2012年9月30日日曜日

ジェネレーター到来!


アパート庭に設置された自家発電機(奥の屋根付き車庫にかすかにみえるオレンジ色の機械)

キンシャサ市内ゴンベ地区にある我がアパートにはジェネレーター(自家発電機)が付いていなかった。

停電が頻繁にあるキンシャサでアパートを決める際の必須チェックポイントの一つが、”ジェネレーターが設置されていること”だと聞く。
わたしたちが今年1月にキンシャサに到着して、賃貸料との兼ね合いでやっとの思いで見つけたのが現在住んでいるアパートだった。


門扉から見上げたアパート

ところがこのアパートにはジェネレーターが設置されていないことが判明!!

わたしは、ジェネレーターが付いていないアパートは論外だ、と突っぱねたら、我が家の忍者ハッタリくん(=夫)は、このアパートの12室のうち3室は日本人が住んでいるんだぞ!オマケに最上階にはオーナーであり、モブツ元大統領の妾だった(!)ママンドューズィーも住んでいるんだ!近くには大統領府もあるし、きっとこの辺り一帯はジェネレーターが不要なくらい停電のない地域なんだよ!!

さすがのハッタリ!
そしてそんな口車を安易に信じたわたしも大バカだった。

停電したらポンプが動かないから、断水にもなった。
電気が再び来ても、何故だか我が家だけ断水のままだった。
頻繁な停電と頻繁な断水。
6月には1週間近く毎日停電と断水が続いたこともあった。
来客予定のある日に停電と断水が起きようものならパニックになった。
料理ができずに、夫の会社の宿舎まで車に炊飯器と鍋と材料一式を持って、出張料理をし、とんぼ返りをしてテーブルの準備をしたこともあった。
夜になっても停電のままで、エアコンも使えず、ろうそくの灯りでゲストを迎えた夜もあった。
シャワーが使えない、洗濯機を使用できない、アイロンもかけられない、食器を洗えない・・・。
浴室と台所に置いているポリ容器の貯め水がなくなり、断水のない1階まで水を汲みに往復したこともあった。
我が家の水道ポンプの電圧だけ容量が小さくてスイッチが切れるのだということを知ったのは、ずいぶん後になってからだった。

こんな生活はイヤだー!!
思い余って、引っ越すことを考えた。探し回って引越し先も決めた。
3ヶ月前にオーナーに引越すことを伝えたら、わたしたちはここに1年住んでいないから、引っ越すなら権利金3か月分は返金できない、と言われた。

知人に相談して弁護士に入ってもらって、「8月じゅうにジェネレーターを設置するのであれば引越しは中止する。だが、もし8月じゅうにジェネレーターが付かない場合は引越しを断行し、権利金も返金してもらう。」という文書を提出し、オーナー側も受領した。

それが7月初めだった。

執事(?)のおじさんも門番も、明日ジェネレーターが来る、来週来る、オーナーが明後日南アからジェネレーターを買って帰国する・・・・、どれだけの出まかせを聞かされたことだろう。

8月が終わろうとしても平気で明日到着する、明後日こそ、と言い続け、9月に突入した。
夫に執事のおじさんと話し合うように突付いても、夫はそ知らぬふりを続けた。
オレはジェネレーターなんぞ付くはずがない、と最初から本気にしてなかったぞ、とまで言った。
悔しかった。ああ、わたしにフランス語力があったら!
ただ、わたしたちが引っ越すことを通知した途端に、あれだけ頻繁に我が家だけ断水していたのが、なくなった。これは不思議なことだった。

もうジェネレーターは付かないのだ、とあきらめていた。来年1月まで我慢して、それから引っ越そう、そう思った。

そして9月18日。
隣室の日本人の方が仕事場から電話でジェネレーターがアパート庭に到着したことを知らせてくれたのだった。でも、相当古い中古機械だという情報も付け加えられていた。
それからアパートの各室に、9月19日にジェネレーターの取り付け工事をするので数時間停電となるという通知書が届いた。工事中、部屋中のコンセントを抜くように、とか台所の電熱調理器具のスイッチを入れるように、という指示が逐一飛んできたりして、午後には無事ジェネレーターが設置されたのだった。

