2021年3月6日土曜日

数珠玉の思い出

 こんにちは。
今日も、春のぽかぽか陽気の東京からです。

さて。キンシャサで数珠玉の思い出が2つあります。
一つは、2013年11月30日にキンシャサのドイツ大使館庭で開催されたクリスマスバザーでのこと。
数珠玉で作った帽子やコートを身にまとったコンゴの男性二人が登場して、会場の人たちの注目の的でした。
その時の写真を見つけました。



ベルトまで数珠玉です。
パンツはクバ族の織物で作られています。
当時は、名前こそなかったけれど、かれらこそ、小粋な歌舞伎者、”サプール”(Sapeur)だったのだなあ、と改めて思います。
いやいやホントにかっこつけの極致、伊達者たちでした。
バッグまで数珠玉だったんだ!




二つ目の思い出は・・。
クロスステッチ手芸の会で、いつもシンプルなオシャレで出席していたオランダの大使夫人が、ある日、洗いざらしの白のブラウスにパンツスタイルで現れ、ブラウスには数珠玉のロングネックレスが下がっていました。
かのじょのグレーの瞳と、数珠玉のつややかなグレーがマッチして素敵です。
なんとシンプルオシャレなんだろう!
出席者は、かのじょのネックレスに目を奪われて、質問攻めになりました。
このビーズは天然のものなのよ。
えー、信じられないー!
でも、コンゴでは入手できないと思うわ。
欧米出身のマダムたちは、目をキラキラさせて残念そうにしていました。
すると、ベトナム出身のマダムが、わたしの国にはこのビーズをたくさん見つけることができるから、今度帰国する時に持ってきてあげるわー、というと歓声が上がっていました。
これまた懐かしい思い出です。
かのじょは、本当にオシャレ上手なマダムで、ゴールドのネックレスもダイヤのネックレスも数珠玉のネックレスも同等扱いなのだと感じました。

小さいころ、わたしの故郷でもたくさん見かけた数珠玉。
すすきのような葉っぱを伸ばして、穂先にねずみ色のつややかな”なみだ形”のビーズをいっぱい付けていました。
あるときは、きゃっきゃっ言いながら友達と摘んで集めてネックレスにしたり、ままごとあそびの食材に使ったり。でも、あるときは、見向きもしない。普通に身近にあった数珠玉でした。
時は流れて、ふっと気づくと、わたしの回りに数珠玉は見かけなくなっていました。
周囲の友人に尋ねまわると、埼玉の見沼田んぼ地区の畦道にあるという情報を得て、友人が車で連れて行ってくれました。
そして見つけました、数珠玉を!
九州の友人からも、見つけたよーと送られてきました。
見沼まで連れて行ってくれた友人が、どうせなら、根こそぎ持って帰りなさいよー、と馬鹿力出して(失礼)地下茎ごと束で引っこ抜いてくれました。
そして、根っこから20センチほど残してバッサリ切って、鉢に植えたのでした。
冬の間は、茶色くなって稲刈り後の藁の状態になっていましたが、温かく(!)見守っていたら、なんと、枯れた茎のそばから若芽が二つ!
おまけにスギナまで生えてきました。




コンゴには数珠玉は生えていないと聞いたけど、あのサプールたちは、どこで数珠玉をあんなにたくさん入手して、帽子からカバンから、ベルトからロングコートまで、どんな人が制作したのでしょう!
いまだに夢うつつの映像です。

2021年1月24日日曜日

1冊の本で知る、60年前のコンゴ民主共和国

 


これは、今から60年前の、まだキンシャサがレオポルドヴィルと言われていた頃のベルギー領コンゴの独立前後の1年半の間、領事館勤務の夫と共に暮らした一人の日本人女性の滞在記だ。

アフリカの国々を外交官として赴任し、大使として活躍されたT大使から、「剣と蝸牛の国コンゴ― 黒い大陸の明るい人たち」という貴重な本を貸していただき、内容を書き留めながらむさぼるように読み終えた。
大使からの、”60年前のコンゴを楽しんでください”というメッセージに誘われるように。

