2013年4月26日金曜日

今夜も録画でさだまさし!

キンシャサの夜、夫婦二人の晩酌、食事の時間に和ませてくれるものがある。

日本の友人が録画してくれる、”生さだ”のDVDだ。


ほぼ月一回のペースでNHK総合の深夜に生放送される、さだまさしをメインキャスターに据えたトーク番組だ。
何を隠そう、わたしはさだまさしの大ファン!!
キンシャサに来る前は、東京でのさださんのコンサートには友人とほぼ皆勤で行っていた。

さださんの歌がまず良い。
そして、話も良い。
コンサートでは、喜怒哀楽の感情がすべて動員されて頭と心が作動するから、終了後は心地よい疲れが体じゅうに広がる。


で、テレビの”生さだ”はというと、さださんが視聴者から届いた便りを読みながら、番組構成作家の井上さん、音響担当の住吉さんと共に、普通のどこかでの”立ち話”のように話し込み、のどかに深夜の時間が流れてゆく、といったスタイルの番組だ。

時には、我が国の政治にチクリと意見したり、悪代官を懲らしめる大岡越前であるかのような音響が突然響いて世の中の風潮に「けしからん!!」とさださんが怒ったり、視聴者からの便りにほろりとしたり。
さださんのギリギリ危ない語りに、他の二人が手書きの「意見には個人差があります。」という紙テロップをリレー風に画面下に移動させたりしているが。

低コスト番組らしく、毎回、日本全国どこかのNHK放送局の飾り気のないスタジオから、観覧希望に応募して当選した視聴者たちが2,30人ほど椅子に腰掛けて参加しているのも、また自然体でいいなと思う。

友人が録画してくれた”生さだ”の一部!!ありがとう!由樹さーん!!

というように、”生さだ”番組で和まされる、キンシャサの夜なのだった。

4月17日のわたしたちの31回目の結婚記念日の夜も、普通に晩酌して普通のメニューで食事をし、そして、”生さだ”を観て二人で笑い転げていた。
それで幸せ~、と感じる安上がりな庶民的な中年夫婦!
(ま、それもいつか懐かしい思い出になるんだろうな。)


ところで。
わたしは”生さだ”に何度か葉書を出したし、今年初めの、”年の始めもさだまさし”にも葉書を出した。
昨年10月から11月にかけてコンゴ河下りを伸吾青年と敢行した真知さんが、ナイロビ経由で帰国する時に、日本で投函するよりナイロビからケニアの美しい切手を貼って投函したほうがインパクトありますよ、と言って、ナイロビから投函してくれた。
もちろん、わたしはキンシャサ製の絵はがきに書いた!
・・でも、やっぱり採用はされなかった。
あーあ、がっかり。
でも、さださんの目に留まったことを信じよう。

最後に。
昨年は、”オレゴンから生でさだまさし”も企画された。
そして、番組は違うが、昨年大晦日のNHK紅白歌合戦の中で、ミーシャ(?)がナミビアの砂漠から生で歌っていたが、聞くところによると、当初、キンシャサから放送を、という話もあったとか。

だったら、さださん、ぜひ、「キンシャサから,今夜も生でさだまさし」を実現して、わたしの大好きな、♪風に立つライオン♪を歌ってくださいな。

2013年4月25日木曜日

コンゴ独立の祝歌 ~ ”Indépendance Cha Cha”

 
先月、東京からの友人二人がキンシャサに滞在中のことだ。
ある夜、慶応大学のコンゴプロジェクトの一つとしてキンシャサ教員大学の敷地内に建設された日本文化センターで日本語を教える慶応大学の学生二人と、第一期日本語教室修了生で現在は日本語教室の教師補佐(かな?)を務めるコンゴの若者二人が我が家に来て、共に食卓を囲んだ。

ウェッツさんという若者は音楽が好きで日本で購入したというギターを持ってきていた。
コンゴでよく歌われる歌を聴きたいな、というわたしたちのリクエストに応えて彼らが真っ先に選んだ曲が、これからわたしが紹介したいと思う、”Indépendance Cha Cha” ~コンゴ独立の祝歌~だった。


Wikipediaによると、この”Indépendance Cha Cha” は、コンゴ人歌手、Le Grand Kalle によって歌われたアフリカン・ルンバだとある。
またこの歌は、コンゴ独立の5ヶ月前の1960年1月20日に作られ、同月27日に初演されている。
フランス語、リンガラ語、キコンゴ語(Wikipediaには、リンガラ語の代わりにチルバ語が記されているが、コンゴの人々に訊いたところ、チルバ語は使われていないと言う。)の3つの言語で作詞されているそうだ。
3分05秒の曲で、作者はRoger Izeidi。