さて、それから。
23日の日曜日にさっそく早朝からの停電。
しかし、この日にはジェネレーターはまだ作動しないという知らせが届いた。
当日、夫は朝からゴルフコンペに参加。わたしはカフェで過ごした後、午後からゴルフ場で夫と合流し日が暮れるまで外出していた。

後からここに住む日本の方から聞いた話。
昼前にジェネレーターが作動し、めでたく各室に電気が通ったのだそうだ。
そのとき、オーナー家族が各室をノックし、ジェネレーターが動いたぞー!!と満面の笑顔で伝えて回り、お祭り騒ぎだったと聞いた。

そんなこととはツユ知らず、わたしたちが帰宅したのは夜の7時前だったから、我が家にもジェネレーターが作動して昼前に電気が来たのかどうかは分からない。
ただ、冷凍室の霜の付着具合から判断して、停電が昼前で終わったとは到底思えない状態だった。

我が家にもジェネレーターの電気が来るのか、次回の停電までわからない。でも、確かに庭の駐車場スペースにオレンジ色のジェネレーターがある。

2012年9月27日木曜日

花屋のこと

ナイロビから来たバラの花

キンシャサに、花屋がある。

と書くと、当たり前でしょー!、と思われるかも知れないが、30年近く前のカトマンズにも、20年近く前の中央アフリカのバンギにも花屋がなかったから、キンシャサに花屋があると聞いたときは、飛び上がらんばかりに喜んだ。

中央アフリカ、バンギでは町じゅう探しても可憐な”草花”というものを目にすることがなく、存在するのはがっしり頑丈な”樹木の花”だけだった。ジャカランダの紫色の花、アカシアの黄色い花、燃えるような火炎樹の赤い花。
そんな力強い熱帯の花を思い出す。
いろいろな樹木の花の名前を覚えたくて、バンギの人々に「この花は何と言う名前なの?」と尋ねると、平然と彼らは、「fleure jaune!!(黄色い花)」,「あ、それは、fleure rouge!(赤い花)」・・・。
誇らしげに言うかれらに、がっくりきていたのを懐かしく思い出す。

キンシャサに来た当初、スーパーマーケットの前の屋台で熱帯の花をブーケにして売っているのを見て、やっぱりキンシャサでも、熱帯の花しかないんだなと思った。
そしてわたしは、20年前のナイロビにはバラの花でいっぱいの花屋を見かけたことを思い出していた。

そうしたら、知人から ”ZIMBALI  FLOWERS” という花屋が ”le Cercle Francais”の近くにあると教えられた。


ZIMBALI  FLOWERS 店内
ポルトガル人の経営だと聞く。
毎週木曜日、金曜日の午後にキンシャサのンジリ空港にナイロビ、南アフリカから到着する、と聞いた。ピンクや赤や黄色のバラ、白百合、カーネーション、菊などの花が空輸されるのだ。
この国は土葬で構えが立派な墓が多いが、その長方形の墓の上に平たい形をした大きな楕円風の花輪を置く。そんな大きな花輪の注文が入ると空輸されてきた花たちは、たちまち姿を消してしまうのだそうだ。
萎れて売れ残っているように見えるバラの花でも、決して安くしてくれない。
バラの花の定価、一本4ドル也!
冒頭の写真のバラは、空輸されてきたばかりというのを8日前に買ってきたバラだ。
3,4日で花の直下の茎がだらりと下がってきたので、そこを切ってガラス容器に浮かべた。毎朝水を替えて茎先を少しずつ切っていとおしんでいる。

それからもう一箇所、スーパーマーケット”SHOPRITE”の駐車場内にある、”Fleuranie”という花屋もあることを知った。
アニーさんというベルギー人が経営する花屋らしく、キンシャサ中心街に本店があるということだ。
毎週火曜日、金曜日の朝、ベルギー、南アから花が空輸され、午後には店先に並ぶと聞いた。
やはり、バラ、カーネーションが中心だ。