著者の山本玲子さんは、夫のレオポルドヴィルの領事館(当時は、在キンシャサ日本大使館ではなく、在レオポルドヴィル日本領事館だったのだ。)勤務の命を受けて、前任地のパリのオルリー空港からエアフランス機に搭乗。マルセイユに寄港した後、一路南下して仏領コンゴのブラザヴィルに降り立ったのだった。
空港からタクシーでコンゴ川の船着き場へ移動して、船で対岸のレオポルドヴィル(現・キンシャサ)へ到着するというルート。当時はレオポルドヴィル(現キンシャサ)への直行便がなかったのだ。

著者はフランス語の堪能な方だったようで、またご夫婦で好奇心旺盛な方だったと見受けられ、わずが1年半の間に、当時まだ運行されていたオナトラ社の豪華客船に乗ってレオポルドヴィル(現キンシャサ)からスタンレーヴィル(現キサンガニ)までコンゴ河を上り、1800kmを1週間かけて船旅を楽しみ、そこから陸路で、”アフリカのエデン”と呼ばれたキブ州へ、そしてルワンダ、ブルンジも訪問して、かのじょの感性で旅日記が綴られている。
イツゥーリの森にすむピグミー(この本の中では、”倭人族”と書いてピグメというルビをふっている!)のこと、ルワンダとブルンジの王さまの違い、そしてその後大虐殺が起こるツチ族とフツ族の関係のことも描写されていてとにかく面白い。
又、エリザヴェートヴィル(現ルブンバシ)訪問の時のことも記されていて、銅の一大産地として発展する町と人々の印象を語る文章にも興味注がれた。
そしてなんといっても、かのじょの洞察力と分析力のすばらしいことには圧巻だった。
コンゴ人がおしゃべり好きで言葉を大切にすること。雄弁家ぞろいであること。だから、政治の場でも話し合いが広がり過ぎて先に進まず時間切れになってしまうこと。かれらのイマジネーションが膨らみ過ぎてそれが嘘をつく結果になってしまうこと。
言語の面からも、宗教の面からも、精神構造の面から、そして、かれら独特の慣習法(先住民族が土地に対して権利を持っているという考え。)に基づいて行動すること。いろいろな角度からコンゴの人たちを見つめている。
そして、コンゴの将来のことについてもしっかり展望を持っていて、水力資源と人的資源の豊富さ、農業にも無限大の可能性を持っていることを取り上げて、そこに交通網の整備が加わればどれだけの可能性を秘めた国だろうとまとめている。
ただ、アフリカの人たちは突然、欧米からの文明の利器を見せつけられて、精神面の向上をおざなりにして「近代化」を推し進めるということを見誤ってしまうのはとても危険なものを含んでいる、と危惧してもいる。(まさに、その後に続くモブツ政権の登場を予見しているようにも感じ取れる。)


夫婦で1960年6月30日の独立前後のコンゴに暮らし、わずか4日後に起こったコンゴ動乱にも巻き込まれて、船で対岸の仏領コンゴ、ブラザヴィルに避難するという経験を通して、彼女の目に映ったコンゴ人の悲劇についてもしっかり書いている。
そして、最後の結びとして、著者の言葉に深く賛同した。
「アフリカ人たちは否応なしに新しい生き方をすることを欲求されているのです。新しい生き方が近代文明を真似ることでないとすれば、かれらが自分で創造しなければならないことです。自分で自分を超えながら。」

