2014年3月28日金曜日

中央アフリカ共和国、バンギからのメッセージ

2013年3月頃だっただろうか。
突然、中央アフリカ共和国の内戦のニュースが世界中に流れた。
イスラム教徒とキリスト教徒の対立が激化し、その後、大統領が国外逃亡して無政府状態となり、理性も秩序も何もかもが無くなった中央アフリカ共和国からの報道には目を耳を覆うものばかりだ。


1993年から中央アフリカ共和国の首都バンギのブエラブ保健センターで、エイズの母子感染予防、エイズ患者支援のNGO活動(アフリカ友の会)を続ける徳永瑞子さんが、そんな内戦状態にあるバンギに戻り4週間滞在してきた、というメッセージを今朝、フェイスブックで見つけた。
以下、フェイスブックの徳永さんからの帰国第一声のメッセージだ。


「今日、中央アフリカ共和国より帰国しました。バンギには(2月)28日から(3月)25日まで滞在しました。1年4ヶ月ぶりの訪問です。NGOアフリカ友の会では、バンギでエイズ患者さんの支援、栄養失調児のケアを行っています。1年前から内戦が続き未だに銃声が聞こえます。内戦の被災で栄養失調児は今までの10倍、エイズ患者さんたちは避難生活で継続治療ができず症状を悪化させています。かれらを助けるためには、お金が必要です。皆様の一食分を寄付してください。お友だちにも呼びかけてください。
郵便振替 00100-2-658734 アフリカ友の会 です。
よろしくお願いいたします。徳永瑞子」


徳永さんは、助産婦であり、公衆衛生学のドクターでもある。
徳永さんが”アフリカ友の会”をバンギのブエラブ診療所内に立ち上げ活動を開始した当初から、同じアパートに住んでいたわたしたち家族は間近に見てきている。
現地に住み、エイズに苦しむ患者やその家族に寄り添い、良い活動をしているなあと思ってきた。
かのじょは、いつかはこの活動を現地スタッフだけで運営できるようになればとも言っていた。
そして、かのじょが活動拠点を日本に移し大学で教鞭を取るようになってからも、長期休暇になると学生たちを連れてバンギに戻っていた。
かのじょは、エイズの母子感染予防、エイズ患者と家族の支援だけでなく、エイズ患者の生活自立のための仕事支援にも関わっている。さらに、栄養失調児の給食活動、子どもたちの学校教育、と活動の柱を増やしてきた。

そんな中での突然の内戦勃発だった。
徳永さんは、エイズ患者たちの病状を心配しながらもバンギに戻れず,現地からの連絡に一喜一憂する心境をアフリカ友の会の会報誌に綴っている。


1ヶ月以上かかってキンシャサに届いたアフリカ友の会会報誌12月号


中央アフリカ共和国は、わたしたち夫婦が現在滞在するコンゴ民主共和国の北に隣接する国だ。
首都のバンギはコンゴ河の支流のウバンギ川沿岸に広がり、川向こうのこちら側はコンゴ民主共和国なのだ。

今朝も、キンシャサで視聴できるフランスからのテレビ放送”France24”のニュースで中央アフリカ共和国のことが映像とともに報道されていた。
そんな内戦状態のバンギに徳永さんは入国を果たしてブエラブ保健センターにたどり着き、4週間の滞在を終えて帰ってきたのだ!
すごい行動力だ。
かのじょの訪問は現地のエイズ患者たちや家族に大きな安堵感と喜びをもたらしたことだろう。
もしかすると、ほとんどの患者たちは奥地に避難し連絡の取れないままだったかもしれない。
徳永さんの現地の詳しい報告を待ちたい。


アフリカ友の会の会報誌は偶数月に発行され、キンシャサのわたしたち夫婦のところにも郵送されてくる。
また、徳永さんは、昨年11月から全12回の予定で”アフリカに親しむことへの支援活動セミナー”と位置づけて、「アフリカセミナー」をアフリカ友の会事務局のある東京都北区赤羽の文化センターで企画開催している。

