2017年2月28日火曜日

キンシャサ便りふたたび23 ポワルー街路灯、点灯始まる!

ポワルー道路の街路灯 19:00(2017.2.16.)

今月16日、ポワルー道路の街路灯設置工事がずいぶん進んできたから、また見に行きたいと夫が言い出した。もう何度、見に行ったことだろう。
今夕は、街路灯の点灯の瞬間を見たいのだ、と言う。
夫は、ポワルー改修拡幅、そしてこの街路灯設置プロジェクト双方に関わってきているのだった。

わたしも行くー!、ということで、めでたい夫婦は、またまた運転手のボボに頼んで、夕方6時半目指してポワルー道路に向かった。


到着したとき、18:15。
南緯4度のキンシャサは、ほぼ朝6時前後に日の出、夕方6時前後に日の入りを迎えるのだが、2月のキンシャサは夕方6時過ぎても薄明るい。


日没前、街路灯は未点灯 車内の時計は夕方6:26(2017.2.16.)

夕方6時半頃に、やっと暗くなってきた。

そして、6時半過ぎて、街路灯は点灯し始めた。

ポワルー道路街路灯が点灯直後の様子 18:30過ぎ(2017.2.16.)

太陽光電池の街路灯は夕方18:30過ぎに点灯を始め。夜中の人通り、車の通りの少ない時間帯(夜中0時過ぎ)は灯りを弱め、朝6:00に消灯する、というふうに自動コントローラーで時間設定をしているのだそうだ。
充電バッテリー容量と、日照時間や通行量の関係からの設定だ。


さて、電柱の基礎部分の工事を見てみよう。


街路灯電柱が設置される基礎部分の工事 2017.1.30.(コンゴ人技師facebookより)


ポワルー道路沿いに電柱が埋め込まれたところ 
まだ土がむき出しの状態だが、この後、表面が舗装されて完了となる(2017.2月中旬)
左後方に”KITEA”の看板が見える(コンゴ人技師facebookより)

現在、土中の基礎工事はすべて終了したのだそうだ。
コンクリートの土台を土でいったん覆って電柱設置を待つ。
順次、土を取り除いて、大型ネジで電柱を土台に取り付け、再び土を被せていく。
その後、電柱周りは歩道と同じような舗装が施されて設置完了となる。
ポワルー道路沿いに設置される太陽光街路灯は全部で563本。
そのうち半分以上の電柱は取り付け済みだと聞いた。


2017年1月26日(木)付のコンゴ民主共和国の日刊新聞紙、”Observateur”に、日本政府援助で、ポワルー舗装道路改修・拡幅工事に続き街路灯の点灯工事が始まっている、という記事が載った。


Observateur日刊紙のポワルー道路街路灯設置の記事

夫は、この記事の街路灯の写真を見るなり、街路灯の写真が違うと憤慨した。
ポワルー道路拡幅工事施工前に立っていた、電線の付いた古い街路灯だ、と。
確かに、新しい街路灯は太陽光利用なので、電線がない。
以前の街路灯は、電線が切れて機能していなかったと聞く。
それでも、その古い街路灯たちは修理されて、別の道路の街路灯として使い回されているとも聞いたが、ぜひ、そうであってほしい。

この記事を読むと(辞書と格闘して読んだ!)、ポワルー道路沿いの住民たちがどれだけ、街路灯設置を待ち望んでいたかが理解できる。
また、沿道住民の声として、ポワルー道路の舗装改修と拡幅工事に感謝し、さらに街路灯設置に対する日本政府の援助にも感謝を述べているし、更に、コンゴ民主共和国と日本の関係が良好なのは、ポワルー道路のプロジェクトだけでなく、職業教育分野や保健衛生分野にも日本の援助が入っていることでも分かるとも紹介されていた。

新聞、テレビ、ラジオなどのメディアにも取り上げられ、建設大臣一行の視察団も現場を訪れ、日本の支援が入っていることをコンゴの人々に知ってもらえることはうれしい。

コンゴからはるか遠い日本に思いを馳せてくれる小さい子どもたちがこの国に増えたらな、なんて思うのだった。

2017年2月22日水曜日

キンシャサ便りふたたび22 キンシャサの大型ホームセンター

昨年9月にキンシャサに再び到着した時、友人からリビング用品百貨店のような店がオープンしたと聞き、キンシャサ在住外国人(+コンゴの富裕層)にとって便利になったなあと感慨深いものがあった。


キンシャサのホームセンター ORCA (2016年撮影)

キンシャサ生活が始まって早速、その友人の新しいお宅に伺い、敷かれていた玄関マットにまず感動した!