この本の題名、「剣と蝸牛の国」について、私自身の記憶整理のために記しておきたい。
カサヴブ大統領の主宰したバコンゴ族の政党、アバコ党は、もとは一般化したキコンゴー(その地域の言語)の純化運動を趣旨にした文化活動のグループだった。その後、このアバコ党は百数十万のバコンゴ―人を完全に組織し、その強力な結束が、コンゴの独立を実現した最大の要因だと言われている。そのことから、カサヴブ氏はコンゴで”独立の父”として尊敬されている、という。
また、アバコ党はバコンゴ―王国(レオポルトヴィルから南西のバコンゴ地方から旧仏領コンゴ、アンゴラに掛けて、14,5世紀ころに栄えた王国)の過去を精神的な支えとしている。
バコンゴ―王国の権力の象徴は「蝸牛と剣」で、その後、アバコ党の微章となった。
”剣”は権威を示し、”蝸牛”は指導者に要求される資質を示す。
すなわち、かたつむりのように、指導者たるものは一歩一歩正確にゆっくりと黙って、そして忍耐を持って進むべきだということを表す。
著者は、「この”蝸牛”の性格をそのまま人格化したような印象を受けるのが、現カサヴブ大統領です」と書き、コンゴ―人たちはカサヴブとも言わないし、また大統領とも言わず、皆、必ず、『国家元首~Chef d'Etat』と呼ぶのだと記している。
著者は、カサヴブ氏にもルムンバ氏にも実際に会っている。


この表題のいきさつを知ったとき、コンゴ独立の歌のことを思い出した。
キンシャサの大学生に、コンゴの国の代表的な歌をわたしたち日本人に紹介してくださいと言ったとき、かれらはちょっと相談してすぐに歌ってくれたのが、この独立の歌、「アンデパンダンス・チャチャ」だった。
歌詞の中には、カサヴブの名も、ルムンバの名も入っている。
コンゴの国の4つの言葉(リンガラ、スワヒリ、チルバ、バコンゴ)全部が入って歌われているということだ。とても明るくリズミカルで、かれらの独立の喜びがあふれている歌。
わたしはキンシャサを離れる日が近づいた時、レストランの生バンドの人たちにリクエストして、「アンデパンダンス・チャチャ」を歌ってもらったことはとても良い思い出だ。


著者は、その後にコンゴの大統領として1965年11月から12年近くもの間政権を握り、コンゴ民主共和国の発展を著しく混乱に陥れたモブツ時代のことをどうとらえているのだろう。
その混乱の時代を生き延びるために国民たちに起きた精神的変化についてどのように考えておられるのだろう。

追記:
著者、山本玲子さんはご存命なら87歳くらいでしょうか。
これだけ、好奇心いっぱいに生きてこられた女性ですから、きっと今も目を輝かせて、コロナ禍で苦しむ世界をかのじょ独特の分析力で見つめていることと信じます。
ご縁があったらぜひお会いしたいかたです。
こんなに興味深い滞在記を著してくださり、ありがとうございました。
そして、T大使にも、こんなにすばらしい滞在記の本に導いてくださり、ありがとうございました。
お二人に心から感謝申し上げます。

2020年12月25日金曜日

キンシャサ中央駅前広場のクリスマスツリーの

Joyeux Noel a Tokyo! 東京からメリークリスマス! 今朝、わたしのFacebookに2013年12月23日発信の懐かしい投稿を見つけました。 思いは一遍にキンシャサのクリスマスのころに飛んでいきました。 キリスト教徒の多く住むキンシャサの町は、当時、11月も終わりになるとクリスマスの雰囲気に包まれていました。 キンシャサ中央駅前広場に立つ大きなクリスマスツリーが毎年のわたしの楽しみでした。 年々、駅前広場が整備されていき、それがキンシャサの平和の象徴であるかのように、大きなクリスマスツリーもますます周りの景色の中で堂々とうれしそうに立っていましたっけ。 今年もキンシャサ中央駅前広場に美しいビッグクリスマスツリーが立っていますように! わたしがFacebookに投稿した7年前の投稿を当時の写真とともにここに再度、載せたいと思います。地球の平和を祈って。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 2013.12.23.
キンシャサ中央駅前広場に大きなクリスマスツリーが立ちました。きれいに整備された広場には噴水もあり、コンゴ人彫刻家Liyoloさん作の2頭のブロンズ製ライオンが噴水の角に向き合うように立っていました。そして、その横にも2個目のツリーが飾り付けられていました。とっても長閑なキンシャサの広場。家族連れ、カップルがゆったりと散歩を楽しんでいる光景に、同じコンゴ東部で起きている悲惨な戦闘状況をどうしても想像することができないのでした。
Now we can see a big Christmas tree at the square in front of the central station in Kinshasa.The square is very peaceful and beautiful with fountain shooting high,two bronze statues of lion produced by Liyolo, who is a famous Congolais sculptor,and another big Christmas tree.Some families and couples were taking a walk happily there yesterday weekend afternoon.We could never imagine the eastern part in R.D.Congo being in combat.
I wish you a happy holiday all over the world.