※ ”ルンバ”・・・・19世紀初め、キューバのアフリカ系住民の間から生まれたリズム。4分の2拍子で活気のあるリズムが特色。


また、”Indépendance Cha Cha” は、ベルギー領コンゴの押し迫った独立を祝うために、1960年に、人気のあったアフリカン・ルンバのスタイルでジョセフ・カバセル(Le Grand Kalle)によって歌われた、ともある。
Le Grand Kalle は、有名なコンゴ人歌手だったらしく、コンゴ文化の象徴として、ベルギー,ブリュッセルで開かれたコンゴ独立を話し合う円卓会議に出席するコンゴ代表団に同行し、そのとき(1960年1月27日)に、かれはブリュッセルのホテル・プラザでこの”Indépendance Cha Cha” を初披露したのだそうだ。


”Independance Cha Cha”が初演された、当時のブリュッセルのホテル・プラザ



この歌は、ベルギー領コンゴとフランス領コンゴの言語を組み合わせて使いながら、コンゴ政治の派閥間争いの統一を訴えるのみならず、コンゴ独立後の統一を訴える曲だったのだ。

そんなふうに、アフリカで啓蒙ソングのように歌われ、特に、フランス語圏の国々で大きなうねりとなり、国家独立に少なからずの影響を与えたようだ。実際、1960年,1961年は、アフリカの多くの国々で独立が相次いだ年だ。
新しい革命の歌として庶民の間に広まり、特に、国語で歌われたこの曲は新独立国家の仏領コンゴとベルギー領コンゴで圧倒的支持を受けた。


そして、ベルギー領コンゴは、1960年6月30日に宗主国ベルギーから独立した。



この歌は、独立の喜びに溢れていて、わたしたちは結束してわたしたちの国を作っていこう、という明るい前向きな啓蒙の歌でもあるのだなあと思う。
とても軽やかな、希望に満ちたメロディーだ。


詞の1行目の ”tozuie” は、リンガラ語で「取りました。」という意味。
また、2行目の ”tubakidi” は、キコンゴ語でやはり、「取りました。」と意味だそうだ。
独立を勝ち取ったぞ!、と高らかに宣言しているかのようだ。
3行目に、フランス語で、”table ronde”(円卓会議)の言葉が出てくる。

以下太字はリンガラ語、キコンゴ語,フランス語で同じ言葉の繰り返しだ。

細字部分には、コンゴの政治家の名前も入っている。
1960年の独立とともに初代大統領となり、1965年モブツ将軍(後の悪名高き大統領)のクーデターにより失脚,追放されたカサブブ(Kasabuvu)がいる。
また、1960年1月の独立交渉に参加、その中心的役割を果たし、独立と同時に初代首相の座に就いたルムンバ(Lumumba)もいる。


Indépendance Cha Cha :(言語のまま)

Indepance chacha tozui e
O Kimpwanza chacha tubakidi
O table ronde chacha babagner o
O upanda chacha tozui e

Asireco na Abako
Bayokani moto moko
Na Conakat na cartel
Basangani na front commun
Indepance chacha tozui e
O Kimpwanza chacha tubakidi
O table ronde chacha babagner o
O upanda chacha tozui e


Bolikango, Kasabuvu
Mpe Lumumba na Kalondji
Bolia, Tshombe, Kamitatu

OIndepance chacha tozui e
O Kimpwanza chacha tubakidi
O table ronde chacha babagner o
O upanda chacha tozui e



50年以上前の歌にもかかわらず、いまだにコンゴ人に歌い継がれている曲。
独立後、この国は指導者に恵まれず、天然資源の豊富な国だということで先進列国の間で翻弄され、厳しい道を歩むことになる。
それだけに、わたしには、なんだか、もの悲しいメロディーにも聴こえてきたりもするのだった。


Grand Kalle - Independance Cha Cha - YouTube

2013年4月23日火曜日

キンシャサの床屋



木の下理髪店 遠景

20年前の中央アフリカ共和国の首都バンギでは、庶民の理髪店といえば、木の下・野外床屋ばかりだった。大きな木の板を横3列×2段に区切り、つまり6区画にヘアスタイルを描いて枝にぶら下げ、客は「この髪型にしてください。」と(多分)注文する、というような「木の下理髪店」ばかりだった。