ナイロビでバラの栽培、とは意外かもしれないが、今ではナイロビはバラの産地となり、バラのプリザーブドフラワーの技術はすばらしいのだそうだ。

どちらのお店にも、蘭などの鉢植えや植木、そして花瓶、鉢なども置かれている。
キンシャサには、グランドホテルの近くなどの路上で、熱帯植物の植木や苗木も売られている。
わたしたちが住むアパートの庭も定期的にそれらの植木、苗木が運ばれてきて、庭の手入れには怠りがない。

部屋に生花が一輪でもあると、空気が生き生きとしてくるのを感じる。
毎日の生活の中で、花に目が向くようになったのは、ちょっとした楽しみを味わう余裕みたいなものが出てきたのかな。

一昨日、我が家にある唯一の一輪挿しのオレンジのガラスの花瓶の横に、見かけない白色と擦りガラスの、縁がフリルになったかわいらしい花瓶が置かれているのに気づいた。
もしかしたら、夫が買って来た花瓶なのかな・・なかなか気が利いてよろしいこと!!、と思っていたら、夕方になって忽然とその花瓶が消えた。
どこを探してもない!
夫に、その花瓶をことを訊いてみた。

へ~そんな花瓶、買ったこともないし見たこともないよ。

わたしの頭がとうとう変になったか・・・みたいな哀れみの目を向ける夫。
おかしいなあ・・・確かにここにあったのに。

夜、晩酌をしていて、「ふ・」とリビングの照明に目が行った。
あ・・・。

なんと、わたしが可憐なフリルの花瓶だ、と思っていたモノは、壁に取り付けられていた照明のガラスカバーで、夫が電球を換えるのに棚の上にポン!と置いた照明カバーが花瓶に見えた、というだけのことだった。ガッカリ。

2012年9月18日火曜日

キンシャサ布地屋 再考

Ave.Cmmerce の布地屋 ”LUTEX” 店内


"LUTEX"店内の帳場台
以前のブログでも紹介したキンシャサの布地屋数軒にここのところよく出かける。
キンシャサでは、アフリカの布地で作られた、パーニュと呼ばれる”ブラウス+腰巻+ロング巻きスカート”といった格好をした若い女性をほとんど見かけない。
それでもやっぱり、1反6ヤード(5m40cm)で売られる大胆な色合いと柄のアフリカ布地の店は女性客でどこも賑わっている。

最初の2枚の写真は、わたしがキンシャサの女性が一番よく利用しているのではないかと思っている、Commerce通りにある、”LUTEX”という布地屋だ。
店内入って右側に15米ドルから20米ドルほどのアフリカらしい布地が天井から吊り下げられているのは圧巻だ。
店内の中ほどから左側には、品質のあまり良くない低価格のもの、イエス様やマリア様がプリントされた宗教色の強い布地が所狭しと並んでいる。

上の2枚目の写真はLUTEX店内の帳場台だ。店内左奥にある木製帳場台でお金を払ってレシートをもらい、出口まで続く木製カウンターでそのレシートを提示すると、店員によって届けられていた購入布地をビニル袋に入れて渡してくれる。
店員は皆、横縞のラコステ(?)シャツを着ていて親切に応対してくれる。
良品質だと思う布地は1反約15米ドル、約20米ドルだ。それらは洗濯して色落ちしたことはない。

次に、ブラザビルへの船が出る船着場近くの、Beach と呼ばれる界隈にある布地横丁も品揃えが充実している。

Beachといわれるところにある布地横丁
Beach布地横丁の中の店主マダム
道幅1mほどの路地の両側に、間口1、2m,奥行きも1mほどの小さな露店がぎっしり並んでいる。
上の写真のような女性店主ばかりが商う露店だ。
最初の値段交渉で「20米ドルだ」と言われるが、簡単に15米ドルにしてくれる。ここの布地も色落ちした経験は無い。
この界隈は船着場、港の近くで治安が悪いといわれる地域だ。
だが、この布地横丁はマダム店主ばかりで、皆楽しそうにおしゃべりしたり、髪を結い合ったり、ランチやおやつを食べたり昼寝したり、和気あいあいとのんびりして店番をしているマダム天国、みたいなところだから、この路地に限っては恐い目に合ったことはない。
全長100mほどの横丁だ。

