2012年7月29日日曜日

ガソリンスタンドの思い出

キンシャサ市内のガソリンスタンド

キンシャサ市内で見かけるガソリンスタンドは、モダンで日本のガソリンスタンドと見かけはそんなに変わらない。
上の写真は、”ENGEN”という、市内で数多くの店舗を持つ会社のガソリンスタンドだ。

わたしは、ガソリンスタンドを見るたびに思い出す光景と、悲しい話がある。


1992年から1995年まで家族で住んでいた中央アフリカ共和国の首都BANGUI-バンギ-の当時のガソリンスタンドは粗末なものだった。
そんな設備も不十分で数も少ないガソリンスタンドのどこもかしこにも、夕方になると子供たちが小さなポリ容器を手に持って、あるいは頭に載せて、石油を買いに集まってきて行列を作っていた。

当時のバンギの現地の人たちの家には電気が来ているところのほうが珍しく、石油コンロで調理し、石油ランプの照明が一般的だったようだ。
それで、子どもたちは、お母さんの手伝いでガソリンスタンドに石油を買いに来ていたのだ。
石油は高価だから少しずつしか買えないから、子どもたちに打ってつけの手伝いだったのだろう。
小さい子は、ホントに小さなポリ容器を抱えて。大きな子でも、3,4リットルくらいの容器を頭に載せて、楽しげにおしゃべりしながら、でも行儀よく列を作って順番を待っていた。
夕暮れ前の、見るもかわいく微笑ましい光景だった。


当時のバンギで、わたしたちと同じアパートに、エイズの母子感染予防のNGO活動を始めて間もない、徳永瑞子さんという助産師であり公衆衛生のドクターの日本人女性が住んでいた。
ある日、彼女が保健センターからの帰宅途中の車の中で聞いたという現地のラジオニュースをとても悲しそうな顔をして話して聞かせてくれた。


カメルーンでのこと。確か、1993年か94年だったと思う。
カメルーンのどこかの大きな街で、石油タンクローリー車が横転し、積載されていた石油が道路に流出し、石油の海になったのだそうだ。
それを聞きつけた近所の子どもたちが手に手にこぼれた石油を入れる容器を持って集まってきて、皆が必死で石油をかき集めては持参した容器に入れていたそうだ。

石油をなるべくたくさん集めて家に持って帰ったら、お母さんが喜ぶだろうなあ、と思っただろう。あるいは、集めた石油を売ったら好きなものが買えるぞ、と思った子もいたかもしれない。
無我夢中で、洋服や素足や手や顔に石油が付くのも気に留めずにかき集めていたことだろう。

そこへ、通りかかりの煙草を吸っていた男性が、何の気なく、ポイっと煙草を捨てた、という瞬間、辺り一帯、見る間に炎が上がり、火の海と化し、子どもたちの泣き声、悲鳴が響き渡ったという。

その事故でずいぶん多くの子どもたちが犠牲になったのだそうだ。
徳永さんは、顔をしかめて悲しそうに話していた。
貧しいがゆえに起きた事故だとも思う。


現在のキンシャサのガソリンスタンドには、石油を求めて並ぶ子どもたちの姿は皆無だ。プロパンガスのボンベも見かけない。
キンシャサの一般家庭の調理コンロや照明は石油ではないのかなあ。
わたしたちの住むアパートは、おかしいくらいにオール電化(???)だけど。(バンギでは、調理コンロはプロパンガスだった。)



キンシャサのガソリンスタンドの前を通るたびに思い出す、子どもたちが並ぶ夕方のバンギでの光景と、カメルーンでの悲しい事故の話だ。

2 件のコメント:

  1. 久しぶりに思い出した…その悲しい話。
    本当に悲しくて、想像するだけで涙が出るね。
    私のアフリカのイメージは、バンギで見た光景。
    でも、古き良き時代の光景になりつつ光景もあるんだろうな。
    技術が進歩する一方で、以前と変わらず貧しい生活を送っている人々もいるのだろうな。
    どんな環境にいても、心豊かな生活を送れたらいいよね。
    中アでの小さな村々での光景は、みんなが心豊かに生活しているように見えたし、そういう印象を持っているよ。
    コンゴでは未だ紛争で子供までもが武装させられているとか…
    そんな子供達がいるなんて、とってももどかしくて心が痛みます。

    返信削除
  2. ほんとね。小さな村を通るたび、泥んこで粗末な服をまとった子どもたちの笑顔は幸せそうだったよね。
    かれらの世界は自分の住む村であり、地面の下にも電車が通ったり、何百メートルものタワーがそびえる国が同じ地球上に存在するなんて、これっぽっちも思っていない。かれらの世界で十分幸せに暮らしていた。
    中アの村々で見た光景は幸せなのどかだったよね。

    そして、夜になると街灯の下に座って熱心に本を読む男子学生たちの姿が、我が家のアパートから見えました。そんな光景に、中アの未来がほの明るく見えたものです。

    返信削除