2015年9月29日火曜日

キンシャサこぼれ話14;キンシャサ満月思い出話

久しぶりの更新で、果たしてうまくアップできるか・・。

さて。
一昨日は十六夜、そして、昨夜はスーパームーンで(初めて聞いた言葉だったが)わが家も夫婦で大盛り上がりだった。
(夫婦でそれぞれにお団子を買ってきてしまったり。)
このスーパームーンの映像を収めたいと思い立ち、赤羽の6階のわが家のベランダから、携帯のカメラをいじくり回して、やっと撮ったのがこの映像。
なんと小さいお月様だろう。


我が家の6階ベランダからパチリ!スーパームーン!

ベランダから南東方向の空でぐんぐん高度を上げていくスーパームーンを見上げながら、わたしは、キンシャサ・ゴルフクラブで大きな大きな満月に向かってクラブを振り続けた日没後の夢の中の出来事のような映像を独りはっきり思い出していた。
静かな風の音、木々のざわめき、空気の匂い。
あの時。
宇宙の中の一つの惑星の上に立っているような不思議な感覚だった。



キンシャサ・ゴルフクラブ 17ホール グリーン方向 (写真集 ”Le Golf de Kinshasa et ses oiseaux” より)


 キンシャサでの日本大使杯ゴルフコンペでのことだった。
いつのコンペだったのかももう思い出せないが、わたしは、最終グループで和気あいあいとプレイをしていた。
いつもに増して参加者が多かったのか、あるいは何か他のコンペ開催でわたしたちのプレイ開始が遅くなったのか、わたしたちが17ホールに差しかかったときに、コンゴ川の向こうにオレンジ色の夕焼けが広がって、それから徐々に夕陽が沈んでいくと同時に暗闇が少しずつ辺りを占領していった。

ちょっと急ぎましょう。

わたしたちは、夕焼けの名残を背に受けながら、グリーンに向かった。
と、その時。
グリーンの先に真ん丸いお月様が昇っていくのが見えた。

わあああ。

お月様だ、真ん丸お月様だ。
まさに、「月は東に、日は西に」の世界だった。

わたしは、幻想的な空気の中でひたすら水平線から昇っていく満月に向かって歩いて、クラブを振り続けた。
お月様が真ん丸く水平線から顔を出し切ったとき、気がつくと夕陽は完全に陰をひそめていた。

そして、今度は大きな満月の光に照らされて、最終ホールを回りきったのだった。

あの時のお月様、水平線から真ん丸い顔を出し切ったときの大きさったらなかった!
お月様に向かってクラブを振って進んていく経験なんて、そうそうあるものではない!
あのときのことが、はっきりと体感で思い出される。

これからも、満月が来るたびに、あの時の、真ん丸お月様に向かってボールをコーン、コーンと打ち続けた日没後のキンシャサ・ゴルフクラブ17番ホールのことをしっとり神秘的な面持ちで思い出すのだろう。
 

2015年6月24日水曜日

キンシャサこぼれ話13 : 3年かかって届いた葉書

夫がまた今月初めから2週間ほどキンシャサに出張していた。
2週間の間に、キンシャサ里帰り、とこちらが思えるほど懐かしんで、あちらこちらに精力的に顔を出して挨拶してきたらしい。

そのひとつ。
わたしたちがキンシャサ滞在中、中村寛子シスターの紹介で設けたゴンべ地区の郵便局私書箱3118号。
ここも訪問したらしい。

キンシャサ ゴンべ地区郵便局 全景

この鉄格子の奥にずらーっと私書箱が並んでいた。
扉の無い私書箱もあったり、果たしてここの私書箱が実際に機能しているのか疑問だったが、中村シスターは大丈夫よ、と太鼓判を押してくれたものだった。
だいたい、日本やフランスの娘からの郵便物は届いていたと思う。
NHK「生さだ」さんからの葉書採用者へのプレゼントもこの私書箱3118号でいただいた。

そして!
なんと今回、夫が訪ねたここの私書箱で!!

これが、キンシャサ、ゴンべ地区郵便局の私書箱
.
夫は、2012年4月15日の日付の入った日本の友人からの葉書を見つけたのだった!!!