2020年11月29日日曜日

キンシャサで買ったイエス様降誕の黒檀の置物

 


もうじき12月だと思い立って、キンシャサで買ってきた黒檀のイエス降誕の置物を引っぱり出して我が家のリビングに飾ってみた。
この降誕人形を日本で飾るのは初めてのこと。

高さ15,6cm。土台は幅10~12,3cmほどの楕円形で、黒檀の木片をくりぬいて作られているから、パーツを失くす心配もない。
これからは毎年、この時期になると我が家のリビングに飾ろう。

この飾り物を観ていると、キンシャサ時代のいろいろなことが思い出される。
キンシャサの中心から離れた工場区域のようなところにある教会に併設されたキリスト教関連のものだけを売るブティックで、キンシャサを去る最後の最後に購入したものと記憶している。
土産物用のブティックではなかったから、訪れる客も少なかったし、応対してくれる店員もシスターやシスター見習いのような物静かな女性たちだった。
値踏みするということもなく、価格は定価で静かな中で選べた。
教会というより、すべてが木製で誂えられた、シンプルで静寂な雰囲気のお御堂だったなあ。
5年ほど前のことだ。

2020年10月30日金曜日

キンシャサのSapeur元気かな

  今回も東京から更新します。


もう何年前になるのかな。サプールSapeurという言葉でコンゴの男性たちのオシャレっぷりがNHKテレビで紹介されて反響を呼んだのは。
カラフルな背広を着てゴミ箱をひっくり返したような街を闊歩する男性軍団。
コンゴと言っても、登場する舞台はブラザビルのほうのコンゴでした。
友人の奥村恵子さんは、本当にオシャレなサプールはキンシャサのほうよと力説していましたっけ。キンシャサ・サプールのほうが黒っぽい色使いで、斬新なスタイル。より自由な発想でオシャレを楽しむという姿勢で、ノーマルな背広姿の男性たちはいなかったように記憶しています。
日々の食費にも事欠くような暮らしの中で、着道楽の極みのような男性たち。
めちゃくちゃ、かぶいていました。
変なものにお金を使われるより服に浪費されるほうがマシよ~なんて、おおらかに容認していたかれらの奥さんたちは、アフリカンプリントの質素でクタクタな巻きスカートを着ていましたっけ。


この画像は、インターネットで見つけたものですが、こんな派手派手なカラフルな背広に身を包んで歩くムッシュにキンシャサの街の真ん中で遭遇したことがありました。
その時、写真を撮ってもいいですかと声をかけると、いいよ、どうぞ~とポーズを取って、お金を要求することもなく颯爽と歩き去ったムッシュ。
それもそのはず!サプールたちは、”世界一お洒落で平和を愛するジェントルマン”と言われているのでした。

でも、アフリカの女性たちはマーケットマミーと言われるように、子育てをしながら市場で野菜やそこで作った料理を売って、一家を支える大黒柱。
オシャレなんてしてられない、生活力たくましいオバチャンたちなのでした。

こんなオバチャンが道端で野菜を売って一日を終えて家路に着く途中、我が家のドアをたたいていました。




2013年5月にキンシャサの我が家アパートの玄関ドア前で撮った写真です。あれ。このときはちょっとおめかしをしていました。毎朝、野菜を仕入れて、アヴェニュー・コトゥの屋台で野菜を売って、家に帰ってから売れ残りの野菜で夕飯の支度をして・・・という生活で、家族が皆健康でいてくれる。そんな幸せがあるかい!、と豪快に笑うオバチャンでした。

コンゴ民主共和国では、エボラ出血熱やマラリアの恐怖にさらされ、挙句にコロナウィルスに見舞われて、経済活動にも大きな影を落としているだろうけど、皆、元気にしているかなあ。
どんな苦難の中でも、笑い飛ばしてたくましく生きていると信じます。

この前、NHK「世界は欲しいものであふれている」の番組で2週にわたって、ロンドンで日本の着物が注目されていることが紹介されていました。
自由な発想で、世界から集まる人々が、着物を楽しんでいる姿にびっくりし、開眼させられました!
たとえば、こんな!