これ、フランスで買ってきたもの?

以前、わたしはキンシャサで使う玄関マットを探し回って見つからず、娘の住む南仏でわざわざ買って運んできた経緯があった。

ああ、これはキンシャサよ、キンシャサのリビング用品のお店で買ったのよ。
こともなげに言う。
ビル全体がリビング用品だと言う。
えー!そんなリビング用品のお店があるの!行きたいー!

ということで連れて行ってもらったそのリビング用品の百貨店のようなお店のビルの前に立って、まあびっくり!驚いた。
教えてくれた友人は、前任地のブルキナファソのウアガドッグにも同じホームセンターがあったから、アフリカじゅうにあるチェーン店ではないかと言う。

ともかく、全館6階建てだったか、リビング用品がすべて揃うと言っても過言ではない!
皿、コップ、グラス、ナプキン、鍋、フライパン、電化製品、家具一式、カーペット、玄関マット、シャワールーム、バスタブ、タオル、洗剤、カーテン、庭用品、写真立て、文具(なんとノートがなかった)、スポーツ用品、かばん!
本当にゴルフ用品以外(!)なんでも揃っていた。
しかも、そんなにべらぼうに高くはない。(ちなみに、キンシャサの物価の高さはアフリカ一と言われている。)
友人が言うには、アイロンは他のスーパーマーケットで買うより格段に安かったとか。


2012年1月にキンシャサに来たときに存在したホームセンターといえば、”African eagle”というちょっと大きめのよろずやもどきの店だった。
タオルは花か龍か仙人模様の柄の中国製の粗悪品。食器や鍋もひと昔もふた昔も前の先進国で売れ残ったようなものが埃かぶって乱雑に置かれていてがっかりし通しだった。

家具屋と言えば、キンシャサ郊外に家具製作所に直結した青空市場の家具屋で、そこの家具を買ったら土の上に置かれているから、すでにシロアリがへばりついて木材が喰われているという代物だった。

ちょっとしたリビング装飾品を探そうにもそんなこじゃれたショップはなかった。
”Habitat”という、名前だけはフランスでも見かけるリビング用品店は2、3店舗存在したが、なんとも、ベルサイユ宮殿に住まうつもりですか、と訊きたくなるような成金趣味的な、ゴージャスな、おまけに目が飛び出すほどの金額の家具ばかりが陳列されていた。
でも、だからこそ、ちょっとお洒落でシンプルなリビング用品店を発掘する楽しみもあったのだが。
(そういえば、北欧家具のような素晴らしい家具を作る、北欧人指導の家具の工場直結の展示ルームを紹介されて訪ねたことがあった。確かに素晴らしい家具だったが、高価格にたじろいだことも懐かしい思い出だ。)

そして、最初の頃のブログで紹介したが、夫から、ポワルー道路工事現場近くのリメテ地区にリビングショップを発見したと聞いたときは天にも昇る気持ちだった。
夫は、”IKEA”がキンシャサにもあったぞー!、と言ったのだったが、行ってみると、なんと、その名も”KITEA”。



キンシャサの ”KITEA”ショップ (2012年撮影)

KITEAに来てや~。なんて。
肩すかしにあったような気分になったものだ。
それでも、屋根付きの店舗のセメントの地面に並べられた家具を見て安心感があった。
べニア板で作られたちゃちな家具ではあったが、シンプルなデザインだったし価格もそれなりで、キンシャサにもまともな家具屋ができたとうれしかった。
モロッコからのチェーン店だという噂だったが、今も、ポワルー道路近くで、健在だとは夫からの情報だ。

