今月は、バコンゴへの旅あり、慶応大学のキンシャサプロジェクトチームの恒例夏休みキンシャサ学生滞在あり、宮崎からの知人夫婦のキンシャサ訪問ありの千客万来、そしてイベントありの盛りだくさんの最高に充実した1ヶ月であった。
キンシャサゴルフ場のマンゴの木 実がたくさん |
宮崎からの知人夫妻は”みやざき中央新聞”という週刊新聞を発行しているエディターたちだ。
だからこそ、本当のキンシャサを自身の目でしっかり観てほしいと思って、キンシャサ訪問を誘い続けたのだった。
イスタンブール経由でキンシャサ入りしたのは8月19日夜。それから25日夜の出発までの6日間、わたしも一緒になって、わたしたちがキンシャサでおもしろいと感じてきた物、人たちを紹介し続けたのだった。
(”IWC国際女性クラブ”は残念ながら夏季活動休止の時期で、IWCの活動は紹介できなかったけれど。)
慶応大学が日本政府の草の根無償により、キンシャサ・ゴンベのISP(Institiution Superieur Pedagogique コンゴ教員大学)の敷地内に建設した「日本コンゴ文化センター」で、日本語プロジェクトに関わる慶応の学生たち、そしてコンゴの若者たちの活動を見学し、色々な話を聞く機会に恵まれた。
そして、その後、皆でISP前にある屋台食堂でコンゴ料理に舌鼓を打った。
コンゴ教員大学前の食堂で |
また、夫のコンゴ人知人が設定してくれて、キンシャサの日刊新聞”L'Observateur”の経済記者とも話し合いが持てたのも良かったのではないかと思う。
ある日は、日本の無償援助のプロジェクトで舗装道路を改修するポワルー(産業)道路の工事現場を訪れた。海外の無償援助で進む工事現場をとても興味深く見学した。
舗装道路工事が進むポワルー産業道路 |
舗装道路に組み込まれる鉄道の枕木を変える工事完了 |
朝の通勤電車が通る |
ポワルー道路に沿って走る鉄道に朝夕の時間帯だけ走る郊外~キンシャサ中央駅間の通勤電車がちょうどわたしたちの目前を通過した。1日に数本しか走らない電車を見られてラッキー!
またある日は、キンシャサ中心部から遠く離れた山を切り開いてキャパス群が点在する国立キンシャサ大学を訪れた。
わたしにとっても初めての訪問だ。
キンシャサ大学への道は細い道路にもかかわらず、大型トラックが目に付く。それもそのはず、この道はバコンゴ、コンゴ河下流の港町に続く道なのだそうだ。
そんな混雑した危なっかしい道を通って、いつか紹介したリヨロさん制作の女性像の横を過ぎ、キャンパス内に入っていった。
まず精神病棟の建物から始まり、薬学部、そして古い小型飛行機が放置(?)された工学部、図書館、男子学生寮の建物と進む。
学生たちが楽しそうに談笑している。
おしゃれな学生たちだ。
病院があった。
とても難しい手術も行なわれる、コンゴで筆頭に挙げられる大学病院のようだ。
キャンパス全体が、ひとつの村落を形成しているように思われた。
そこで、どういうわけかシスターたちにぽつぽつと出くわすのだ。
なぜだろう。
ここは国立大学なのに、なぜシスターたちがいるのか。
するとこんなマリア像を見つけた。
国立キンシャサ大学構内に建つ聖マリア像 |
あそこに建つ大きな建物は何?
劇場かなあ。
いえいえ、劇場はこちらです。
では、あの立派な建物は?