アフリカ友の会URL: http://www4.ocn.ne.jp/~africa93/



まだまだ内戦状態にある中央アフリカ共和国のバンギに戻って活動してきた徳永さんの行動力に感動し、かのじょの運営する”アフリカ友の会”を、そしてバンギから帰ってきたばかりのかのじょから届いたメッセージをぜひ多くの方たちに紹介したいと思ったのだった。


2014年3月24日月曜日

また逢う日まで~大使夫妻の出発

昨夜、大使夫妻がキンシャサを出発された。

夕方から降り始めた雨の黄昏の中を、わたしたち夫婦は見送りのために、大使公邸に向かった。
公邸サロンで大使夫妻とキンシャサ最後の歓談をし、集まったメンバー全員で写真を撮る。
夜7時半過ぎ、日の丸を付けた公用車にご夫妻が乗り込み、公邸玄関をゆっくり発進。
雨のやんだキンシャサの夜の道を出発されたのだった。


大使と夫とは海外青年協力モロッコ隊員の先輩後輩の仲で、足かけ40年近い付き合いだ。
それから、1992年から95年まで、ほぼ同じ時期に約3年間、お互いに年齢の近い子どもたちを連れて中央アフリカ共和国のバンギに暮らし、いろいろな思い出を共有する。
バンギでゴルフを始めたわたしは、大使が使われていたパターを譲り受け、いまだにお守りのようにキンシャサまで持ってきている。

そして、またほぼ時期を同じくしてコンゴ民主共和国のキンシャサに、今度はお互いに夫婦だけで赴任。かれらはキンシャサへは大使としての赴任だった。

大使、ということで、今回の赴任中はお互いの家庭を訪問しあうということはできなかったが、ゴルフや日本人の食事会で同席する度、変わらない気さくさで接してくださった。
夫人とは、公務の合間に買い物やランチやカフェでのお茶にご一緒し、家族の近況を話したり、とてもリラックスした良い時間を持てた。


夫人は、大使と結婚後、長女を連れて暮らしたガボンから数えて(東京勤務もはさんで)、10カ国ほどのアフリカやヨーロッパの国々を夫妻で二人三脚で歩いてこられている。
大使は、さらに多くのアフリカの国々を兼任国も含めて観て関わって来られたはずだ。

キンシャサ大使公邸は築年数の経った建物ではあったが、メンテナンスに気を配り、隅々まで手入れの行き届いた品格ある住まいだったと感心する。そして、夫人は迎えるゲストのために室内には花を絶やさなかったように思う。

大使は海外青年協力隊出身の初めての大使ということで、アフリカへの経済協力には真のエキスパートだったと感じる。
アフリカをしっかり見続ける眼は、それだけ鋭かったとも思える。


わたしたちキンシャサ在住の日本人ゴルフ仲間で、先週日曜日に大使追い出しコンペを企画した。夫は大使と同じグループで回り、ベストグロス賞を受ける。初めて大使のスコアより良かったと感慨深げだった。当日は雨季の合間のかんかん照りと連日の激務で大使は少々お疲れ気味だったのか。
わたしはと言えば、皆がラフに入れ続けたお蔭で奇跡のドラコン賞をもらった。当日の賞品はすべて大使ご夫妻で用意くださった。

さらに、一昨日、土曜日は、ゴルフクラブ主催の大使送別コンペが開かれた。
日本の無償援助資金で建設された保健センターの開所式セレモニーに出席された大使とそして夫は残念ながらコンペに参加はできなかったものの、セレモニーの後、ご自身の送別コンペ表彰式に参加するためにゴルフクラブに来られた大使がハーフだけだがプレイする姿を拝見した。
プレイに同伴した夫からは、セレモニーを実況中継するテレビを観て大使のスピーチを聴いたキャディたちなどあちこちから声を掛けられていたそうだ。
このコンペに参加したわたしは、今度はなんとブービー賞(があることもつゆ知らず!)となり、二度続けて大使と握手できてしまった!!
大使は、大使そっくりのゴルファー人形をクラブ主催者からプレゼント(タンタン人形作家で有名なオーギーさん制作)されて、満面笑顔でお別れスピーチをされていた。


