2017年1月30日月曜日

キンシャサ便りふたたび18 キンシャサの1月

キンシャサ中央駅前広場のクリスマスツリー by RAWBANK

今月12日夜に、1か月ぶりにキンシャサに戻ったときに、お帰りなさいと言わんばかりに、いつものクリスマスの季節の時と変わりなく中央駅前広場に大きく立って出迎えてくれたクリスマスツリー。
今季は、12月の暴動が予想されたりして、クリスマスデコレーションをキンシャサでは見られないかなあと思っていたので、中央駅前に例年と変わりなくクリスマスツリーの灯りが見えた時、安堵感が広がった。ああ、いつもの変わりないキンシャサでよかった、と。

いつものようにスポンサーはこの国の銀行、RAWBANKだ。
立つ位置が、今年は広場の真ん中に移っていたせいか、6月30日通りから見るとちょっと小振りに見えたが。やっぱり、若者のデートスポットなんだろうな。

わたしたちが私書箱を持つゴンべ郵便局とESPキンシャサ教育大学の間に広がる緑地帯公園には今シーズンのクリスマスツリーは立っていなかった。
でも、6月30日通りの、中華レストラン・マンダリンが最上階に入る保険会社のビル前には、初めて(?)こんなクリスマスツリーがお目見えした。

警備会社ビル前のクリスマスツリー 

そして、今年、キンシャサで初めて出会ったものがもう一つ。
ガレット・デ・ロア Galette des Rois だ。

クリスマスケーキがケーキ屋さんから消えて、代わって登場するのがこのパイ生地で作られたガレット・デ・ロワ。キリスト教の祭日、エピファニー(Epiphanie)にちなんだケーキで、キリストの誕生を祝って東方から来た3人の王様(だから王様 ”roi” も複数形だ。)に起源をもつお祭りのケーキだということだ。

この祭日は1月6日。
ガレット・デ・ロワは正式には1月8日に食べるようだが、クリスチャンでもない限り食べる日にちにはこだわっていないと聞く。

このケーキはゲームの要素があってとても楽しい。
ケーキを買うと、紙で作られた王冠がもれなく(!)付いてくる。
そして、ケーキの中には、小さなフェーブが入っている!!!
この"feve"は、「そら豆」という意味だ。昔は乾燥したそら豆を入れたのだそうだ。今では、陶器製、または金属製(こちらはわたしは見たことがないけど。)の飾りになったとか。

切り分けたガレットにフェーブが入っていた人は、王冠をかぶって、王様あるいは王妃様になれるのだ。そうやって、このガレット・デ・ロワで、家族や友人たちで新年のお祭り気分を楽しむのだとフランスでのこととして聞いた。もう15年くらい前のことか。
娘が高校生の時にフランスに留学したときに興奮気味にこのケーキの遊びのことを便りに書いてきたことで知ったように思う。

わたしが実際に日本でこのガレット・デ・ロワに出会ったのは、飯田橋の日仏学院の中のレストランだった。息子の学校の父兄会の後、母親数人でランチに入ったときだった。また、娘からこのケーキのことを聞いた直後だった。
レストランのメニューに「ガレット・デ・ロワ」の名前を発見!思わず、デザートに頼んだ。お店のフランス人が、残念だけどフェーブは入っていませんと言ったのが印象的だったな。
そのときのガレット・デ・ロワはアップルパイだったように記憶している。

ガレット・デ・ロワは丸い形をしたケーキ。
パイ生地にアーモンドクリームが入っているもの(フランジパーヌ・・・わたしには白あんのようで大好き!)が一般的だとか。南仏ではブリオッシュタイプのものもあるらしい。最近では、チョコレートが入っているのも流行っているとどこかで読んだ。

4年前だったか、わたしが1月のパリを訪れた時、”パリ・とらや”で、とらや特製ガレット・デ・ロワに出会った。
店員さんにフェーブのことを訊くと、日本の陶磁器の工房で丹精込めて制作された、和菓子の形のフェーブが入っていますと説明を受け、そのフェーブを見せてくれた。
フェーブだけでも買えますと言われたが値段を聞いてびっくり(娘たちはフェーブ収集を楽しんでいる!)。だったらケーキも一緒に買おうと決め、とらやのガレットデロワを南仏アンティーブに住む娘たちへのお土産にした。
ケーキの中身は、さすがとらやさん、”小豆のあんこ”だった!
美味しかったのは言わずもがな!