そして、2016年後半、2,3のショッピングモールがキンシャサにオープン。
体裁を取りつくろうのが好きな(失礼)富裕層コンゴ人向け、そして、外国人向けになのか、どこのショッピングモールにも家具屋が入っている。

キンシャサの大型ホームセンター、”ORCA”。
そこのビニル買い物袋にイルカのような魚のマークが印刷されている。ビルの正面にも同じ魚のマークが付いている。調べてみると、”ORCA”は、英語で”シャチ”の意味だった。
6月30日通りをキンシャサ中央駅に向かって進み、中央駅を右折して直進した突き当りの白い建物で、入り口に大きく赤い枠が目立ち、その上にシャチのマークが見える。

”ORCA”の商品。そんな高くもなく、品質もしっかりしていて、普通にシンプルな台所用品、洗面用品などの生活用品が各階ごとにテーマを持って、そして更にジャンル別に理路整然と棚に取り出し易く並んでいる。
キンシャサで、日本でも普通に見られるような日用品や家具(やはりちょっとけばけばしい趣味のものもあるけれど)を選べるようになったことは、他国からの滞在者には本当にありがたい。

2017年2月20日月曜日

キンシャサ便りふたたび21 キンシャサのコーラスグループ ”KINPHONIK”

先週2月17日夜、キンシャサの美術展示場、Texaf- Bilemboで、”KINPHONIK”のコンサートが催された。





”KINPHONIK”は、Francy BAMBAさんをリーダーとする16人(かれらのfacebook上では14人と紹介されているが?)の混声コーラスグループだ。2,3人ほど欧米人のメンバーがいたが、おそらく、キンシャサで活動する、コンゴ人のグループだと思われる。

キンシャサ情報通の日本人の友人から、KINPHONIKコンサートを勧められて夫と行ったのだった。大人一人20米ドル、子ども料金もあり、15~10歳一人10米ドル、10歳未満無料。小さな子まで入場できるのも家族一緒に楽しめてうれしい企画だった。
そして、かれらの歌声にのめり込んだ3時間だった。

昨年は、PULLMAN Hotelで開かれ、いろんなジャンルの歌が披露されて客席で踊る人もいたと聞くが、今年は、題して、
「WOLFGANG QUI ?」・・・・・ウォルフガングってだれ?




もちろん、 ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトのこと。
これが、今回のKINPHONIKコンサートのポスターだ。

ということで、2部構成のコンサートでは、モーツァルトの曲を中心に20曲が披露された。
ソプラノ3人、アルト5人、テノール5人、バス3人の混声グループ。
低音がなんとも魅力的なグループだ。
電子ピアノとシンセサイザーだけの伴奏。
最初は、スポンサーのひとつ、飲料会社BRACONGOのビール銘柄のTEMBOの布地を使ってのコスチュームで幕が上がった。
そして、男性は黒の革ジャン、女性は色鮮やかなショートジャケットに身を包んだパンツスタイルでカジュアルで軽快な雰囲気のステージになった。
そして、最後は、アフリカ布地を使ったゴージャスなステージ衣装に替えて現れた。





圧巻の歌唱力、演技力。
そして、衣装も鮮やかで、視覚でも観客を楽しませてくれた。

場所は、以前、アフリカ布地の工場だった建物をそのまま美術展示場として使う(だからこそ)ちょっとオシャレな空間、Bilembo。
広い空間に200人は優に超える観客が集まり、ビールを片手に、小さい子どもたちもOKで、15分間の休憩では、客席後ろにスナックも並んで、すばらしいコンサートを堪能した。

かれらのステージを観て、2013年だったかに日本でも公開されたドイツ制作の映画、”Kinshasa Symphony”を思い出した。
キンシャサのカトリック系教会”Kinbanguiste”に付属したコンゴで唯一のオーケストラの団員の日常を扱ったドキュメンタリー映画だった。
クラシックの楽器を入手することもままならないコンゴで、バイオリン数丁から始めたオーケストラだ。指導者も大変だったことだろう。そのオーケストラには、合唱団も存在していた。オーケストラ活動だけでは生活できない団員たちは、それぞれに仕事を持っていた。
キンシャサの街の中で仕事を持ちながら、練習に集まってくる団員たちを描くとても良い映画だった。
かれらが映画の中で言っていた。
音楽(歌)があれば、生活上の困難も忘れられる。病気で熱があっても吹っ飛んでしまう、と。
コンゴの音楽と言えば、リンガラミュージックしか頭に浮かばなかったが、ここでもクラシック音楽が育っているのだと感動した。