プレイ後のクラブテラスでのお楽しみ、地元ビールで乾杯



キンシャサゴルフクラブの途中休憩テラス





キンシャサゴルフクラブ・テラス前から18番ホールを望む


大使夫妻との交わりもまたわたしたちのキンシャサの良い思い出だ。
アフリカに温かい眼を向けていた大使のアフリカでの経験談もいつも興味深いものだった。


昨夜の大使夫妻のキンシャサ出発は、お二人の長い夫唱婦随(時には、婦唱夫随もあったかもしれない・・)の外交官生活の終止符を打つ時でもあったはずだ。

お二人が公用車に乗り込まれたとき、そっと夫人の手が大使の手の上に載っておられた。
これまでのお二人が共に歩いてこられた長い道のりを静かにふり返る瞬間だったのかもしれない。

皆が笑顔で見送られてよかった。
お二人の今までの歩みと、そしてこれからに、万歳! 万歳!! 万歳!!!




これからの幸多い、そして平穏な人生を心から祈ったのだった。

お疲れさまでした、大使夫妻!

2014年3月18日火曜日

日本コンゴ文化会館 1周年記念祝典

慶応大学と提携するキンシャサ教育大学(Institut Superieur Pedagogique)敷地内にある日本コンゴ文化会館が開館して丸1年が経ち、先日、3月13日に開館1周年記念祝典が催された。


毎年、春休みと夏休みに慶応湘南藤沢キャンパスの長谷部葉子先生とコンゴ出身のサイモン先生が学生を伴って休暇中、キンシャサに滞在される。
この春もキンシャサに滞在され、祝典の準備を日本とキンシャサの日本語クラスの教師、学生と共に進めておられた。


思い返せば、わたしたち夫婦がキンシャサに到着したのが2012年1月1日だった。
その後、慶応大学プロジェクトに携わる、長期滞在中の日本の学生たちに出会ったのが3月。
かれらは、もうじき僕たちの日本語クラスの拠点となる文化センターの建設が始まります、と言って建設予定地を案内してくれたのだった。
(その時、既にキンシャサ教育大学のひとつの教室を借りて日本語クラスは開講されていた。)
建物の入り口に当たるところに記念モニュメントのような石が立っていたのを思い出す。


2012年3月頃 日本コンゴ文化会館建設予定地


そして、春,夏、そしてもうひとつの春を経て、慶応大学建築専攻の指導教授と学生と現地の大工さんが、慶応大学の学生の設計図を基に日本政府の草の根無償資金で会館を完成させたのが、2013年の3月。
同年3月12日に、大勢の日本とコンゴの関係者を招待して、開館式を催している。


2013年3月12日 日本コンゴ文化会館 開館式

当時のJICAの所長さんと日本大使館の領事部のかたの剣道の模擬試合も披露され、大勢の人々に日本の文化センターのお披露目をした。


2013年8月24日 日本コンゴ合同シンポジウムにて~アカデックス小学校生徒が踊る”ソーラン節”

その年の夏には、また慶応大学の先生や学生が大勢でキンシャサ入りし、初めて医学部の参加もあり、教育分野、建築分野に加え、保健医療分野の活動も始まっている。

そして、夏期活動後半の8月24日には、文化会館で日本とコンゴの合同のシンポジウムを開催。
保健医療チームのアカデックス小学校での調査報告、日本の戦後から取り組まれた母子手帳の配布や栄養指導車巡回制度で向上した日本の保健事情について、また、コンゴ人医師の現状報告など、とても興味深い内容であった。
キンシャサ郊外のキンボンドに建設運営されているアカデックス小学校の生徒たちも先生に引率されて来場し、日本の学生たちの指導で学習した”ソーラン節”を来場者の前で披露している。教育チームの実習指導の成果の発表でもある。
また建築チームが取り組むアカデックス小学校の建築進行状況も報告された。
すばらしい日本コンゴ合同のシンポジウムだった。


会館内には、日本語指導者の会議室、日本語教室、そして大教室があると記憶している。
大教室では、畳が敷かれて、キンシャサ在住の日本人の柔道有段者の指導の下で、柔道教室が日曜日を利用して行われているとも聞く。

また、昨年6月、バイオリンの玄人跣(はだし)の腕前を持つ大使館員がかれ自身の企画で、キンシャサのオーケストラの弦楽器メンバーと共演で、この文化会館でお別れコンサートが開かれた。
爽やかな風が心地よい休日の午後のコンサートだった。