さて、次はキンシャサのメインストリート、6月30日通りからAve.Commerceへ向かう途中のAve.Tombalbayaにある高級布地店の2店だ。
同じ建物の一辺に"Woodin" という店の入口があり、他辺に、"VLISCO" という店の入口がある。


右奥の店が"Woodin"  同じ建物の左辺に"VLISCO"の店構え

高級布地店 VLISCO の入口
高級布地店 VLISCO ショーウインドー
わたしは当初、同じ屋根の下にある、"VLISCO" と "Woodin" を同じ店だと勘違いしていた。経営者は知らないが、ブランドとしては別個のものだ。
この一角だけ、キンシャサではないような雰囲気が漂っている。

"Woodin"はコートジボアール製で値段は6ヤード48米ドルほどだ。価格は庶民の店の3倍以上もする。ダイナミックなアフリカ古典柄と小柄でモダンな柄の布地があり、ブラウス、シャツ、スカート、布バッグといった既製品もあるが、縫製はさほど良くない。
店員の女性は気位が高そうだが、VLISCOの店員ほどではない。
店内は、キンシャサにいることを忘れてしまいそうな高級な雰囲気だ。
ただ、以前よりも、アフリカ古典柄の布地が品薄になったと感じる。残念だ。

一方、"VLISCO"は、「キンシャサ1!」と言っても過言ではないくらいの最高級品店だ。
店内のレイアウトもすごいし、扱う布地もアフリカ古典柄でありながら発色もきれいだし、どこかあか抜けている。
6ヤードが95米ドル、とか、130米ドルもする!
既製品も奇抜でステキだし、縫製がしっかりしている。
シルクスカーフ、革と布のバッグもいいなと思う。
ショーウインドーも抜群のセンスだ。
店員は限りなくお高い雰囲気を醸しだしている。
いつも見るだけでスルーするわたしを、店員はきっと覚えているんだろうなあ、と思う。

キンシャサで放映される衛星放送 "France 24" でVLISCOのCMを観るし、キンシャサの街中でも大きな看板を見かける。どちらも本当にセンスが良く、目立つ。

"VLISCO" の外看板

VLISCOで一度買物したいなあ。
かわいくてオシャレなスカートを見つけた。しかもサイズが"XS"だった。ほとんどの既製品は"L" とか"XL"で極端に大きい。220米ドルくらいだったかな。以前もかわいいスカートを見つけたが、すぐ売れていた。
VLISCO店内にいると、客はほとんどいないが、時々、キンシャサのお金持ちそうなマダムが入ってくる。へー、キンシャサにもお金持ちの人がいるんだあ!!とびっくりするが、ここのお金持ちは桁違いにお金持ちらしい。いったい何をしてそんなにお金持ちになったの?、と訊きたいくらい。ほとんどの人たちはこれまた桁違いに貧しいのに。

Beach の布地横丁に、"VLISCO"表示のシールを貼った布地を見かけることがあるが、コンゴ人女性のションタルさんは偽物だと言う。
また、ネットでVLISCOを検索したら、なんと日本でネット販売しているところを発見!どんな人がやっているんだろう。VLISCOはBenin, Togo, Ivory Coast,The Netherlands, Nigeria, DRCongo に店舗があるというから、日本人でアフリカ在住経験者が目を付けたのかもしれない。

BLISCO の発祥はオランダだと聞いた。中央アフリカのバンギにいたとき、布地の最高級品を、「ワックス・オランデー」と言っていたのを懐かしく思い出す。
オランダの布技術はすばらしかったのだろう。
今では、東ヨーロッパのどこかの国に工場を持っているというのをネットで見たように思う。
ユニクロが中国の工場で縫製しているのと同じだ。

キンシャサにも"UTEX" という布地工場があったらしい。我が家の近くに工場跡地が、門に"UTEX"の文字を残したまま現在も存在している。
その工場跡地は、多くの貸し事務所となっていたり、MONUSCOなど国連の機関が入っていたり、アパートになったりしている。
中国がUTEX工場を引き取り、中国国内向けの布地を生産している、とも聞くがはっきりしたことは不明だ。
いずれにしても、コンゴ国内には布地生産工場は存在しないということだ。

