰りにジギダ市場に寄って、米袋に入った25㎏30米ドルだか40米ドルだかの日本米?(カリフォルニア米かも?)を抱えて帰ってきた。1kg当たり120円~150円くらいか。
ただ、その米袋には、産地名も何も記されてはいなかった。
夫がジギダ市場に着いて、日本米があるかと訊くと、ある店に案内され、パキスタンからの米だと持ってきたそうだ。
早速炊いてみて、確かに美味しいのだが、古さも感じた。
(20年近く前、中央アフリカ共和国の首都バンギで、日本の援助米がどうしたことか店で売られていて、期せずして美味しい日本の米にありついたことを思い出す。)


ジギダ市場辺り(向かって右側が案内役のサントーカ兄さん)


先月、日本帰国前に、韓国人の友人宅に昼食に招かれた。
そのときのご飯がとても美味しくて、早速わたしたちの話題になった。
彼女は、キタンボ・マガザン(キンシャサ西部にある現地市場。ジギダ市場はキンシャサ中央部。)
の店で購入したと言い、見せてくれた米袋にははっきりと”カリフォルニア米”と表示があった。


キンシャサの我が家を3週間留守にするにあたり、保存のために現地購入の小麦粉は冷蔵庫に入れた。
でも、25㎏の米を入れるスペースはなく、やむなく米を3つのプラスティック容器にすべて移し、その中に炭をいくつか入れて棚に収納した。

そして3週間後戻ってみると、黒い細長い小さな虫が無数に米の中を動き回っているのを発見!

やっぱり虫が湧いたか・・・。

夫はそうつぶやくと、その日夕方には、米貯蔵用として小さな冷蔵庫を買ってきていた。
スーパーマーケットへエジプト米を買いに行った時、時々米のビニル袋が濡れていることがあったが、それは米を冷蔵保存していたんだなあ、と言いながら夫は自己納得している風だった。

ということで、只今、我が家のご飯は、ジギダ市場で買った日本米(?カリフォルニア米かも?)だ。

ちなみに、スーパーマーケット(キンシャサ)で、”すし米”と表示された1kg入り千円ほどの高価な米も入手可能ではある。(あ!只今、品切れ中だとか!)

2012年11月7日水曜日

キンシャサ・フランコフォン・サミット

先月、10月12日(金)から14日(日)の3日間、キンシャサで第14回フランコフォン・サミット(フランス語圏会議)が、中部アフリカ地域で初めて開催された。(アフリカ大陸の国として、せネガル、ベナン、ブルキナファソに次いで4カ国目。)

わたしたち夫婦は、その前日の夜の便でキンシャサを出国したので、開催当日のキンシャサの街の様子は分からない。会議開催前のキンシャサの街や人々の様子を振り返りつつ、書いてみたいと思う。


10月にキンシャサでフランコフォンサミットが開催される、ということはわたしたちが今年1月に来たときから話題になっていたと思う。
街にはビル工事があちこちで始まっていて、外資系ホテルチェーンがホテルを開業するだの、大型ショッピングモールができるだのという噂があちこちで聞かれた。

そして、乾季の終わり8月後半ころだったろうか、揃いの作業着を着て仰々しいマスクを装着した作業員が街の道路清掃を始めた。

それから、キンシャサのいちばん大きな道路、6月30日通りの街灯に、コンゴ民国の国旗とフランコフォニーの会旗が対になって翻った。


6月30日通り沿道に掲げられた1対の旗(信号機直下に見える)
次に、 6月30日通りの花壇がきれいになり、花壇囲み石が紅白に塗られ、緑色のゴミ箱が街のいたるところに設置されたときには、夫婦で拍手喝采した。
(ゴミ箱を設置したはいいけど、果たしてごみ収集車なんてあるのかねえ・・と憂えていたら、ちゃんとバイクでゴミ回収に回っているのだそうだ。夫の目撃談・・。)


街角に設置されたゴミ箱
ちなみに、上の写真中のトタン板で囲われていたところには、”ドロボウ市場”という愛称で賑わう屋台が軒を連ねるお土産横丁があった。サミット開催の2,3週間前に突然、全区画が撤去された。
主要道路沿道の非近代的でみすぼらしい(?多分)屋台や小屋は撤去されたようだった。


”mbote ” (リンガラ語で”こんにちは”の意)と書かれた仏語会議を歓迎する看板
 6月30日通りのソシマット交差点の2箇所に上の写真のような ” mbote  ” (リンガラ語でこんにちは、の意。)、” Souriez  ” (フランス語で笑ってください、の意。)と、サミットでキンシャサを訪れる人々を歓迎するメッセージが掲げられた看板が立ち、歓迎ムードが街中に漂うように感じられた。