昨年11月には、慶応OGでコンゴ音楽を自ら勉強しつつ、アカデックス小学校での音楽指導で長期滞在中だった女性のミニコンサート、そして、コンゴのお笑いコント芸人の舞台も楽しんだ。


こうやって日本コンゴ文化会館での活動をふり返ると、着実に日本とコンゴの文化交流の場を提供してきているなと感じる。

そして、2014年3月13日。迎えた1周年記念祝典。
1日目の祝典と日本料理会。
2日目には書道などのワークショップが開かれている。

わたしは、その祝典で、スピーチを依頼された。
どうしよう。祝典でのスピーチなんて未経験だった。
期待感ちょっぴり、不安感いっぱい。

それでも、この文化会館に集い日本語や文化を学び指導するコンゴや日本の青年たちの真摯な様子を伝えたかった。素晴らしいかれらの活動をわたしの知っているところで披露したいという想いも強かった。
そして、わたしはダイレクトにその想いを伝えたいと思って、フランス語でのスピーチを決心した。
日本語講座の第1期生で、日本派遣生に選抜されて日本滞在も経験している語学堪能なエロンゴさんというコンゴ人青年がわたしのフランス語文を添削してくれた。
そして、かれがわたしのスピーチのときにマイクを握ってサポートしてあげるよ、と約束してくれたのだった。なんと温かい思いやりを持った青年だろう。

2014年3月13日 日本コンゴ文化会館1周年記念祝典でスピーチをした!

わたしは、コンゴと日本の間にいくつもの橋を架けている若者たちの活動をひとつの実話で紹介した。
昨年,キンシャサを訪れたわたしの友人のひとりが東京の小学校で音楽教諭をしている。かのじょが、小学校の生徒たちと歌って楽しめるコンゴの歌を紹介して欲しい、とこのプロジェクトで活動するコンゴ人青年たちにお願いをした。
かれらは、いろいろと話し合って、コンゴで長い間,愛唱され続けている歌、”コンゴ独立の歌 Independance Cha-Cha”をわたしたちの前で歌ってくれた。独立の喜びに沸くとても明るい歌いやすいメロディーに、わたしたちはすぐに大好きになった。何度も一緒に歌ってステップも教えてくれた。
その歌を日本に持ち帰った友人は、早速、歌詞を「新入生歓迎の歌」に作り変えた。そして、4月に入学してくる小学校1年生の歓迎会で歌いましょう、と在校生に教えた。在校生たちもすぐにその歌が大好きになった。歓迎会で歌って迎えられた新入生もまたすぐにその歌が大好きになった。
そうやって、友人によって歌詞を作り変えられた”コンゴ独立の歌”を歌って交流する小学生たちをかのじょはDVDに撮った。
それから間もなく、友人が勤務する小学校にコンゴ民主共和国出身の神父様が話をするために来校された。
その神父様に、”コンゴ独立の歌”のメロディーで歌って楽しく交流する小学生たちの様子を撮ったDVDを観ていただいた。コンゴ出身の神父様はその様子に感激して涙を流して喜んだ。

友人から聞いた話をスピーチで伝えた。
その時コンゴの若者たちがコンゴと日本にひとつの素晴らしい橋を架けたのだ、とわたしは感じた、と。

わたしの下手なフランス語を、会場が静まり返って耳を傾けてくれた。
そして、コンゴの若者たちが日本の音楽教諭に教えた歌が”コンゴ独立の歌”だったと伝えたときには、会場にとても嬉しそうな温かな笑いが広がった。それから、コンゴ出身の神父様が涙を流して喜んだと言ったときは、深い感動のどよめきがわたしにも伝わってきた。

これからも、日本とコンゴの間にたくさんの橋が架かりますように。
わたしにもコンゴの文化を教えてください。
皆でわたしたち双方の国のことや文化を学んでいきましょう。

