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ポワルー道路沿いに並ぶ飲み物&スナック屋とテント床屋 |
キンシャサで、とても流暢に日本語を話す女性と知り合った。
ションタルさん、40代半ば、コンゴ人のご主人との間に11歳と13歳の息子さんがあり、仕事を持って働く女性だ。
日本語を話す機会がなかったから日本語を話せて嬉しい、日本人女性は少ないからようこそキンシャサに来てくれましたと、この出会いを喜んでくれた。
彼女は日本語をどんどん忘れてゆくと嘆いていたが、訛りのない日本語を話す。
そして英語も(もちろんフランス語も)とても上手だ。
彼女が14歳の時、父親の在京コンゴ大使館勤務に伴い、家族12人で来日。滞在中もうひとり兄弟が増え、11人兄弟姉妹の4番目の彼女は、飯田橋のリセ・フランコ・ジャポネまで地下鉄と山手線を乗り継いで4年間通ったのだそうだ。
わたしの子どもたちも飯田橋まで通学していて、息子はあなたのリセの隣の学校に通っていたのよ、と言うと、彼女はびっくりして、小学校の生徒が半ズボンを履いてとてもかわいかったことなど、懐かしそうに話した。
2004年に再来日して住んでいた広尾界隈を歩いたが、町の様子が一変していた、とびっくりしていた。リセ・フランコ・ジャポネも移転して、もう飯田橋にはないことも彼女は知っていた。
彼女は、カフェオレ色の肌をして、鼻筋の通ったとても端正な顔立ちをしている。両親のどちらかが外国人なのかなと思ったが、両親どちらもコンゴ東部、ルワンダとの国境にある南キブ州ブカブ BUKAVU出身だと聞き、合点がいった。
キブ州の人たちもルワンダのツチ族やエティオピア民族のように、いわゆるアフリカ人らしくない顔立ちで、肌の色もそんなに黒くないという特徴を持っているのかもしれない。
コンゴ・南キブ州とルワンダはキブ湖を挟んで対峙している。(キブ湖南端より更に南にブカブBUKAVUがあり、そこから約百キロ北のキブ湖北端に北キブ州・ゴマGOMAがある。)
ルワンダの2部族・・フツ族とツチ族・・は独立時から激しい抗争が存在し、多くのルワンダ人(大多数ツチ族)が国境を越えてキブ州高原地帯に定着している、と”モブツ・セセ・セコ物語”で知った。現在も紛争の絶えない地域だ。
ションタルさんは、両親の出身地はとても気候がよく、太陽も強くないからわたしたちブカブの人たちは肌の色がそんなに黒くないのよ、と言っていた。
その彼女が、水曜日は仕事が休みだからキンシャサを案内しましょう、とタクシーに乗って我が家まで来てくれた。きれいなタクシーじゃなくてごめんなさい、と言って。
彼女が交渉して連れてきたタクシーに乗って、半日のキンシャサ周遊に出たのは午後2時だった。
布地が見たいというわたしの希望で、まずコンゴ河のキンシャサ←→ブラザビル間フェリー港近くにある布地横丁に連れて行ってくれた。
何十メートルも続く細い通路の両サイドに極小サイズの店がずらーっと並び、其々のコンパクトな店内の壁にぎっしりと上から下までアフリカの布地が1反6ヤード単位で掛けられている。店主は全員(!!)女性だ。どの女性も、時間を持て余している様子で好き勝手なことをしながら店番をしている。
マダーム、マダーム、高品質の布地があるよー、見て行ってよー、とあちこちから声が掛かる。
以前、夫と一度だけ訪れたことがある横丁だった。
その時は、気に入った布地が見つからず、今回もあまり期待していなかったのだが、ションタルさんが、ていねいに探せば良い布地があるわよ、と数軒の店に入って布地を引っ張り出して広げて見せてくれる。
なるほど。広げるとイメージし易くなる。
おもしろくてお洒落な布地がいくつか目についた。
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布地横丁(絵はがきより) |
普段は外国人は治安の面でなかなか行けない場所だから、この時とばかり4反の布地を買った。
街なかの高級店”BLISCO” だったら1反80米ドルから130米ドル、隣の”Woodin”(コードディボアール製)でも1反45米ドルはする布地が(もちろん品質の違いはあるが)、ここではションタルさんが値切ってくれて、1反15米ドルで買えた。VLISCO表示の布地を発見したが、ションタルさんは、これは偽物でしょうねと言っていた。