アフリカの布地を買うと、布地に大きな紙のシールがでかでかと2枚ほど張られている。しかも、かなり粘着力の強い接着剤を使っている。
わたしは、もったいないなあと思いつつも布地のシール部分を切って捨てていた。うまくシールが剥がれなかったからだ。
それを見た家政婦がこうするときれいに剥がれるのさ!、と教えてくれた。
どうするのか。

布地に貼り付けられた紙シールの上からアイロンをかける。すると、接着剤が熱で柔らかくなってスーッときれいに剥がれるのだ。

なんと驚きの技!!現地の人の生活の知恵だ!!感服!!

わたしがキンシャサに暮らして知り得たアフリカ布地のことだ。

2012年9月11日火曜日

キンシャサの結婚式

披露宴会場に入場する新郎新婦 夜10時を回っていた
満面の笑みの新郎ときれいな花嫁さん(カップルの両端は、新婦の両親?)
9月1日(土)、夫たちのプロジェクトに勤務するコンゴの男性技術者、CHOCQUET~ショッケさんの結婚式パーティーに夫婦で招待された。


結婚式の招待状
こんな木箱に入った巻物風の招待状が届いたのが8月初旬だった。
木箱の蓋には二人の写真が貼られ、”着席テーブルナンバー31”と書かれていた。

そこには、”両家の息子と娘の結婚式にあなたがたをご招待する慶びに溢れています”という文面が新郎新婦の名前とともにあり、9月1日16時からの教会での挙式案内と、20時半からのパーティーの案内が記されていた。

果たして、アフリカの結婚式とはどんなものなのか。新郎新婦の衣装、披露宴の場所、形態、風習などなど、わたしはすべてのことに興味津々だった。

まず、「20時半からの披露宴」というあまりに遅い開始時間に戸惑った。
夫は、本人に前もって尋ねると、9時くらいの会場入りで構わないと言われたそうだ。

結婚式会場はキンシャサ市内の現地人の居住地区、マトンゲ地区にあり、白い椅子カバーに白いテーブルクロスの掛かった、とても明るく清潔な屋内の結婚式会場だった。

9時半 まだ空席の目立つ披露宴会場

私たち夫婦は会場真ん中辺りの31番のテーブルに通され、まず飲み物の希望を訊かれた。
会場にいる招待客は十名にも満たない。9時になっているというのに、だ。
テーブルは、親族、職場、友人関係に分かれていたように思う。そして、わたしたちは6人の日本人のテーブルだった。
会場は話し声も聞こえないくらい大音響の音楽が流れている。会場前方の端に、音楽の生バンドもスタンバイしている
会場のスタッフは男女とも白いブラウスに黒のスカート、ズボンといったシンプルな服装。新郎新婦入場の直前に、スタッフたちは赤いスカーフを取り出して首に巻き始めた。
1時間ほどして会場は満席になる。150名ほどか。

さすが、着道楽の国の人たちだ。イブニングドレスの着こなしや、カラフルなワイシャツやネクタイの組み合わせに感心する。女性の90パーセントは西洋風のイブニングドレスだ。

結局、新郎新婦の入場は夜10時だった。
結婚行進曲に合わせ、西洋スタイルの真っ白な衣装に身を包んだカップルが登場。後ろにはかわいらしい、ドレスアップした小さな介添え役が続いている。

介添え役の小さな紳士淑女
それから、司会者が二人に質問したりのろけさせたりして場を幸せムードに盛り上げるのは日本と同じだ。

そして、新郎新婦へのお祝い品授与の時間へ移って行く。
この風習にわたしは一番驚いた!!