たどり着くと、そこは大きな聖堂だった。
国立キンシャサ大学構内にある聖堂 |
厳かな雰囲気の聖堂内 |
ひとりのコンゴ人シスターが現れて、聖堂内に導かれる。
その日はちょうど結婚式が行なわれる日で多くの教会関係者が式準備に追われていた。
シスターの話で、キンシャサ大学の前身が当時の宗主国ベルギーの大学の姉妹校として建てられたカトリック大学だったと書かれていた「モブツ・セセ・セコ物語」の一箇所を思い出した。
今では、ベルギー人シスターも神父様も本国に帰ってしまったということだった。
確かに「モブツ・・物語」に、”キンシャサのロヴァニュム・カトリック大学は、ベルギーのルーヴァン大学の姉妹校で、モブツは後にそれをキンシャサ国立大学にした。”と記されている。
さらにWikipediaでみると、ロヴァニュム・カトリック大学として創立されたのは1954年で、その後、1971年8月に、キサンガニのプロテスタント自治コンゴ大学(1962年創立)、ルブンバシのコンゴ大学(1956年創立)と合併してザイール国立大学キンシャサキャンパスとなったが、1981年には再び三校に分離し、キンシャサ大学と改名して現在に至る、とも記されていた。
国立キンシャサ大学出身と言うのは、この国では一つのステイタスのように思う。
ところで、このキンシャサ大学構内に原子炉があるということをたまに耳にする。
わたしのフランス語の先生は、それは理学部の中にあり、今では稼動していないし、危険なのは建て屋内だけで何の問題もないというのだった。
しかし、構内の放射能数値が高いということも耳にする。
コンゴの最高学府でこういう事態が続いているのなら、将来のコンゴを担う若者の、そして周辺住民の、さらにはキンシャサ市民の健康が心配になってくる。
この国のカタンガ州では、ウラニウムが多く産出され、それが第二次世界大戦において原爆製造のために使用されたと聞く。アメリカがコンゴ・カタンガ州のウラニウムをベルギーから買って、日本に落とした原爆の製造に使ったのだ、と「モブツ・・物語」に出てくる。
この国が原子炉を持つということの恐ろしさを考えたとき、背筋が凍るような衝撃を覚える。
数日目には、ンガリエマの丘の上に建つ”コンゴ博物館”も見学した。
古いコンゴの楽器、祭りのときに使ったであろうお面と蓑(みの)、呪術用と思われるものも見られた。特にそれぞれに対する説明も添えられていない。
モブツが使っていたという豹皮の椅子とビロード布に豹(?)の刺繍がほどこされた椅子も展示されていた。
展示にまとまりがない、という印象を持つ。
そんな中に、懐かしいドラムを発見した。
昔、電話もモールス信号機も何も交信手段がなかった時代、一村に一台の伝令用ドラムが備えられ、何かニュースがあるとドラムを叩いて村から村へ伝令を飛ばしていた、という木製ドラムだ。
コンゴでは”ロコレ”と呼ばれた 昔の交信手段だった木製ドラム 一本の大木をくり抜いて製作され、人間の大人がまたいで叩くにちょうど良い大きなもの |
一本の大きな木をくり抜いて作られ、人間がちょうど跨げる位のサイズだ。
20年前、中央アフリカの博物館でも見かけた。
叩くバチも木製で、先端の叩く部分には蜜蝋が丸く固めて付いていた。
そのバチで叩くと、とっても良い音が響き、ああこの音でリズムを作って村から村へ色んなニュースが伝えられていたのだなあと感慨深いものがあった。
中央アフリカではなんと呼ばれていたかなあ・・・。
忘れてしまった。残念。
わたしがバンギで毎月発行していた”バンギ便り”に詳しく書いたことがあるんだけどなあ。
コンゴでは、”LOKOLE”,ロコレ、と言うのだそうだ。
昔、昔の交信手段としてのドラムだ。
現在、”LOKOLE”というコンゴのニュース発信会社?の名称に使われていることを知り、おもしろいなあと思った。
コンゴ博物館の庭での写真展 |
ちょうど、コンゴ博物館の庭で、古いコンゴの写真展が開かれていた。
部族ごとに伝わる文化風習をじっくり調べられたらどんなに興味深いことだろう。
彼らのキンシャサ出発前日には、キンシャサ郊外にあるボノボ(コンゴのある地方にしか生息しない類人猿)のサンクチュアリを訪れた。
ベルギー人女性が主催するボノボの保護施設だ。
わたしにとって今回で5,6回目の訪問となるが、毎回行くたびに何がしかの発見がある。
コンゴ地図の中の緑部分がボノボ生息地 |
訪問者に分かりやすいように、フランス語、英語で図解した立て看板が随所に設置されているし、見学の前にきちんとしたボノボという動物の説明があってボノボ保護の啓蒙運動に力を入れていることが窺われる。
ここ2,3回の訪問で感じることは、コンゴのボーイスカウト、学校、教会といった団体を多く受け入れ始めたなあということだ。
コンゴ人のボノボに対する意識変革のためにはとても良いことだと感じる。
何せ、コンゴ人にとっては猿は食用であり、ボノボももちろん食用動物なのだ。
ボノボに詳しい職員が同行してくれる |
前回くらいから、ボノボサンクチュアリの職員が見学に同行して説明してくれるようになった。
今回の職員はここに暮らすボノボ全員のことを把握していて、とても詳しく説明してくれた。
まるでかれ自身がボノボのような(失礼!)優しい目をしたインテリな男性職員だった。
わたしたちが日本人だとわかって、京都大学のカノ(カノウ)教授が病気だと聞いているが、かれの具合はどうなのだろうかととても心配そうに訊いてきた。