さて、話をキンシャサに戻して。
今年1月、わたしはキンシャサの代表的なケーキ&パン屋のヌーベルパティスリーと、エリックカイザーで、それぞれのガレット・デ・ロワを見つけて買ってしまった。


ヌーベルパティスリーのガレットデロワ王冠付き&フェーブ

エリックカイザーのガレットデロワ王冠付き&フェーブ




美味しかった!それに”夢”もいただきました!!!
上のは、マジパン(フランジパーヌと同じ意味と解釈しているのだが)のガレット・デ・ロワ 。
下のは、アップルパイのガレット・デ・ロワ。
どちらも4人用で、各20米ドルちょっとだった。
この国の一般庶民には無縁のものなのかもな。

仏語の先生をするコンゴ人のコレットさんに訊くと、かのじょはプロテスタントだからガレット・デ・ロワでお祝いはしないけど、カトリックの家では、ケーキを食べてお祝いをするとのこと。果たして、どれくらいの層の人たちを指すのか。

冒頭の中央駅前広場の立つクリスマスツリーのスポンサーであるRAWBANKのキンシャサ市内の建物は、こんな飾りでも楽しませてくれた。


ビル全体にリボンが掛かったRAWBANKビル~RAWBANKのfacebookより


ケーキ屋のガレット・デ・ロワも今月末には姿を消した。
警備会社前のクリスマスツリーもすでに撤去された。
でも、中央駅前のツリーはまだ夜のキンシャサを照らしている。
夫の運転手曰く、2月のバレンタインデーまでは立ち続けるよと。

ここで。もう一度、冒頭のツリー写真をご覧いただきたい。
てっぺんに付いているRAWBANKの商標、わたしはずっと「バナナ3本」と信じて疑わなかったが、こうやって見ると、「三日月3つ」なのかなあ。
見にくいかたは、すぐ上のビルの写真でご確認を。
って。そんなことどうでもいいか。

こうやって、キンシャサの1月も無事に過ぎて行くのだった。

2017年1月25日水曜日

キンシャサ便りふたたび17 キンシャサ、平和通りの靴磨きムッシュ

アベニュー・ド・ラ・ぺ Anenue de la Paix の靴磨きのムッシュ (撮影 夫)


キンシャサ中央駅前から真っ直ぐに伸びる6月30日通りを進んで右折すると”Rond-Point Forescom”という、道路が7本にも分かれる円形交差点がある。
そのうちの一本が、この”Avenue de la Paix”、わたしたちの住むアパートの前の通りだ。

”La paix”とは、フランス語で「平和」という意味。
パリのオペラ座近くを通る、ツンとすました、”Rue de la paix”とは大違い。
キンシャサの平和通りは、舗装されてはいるものの、下町のごちゃごちゃした通りで、わたしたちの住むアパート側には銀行のATM、食堂などが並んでいるが、2車線の通りの反対側は、植民地時代からの崩れかけた、ダイヤモンドの絵なんかが描かれたりする古い建物が残っているような通りだ。
そんな冴えない通りに、コンパクトにまとめられたキヨスク屋台小物売りやら、バナナ売りマダムやら、携帯電話のクレジットカード、両替商のムッシュやらの露店が暇そうに日がな一日座ってぽつぽつと店開きをしていて、そういう点では、本当に”平和”そうな雰囲気の通りではある。

左は携帯電話のカード売り、右は感心するほどコンパクトに並べられたキヨスク屋台

この反対側の歩道に、冒頭の靴磨きのムッシュが陣取っている。
キンシャサの人々は靴のオシャレには結構なうんちく(?)を持っていて、街のあちこちで靴磨きのムッシュを見かける。
わが町、赤羽で見かける露店の靴磨きのおじさんは黒光りのするような年期の入った木製引き出しを背に身の回りをきっちり整理整頓して靴磨きのプロっぽく座っているのだが、ここの平和通りのムッシュはこの通り。周りにビニル袋が数袋あるのみ。
で、わが夫、何を思ったか、出勤前に靴磨きに行ってくる、とアパートの鉄扉を出て道路を渡った真正面に座るムッシュのところに出かけて行った。

わたしは、もちろん留守番。
夫は、意気揚々と帰ってきて、さあ靴もピカピカになったぞ、と晴れやかに出勤していった。

10分くらいで300~500コンゴフランくらいが相場なのだそうだ。日本円で30円から50円弱。
聴くところによると、このムッシュ、2001年からずっと、露店靴磨きをやって生計を立てているのだそうだ。
ビニル袋数袋とプラスティック椅子だけで早15年!靴磨きのプロ、じゃん!!!
毎日、平和通りに陣取って靴を磨き続けて、家族を養って。
夫は、応援の気持ちを含めて、1000コンゴフランをムッシュに払ったそうだ。