まず、現金の贈り物のかた、お並びください、というアナウンスがあり、新郎新婦が立つところに列を作って一組ずつ現金を招待客の前で直接二人に渡し、それを新婦の母親がバッグに入れていっていた。

次に、品物の贈り物のかた、どうぞ!!
続々と品物を抱えて並び始める。品物のプレゼントの招待客のほうが圧倒的に多い。

鍋・食器・炊飯器を持って並ぶ招待客

おしゃれなイブニングドレス姿の女性たち
延々と続くプレゼントを持つ招待客の行列

食器、鍋、炊飯器、扇風機、ミシン(日本のSINGERミシンだった。)、3段の台所網棚・・となんだかプレゼントが段々大型になってゆくのが面白い。皆、それぞれに考えて選んだ自慢の贈り物、といった風体でどっかり並んでいる。
どんなに大きな贈り物でも、披露宴会場まで持参して、皆の面前で手渡すのだ。
昔の風習の名残なのか。
ダブルベッドのマットレスから、電気コンロ・オーブン、洗濯機まで!!!
会場スタッフがよろけながら運んでくる。落として壊しやしないかとハラハラしてしまう。

その度に、贈り物を新郎新婦が受け取り、新婦の母親がその置き場所を指図している。

披露宴の後、新居までどうやってあれだけの荷物を運ぶのだろう、とわたしは余計な心配をするくらいだ。

そして、新郎の母親も贈り物を持って行列に並んでいた。国会議員だという彼女は、とても存在感のあるオシャレな女性だ。新郎の母親が涙を流しているよ、と夫がわたしにそっと言う。
新婦の母親は宴の間新婦の隣に座り、お祝い品授与の時は新婦の横に立って贈り物を受け取ったり置き場所を指図したりして大活躍だが、新郎の母親は親族席に座って、普通の招待客と同じように行列に加わって新婚カップルに贈り物を手渡している。

やっとお祝い品授与式が終了。
12時近くになっていた。
それから食事時間になるということで、会場の後方に食事が用意されていた。

わたしたち日本人は、運転手の勤務時間のこともあるし、夜中の外出も気がかりだし、ここでおいとますることにした。
とても残念だし、失礼にも当たるなあと思いつつも仕方がない。

後で聞いた話だと、夜が更けるまで宴は続き、足のない招待客は会場で夜を明かしたのだそうだ。

キンシャサの始めての結婚式は、西洋式の結婚式だった。
(内心、アフリカ衣装の花嫁姿というものを楽しみにしていたのだが。)
もちろん新郎新婦の両家が経済的に豊かな家であるからこその披露宴だったのだろうとは思う。
驚いたことは、開始時間が遅いということ。
そして興味をひいたのは、どんなに大型のものであろうと新婚カップルへの贈り物を招待客の面前で披露して直接渡すということ。
それから、花嫁の母の存在が大きいということ。

アフリカの結婚式に何度か出席してみないと確かなことは見えてこないのだろうが、そんなことを感じた第1回目の結婚披露パーティーであった。

2012年9月5日水曜日

こおろぎ雨 ~ Mbula ya Makelele

我が家アパート3階北側からの8月下旬雨の朝の風景
以前にも書いたが、キンシャサの人たちは、「乾季は5月15日から9月15日まで」という言い方をする。(ある人なんか、いや乾季は8月15日までなのだ、と言ったりも。)
リンガラ語には”中旬”とか”半ば”という単語が存在しないのだろうか、とさえ思ってしまう。
(ちなみに仏語には、”milieu”という単語があるけれど。)

先月8月23日だったか24日だったか、まだ夜が明ける前に、わたしは雨の音で目が覚めた。
実に3ヶ月ぶりの雨だった。

この雨で乾季は終わったのだと言う人もいる。
フランス語のコンゴ人の先生も、乾季の始まりの時と同じように、
「ほら、今までの空気の感じと変わったでしょ。乾季は終わったのよ。」
運転手のランドも同じことを言った。
五感で空気の変化を感じ、季節の移り変わりを敏感に察知するコンゴの人たち。

この3ヶ月ぶりに降った雨を、かれらはリンガラ語で、”Mbura ya makelele” 、或いは ”Mbura ya Likelele”というのだと教えてくれた。
「mbura」とは”雨”、「ya」は英語の”of ”と同じ。
「makelele」は”こおろぎ”の複数形で「likerere」は”こおろぎ”の単数形だそうだ。
だから、「こおろぎ雨」となる。
この乾季の終わりに降る雨で、土中のこおろぎが孵化して土から這い出てくるのだそうだ。

かれらは、「(ン)ブラ ヤ マケレレだ~♪」とうれしそうに、本当にうれしそうに言った。

こおろぎの季節がそんなに待ち遠しかったのか。
どのコンゴ人に訊いても、こおろぎはとっても美味しいんだよ。栄養満点だしね。
にこにこしながら、自慢げに言う。

わたしが怪訝な顔をしていると、日本ではこおろぎを食べないのか?あんなに美味しい食べ物を!!ああ、なんと残念なことだ!!