言えた!!わたしの言いたかったことを拙いながらも伝えることができた!!
達成感と共に、耳を傾けて聴いてくださった来場者に心の奥底から感謝の気持ちが湧いてきた。

そんな機会を与えてくださった長谷部葉子先生と、わたしをサポートしてくれて励ましてくれたエロンゴさんにもスペシャル感謝だ。


今回の1周年式典でもキンボンド小学校の生徒たちが、日本の学生が教えてきた日本の歌を、そして日本からはるばる運ばれてきた鍵盤ハーモニカの演奏を披露して式典に花を添えていた。
一生懸命な小学生の合唱や演奏に,今度はわたしが感動の涙を流す番だった。


鍵盤ハーモニカで”きらきら星”を演奏するアカデックス小学校の生徒たち



キンシャサ滞在もあと数ヶ月になったが、ここで繰り広げられる日本とコンゴの若者たちの真摯な取り組みをわたしなりに(夫と共に!)応援していきたい、と思うのだった。

日本コンゴ文化会館1周年、おめでとうございます!

2014年3月11日火曜日

2014年3月11日 キンシャサで

今日は3月11日。
日本時間では、すでに2014年3月11日がそれぞれの想いの中で終わったことだろう。

日本の北部の太平洋岸に大地震が発生し、津波が押し寄せ、想像もできないほどの大災害が起こって3年が過ぎていった。
キンシャサでも、朝のニュースから繰り返し、東日本大震災の追悼記念式典の模様が伝えられてた。


先月、我が家のベランダで花開く


こちらは、今日、午後になって雨が降り始めた。
買い物や友人との約束で午前中から外出し、雨が降り始める前に雑用を済ませ、帰りにゴンベ郵便局の私書箱に寄った。
そして、我が家の私書箱を開けて4通の手紙を見つけた。

アフリカ友の会から、父から、今頃やっと届いたフランスの娘一家からの季節はずれの年賀状。
そして、なんとNHKテレビの「今夜も生でさだまさし」からの大きなサイズの封書が入っていた!


NHK総合テレビ”今夜も生でさだまさし”から届いた封書


1月末の番組でさださんがわたしの葉書きを読んでくれたちょうどその時、フランスの娘のところでパソコンに向かっていたわたしは、リアルタイムで、東京の友人から「さださんの生番組で、あなたの葉書きが今読まれているよー!!」というメッセージを受け取ったのだった。

あの興奮して有頂天になった日からもう1ヵ月半が過ぎた。

生さだ番組からの封筒の消印が1月29日になっているから、はるばる日本からキンシャサへ1ヵ月半近くもかかってやってきた封書だ。
わたしは、さださんへ送った葉書きにコンゴの住所と東京の自宅の住所と、2つの住所を書いたのだった。万が一、万が一読まれて、記念葉書きセットをいただくことになっても、コンゴまで郵送してもらうのは忍びない、と思ってのことだった。
それなのに、生さだ番組スタッフはわざわざコンゴの住所で送付くださったのだった。






番組内で、さださんの背後に置かれたホワイトボードにマジックで描かれているなんとか画伯(名前が出てこない!ごめんなさい!)の絵の葉書き10枚セットに、昨年3月31日に放送された、東日本大震災支援スペシャル番組、「いつでも夢を! 朝まで生で音楽会」に出演したゲストの皆さんがメッセージを寄せた大型ボードの大判葉書きも入っていた。
封書には、「折曲厳禁」と赤字で注意書きがあったが、ここはアフリカ。
漢字の国ではないから、残念ながらしっかり折り曲げられて届いた。

それにしても、うれしかったなあ。

キンシャサで何度観ているか知れない、「いつでも夢を!朝まで音楽会」のDVD。
♪いつでも夢を♪の歌も良い歌だなあとしみじみ思う。
早速、リビングに「いつでも夢を!」の寄せ書き大判葉書きを飾った。

昨年もずっと、生さだ番組の中で、さださんが支援コンサートの企画を告知し、災害に遭った方たちに心を寄せていこうと呼びかけ続けていた。

そんなさださんの番組の葉書き採用記念品が入った封書がはるばる1ヵ月半かかって、3月11日にわたしの元に届いたのだ。

帰宅して開封し、震災支援番組のゲストたちの寄せ書きを眺めながら、キンシャサにちょうど震災三年目の同日に届いたことにちょっと感慨深いものを感じていた。


これから日本はどういう道を進んでいくのだろう。
わたしは、地震国日本に原子力発電は向かないと思う。
きっと、日本人の知恵と技術と想いで、日本の風土に適した発電スタイルが開発されることと信じる。
街が復興していっても、震災被災者の心に受けた傷は簡単には癒えないことは想像に難くない。
いつまでも、被災者たちの想いに心を寄せていこう、かれらを見つづけていこう、と改めて思うのだった。

