2012年6月12日火曜日

Ngaliema 修道院の日本人シスター

中村寛子シスター  Ngaliema 教会にて 
シスターが大好きだといわれるシンプルかつ厳かなお御堂だ。
キンシャサの閑静な地域、グランドホテルのそばに、身なりのきちんとした患者たちが来院するNgaliema Clinique の建物が、ゆったりとした敷地に点在している。
その敷地の一番奥に、植民地時代に建造されたという Ngalinma修道院と、 Ngaliema教会がある。白い漆喰壁の堅牢な建物だ。確か、築80年になるとお聞きしたように思う。


その修道院に、コンゴ民主共和国滞在26年になる日本人シスター、中村寛子シスターがいらした。そして、在外生活35年、アフリカ滞在34年にピリオドを打たれ、昨夜の便で、キンシャサを発たれた。
いつもにこにこ気さくなシスターで、しっかりした存在感があり、シスターの周りには爽やかな風をいつも感じた。


シスターは1977年に日本を出られて、ポルトガルで語学を習得された後アンゴラで6年過ごされ、その間4ヶ月の捕虜生活でアンゴラのジャングルを政府開放ゲリラと行軍した経験をお持ちだ。

捕虜解放後、そのときの仲間とローマでヨハネ・パウロ2世に謁見し、ポルトガル語で捕虜生活の話をされた話はわたしまでウキウキ華やいだ気分にさせてくれた。



その後、1986年、モブツ政権下のコンゴ・キンシャサに渡られ、南部のボマ、北東部のキサンガニ、そして1996年にキンシャサと移られている。
1994年のフツ族とツチ族の紛争のときには、難民キャンプが張られたブカブ、ゴマに行かれている。
モブツ大統領の恐怖政治のときも、動乱で国内が乱れているときも、この国に残り、修道院からずっと庶民の人々を見守り続けてきたシスターだ。

いろいろな経験を淡々と語られるのだが、1996年にキンシャサに移られた理由をお聞きした時は、わたしは恐怖心から鳥肌が立った。
1992年からキサンガニのシスター養成の施設で会計の仕事を任されていて、その4年後、仲間のフランス人神父様が目前で殺され、それがトラウマとなり体調を崩された。それで、キンシャサに移ったのだそうだ。

バスケットボール選手をされていたというシスターは背が高く大柄なかただ。実年齢より確実に20歳はお若く見える!
アンゴラといい、コンゴ・キンシャサといい、動乱の時代を生き抜かれ、恐ろしい体験もされているというのに、爽やかで明るく、かつ穏やかなお人柄はどこからのものなのだろう。


わたしが昨秋、10月初旬にキンシャサに行くことが決まった時、息子の母校の聖書の会でお世話になっているブラザーの先生から、紹介を受けたのが中村寛子シスターだった。
早速、教えていただいたメイルアドレスにお便りを送り、キンシャサでの生活に心強い味方を得たようで渡航が楽しみになったものだ。ところが、大統領選時に治安の再悪化が懸念され、JICA側が渡航を禁止し、結局キンシャサに到着したのが、3ヶ月遅れの今年1月1日だった。

そして、何日も経たないうちに、冨永大使夫人にNgaliema修道院に連れて行っていただき、ついにシスターとの出会いを持てたのだった。

修道院で飼われている鶏の新鮮な卵を譲ってもらいにシスターを訪ねるのは、シスターに会いに行くためでもあったように思う。
最初は、運転手に指示するための「ンガリエマ修道院」(ンガリエマ・クーバン)が覚えられずに、「とんがり山の交番」で覚えたのも懐かしい思い出だ。
だから、ずーっと、わたしの中では、”とんがり山の動物のおまわりさん”の映像でインプットされ、シスターの住む、とんがり山へピクニックにいくような気分だった。
実際に、修道院には「チャコちゃん」、と自分の名前を言う可愛らしいオウムがいた。

シスターには、いろんな方を紹介いただいた。
そしていろいろなお店も教えていただいた。

キンシャサ中心街・布地屋にて


キンシャサ サンポール書店にて 洋一くんと
コンゴの人たちで賑わう布地屋、出版も手がけるカトリック団体経営のサンポール書店、やはりカトリック団体経営の教会小物と木製置き物の店など、キンシャサ生活を豊かにしてくれる店ばかりだった。

修道院を訪れると、庭で取れた、きれいな花やパパイヤ、野菜などいつもお土産をいただいた。
そして、今月最初の日曜日、修道院の昼食会に夫婦で招いてくださった。
コンゴ料理と、そしてシスターのお手製の揚げ春巻きのおいしかったこと!濃いレモングラスのお茶とお手製のケーキとパパイヤがまたおいしくて、20名ほどのシスターたちの歓待がうれしくて(夫のために、何と冷たいビールを用意してくださっていた。)、ついつい食べ過ぎてしまった。
清潔な食堂には、きれいな花が生けられ、シスターたちの日々の精一杯の豊かな生活を垣間見た思いだった。