そして、現在のキンシャサでもその「木の下理髪店」が健在だ。


木の下理髪店 ズーム
どこかの建物の塀に欠けた鏡を立てかけて開業する野外理髪店も見かける。
つんつるてんの頭をしたおじさんが、神妙な顔をして、鏡の前に座って理容師に相談しているような場面にでくわして、ひとり笑い転げたことも2度や3度ではない。
(実際、アフリカの男性も女性も、髪は縮れ毛で量は少なく、あまり伸びないようだ。)

ところが、バンギ時代から20年を経たキンシャサで、ほ~お!!、とうなった新式理髪店をこちらに来てまもなく発見した。
テント式理髪店だ。


ポワ・ルー産業道路沿いに並ぶテント理髪店

おそらく整髪剤会社がスポンサーになって、開業する理容師に無償でテントを配布するのではないだろうか。テントの側面には、整髪剤の広告なのか、商品の写真がプリントされている。

客のプライバシーが守られたあたり、木の下理髪店より一歩前進したスタイルだー!、と感動を覚えたものだ。

レースカーテンを引いたテント理髪店

ちょっと改造して、独自に工夫を凝らしたテント理髪店もあるし、客が集まるからか、野外茶店が併設されている場所もある。



ちゃっかり、茶店も開店中!



で、我が夫はどんな理髪店に行っているかというと・・。

インド人経営の理髪店
インド人のおじさんと、その甥が経営するこざっぱりした理髪店に行っている。
夫がキンシャサ入りした当初から通っているらしく、顧客としてもう3年目になるらしい。
キンシャサで理髪店を経営する叔父さんを頼ってここへ来た、と言う経営者の若い甥はまじめな仕事ぶりだ。

当初も今も変わらず、散髪代は5ドルのまま。ヒゲもきれいに剃ってくれる。かみそりの刃は客ごとにきちんと替えている。
この理髪店は、キンシャサのごみごみした商店街の中にあり、わたしが最初に夫に同伴していった(夫は眼鏡を外すとほとんど鏡の中の自分の姿が見えないらしく、ある時、テポドンの国の指導者そっくりの髪型で帰宅したことが!それで何回かくっついて行ったことがある。)ときは、まずインド料理の食堂に入って行き、その食堂の店内にあるドアを開けると、そこが理髪店になっていた。

よくもまあ、この理髪店を見つけたものだと感心していたら、前任者からの紹介だということだった。

その後、この理髪店は訪れる度に内装に手が入り、道路に面した壁に玄関扉が付き、理髪店の体裁が整えられていった。
(この界隈は、インド食材店もあり、インド人街の様相を呈しているように思える。)


他の日本人は、大きなスーパーマーケット近くの小ぎれいな理髪店(レバノン人経営か?)で20ドルとか30ドルとか払って整髪してもらっているという話だ。



では、女性の美容室はどんな様子なのだろう。



昨年半ば頃だったろうか。
夫が、こんな美容室を見つけたよ、と写真を撮ってきた。
小さな子どものいる若いコンゴ人女性が開く店だったそうだ。


コンゴ人女性の頭には短い縮れ毛が生えているだけだ。
わたしはよくコンゴ人女性から、真っ直ぐな髪が多くあっていいね、と羨ましがられる。
かのじょたちは、直毛で豊かな髪に憧れているようだ。

で、かのじょたちは、明らかにカツラでしょう~、と分かるカツラを帽子のように被っている。
(若い女性は、わたしの小さい頃にアメリカから来て人気のあった”バービー人形”そのものだ。)
或いは、着け毛、”エクステ”で髪にボリュームを出している。
エクステで頭全体を編み込みにしたり、うしろで自毛をまとめて、そこからエクステを長く垂らしたり。


我が家の家政婦がきれいに頭全体を編み込みにして来た日、わたしはかのじょに訊いてみた。
いつも行く美容室は、店ではなく、自宅でやっている女性のところなのだと言う。そこへ、自分で着け毛を買って持ち込むのだそうだ。
代金はいくらか忘れたが、彼女の給料の割合からして結構な値段だったように思う。
その状態でずいぶん長くもたせるから、実際の話、臭う。
エクステのために、頭の地肌にてかてかと接着剤をつけたり、暑い気候の中でボリュームたっぷりのカツラをつけたり。
見た目からして、清潔だとは言い難い。


女性のカツラは人工毛で、キンシャサに韓国人経営のカツラ工場がある。
経営者は男性だが、その下に韓国人の女性(わたしよりちょっと若いかな。)がマネージメントをしているそうだ。