2014年3月5日水曜日

キンシャサ水道事情

キンシャサの水道事情の悪さには辟易する。

アフリカ大陸でナイル川に次いで第2のコンゴ河をほとんど丸々有するコンゴ民主共和国なのに、である。
関係ない、かな。
コンゴ水道局のメンテナンスのずさんさ、そして、建物の水道設備の稚拙さ。
この二つが原因なのは明らかだ。

あーあ!
またまた(家政婦情報によると)我が地区一帯、昨日夕方から断水だ。

キンシャサ・仏大使館近くにあるパン屋&カフェ”Nouvelle Patisserie”~憩いの空間!


このアパートで生活を始めて数ヶ月の間は、停電すると必ず断水してそれがしばらく続くのだった。

最初の数ヶ月は、このアパートには停電時のキンシャサ生活必需品、自家発電機が設置されていなかった。というか、設置されていたのだが、自家発電機が壊れてそのまま放置されていた。
だから、停電になるとポンプが作動せず水道水が使えないのは理解できた。
でも、断水したら、ひどい時は2日も3日も水道からの水が一滴も出なくなった。やっと断水解除だと喜んでいたら、また停電となりまた断水になった。
台所と浴室に置いた大型ポリ容器に貯水した水も不足する有様だった。

わたしは夫に何度も何度もこのアパートから引っ越そうと言い続けた。
アフリカ経験豊かな夫からは、その度にわがまま言うなー!、工夫するのみー!と言われ続け、暗い暗ーいキンシャサ生活が続いた。

2,3ヶ月して、この頻繁に起こる断水はアパート内でも我が家だけだということが判明。
理由は、停電の度に我が家の水汲み上げポンプのスイッチが切れて、3階の我が家まで水道水が上がって来ないばかりでなく、停電が解除されても我が家だけスイッチオフ状態のままになっていたのだった。
それが分かってからは、停電が解除される度に階下に行って門番と一緒に庭にあるポンプ室に行き、ポンプの我が家のスイッチをオンにしてもらう、ということを続けた。数名の門番が交代でいるが、かれらは一向に、「停電解除→スイッチオン!」のパターンを学習しなかった。

さらに数ヶ月過ぎ、自家発電機の設置を懇願し続けて、やっと大家は中古の自家発電機を取り付けた。
設置されたときは、このアパートの日本人たちで祝杯を挙げた。

それからは、停電すると我が家のポンプスイッチは切れたままになるので、アパートの自家発電機が作動し始めたら庭のポンプ場まで降りて行ってスイッチを入れてもらう。停電が終わって自家発電機がストップするとまたスイッチが切れるので、下に行って門番にスイッチをオンにしてもらう、ということを繰り返した。

しかし、門番は一向に学ぶことはなく、停電の都度、停電終了の都度、わたしは階下に行って門番にスイッチを上げるように指示し、かれらの学ばない姿勢に悪態をつくのが常だった。


その間にも、”REGIDESO”というコンゴの水道局の断水は起こった。


そして、わたしが今年1月、2月とキンシャサを留守にしている間に、我がアパート東側所帯のポンプが故障し、夫は3日間の断水を経験した。
何度も何度も催促して、ポンプを修理してもらい、やっと水道から水が出た、と思ったら、浴室の水道の水圧が極端に弱くなり、シャワーが使えなくなった。

そして、わたしがキンシャサに戻ってきてみたら、停電時以外にも、アパート内のタンクの水が無くなったといっては断水。
タンクに水が貯まって断水が終わっても、浴室の水圧が弱くてシャワーの水はチョロチョロ。湯はまったく出ない。
そんな日々が続き、シャワーの度に夫が、大鍋と電気ポットをフル活用してシャワー室まで熱湯を運び、浴室のポリ容器の貯水で適温にして「湯浴み」するということを続けた。