カノ(カノウ)教授がどうぞ元気にされていますように。
ボノボサンクチュアリを後にして、途中でおにぎりの昼食を取り、その日、ISPの日本コンゴ文化センターで行なわれているジャパンデーの催しに急いだ。
ちょうど、慶応大学医学部の先生の公衆衛生についてのことを日本とコンゴの事情を比較しながら講演が始まったところだった。
看護学の先生の、日本から始まった母子手帳の効用についての話はとても頷いてしまった。
日本には色んな工夫やアイディアがあって、公衆衛生、母子健康、栄養摂取などの運動が推進されていったのだなあと、改めて我が祖国を誇りに思ったりしたのだった。
アカデックス小学校児童が踊る”ソーラン節” |
講演の後では、キンシャサ郊外で慶応大学のプロジェクトの一環として開校したアカデックス小学校児童が踊る”ソーラン節”が披露された。日本の学生たちが指導したという踊りには感心してしまった。
そして、蕎麦を実際に文化センターで打って、参加者全員に振舞われたのだった。
最後の日曜日は、キンシャサ市内のノートルダム聖堂へ行き、途中からではあったが、ミサに参列した。
キンシャサ・ノートルダム聖堂 |
わたしたちが参列したミサは、青少年向けだったそうで、母親に連れられた子どもたち、そして青年たちが多く来ていた。
午後からはキンシャサゴルフ場へ行き、まずは建物内に飾られているコンゴ人画家の油絵を見て回る。
わたしの好きな画家Mafoloさんの大作にしばし見とれた。
ゴルフ場レストランに飾られているコンゴ人画家マフォロ作の大作油絵 |
緑多いゴルフ場の散策は入り口あたりだけだったが、たわわに実をつけたマンゴの木、ねむの木、そして日本ではクリスマスの時期に欠かせないポインセチアの大きな木を見つけて皆で楽しんだ。
そして、ゴルフ場のパイヨットで心地よい風に吹かれながら、”日替わりゴルファーランチ”でキンシャサ最後の昼食を楽しんだのだった。
かれらの滞在中のキンシャサでの昼食は、フランス大使館近くの小洒落たカフェで、そして庶民のパン屋ヴィクトワールが展開するカフェ”Chez Victoire”でも楽しんだ。
かれらのキンシャサの思い出にと、もちろん買い物にも行った。
市内で一番大きい本屋に行ったが,これで一番大きい本屋なのかとかれらは驚いていた。
アフリカ布地の店にもお連れした。
一般庶民の布地屋Lutexと、最高級布地店VLISCOと。
それから、ISP前にあるボボト文化センター内にある骨董品屋ANTIKAにも行った。
ここの店主の、全ての骨董品に対する造詣の深さには驚く。毎回訪れるたびに、興味津々の話を披露してくれる。
骨董品屋ANTIKAの店主 昔の酋長が被る帽子と |
かれらのキンシャサ発のフライトは20:40ンジリ空港発のトルコエアだった。
途中の中国が工事する道路の渋滞を見越して、16:30に我が家を出発した。
ところが、途中から前代未聞のミラクル大渋滞に巻き込まれてしまった。
3箇所の道路工事部分で、通常片側3車線が1車線だけになっていて、われ先にわれ先にと争って道路工事箇所の手前で片側5車線に膨れ上がり、身動きが取れなくなった車で溢れかえってしまった。
動けなくなったおんぼろ車が、あちこちでエンストを起こして、さらに渋滞を作っている。
窓を開けていたら、あちこちから、わたしたちの車に向かって、「中国の工事なんかやめさせろ!!」と野次が飛んでくる。
夫が、「わたしたちは日本人だ!」と言うと、「ああ日本人の工事はすばらしい,ポワルー道路の工事はすばらしい!」と今度は賞賛の声が飛んでくる。
フライトに間に合わなくなって、バイクを飛ばして空港に駆けつけた知人の話を思い出して、これは是が非でも渋滞から抜け出さなくては!!と気分が高揚してくる。
トルコエアは事前チェックインがないため(エアフランスとブリュッセルエアはキンシャサ中心部のおオフィスで事前チェックインを受けられて荷物も預けることができるのだが。)、大きなトランクを持ってバイクにまたがる事は不可能だ。
困った!!!!!
警察官の交通整理も効果薄だ。
大ピンチ!!!!!
すると、動かなくなった車のあちこちから一般庶民が降りてきて、交通整理に当たり、膨れ上がった車線を徐々に徐々に整えていって、ついに2車線にまでしたのだった。
一般人レベルでの交通整理なんて、日本では考えられない光景だった。
そんな大渋滞を3箇所くぐり抜け、わたしたちはただただ神に祈って、へろへろになってンジリ空港に到着したのが定刻出発時刻の1時間10分前だった。
ところが、かれらの後から後から、乗客が慌ててチェックインカウンターに入ってきていた。
これでは定刻出発はありえないね、と話していたら、肝心の乗務員たちが空港にたどり着けなくて、出発時刻が大幅に遅れたということだった。
もしかしたら、かれらにとってキンシャサのどこの出会いや経験より、このンジリ空港までのアクション映画さながらのミラクル大渋滞脱出劇が一番の思い出になったのかもなあ~、と思うのだった。
かれらと共に改めて観たキンシャサの人々の暮らし。
かれらに生の本当のキンシャサを観てほしいと願って過ごした数日間だったが、果たしてどんな印象を持って日本に帰っていったのだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