こおろぎの料理ってどんなものなの?、と訊くと、足や羽を取り除いて少しの(!)油でたまねぎやピーマンなどの野菜といっしょに炒めるのだそうだ。
あんなに美味しいものはない、とどのコンゴ人もうれしそうによだれをこぼさんばかりに話す。

この前の日曜日。日本大使杯ゴルフコンペが開催されたが、やっぱり朝起きると今季2度目の雨が降っていた。そしてやはり午前中で雨はすっかり止んだ。
この雨のことはもう、「(ン)ブラ ヤ マケレレ」とは言わないのだそうだ。
こおろぎ雨は1回こっきりの雨ということらしい。

もうじきこおろぎの季節だよ。待ち遠しいな、とは言わなかったが明らかにうっとりと待ち遠しそうな表情をしている。
夜になると、こおろぎはリンリンと歌うし、おいしいこおろぎ料理は食べられるしね。

♪ 雨が降ってきた~、歌を唄おう~、雨が降ってきた~、空の上から~♪
わたしが小学校のころ、6月の歌だったか、”今月の歌”で毎朝、全校放送でこの歌が流れて、なぜかルンルンで唄っていた記憶が蘇ってきて、口ずさむ。

インターネットのWikipediaでキンシャサの気候を見ると、5月の降水量159㎜、6月は8㎜、7月は3㎜、8月も3㎜、そして9月は30㎜、10月には119㎜になっている。
5月の平均降雨日数12日、6月=1日、7月=0日、8月=1日、9月=5日、10月=11日。

6月、7月、8月は極端に降水量が少ない。

4月と11月がいちばん雨が降る時期なのだと聞いたが、実際、Wikipediaの資料でも4月と11月がともに降雨日数16日で最多だ。

中央アフリカのバンギでは、雨季と乾季がキンシャサと真逆だが、乾季の終わりの4月初め頃に何日か降り続く雨を「マンゴー雨」だと呼んでいた。
その雨で、マンゴーが熟すのだと聞いた。(そしてマンゴー雨の後、ジャカランダやアカシアの花が一斉に開花してまさに”バンギの春”だった。)

日本の”梅雨”という言葉の由来も諸説あるようだが、「梅が熟す時期の雨」だから梅雨と書く、と聞いたことがある。
そういえば菜の花の咲く頃に降り続いて冷え込む雨を、日本人は「菜種梅雨」と呼ぶしなあ。

季節の雨を食べ物に関連付けて、特別な名前で呼ぶというのは世界共通のようで何だか愉快になってくる♪

     秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる

平安の人の心持ちに共通したものを感じるコンゴの人たちだ。

2012年9月1日土曜日

通勤電車が行く


ポワルー道路から見える通勤電車

日本の援助で道路舗装補修工事が行われている、キンシャサ市内の東部を走るポワルー道路(Poids Lourd / 仏語で”重い重量”という意味)に沿って、1本の鉄道が通っている。

その鉄道の本線を、貨物列車がはるか遠くバコンゴのコンゴ河下流、マタディーMatadiまで走っているということだが、わたしはその貨物列車を見たことがない。
どういう運行状況なのか、わからない。
距離にして300kmの道のりを毎日1便運行されていて5時間ちょっとかかる、とは夫の事務所のコンゴ人事務員の話だが、夫は現在そんなに運行されていないはずだと言う。

以前は、海運で船が大西洋からコンゴ河を遡りマタディーまで運ばれ、陸揚げされた貨物は、そこで鉄道に積み替えられてキンシャサまで運ばれてきていたのが、今ではマタディーからトラック輸送に代わったようだ。
実際、大きなコンテナ車を積んだ大型トラックが走行するのを頻繁に見かける。鉄道管理は費用がかさむということなのだろう。
(マタディーには、日本の援助で建設された全長約1kmほどのつり橋が架かっている。関門橋のようなつり橋だそうだ。)