町行くキンシャサの女性の99パーセントがカツラかエクステを着けているといっても過言ではないだろう。
(カツラ着用の男性は、アーティストだけ?レゲエのような髪型をしている男性を稀に見かけるのみだ。)
だから、美容室といっても、カットしたり、パーマをかけたり、ということはないはずだ。
エクステ着けて編みこむ、くらいなものか。


20年前のバンギでは、女性の着用する服がアフリカ布地のロング丈のものだったから、共布で頭にターバン風に巻いて縮れ毛を隠し、ボリュームを出していた。
現在のキンシャサには、頭に布地を巻く女性はまずいない。また、髪の毛を数箇所まとめてマゲを作ってピンと立たせる、という髪型も姿を消した。

外国人女性のための美容室はスーパーマーケットの中や、街中にもあると聞くが、わたしはキンシャサで一度も行ったことがない。
先月、娘の住むアンティーブに行った時に、娘が勧める美容室でショートへアにしてもらった。
いろいろと相談にのってもらって、気に入るスタイルにしてもらえたと満足している。
パーマなしカットのみで、60ユーロ(七千五百円くらい)だった。

最近読んだ日経ニュースメイルで、世界37カ国41都市の世界の床屋の写真を撮り続け、写真集を出版した日本人写真家が紹介されていた。パリの理容師はフリフリの服を着て華やかに、ロンドンの高級理容店ではキリリと紳士の背広姿で、イタリアの理容師はおしゃれで粋な蝶ネクタイ姿で仕事をしていた。
世界の理容師の姿の比較もまたおもしろいだろうな、と思った。

そして、キューバ国営床屋の理髪代金4円、というところから、パリのセレブ御用達カリスマ理容師の代金7万円というところまで取材したそうだ。

世界にはいろんな理髪店が存在するのだろう。


2013年4月18日木曜日

心機一転! 模様替え!

キンシャサに戻って早1週間が過ぎた。

一昨日の朝、IWC(国際女性クラブ)のメンバーから”タンス 売りたし”のメイルが入った。
前々から欲しかった衣類の収納たんす。
なんせ、わたしの衣類は空のクーラーボックスの中に収納されているんだもの。

メイルを見つけて、即、電話!
その日のうちに友人宅を訪ね、即4段のタンスを買いうけ、その日のうちに我が家へ運び入れた。
我ながら、迅速な行動に驚く。
それが一昨日の昼過ぎ。

そして寝室に運び入れたのだが、何だか家具の配置が気に入らない。
落ち着かない。
長い巻尺がないから、日本のお土産でいただいたお菓子に付いていたひもで家具の幅とスペースを測って回り、考えに考えた。
優先すべきことは、寝室に置いているわたし専用にしている幅広の机をどうにか自然光の当たる向きに換えたい、ということと、たんすの位置をしっかり決めたい、ということだった。
キングサイズ(?)のベッドはどうにも動かしようがない、と諦めた。

夫は、仕事で忙しいし、家政婦は午後2時で帰っていった。
よーし!
独りでやるぞー!!
家具の配置換え!!

えっちらおっちら、ギイギイ言わせて家具を引っ張りながら配置を換えていく。
ぎっくり腰にならないように。
家具を横転させないように。

そして夕方6時過ぎ。
どうにか、納得のいく配置換えを完了!

まず、わたしの書斎スペースを確保できた!
これは想定外のことだった。


座って右側から自然光が差すわたしの愛用机

しめしめ。
机左手後ろにドレッサーを配置した。まるで、わたし専用のスペースになったよう!
居心地満点だ!


それから、戦利品のたんす。
クーラーボックスからわたしの衣類を出してタンスに移し替える。
これでしっかり衣類を見て選ぶことができるぞ。


収納力抜群のたんす


寝室2室がやっとしっくりきて、落ち着くスペースになったように感じる。


それから、玄関ドア外の玄関マットが冴えなくて、ずーっと気になっていた。

今回のフランス滞在で娘の夫に大型郊外スーパーマーケット、カルフールに連れて行ってもらったときに、明るい感じの玄関マットを探し、購入した。
こういうとき、「無駄遣いは禁物!」という夫の声がないというのは気が楽だ。