浴室バスタブ横に置いた貯水用の大型ポリ容器2つ


もちろん、その間、このアパートの2階に住む大家(モブツ元大統領愛人!)の息子家族のところに日参して、水圧が弱まってシャワーが浴びれないことを言い続けた。

老マダム大家はしょっちゅう南アのヨハネスブルクに旅行に出ているため、懇願相手は老マダム大家の息子の嫁のマダム・アニーさんだった。
お陰で、かのじょと顔見知りになった。英語も話す、スマートでとってもきれいな女性だった。

かのじょも分かっていたようだ。
ポンプが修理不能で、取り替えたポンプの出力が小さいものだった、ということを。
それでも、かのじょにとって、大家のママンドゥーズィはお姑さんに当たる。
立場として言いにくいことは理解できた。
それでも、毎日毎日懇願し続けた。
夫は、もうこんな状態が続くのだったらここを出て行くと言ったようだった。


そして、1月末の断水から1ヵ月半。
わたしがキンシャサに戻って1ヵ月。

やっと、昨夕、以前と同じ出力のポンプに取り替えられたようだった。
門番がこれで水道水は問題なく出るよ、とほっとしたような自慢げな顔をして我が家を訪ねてきた。


ところが、である。
出力の大きなポンプに取り替えられた途端に断水だ!
せっかく、久しぶりに水圧のある、そして温かい湯でのシャワーを夢見ていたのに、である。
最初の断水は取替え工事のミスが原因のようだった。
その時の断水はほどなく解除。
ところが、間もなく始まった二度目の断水はコンゴの水道局”REGIDESO”側の問題のようだった。

夜中から朝までは水道が使えたので、夜中に起きて食器を洗い、明け方から、今夕のお客さんの夕食準備にかかり、洗濯機を回した。
そしてまた、今日、午前中から断水再開!、となる。

あらかたの夕食準備を終えていて良かった。
もう午後3時になるけど、断水は続いている。


コンゴ人の運転手は、水よりもっと問題なのは電気だよ!、と暗い表情で訴える。
コンゴ人の居住地域にあるかれの家では、朝6時から夜10時くらいまで毎日電気が来ないのだそうだ。だから、冷蔵庫に物を入れられないと言う。
家政婦の住む地域ではそれほどひどい停電はないそうだが、かれらの居住地域では昼間に停電することはめずらしくはないのかもしれない。
外国人の多く住むゴンベ地区(我がアパートもこの地区)はそれに比べると停電なんて短時間だ。ゴンベ地区は優遇されているのだろうか。

巨大なインガダムが流水量豊かなコンゴ川で稼動しているのに、隣国にも電力を売ろうとしているくらいなのに、何が問題なのだろう。

運転手は、インガダムからキンシャサまでの送電線に問題があるのだろうと言うのだった。
インガダムを見学したとき、確かに巨大なシステムに圧倒されたが、電気を起こすシステムの3つ(だったか?)の内の1つが故障して稼動していなかったことも記憶から蘇るのだった。

この国はあちこち継ぎはぎだらけ、外見だけ繕って中身もメンテナンスもずさんなのだ、と深いため息が出てしまう。
コンゴの人々の生活の困難さに思いがいくと、わがままも言ってられないなと反省してしまうのだった。


しかしなあ。
フランスでショートヘアにして以来、頭に白いものが目立つようになり、鏡を見ると寂しさを感じるようになった。
この1ヵ月で白さが更に増したようだ。
もうしっかり初老のマダム、だ。

キンシャサ水道事情のストレスなのかも、なあ。

2014年3月4日火曜日

モリンガの葉~続編

キンシャサは、雨季の小休止のような天気が続いている。

先週土曜日は、強烈な太陽が照りつける中を、春休みでキンシャサプロジェクトに参加している慶応大の先生と生徒とともに、キンシャサの無償プロジェクトの現場(職業専門学校校舎建設と産業道路舗装拡幅工事)を見学した。