また、6月30日通り沿いの銀行ビル正面の全面を、カラフルなプリント写真で被ってサミット開催を祝う銀行もあった。


6月30日通りに面する銀行の建物一面にサミット歓迎の垂れ幕が飾られる


更に、外国人客で賑わうパン屋やカフェ、スーパーマーケットなどには、無料のカラーの新聞、”Courrier francophone”が置かれて自由に取って読むことができた。

2012年10月11日の日付の第3回 ”Courrier  francophone ”
この、”フランコフォニー便り”の無料新聞がどのくらいの頻度でどのくらいの部数を発行したのかは分からないが、わたしが会議開催前日までに手に取ったのは3回だった。

”Editorial”(社説)最後に発行者代表名が記され、コンタクトのためのパソコンアドレスも明記されている。そして、第14回仏語圏会議のオフィシャルスポークスマンではない、とも添えられている。
オールカラーで12面に渡って、仏語圏会議のこと、キンシャサの食文化、現在のトピックス、博物館などの見どころ紹介など内容満載だ。
使用する紙質は上質のものだ。
どんな団体がスポンサーなのだろう。

新聞紙面右下に見える、5色の丸いマークがフランコフォニーのシンボル旗で、その中に、コンゴ民国の珍獣、オカピが覗いている。

また、イエズス会が運営する、” CENTRE  CULTUREL  BOBOTO ”(ボボト文化センター)内にある手工芸の売店、骨董品店は、カラー版パンフレットを作成し、営業時間延長のお知らせの紙~”フランコフォンサミット期間中前後の10月8日~20日の間、9:30~20:30まで営業。木彫り、陶芸、彫金、絵画、骨董などのコンゴ民国の土産品があります。”~といった内容のチラシがホッチキスで留められていた。
ドロボウ市場の屋台が撤去されたのだから、期間中、陳列品も充実して多くの客を迎えたことだろう。


前回2010年のスイス・モントルーで開催された会議にはオブザーバーを含め75カ国が参加したそうだ。
今回のキンシャサ会議には実際どれだけの国が参加したのかは分からないが、フランスのオランド大統領はじめ10数カ国の国家元首がキンシャサ入りしたそうだ。
開催前から、会議参加者の受け入れホテルの容量不足が言われ続けていた。ホテルの建設や改築に着手したものの、結局新規オープンした規模の大きいホテルは一つだけだった。


闇夜に七色に輝くリバーサイドホテル

七変化のリバーサイドホテルのイルミネーション

ンガリエマ教会から目と鼻の先。
コンゴ川そばに立つモブツ政権時代の既存の建物を、中国が突貫工事で改築した高級ホテルだと聞くリバーサイドホテル。レストランフロアもあるのだそうだ。
停電が頻繁にあるキンシャサの夜にレーザービームみたいなのがサーっと光り、キンシャサの闇夜に燦然と(!!)輝く。
この国の電気事情にあるまじき行為だと憤慨し、センスの無さに頭を抱えてギョッ!!っとしていたのはわたしだけだったのか??

そんなあちらこちらで体裁を繕うキンシャサの街を後にし、サミット開催の前夜にキンシャサのンジリ空港から出国したわたしたち夫婦が見たものは、ボノボ、マウンテンゴリラやオカピといった絶滅危惧種のいるコンゴ民主共和国のPRと動物保護を求める大きなカラーの垂れ幕と、そして、夜8時を過ぎているのに出国手続きの空間と待合室の天井を張り替え、蛍光灯照明を取り付ける作業員で溢れ返る空港ロビー風景なのだった。


キンシャサ・フランコフォン・サミットが終わって3週間ちょっと。
6月30日通り沿道に取り付けられたコンゴ民国とフランコフォン・サミットの旗たちは、見るも無残な姿を晒して放置されたままだ。
歓迎の看板もそのまま。
雨季のキンシャサでどんどん惨めな光景になってゆくのか。がっかりだ。

会期中の3日間は直前になって国民の休日となった。
キンシャサ市内で混乱も紛争も無く平穏の内に会期を終え、フランスのオランド大統領を(日帰りだったが)迎えて演説する場面がフランス国内のニュースで幾度となく放送され、世界中に、というとオーバーだが、コンゴ民主共和国をアピールできたことはよかったと思う。

さあ、これからこの国はどの方向に進んでいくのか。
アムネスティ団体が、サミット主催国のこの国で続く悲惨な紛争を指摘し、「コンゴ政府は、国内・東部の暴力を阻止するための緊急措置を実施し、人権侵害を行うすべての人間に対し責任を問わなければならない」とコメントしている。

キンシャサに暮らしていて、東部の紛争・危機状況が全く伝わってこないことが不思議だ。
ビルがあちこちに建ち、着飾った人々が行き交うコンゴ民国の首都キンシャサ。
それでも、貧民の数は底知れず。政府がしっかり機能しているとは言い難い。

天然鉱物が埋蔵し、豊かな森林資源を有し、世界の大国がこの国に近づいてきている。

コンゴ民国の人たちには国の真の発展のために「今」こそ正念場だ、と肝に銘じてほしい!