はるばる南仏アンティーブから運ばれた玄関マットもドアの外に敷いた。


我が家の玄関ドアの前に立って真上から撮影


そんな時に、リビングの年代物のエアコンが故障し、リビングが水浸しになった。
夫が手配したエアコン修理人がこれまた奇跡的に昨日午後、やってきて修理してくれた。

水浸しで、その上を泥んこ靴で歩くから、リビングがどろどろになった。
お蔭で、弾みがついてリビングの掃除を独りで敢行する。

あれやらこれやらの懸念事項が一度に払拭されて、気分爽快だ。


さあ、これでキンシャサ生活2年目を気持ちよく発進できるように思えてきた。
古いアパートで次から次に故障してばかりだが、どうにか工夫してやってみよう。


・・とまあ、こんなことばかりしていたから、溜まったメイルにも返信できないまま失礼している。

明日は、ドイツ料理の講習会に友人宅に行き、明後日は、我が家でドライカレーランチを開くことにしている。
来月初めに本国へ帰るアメリカの友人が、子どものころお父さんの仕事で滞在した神奈川で、お父さんが日本のカレーライスと卵焼きをよく作ってくれたものだわ~、と目をハートにせんばかりにして懐かしむのを聞いて、ならばわたしが現地の食材だけでドライカレーを作りましょう、ということになったのだった。
彼女の送別会を兼ねて5人のゲストが集まる。
皆の自宅は立派なアパートだから、ちょっと気後れがするが、なんのその!!
ありのまま、そのままのわたしでいなくっちゃ。
きっとうまくいく!
そう自分に言い聞かせてやっていこう。

1週間経って、やっとエンジンがかかったように思える。容赦!!

2013年4月16日火曜日

再び、キンシャサへ

キンシャサの我が家ベランダからの風景

しばらくぶりにブログ画面に向かっている。
4月に入って初めてのブログ更新だ。


3月21日夜、東京から2人のわたしの友人、真弓さんと美智さんが驚くほどたくさんのお土産を抱えてキンシャサの我が家に到着した瞬間から、お祭のような日々が始まった。
翌日から実質5日間のキンシャサ滞在しかない日程で、いかにキンシャサを味わってもらえるか、夫とずいぶん前からスケジュール表を作り、何度も何度も書き換えて、練りに練ったスケジュールだった。

友人のひとりと我が夫が、キンシャサ郊外のKinkoleeという、コンゴ河沿いに現地レストランが並ぶ町で食べたコンゴ料理で体調を崩してしまい、とても心配したが、わたしたちの用意した”キンシャサ体感ツアー”は奇跡的にほぼ達成できた。(・・と思うのは自身だけ、かな。)

わたしのリコーダーの師でもある真弓さん、生徒の美智さんとわたしで結成した”スリー・グレイシーズ”の初舞台も実現できた。


中年女性の星!? ”スリー・グレイシーズ”

今まではわたしひとりで感動していたことたちを、彼女たちと共有できる幸せを感じまくった5日間を終え、今ひとつ体調の冴えない夫を残し、わたしは友人二人と共に3月27日21:55キンシャサ発のエール・フランス便でパリに向かった。

翌朝早くにパリ到着。久しぶりのパリはやっぱり格調高い上品な街だった。
娘の警告通りに冬用コートを持参してよかった!
3月も終わりだと言うのに寒いことこの上なかった。
3人でパリで一泊したのち、それぞれの目的地に別れて発っていった。


わたしが娘一家の住む南フランス、地中海沿いの美しい町、アンティーブに到着したのは、3月28日夕方近くだった。


ペイネ・愛のモニュメント前で

4月初めの復活祭の頃は、南フランスの気候は不安定らしく、2日晴れが続くと1日中雨模様、という周期だったように思う。
天気の良い日は、母娘三代でジュアン・レ・パン、アンティーブの町や海辺を散歩した。
娘の夫が仕事オフの日は、カンヌやニースへ買い物へ出たり。

孫(という言い方には実感が伴わないが。)と過ごす日々は本当に楽しかった。


孫とたくさんの童謡や唱歌を歌い、手遊びなんかもして。

くるくると活発に動く彼女に、遠い昔の娘の面影を見たりして。

ああ、この小さな娘もいつかは母になるのかと未来を思ったりなんかして。


孫の手!


このかわいらしい手で、”キラキラお星さま”をしたり、”ぱちぱち上手、上手”をしたり(フランスのおばあちゃんは、「ブラボー! ブラボー!」と言うのだそうだ。)、二本指で小さなものを摘まんでじっと眺めて口に入れようとしたり、どんどんいろんなことを吸収してゆくのだろう。


そうして、やっぱりいつもどおりに時間は流れて、4月11日18:30、キンシャサにランディング。
わたしの”お祭”は終演。


また、人も町も何もかもが混沌としたアフリカの大都市、キンシャサでの日常生活が始まった。
楽しみを見つけて、夫とヨウムのぽんと共に元気にやっていきます!