ンガリエマ教会は、中村寛子シスターご自慢の、質素な中に厳かさを兼ね備えたお御堂だ。
祭壇脇にある古いけれど手入れの行き届いたオルガンは、礼拝の時にシスターによって演奏されると言われていた。
コンゴにはコンゴ独自の聖歌があるけれど、楽譜がないのだそうだ。ギターを弾かれていたシスターは、耳で聴いて、聖歌集の各聖歌毎にコードを小さく記入しておられた。
キンシャサには、オルガンの調律師がいるのだそうだ。

シスターとわたしは、同じ名前で漢字まで同じだ。
この国では、同じ名前を持つ者同士を、「ンドイ」と言い、お互いに深い繋がりがある、と考えられていると聞いた。シスターは、コンゴの人やシスターたちに私を紹介されるときは、必ず、「わたしたち、ンドイなのよ。」と言われた。
それが、わたしにはとても嬉しかった。

思えば、キンシャサでシスターと出会い、実際は5ヶ月ちょっとのお付き合いだったが、気持ちの上では、ずーっと昔からの友人、というよりお姉さんのような、そんな存在だった。

大使館員夫人のお宅での昼食会で、シスターに私のリコーダー演奏で、「ふるさと」、「夏の思い出」を聴いていただいた。間違ったけど、演奏を聴いていただけてよかった。

シスターはわたしの娘にもお祝いのプレゼントとメッセージをくださった。
娘の母校にシスターの姪御さんのお嬢さんが在籍し、娘と同じ名前「ンドイ」なのだそうだ。
どこまでも温かいシスターだ。


昨日、空港へ向かう時間を見計らって修道院へシスターにご挨拶に伺った。
夫が、シスターに手を差し出して言った。

それじゃあ、東京でお会いしましょう。

わたしは、フランス人がするように、ほっぺをくっつけて、シスターと抱き合った。

シスター。ありがとうございました。
そして、これからも、よろしく!!

5 件のコメント:

  1. いまごろはYukiちゃんのお家でしょうか…。
    おめでとうございます!
    フランスにお便りしました。

    とうとう中村寛子シスターが発たれたのですね…。
    初めてお姿を拝見して、お話どおりの素敵な方だと思いました。
    ンドイ寛子さんですものね。
    すばらしい出会いをなさいましたね。

    強いご縁のある方ですもの。
    喜びの再会のお話が聞けることを、わたしは今から楽しみにしています♪

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  2. ンドイって素敵な言葉ですね!
    シスターに東京でお目にかかってお話できるのを楽しみにしています。

    「とんがり山の交番」とは寛子さんらしいと大笑いしましたが、
    私も「ンガリエマ・クーバン」覚えられましたw

    リコーダー演奏デビューおめでとうございます!!
    始めの一歩を踏み出すのはとっても勇気がいったでしょう?
    もう、次からはどんどん演奏経験を重ねてくださいね。
    うまく演奏することより、こころを伝えるツールになりますように!

    シスターも井上家のみなさんも、次の一歩を踏み出されたんですね。
    。ご健康とたくさんのお恵みが待っていますように♪

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  3. someiyoshinoさん、チェロ子さん、コメントありがとうございます。一昨日、娘のところからキンシャサに戻り、また日常生活が始まりました。
    とんがり山のクーバンにシスターはいらっしゃらないのだなあ、と改めて思って心にぽっかり穴が空いた気分です。
    でも、寛子シスターが紹介くださったシスターたちがいるから、新鮮な卵を分けてもらいに、とんがり山に通い続けます。
    寛子シスターにぜひ会ってくださいね。

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  4. hiroさま、
    いつも様々なキンシャサの話題を書いていただいてありがとうございます。
    楽しくサイト訪問、拝見しております。

    シスタ中村さんが帰国されることは、当地ルブンバシのシスタ アスンタ佐野浩子さんから
    きいてはいましたが、一度もお会いできず帰国されてしまったとは残念です。
    去年キンシャサに行く機会を逸してしまいましたので。

    田邊拝

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  5. 田邊様。
    コメントをありがとうございます。ルブンバシにお住まいなのですね。
    バンギ時代からの友人であり助産婦、そして公衆衛生学ドクターの徳永瑞子さんの原点がルブンバシでの経験だった、と聞いています。もう40年ほど前のことになるのでしょうか。訪ねてみたい遥か遠い町です。
    どうぞ、お体に気をつけてお過ごしください。いつか、ルブンバシのお話をお聞かせください。

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