アフリカンプリントの着物姿です。
帯はヘビメタな革ベルトを締め、なんと頭にはアフリカ女性のシンボルと言える共布のターバンを巻いている!
番組の終わりで、ナビゲーターのJUJUさんが、いちばん着てみたい着物はアフリカ女性のスタイルだーって言っていました。

アフリカに生きる一般の既婚女性たちには、日々の中でなかなかこんな余裕は生まれないだろうけど、キンシャサのオフィスレディや女子大生たちは、確かにオシャレを楽しんでいたことをはっきり思い出します。

かれらの日々の暮らしがずーっと守られますように。

2020年8月17日月曜日

古切手のなかのコンゴインコ

 日本から失礼します。
キンシャサにいるとき、コンゴインコを飼っていました。


説明を追加


2014年6月18日にわたしのヨウム、ポンと一緒に撮った写真です。しっぽの先だけが鮮やかな朱色で、体毛はグレーでした。

コンゴインコとは言わずに、”ヨウム”と言っていました。現地語のリンガラ語で、”チャクゥ”と言っていたことを思い出します。

チャクゥは、人間の言葉を話すだけでなく、しっかり理解してコミュニケーションを取れる賢鳥だと言われていましたが、我が家の「ポン」は最後まで一言も話さず、一芸たりともせず、わたしたちに決して懐くこともせず、特に男性には攻撃的でさえありました。
くちばしや足の爪がとがっているので、ポンを移動させるときには夫は皮手袋をはめて捕まえ、もうギャーギャー泣き叫んですごい格闘を繰り広げるのでした。
わたしは餌を水をかごの中に入れるときは、素手を入れて取り換えていました。
それでも、怯えてかごの端っこにいるのでした。
きっと、捕獲のときにものすごい怖い思いをした経験が体に染みついているのだろうと夫と話しました。
お隣の日本人ドクターのところのチャクゥも話芸も何もしませんでしたが、おとなしいチャクゥでした。
かれのチャクゥも、我が家のポンも、わたしたちが帰国の時、日本人の友人宅に引き取られましたが、最終的に、我が家の運転手として勤務していた穏やかなコンゴ人家庭のところに行きました。

そして、今年の初め、運転手から夫のメイルに連絡が入り、ポンが亡くなったことを知りました。人間と同じように70年、80年は生きると言われるヨウムですが、かれは多分10年も生きなかったと思います。最後まで、人には、特に男性には懐くことはなかったそうです。

かわいそうなポンでした。
コンゴ、カメルーン一帯に生息し、賢鳥だということでペットと乱獲されて絶滅危惧種になっているそうですが、キンシャサの緑と池の多いゴルフ場を群れを成してのびやかに独特の鳴き声を発しながら飛んでいたヨウム達のことを思い出します。
今も、ことあるごとに我が家のポンを思い出して、胸が痛むのでした。


さて、昨日、この10年近くの間に集まって切り取っていた外国の古切手を、整理して切手収集帳に収めようと思い立ち、行動に移しました。
切り取った古切手を1,2時間、浸水すると自然に紙からはがれます。
流水で糊成分をよくとってから、平たいものの上に水でぬれた古切手を並べて乾かします。
乾くと、これまた自然にはがれて行きます。
そのままにしておくと、紙なのでぼよんぼよんに波打っているし、完全に水分を取る意味でも紙にはさんで軽く重しをして、平たくしてしっかり乾燥させると出来上がりです。



これは、ビニル板に貼って乾燥中の外国の古切手たち(一部!)です。きれいでしょう!
わたしは、こうやって小さいときから古切手を集めて、図柄の美しさを楽しんでいました。
これも、わたしの父が教えてくれたことだと思います。

家族で1992年に中央アフリカ共和国のバンギに滞在した時からは、子どもたちも一緒に古切手のこういった作業をして、収集が始まりました。

日本の切手も世界からの切手も、季節を感じ、どこの国からのものなのかを知ることも楽しいものでした。

この古切手たちの中に、チャクゥ、ヨウムの切手を見つけられますか。

・・・・・。
上から2段目。左から5枚目です。



これです!
カメルーンからの切手ですが、どのようにして我が家にやってきたのかは覚えていません。


わたしのポン!
おかえり!