それから、たまに訪れる現地野菜市場、ジギダ・マーケットの横を走り、中国人が多く住んでいるという地域を通り、空港方面まで行って途中で引き返し、現地の人しか行かない地域”シテ”を走った。
たくさんの店が粗末ではあるが、こぢんまりと何かの決まりがあるかのように秩序正しく(?)並んでいる。外壁に直に描かれたペンキの文字や装飾がカラフルでポップな感じだ。
彼女はこの地域で買物をするのだと言う。
イギリス育ちの子どもたちは汚いと言って、決してついて来ないのだそうだ。
ここは歩かないで見るだけにしましょう、と彼女は言った。
わたしは、見ただけだけど、シテ、っておもしろそうねと言うと、彼女は手のひらを広げて、あなたが見たシテ地域はこの手のひらのほんの片隅だけよ、と言って1センチ四方を指で作って見せた。
コンゴの骨董のお面 le masque を見たいと希望したら、彼女はわたしをどこに連れて行くだろう、と興味津々で申し出たら、結局タクシーはドロボウ市場”Marches des Voleurs(Valeurs)”に着いてしまった。
以前は、中央駅近くの一角に土産物屋が軒を連ねていたそうだが、一掃されてしまったそうだ。
もうキンシャサには良い骨董品はない、良いものはナイロビに持っていかれる、と彼女は言った。
わたしはドロボウ市場には何度か来ている。野外の土産物”見せ棚”が集まっている一区画だ。
今回も何も発掘品はなかった。
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俗称・ドロボウ市場<Marches des Voleurs>
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彼女が昼食を食べていないことを知ったのはもう午後4時を回っていた。
埃っぽい乾季の町なかを走って喉も渇いたし、カフェに入ることに。
コンゴ人しか行かないところに行きましょうと案内してくれたのが、6月30日通りの文具屋”POP SHOP”を入ってすぐ、南アフリカ大使館の前にある店だった。
コンゴ料理をバイキングで食べられる野外レストランだった。コンゴ人しかいないが、こざっぱりした店でバイキング料理がおいしそうだった。
目で食べたくなったが、しっかり昼食を取ってきたわたしは、トニック飲料水だけを注文した。
日本食を恋しがる彼女は、シティーマーケットというスーパーマーケットでキッコーマンしょうゆ、S&Bわさびに寿司海苔が買えることを知らなかった。
彼女は、シティーーマーケットも自宅近くのショップライトも、レバノンや南アなど外国資本のスーパーマーケットは高いから利用しないのだと言った。
出発前に我が家で少し待ってもらう間、家政婦とションタルさんはリンガラ語で話していた。
翌日、家政婦は、前日訪れた女性の夫は外国の人なのかと訊いてきた。
彼女のフランス語、英語がとても上手だったからね、と言っていたが、きっと彼女の身のこなしにコンゴ女性にはない雰囲気を感じたのだろう。
そして、彼女はブカブ出身だと話すと、だからリンガラ語の発音が少し違っていたのね、キブ州はスワヒリ語ですから、と納得するように言った。
彼女は外交官の娘として数カ国に暮らし、コンゴ人男性と結婚してイギリスの暮らしも経験し、今、キンシャサに根を下ろそうとしている。
両親もすでに亡くなっている。
何だか、彼女は今、一生懸命に自分の国で、自分の居場所を探している、そんな落ち着かなさを感じてしまった。
コンゴで女性が働くのは大変難しい、と彼女は言う。確かにそうだろう。
男性ですら、コネがなければ仕事にありつけないのが現状だと聞く。
でも、しっかり者とも感じる彼女は、いくつかの”山”を超えてキンシャサに根を張っていくのだろう。
「自分の国ではない先進国」の生活を知ってしまった人が、「発展途上の自分の国」に帰って暮らすこと~身の置き所というのか、価値観の転換、経済的な面などなど~をどのように適応させ処理してゆくのだろう。
そんな困難さを、彼女と別れた後深く考えさせられた一日の終わりだった。