この通りにももちろん、街のあちこちで見かける街路床屋も店開きしている。
角の欠けた、ちょっとひびも入っていそうな鏡を無人の建物の壁に立てかけて、プラスティックの椅子とテーブルと、そして商売道具の入っているビニル袋だけの街路床屋。
昨年の逃避行前の11月のある日、わたしたちの住むアパートの駐車場の庭でこんな光景に出会った。

我がアパートの駐車庭で出張床屋が店開き!

のどかでしょう。
門番もアパートのオーナーも誰も文句を言わない。
(このムッシュもピカピカの靴をお召し!キンシャサ男性、キノワは足元にまで気配りするのだ!)

通りで店開きをしているひとりひとりに、背負っている人生があるのだろうな。
しみじみ思う。
キンシャサ庶民の(本当はコンゴの国全体の!)平和が保たれますように。

2017年1月23日月曜日

キンシャサ便りふたたび16 プルマンホテルでの朝食



キンシャサでもコンゴ河近くの一等地に建つ、”プルマン ホテル”。
正式には、”Pullman Kinshasa Grand Hotel”というらしい。

1971年から2000年までInterContinental Hotelとして開業していたGrand Hotel。
国営になってから、良い評判は聞かれず、ちょっと寂れた風貌のホテルだ。
そのすぐ横に、廃墟のように残る建物が、わたしたちがキンシャサに来た当初からあった。
グランドホテルという一応キンシャサでは1,2番の地位のホテルのすぐ横に壊れた建物の存在は異様だった。
その建物を改築してホテルにするという噂が立ったのが2014年だかにキンシャサで開催された「フランス語圏国際会議」の数か月前だった。そこからさらに奥まったところにも高層の廃墟ビルが1棟そびえ立ち(聞くところによると、そのビルは中国の援助で建設された政府の省庁のビルだったらしい。)、そこもホテルに改築されるという噂が立った。
結局、フランス語圏会議開催までにホテル開業までたどり着いたのは、後述の高層廃墟ビルだけで、「Fleuve Congo」という名で、会議直前に高級ホテルが誕生した。
日本語で、”ホテル コンゴ河”。

さて、グランドホテル横の廃墟ビルはのらりくらりと建設は進まなかった。
ところが、2016年9月にキンシャサに戻ってみると、”プルマンホテル”として立派に開業されていた!
そして、プルマンホテルの売り込みを賭けて(!)、キンシャサゴルフクラブでプルマンホテル主催のコンペが企画された。
それが、昨年11月。
コンペ後の表彰式はプルマンホテル最上階のパーティ会場だった。
コンゴ河にかかる大きな橋(キンシャサまでは伸びずに、向こう側のコンゴ共和国内にみに架かる橋)のイルミネーションも美しく、キンシャサ、ブラザビルの夜景を一望できる大広間だった。
そこで、ホテル宿泊券などの副賞つきの表彰式が和やかにアペリティフをいただきながら行われたのだった。
そして、コンペ表彰式のあとの参加者だけの福引で、なんとまたまたわたしは、プルマンホテル朝食ペア券を獲得!


12月はごたごた続きで時間が取れず、年明けて1月12日にキンシャサに戻り、連休二日目の15日の朝、二人で、プルマンホテルまで朝食に出かけて行ったのだった。

ロビーを抜けて、バーの横を通って、外に出てひんやりした、でも湿気たっぷりの外気を感じながらのベランダでの朝食だった。(冒頭の写真)

パンの種類も豊富、ちょっとしたランチのような重いメニューもある。ライスも見かけた。飲み物もたっぷり。トロピカルフルーツもふんだんに用意されている。
一段下がったところにあるプールを眺めながら、植木に集まる小鳥たちのさえずりを聴きながらゆっくりゆっくり時間が過ぎていく。
キンシャサにいることを忘れてしまう。
ビジネスマン風の独りで朝食を取るムッシュたちもいれば、パソコンを持ち込んで何やら楽し気に朝食を取る白人女子高生3人組もいれば、ちょっと遅れて年配のカップルたちも入ってくる。
それぞれに、日曜日の朝食を楽しみにやってきたのだろう。

寝ぼけ顔?のわたしたち

2時間はゆっくりして、最後に美味しいコーヒーでしめくくって、満足でしたー!
普通に支払うと30から35米ドルだとか。
コンゴ河ホテル?だと、もっと取られるわよ、とも。

たまに、ゴルフをしない休日の朝をホテルのバイキング朝食で楽しむのもキンシャサライフには気分転換にいいかもと思う。

プルマンホテルのロビー、フロントは、わたしがIrokoの木でサイドテーブル製作をお願いしたFernandaさんプロデュースなのだそうだ。

木製置物と熱帯植物のコンビネーションがオシャレ!