2020年3月12日木曜日

ブカブに生きるムクウェゲ医師

 コンゴ民主共和国の東部の、自身の故郷であるブカブに1999年にパンジ病院を設立し、産婦人科医として、というより、現地で続く紛争で想像を絶する強姦被害に遭った女性を治療し、精神的ケアにも当たり、映画のタイトルそのままの「女性を修復する男」(かれの活動を追ったドキュメンタリー映画、2015年ベルギー制作)として活動し、2018年にはノーベル平和賞を受賞したデニ・ムクウェゲ医師の自伝小説を読み終えた。




読みながらずっと感じ続けたことは、ムクウェゲ医師の信念を貫き通して生きてきた強い姿勢への感動だ。

「すべては救済のために」(あすなろ書房刊)
(原題は、”Plaidoyer pour la vie” 命の擁護)
デニ・ムクウェゲ著 (ベッティル・オーケルンド協力)
加藤かおり訳
2019年4月15日初版発行

失礼だけど。こんな強面のお方なのだけど、幼い頃からの子どもらしい思い出が文章のあちこちに散らばっていて感受性豊かな子どもだったんだろうなあ、と思うとともに、奥様との出会いにもかれの純粋さを感じ、さらに、我が身に起こる強運を強調して書くくだりにも、ムクウェゲ医師の滑稽なほど真摯な姿勢が見て取れて、かれの人間性への魅力が垣間見えるところだ。
さらに、牧師である父親や信心深い母親たち家族の中で育ったムクウェゲ医師の人生哲学も圧巻だ。
小さい頃に医師になって故郷の人たちのために働くと決心してそれに向かって進む彼のぶれない強さは、フランスに留学して医師としての研鑽も積みながらフランスに残って家族とともに穏便に生きるという選択のほうに魅力を感じても当たり前であるはずなのに、かれは家族で話し合って、自分の生まれ故郷に戻ってきているところにも感じられる。
さらには、その後も脅迫が続いて自分の身に危険を感じて家族とともに他国へ避難しても、わずかな逃避期間を経て、かれはいつも命の危険の待つ故郷のブカブに舞い戻っているのだ。

それから、この本の中で、ムクウェゲ医師の歩みとともにコンゴ民主共和国の現代史も細かく描かれていて、この国の抱える奇妙な運命と悲運についてもしっかり納得しながら読めるのも興味深い。

アフリカ大陸の中のコンゴ民主共和国の位置(「すべては救済のために」より)

アフリカ大湖地方~南北キブ州周辺(「すべては救済のために」より)

ジョセフ・カビラ政権から脅迫や圧力を受け続けたムクウェゲ医師が「唯一の希望の光」と語っていた大統領選がようやく2018年12月末に実施され、2019年1月に野党候補のフェリックス・チセケディ氏が政権を握った。

しかし、現在も変わらず、南北キブ州一帯の治安は安定せず、ムクウェゲ医師の苦悩も続いているのだと想像する。
世界有数の天然資源大国でありながら、その採掘代金は真っ当な政府ルートを通されないまま他国へ運ばれていくと聞く。キブ州には、天然資源採掘問題に加えて、隣国からの難民も流れ込み、政府絡みなのか外国の資本絡みなのか、きな臭い武力紛争が続いていると思われる。
ムクウェゲ医師の自伝の物語を加藤かおりさんの訳で読めてよかった。
(かのじょは、ブルンジで生まれ育ったガエル・ファイユの自伝「ちいさな国で」でも素晴らしい訳をみせている。)

これからもムクウェゲ医師の真摯な活動をしっかり見守っていきたい。