”KINPHONIK”のfacebookを見つけた。
非営利団体、ということは、プロではないということだ。
今回のコンサートでは、銀行やホテルなど7社のスポンサーがついていた。

”Kinphonik”で検索してみて。動画も観られるはず。
本当にすばらしいコーラスをありがとう!

2017年2月15日水曜日

キンシャサ便りふたたび20 キンシャサの日々~2月

1月半ばにキンシャサに戻ってきて、早1ヵ月が過ぎた。

我がホテルアパートメントの入り口ドア前から

夜9時前にはわたしも夫も寝てしまう(!)から、朝はおのずと夜明け前から目覚めて活動が始まる。
雨季のじめっとした朝、夜明けが近づくと小鳥のリズミカルで陽気なさえずりが聴こえてくる。

パ・ピエポッ  パ・ピエポッ
パーピエポ チチッ  パーピエポ チチッ
チュッ ピエット チョン  チュッ ピエット チョン

決してけたたましくはない。
でも、さすがアフリカの小鳥だけあって、テンポの取り方がすごい!、と感心してしまう。
とにかく陽気でリズミカルなのだ。

そして、夜が明けて、我が家、ホテルアパートメント(日本式の二階)の入り口ドアを開けるとこんな光景が目に入る。
隣の古い建物の赤い窓のテントがかわいらしい。
どんな人が住んで、どんな暮らしをしているんだろうと考えるだけでほっと温かくなる。
でも。小さな窓だし、古い建物だし、想像するだけにしておいたほうが幸せなのかな。


ちょうど1週間前の火曜日は夜明け前から降り始めた激しい雨でキンシャサ中の狭い川があふれ出し、キンシャサ中の道路が浸水。川のように流れる幹線道路の映像がfacebookでいくつもアップされていた。
狭い川があふれて町中が浸水した原因として、ベルギー植民地時代に築造された下水道の容量を超えていたということもあるだろうが、川に流されて出口を塞いだ”プラスティックゴミ”だというのだから、さすが!と意地悪く讃えるべきか、情けなくて悲しくなるというのか。
お陰で、川から水が引いてみると、きれいさっぱりゴミが流されて、川がきれいになった!、というのを聞いて、はて??
そのゴミは、コンゴ河に流され、大西洋に行きつき、地球中を回って、海洋環境汚染に繋がっていくのか、と考えると末恐ろしくなる。

この国にはプラスティックゴミ回収処理システムが未整備のまま、プラスティックやビニル製品で溢れかえっている。
大きなプラスティック工場がキンシャサにあっていろいろな製品を製造している。スーパーマーケットに行けばビニルの買い物袋が欲しいだけ(!)もらえる。また、ペットボトルに入った格安のキンシャサ製ミネラルウォーターのメーカーの数もここ2年ほどで増えたなと感じる。

固定電話が家庭や事務所に普及することなくスルーして携帯電話社会になったような矛盾した発展経路が、ゴミ回収処理システム未開発のままプラスティック(ビニル)製品が大量に生産されるこの国の消費社会にも当てはまるように思える。


そんな時にわたしが決まって思い出すカトマンズでの出来事がある。

もう30年以上も前のカトマンズでの生活時に、オーストラリア出身の女性から英語を習っていた。かのじょから、オーストラリアのヒマラヤ山系ゴミ回収の活動をするNGOが登山者向けに発行した英語パンフレットの(日本人登山者用のための)日本語版を一緒に訳してくれないかと依頼されたことがあった。
その中に、
「あなたの国から持ち込んだ荷物のゴミは自国にまた持ち帰ってほしい。」
という項目があった。それは、ネパール国内で生産されていない缶詰や酸素ボンベなどのプラスティック製品の不燃ゴミを(ネパール国内で)回収処理をする技術を持ち合わせていないからだ、と理由がしっかり記述されていた。
なるほどなあと思った。
逆に、自国でゴミ回収処理技術のない素材の物は、自国では生産禁止だということになる。
生産から消費へ、そしてゴミ回収処理までの経路を熟慮して責任を持った生活をしないと、地球環境は保護できないのだ。