そして、ポワルー道路脇を走る鉄道の支線(マタディーまでの鉄道を本線と見るならば、支線は中央駅から出発して7km地点のUzamで本線と分岐してンジリ空港方面へ向かう)のほうは、キンシャサの中央駅とンジリ空港近くのキンシャサ郊外を結んで、通勤電車が毎日、朝夕だけ各2往復しているのだそうだ。
その沿線は、現地の人々が暮らす郊外の新興住宅地となっていると聞く。


ポワルー道路沿いの駅に停車中の通勤電車

”1898.3.16 ニコラス機関士によって運転された最初の機関車がンドロ駅に到着して百年になる記念碑”と記されている~ンドロ(Ndolo)駅構内に立つ

道路と鉄道を仕切る広告壁の向こうの高台を通勤列車が走る


すぐ上の写真は、カラフルな看板広告の向こうを朝の通勤列車が通過しているところだ。
朝7時前だったが、中央駅に向かう列車は長く連結され、通勤客で満員だった。
わたしが車からカメラを向けると、電車の乗客から、「写真を撮るなー!!」と怒鳴られた。

中央駅~ンジリ空港付近の駅の間は、約20kmくらいだろうか、途中に数箇所の停車駅があるようだ。所要時間は約1時間だという。
重要な通勤の足だ。
その後、午前9時半頃にもう1本の電車が通過するのだそうだ。

中央駅はキンシャサ市内のメインストリートである6月30日通りの起点にある。というか、6月30日通りは、中央駅のすぐ前から始まっている、と言ったほうが的確かもしれない。
中央駅は、一見するとそこそこの建物だ。
建物正面には、立派な長距離旅客列車の車内のカラー写真の看板が掲げられている。
ところが、駅建物の入口には鍵がかかって入れない。ガラス越しに内部を覗くと、廃墟に近い状態だった。
中央駅の入口扉はいつ開くのかと訊いたら、中央駅の建物はすでに使われていないから、いつも鍵がかかっているのだという。
夫の話では、駅ホームの傍に、古い機関車が置かれて展示されているそうだ。
証拠写真を夫からもらった!

中央駅ホーム傍に展示される機関車

建物に鍵が掛けられて入れないから、外から直接中央駅ホームに出入りする門がある。
外観だけ見事に取り繕うコンゴ人のしそうなことだ。
キンシャサ中央駅の建物はもぬけの殻、だった。

キンシャサ中央駅ホーム
キンシャサ市内には、明らかに使用されていないと分かる、土中に埋もれかかった線路が道路を横断していたり、工場敷地内に入り込んでいる線路を見かけたりする。
工場へ運ばれる原材料を運ぶ貨物列車のための線路だったかと思われる。
キンシャサ市内に残る古い鉄橋に”1950何年かに建設”と記されたものがある、とは夫の話だ。ということは、植民地時代にベルギーが敷設したものということか。

ポワルー道路の、通勤列車が走る鉄道の反対側には工場群が連なっているが、その各工場内に鉄道の入り込み線が延びている。工場群に沿って、そしてポワルー道路に沿っても平行に走るその鉄道は大半が土中に隠れそうになっているが、ポワルー道路の拡張工事に伴って、その鉄道の撤去作業が行われていた。
鉄道撤去後の線路で、敷石の石ころを一生懸命集めている人々がいた。その石ころたちは集めて売るとお金になるのだそうだ。

キンシャサ市内地図を広げると、古い線路も表示されていて、いかにキンシャサ市内に貨物線路が張り巡らされていたかが分かる。
鉄道も海運も、国営オナトラ社が運営されていたと聞く。
中央駅からみて6月30日通り沿いの左側にひときわ大きくがっしりした薄茶色レンガのオナトラ社本社建物がそびえ立っている。
現在も、どうにかオナトラ社によって運営されているが、国営ではなくなったようだ。
一昔前のように、キンシャサ~キサンガニ間の定期船が運航され、中央駅~マタディー間の鉄道も機能する時代が来て欲しいものだ。