この写真の左側に通路があっていくつかのブティックが並び、そして、グランドホテルと繋がっていた。
だって、その名も、”Pullman Kinshasa Grand Hotel”ですものね。



観光立国には程遠いコンゴ民主共和国、キンシャサで、ホテルビジネスを成り立たせていくには、キンシャサ在住の外国人を味方につけることがとても重要なことだと感じる。
11月のベルギー大使杯ゴルフコンペでは、メムリンホテルが前面に立って、パーティー会場として場所を提供していた。

~ということで、わたしからもプルマンホテルのコマーシャルを。(朝食券分で!)

キンシャサのホテルのサイトで発見した5つ星ホテル3つのランキング?
 ・ Kempinski Hotel Fleuve Congo
 ・ Pullman Kinshasa Grand Hotel
 ・ Hotel Memling

2017年1月18日水曜日

キンシャサ便りふたたび15 Irokoの木で作ったテーブル


Irokoの木で作ったサイドテーブル


  この~木♪ なんの木?

  Irokoの木~♪

昨年11月に、”La Fleur Noire(Chez Fernanda)”さんのところでみつけた、Iroko の木の丸太。
勝手に「わたし~寛子の木」と思い込んでいる。

それを数センチの厚さに切ってもらった。

Iroko の木の丸太を数センチにカットされた素の状態

そして、Fernandaさんやしょうこさんにあれやこれや相談に乗ってもらい、出来上がったのが冒頭の写真、Irokoの木のサイドテーブルだ。
脚は、悩みに悩んで試行錯誤の挙句に鉄製の丸いもの4本にした。
Irokoの木だけで重いのに、さらに鉄製の脚にしたものだから、しかも、せっかくだからと2枚のIrokoの木ともテーブルにしてもらったものだから、重いことこの上ない。
またまた、夫婦げんかの種ができてしまった。
さあ、帰国の時にどうやって運ぶのか。
取りあえずは、脚に木の板を取り付けて固定することは止めておいた。

そして。
昨年の降ってわいたような日本帰国のお陰で(しかもラッキーなことに、キンシャサの日本の友人から大きくて頑丈な段ボール箱を譲り受けることができた!)、なんと、このIrokoの木で作ったテーブルを2つ、赤羽の我が家に運び入れることができた。
幾重にもラッキーが重なったことは感謝、感謝だ。
やっぱり、「寛子」と”Iroko”は、『縁』があったんだ~、なんて。

ともあれ。
無事に赤羽自宅にIrokoの木がはるばるアフリカから到着して、なんと幸せなことだろう!!!


もうひとつ、Irokoの木の話題を。
昨年、キンシャサに来てから、わたしの友人からとても貴重なアフリカの児童文学の資料が届いた。わたしには興味津々の内容だった。

その中に、「インコとイロコと狩人(La perruche, l' iroko, et le chasseur)」という、アフリカ、ベナンの国の伝承物語を絵本にしたものが紹介されていた!
ベナンには、しっかり志を持った作家、編集者が存在し、祖国の言葉ではなくフランス語ではあるが、かれらの身近なもの、伝承物語を題材にして、祖国の子どもたちのために活動を続けている出版社があると知り、とても感動した。
話は逸れてしまうが、そういえば、祖国に学校を作ろうと活動を続けているベナン出身のタレントがいたなあ、なんて思い出した。ゾマホンさん?