自然環境保護は地球に住む人たち全体で考えないと解決できないのだと痛感する。
先進国も開発途上国もないのだ。


キンシャサに住む外国人は街中を自由に歩けないからこその健康維持兼娯楽のためのスポーツ、ゴルフがある。
そのゴルフ場も先週火曜日の豪雨で、(先週)木曜日の時点で前半の1ホールから9ホールまでは使用禁止だった。
低地に広がり、前半ホールには池が点在するコースなので、浸水してしまったのだ。
(先週)木曜日は後半のコースのみのプレイ、また週末の土曜日は全コースのプレイは許可されたもののシャリオ(ゴルフバッグ載せ手押し車?)の使用は全コースで禁止された。コースが傷むからという理由だった。
そして迎えた12日、日曜日の日本大使杯ゴルフコンペの日だった。
開催があやぶまれたが、その後の順調な天気回復でコース状態も立ち直り、無事に朝7時スタートで参加者14人が通常のプレイを楽しみ、表彰式を兼ねた昼食会まで無事に終了した。
わたしたち夫婦も元気に参加できたことに感謝!

そして今朝、火曜日はゴルフ仲間のマダムたちとプレイの約束の朝だ。
さあ、出かけようとしたら、夫のプロジェクトの運転手から、キタンボマガザンの先の地区で軍隊が集結してきな臭い事件が昨夜から続いているから、今朝のゴルフ場行きは止めたほうがいいと忠告を受けた。2人の死者も出たそうだ。
友人に連絡を取り、日本大使館の知人にも連絡し、情報を総合して、ゴルフを予定通りすることにして、出発した。
ゴルフ場に着くと、いろいろな国のマダムたちが集まってプレイの準備をするいつもと同じのどかな空気が漂っている。大丈夫だ。
途中の休憩は取らずにちょっと急ぎめにプレイをしたら、11時半前には終了。
よかった!
そして友人の運転手の車で我が家まで送り届けてもらう。

火曜日、木曜日の午前中の女性仲間でのゴルフ。
土曜日、日曜日の夫や友人たちとのゴルフ。
そして、先月から再開した、金曜日午後のフランス語のプライベート授業。
ときどき、誘いを受けるお茶会。
おたがいに貸し借りし合っての読書。
車でしか外出できない、また治安も安定しないキンシャサでの生活は、やっぱり厳しい。
そんな中でのささやかな楽しみをぽつぽつと置きながら、2月も半ばにさしかかろうとしている。


1月は ”いく”。 
2月は、”にげる”。 
3月は、 ”さる”。

キンシャサの雨季は、もうちょっと・・・5月に入るまで続くんだったかな。

2017年2月7日火曜日

キンシャサ便りふたたび19 ポワルー道路改修工事に関わり、ポワルー道路を愛したコンゴ人エンジニア、ムタンバさん

政治家チセケディ氏追悼の枝の飾りとプロジェクトの運転手

モブツ大統領時代から一貫して非武装の民主運動家として闘ってきた最大野党、民主社会進歩連合の党首であり、3度の首相就任で庶民の信頼も厚かったチセケディ氏が今月2月1日に84歳で亡くなった。
以来、通りを走る車にはナツメヤシなどのヤシ科の枝葉が飾られて、チセケディ氏の死を悼んでいる。
夫のプロジェクトの車にも枝が一本飾られていた。
でも、あれ?
運転手に、ヤシの葉っぱじゃないよと言うと、しまったという感じで今度変えておきます、と言うのだった。(と言うわけでいつものような優しい顔つきではないが、この運転手、とっても茶目っ気のある優しいムッシュなのだ)。
さて、大統領選延期で揺れるこの国。大きな影響力を持っていたチセケディ氏の死去で、はて、この国の道はどのように続いていくのだろうか。