そして翌日、日曜日は、朝からどんより雲が空全体を覆っているなあと思っていたら,午前中にまとまった雨が降った。
その日は午後1時から日本人のゴルフコンペ、日本大使杯だった。冨永大使との最後の大使杯だったので、やきもきしたが、スタート時こそ雷が遠くで聞こえていたものの、小降りの雨のままで進み、プレイ後半には薄日も差してきたのだった。
そして、無事に日本大使杯も終了。
ベストグロス賞は最後も大使が獲得。
年度末の締めだということで、いろんな賞が発表されて笑いを取っていたが、わたしは”紅一点がんばったで賞”を獲得した。
こんなオバサンでも”紅一点”と言われて、お世辞でもうれしい。
賞品は、なんと日本の”キューピーマヨネーズ”!!。
貴重な日本食に感動すると同時に、なぜだかオバサン=オサンドンに直結する発想に笑えたのだった。
楽しい和気あいあいの月1回の日本人ゴルフコンペ、”日本大使杯”だった。2年半くらい続いたのかな。
冨永大使が帰国され、この名称が変わって継続されていくのだろうが、現在、キンシャサで動く無償援助プロジェクト現場も夏にひとつ終了し、秋にさらにひとつ終了すると、キンシャサの日本人ゴルフ人口も壊滅する勢いだ。
どうにか在キンシャサ日本人のゴルフ人口が復活してくれることを祈るのみだ。


さて。
今年初めの国内旅行で滞在したドイツ人神父様のいる教会でモリンガの乾燥葉の粉を分けてもらって以来、夫婦で毎朝、ティースプーン半分ほどの粉葉をのんでいる。
効用がどうのこうの、というのは分からないが、とにかくのみ続けてみようと夫と話している。


モリンガの枝

このマメ科の植物,モリンガの葉っぱを乾燥させて粉末にしたものを、ドイツ人神父様の教会で分けていただいているのが、下の写真左の白い蓋の瓶に入ったものだ。
本当にさらさらとした粉末だ。


左はモリンガ葉の粉末にしたもの。 右はモリンガ入りショウガジュース

右のモリンガ・ショウガジュースは、夫のプロジェクトの現地スタッフが持ってきてくれた。
このキンシャサ産のモリンガ入りショウガジュースのラベルをズームして見てみると。


Jus de gingenmbre Au MORINGA のラベル

ラベルには、”モリンガ入りショウガジュース”と書かれている。
 le centre mam'afrika/ CEMAF Kinshasa-Rde による生産だと明記され、メイルアドレスも載っている。
emayukua@yahoo.fr
賞味期限は2014年9月とも。

飲んでみると、確かにモリンガの味がして、甘みのついた強烈なショウガ濃厚のジュースだった。
結構いける、かも。


ショウガ入り飲み物で思い出すことがある。
昨年8月の頃、コンゴ人経営だと聞く、キンシャサのペルストアーでお土産になりそうなお茶はないかと物色していたら、コンゴ人だと思われる恰幅の良い裕福そうなムッシュが、わたしの横でゴソーっとお茶の陳列棚から、きれいにセロファン包装をされた箱入りのお茶を買い物カゴに入れるのを目撃した。
「ムッシュ、そんなに買って!そのお茶はそんなにおいしいのですか?」

ムッシュは得意満面で、これはショウガ入り紅茶でねえ、美味しいし、第一、体にいいだよ。あんたも試してみなさい。

わたしも数箱、負けじと?カゴに入れたのだった。
そして、半分をお土産用にし、半分は自宅用にした。
当時,我が家に滞在していた歌手を目指すきぬちゃんという女の子が風邪が抜けないと言っていたので、その濃厚ショウガ紅茶を勧めたら、かのじょはとっても気に入って愛飲していたのを思い出す。

コンゴ料理にももちろんショウガは欠かせない。
コンゴ人にはショウガは健康のためにも身近な食材なのだなあと思う。


さて、今回はモリンガの話だった。
わたしたち夫婦がモリンガ~♪モリンガ~♪と歌うように言っていたら,あちこちからモリンガ情報が届くようになった。

そのひとつ。沖縄に住むわたしたち夫婦の大切な友人から、那覇で見つけたよと写メ入りでメイルが届いた。
なんと、それは沖縄産のモリンガ茶だった!!!

沖縄県産 モリンガ美ら茶



沖縄県産100%で、農薬、化学肥料不使用だって!
すごいー!
日本帰国の楽しみがまたひとつ増えたぞ。
カヤノさん、ありがとう!!