話を元に戻そう。
その中の一冊に、”Iroko”の木も登場する、昔から言い伝えられてきた物語が絵本になっていると知ったとき、わたしは、すぐに、キンシャサでいちばん大きな書店に出かけて行った。

ベナンという、同じアフリカ大陸でも違う国ではあるけど、同じフランス語圏だもの、と一縷の望みを持って出かけたが、その出版社の本はどれも取り扱っていない、ということだった。
わたしは数冊の絵本の題名を書き出して持って行ったが、一応は探してくれたものの、やはり見つからなかった。
ちなみに、Irokoの木が登場するアフリカの本はあるか、とも訊いてみたが、無駄だった。
コンゴ民主共和国で出版されている子ども向けの本として紹介されたのはたった2冊。漫画のような、しかも1冊は戦争の話だった。

「La Perruche, L'Iroko et Le Chasseur」。
2006年にベナンの児童書専門の出版社から出ていると記されている。
この物語はベナンの伝承物語の再話で、その中で、”Iroko”の木は、『崇拝される巨樹として登場する』のだそうだ。また、注釈として、『irokoの学名は、”chlorophora excelse”で、熱帯アフリカ特産のクワ科の大木である(堀田 他 1991)』と加えられていた。
挿絵も発色の美しい魅力的な絵本だ。

さて。Irokoの木。
一枚の重さは、幼稚園児くらいの重さはある。15キロくらいかな。
びっくりするほどずっしり重い!!!
年輪の幅は3ミリ~5ミリ弱。
少しずつ少しずつ育っていくから、中身もぎっしり堅いのだろう。
テーブルに仕立てたIrokoの板の半径が25センチとすると・・・・・。
なんと、樹齢は70~80年と考えられる。

ごめんね。
わたしのエゴのために、コンゴの密林で育ったIrokoの大木は伐採され、故郷から遠くはなれた東京まで連れて行かれたんだね。
一生、大切にするからね。

2017年1月16日月曜日

キンシャサ便りふたたび14 新年おめでとうございます

キンシャサ プルマンホテルにて 1月16日

久しぶりのブログ更新に、感謝。
遅ればせながら、キンシャサから、新年おめでとうございます。

わたしたち夫婦は12月入ってから一か月半の間、地球半周大移動(ちょっと大げさ)だった。

まずは、休暇で、12月初めから娘一家の住むアルプスのほうへ1週間滞在し、クリスマス前のアルプスの風物を楽しんだ。
ところが。
キンシャサへ戻って中1日置いて、3日目の夜行便でふたたびキンシャサを発ち、パリ経由で帰国、となった。
というのも、昨年12月に行われるはずだった大統領選挙の不実施のために治安が悪化するという懸念から、わたしたちは外務省から国外退去を勧められるという格好でコンゴ民主共和国を出国することになったのだった。外国人子弟の通うアメリカンスクール、フレンチスクールなども早めに冬休み休暇が始まり、キンシャサ在住の外国人たちは軒並み本国に戻り、12月中旬の便ははどこの飛行機会社も満席だったと聞く。
わたしたちの帰国は12月15日だった。

わたしは風邪で体調を崩し、赤羽の自宅に留まるものの、夫は義母の入院ですぐに北九州へ帰省。わたしも数日後に夫に合流し、北九州で過ごした。
年末に帰京し、年明けて4日にキンシャサに戻るべく準備を進めていたら、キンシャサの治安状況をしっかり見極めてから再入国をということで、1週間遅れでキンシャサに到着ということになった。
1月12日夜にキンシャサに無事到着。
パリからの便には、10数名の日本人が搭乗し、皆で無事を喜び合い、ちょっとした同窓会ムードとなった。

わたしが昨年9月にキンシャサに到着した時からちょこちょこと小競り合いが続き、昨年12月の大統領選挙の時期の治安悪化が懸念されてはいた。
それでも、12月中旬に想定されていたような大規模な紛争は避けられ、大統領選を1年延期する、ということで取りあえずは落ち着いたようだ。

昨年12月にキンシャサを出発した時は、満月に近い十三夜だったか。
そして、今回、キンシャサ、ンジリ空港からポワルー道路を過ぎながら見上げた時は、大きな満月が掛かっていた。
しっかり1か月ぶりのキンシャサだった。

先週木曜日にキンシャサに入り、翌日に早速JICAキンシャサ事務所で開かれた安全会議にわたしも出席した。安全対策の確認ができたことは幸いだった。

そして、コンゴ民主共和国は4連休で、火曜日まで休日とのこと。
ゴルフ復帰も果たし、今日は、プルマンホテルに夫とゆっくりめの朝食に行ってきた。
昨年11月に行われたプルマンホテル主催のゴルフコンペのあとのパーティーのくじで当てた、朝食ペア券を使ってのうれしい朝のひととき。
テーブル傍の植木に数羽のきれいな小鳥たちが集まって、ちょっと湿気を帯びた朝の空気に、ああ、キンシャサは雨季真っ只中だったと実感。

さあ、また、キンシャサ生活が始まる。