そんな政治力など持ち合わせないコンゴ人だったけど、夫たちのプロジェクト、ポワルー舗装道路改修工事関係者の中で人望も厚く、熱心にプロジェクトに取り組んでいたムタンバ氏がまだ66歳という若さで先月亡くなった。
昨年、わたしたちがキンシャサを離れる前日にかれにクリスマスプレゼントを届けようとしたら、かれはめずらしく体調を崩して自宅にいるということだった。
そして、わたしたちが東京に帰り、そろそろキンシャサへ戻ろうと準備していた1月の1週目だったかに東京でかれの訃報を受け取った。あれだけ精力的に働いていたかれの姿を思い出し、キツネにつままれたような気分になったことを思い出す。

あれから約1か月。
先週末に、ムタンバ氏の追悼ミサが、かれの所属する、Cellure Infrastracture(夫たちは、よく”インフラ室”と呼んでいる。公共事業省に属する政府の機関で、全国の土道に対して改修を行う機関。)の中庭で、ムタンバさんの家族、同僚が集まって厳かに和やかに営まれた。
同じインフラ室で働き、ポワルー道路改修に同じように精力的に関わり、昨年9月に出張先の中央アフリカ共和国、バンギで突然亡くなったセレ氏の追悼ミサも兼てのものだった。

二人のにこやかな写真を前に、司祭が式を進める。
右端に数名の聖歌隊が電子ピアノと共に声高らかに聖歌を奏でると、庭の小鳥たちも呼応してさえずる、穏やかな午後だった。


2車線だったポワルー道路を突然、4車線にしたいと言い出したコンゴ政府と、2車線のままで舗装改修の無償援助プロジェクトを開始しようとする日本政府の間で、日本側プロジェクトメンバーと共に精根込めて実務面で動いたムタンバ氏とセレ氏。
セレ氏はブルキナファソ出身だったが、世界銀行とEngland aidが支援するインフラ室に入って素晴らしい活躍をした方だったと聞く。
両氏とも、エンジニアの立場からの知識を駆使して、いろいろな提案をして舗装改修工事をサポートし、ポワルー道路を我が子のようにかわいがってプロジェクトを推進してきたそうだ。

4車線舗装改修工事が終了した時、ムタンバ氏は、「皆に誇れる道路ができた。」と大層喜んだという話だ。
だから、かれが、ポワルー道路に街路灯が完成するのを楽しみに待っていたというのは想像に難くない。実際に、ムタンバ氏は調印で訪日した時に、太陽光の街路灯の工場まで足を運んで熱心に見学していたそうだ。


ポワルー道路両側に設置され始めた太陽光電池の街路灯 (2017年1月中旬)

この街路灯の一部区間に初めて灯りが灯ったのが1月15日だった。
ムタンバ氏が亡くなって1週間後だった。
夫とともに、運転手の運転する車で灯りが灯って明るくなったポワルーを走ってみた。
夫は嬉しそうに何枚も何枚も写真を撮り続けていた。

もうひとり、インフラ室で懸命にポワルー道路プロジェクトに携わってきたンテラ氏というコンゴ人も忘れてはならない。
かれは、追悼ミサの最後で友人代表としてスピーチし、ポワルー道路に街路灯が灯った光景をムタンバ氏に見せたかった、としみじみと語った。


ポワルー道路に街路灯が灯った!(2017年1月15日)

ポワルー道路改修関連の無償援助の調印のときに訪日したムタンバ氏は、我が家を二度訪れてくれた。我が家の子どもたちも交えて楽しく食事会を持ったとき、自身のお子さんのことを話す優しい父親としての顔になった。
事務所のかれの部屋を訪ねると、いつも書類を山積みにした机に向かって忙しそうに執務していたが、わたしたちに気づくとどんなときもニコニコして出迎えてくれた。
プロジェクト関係者の結婚式にマダムと共に出席して楽しげだったムタンバ氏の笑顔も思い出す。
わたしたち夫婦は、あなたとの出会いを忘れません。

ムタンバ氏の家族がこの国で幸せに暮らしていけますように。
そして、ムタンバ氏がこよなく愛したポワルー道路がこれからもかれの誇りの道路であり続けますように。