夫は今年の1月にも1か月間ほどキンシャサに滞在しているが、そのときには、その葉書は届いていないかったというから、ほぼ3年かかってはるばる日本からキンシャサへ渡ってきた、ということになる。

なんと、いとおしい!!!!

 
4月の我が街の満開の桜をぱちり!と絵葉書にして送ってくれた!

万年筆のインクが薄くなっていて年月を感じてしまう。はるばる、ありがとう!!

いつも小まめに、お手製写真葉書で便りをくれる友人。
この桜満開の風景の先には、我がマンションの遠景がさりげなく入っていたのだった。
めぐり巡って、わたしの手元に届いた葉書。
この葉書には、大きなエネルギーを感じてしまう。
大切にしよう。
ありがとう。

この私書箱3118号も、もう今回で最後かな。
わたしたちも、8月初めには帰国して1年になるんだもの。

2015年4月5日日曜日

こぼれ話 12 : アフリカに300万着届けよう プロジェクト~ UNIQLO RECYCLE

UNUQLO RECYCLE プロジェクトチラシ(表)
UNIQLO RECYCLE プロジェクト チラシ (裏)

先日、ユニクロショップで買い物をしたとき、レジのところで、このようなチラシを発見した。

ユニクロは、2006年からUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の協力のもとに、"UNIQLO RECYCLE" プロジェクトを始動しているのだそうだ。
対象の服は、ユニクロで販売した全商品。良い状態で届けるために洗濯してから、店頭まで持ってきてください、とチラシで呼びかけている。
とても良い活動だなあ、とわたしは深く共感してしまう。


ユニクロはこれまでに22か国のアフリカの国々服を送った実績を持つのだと書かれている。
現在、アフリカ大陸には54の国が存在する。
チラシ裏のアフリカの地図に、UNHCRから要請を受けている10か国の必要数が記されている。
そのうちの一つ、コンゴ民主共和国は最多の155万点。
これは、それだけ、人口が多いことを表しているのだと思われる。
国土面積にしても、アルジェリアに次いでコンゴ民主共和国は2番目に大きいらしい。
小さな国土のウガンダの要請点数は、次に多い121万点。
ウガンダにはあしなが育英会事務所があるからかもしれない。


アフリカは、常夏だから、フリースなどの防寒服は不要なのではないかと思うなかれ。
かれらにとって、防寒着も必需品なのだ。
20年前にいた中央アフリカ共和国でも、コンゴ民主共和国でも、季節によっては朝晩の冷え込みはしっかり感じていた。
ましてや、現地のアフリカの人々には、耐えられない寒さのようで、夜の警備員たちは、たき火を囲んで、さらに分厚いコートを着込んでいた。
キンシャサ滞在中のわたしのフランス語のおしゃれな女性の先生は、"La saison seche, c'est l'hiver pour nous."~乾季はわたしたちにとっての冬なのよ~と言って、秋冬のおしゃれを楽しんでいた。

アフリカの大都会、キンシャサには、おしゃれを楽しむ人たちをたくさん見受けた。
スペイン?だかの若者のリーズナブルな値段でおしゃれを楽しめるブランドのお店もキンシャサの大通りに店舗を構え、キンシャサの若者たちで賑わっていた。

UNIQLOさんにひとつ、提案!
確かにコンゴ民主共和国の国土は広大で、東部では今も治安の不安定な地域もある。
大都会、キンシャサには物乞いのストリートチルドレンも見かける。
それでも、普通に平和に暮らすアフリカの人々もたくさんいる。
そういう人々と、そろそろ、店舗で商売を展開する、対等な関係を持ってはどうだろう。
ヨーロッパ、アメリカ、と店舗を広げてきて、さあ、アフリカの大都会キンシャサに上陸、というのもありかなあ、なんて、わたしは思うのですよ、UNIQLOさん。

2015年2月28日土曜日

こぼれ話11 : キンシャサの ”コンゴ-日本大通り”

夫たちが調査でキンシャサのポワルー通り(Avenue de Poids Lourds)に初めて降り立ったのは、2009年3月だった。

起工式は2010年の10月。
実質的な工事は、2010年6月に始まっていた。

ところが、12月に工事中止命令が突如、コンゴ政府から出る。
当初、2車線の舗装道路改良工事の案件で始まったプロジェクトだったが、2車線から4車線にするための中止命令だった。
日本政府とコンゴ政府の2国間の2車線に対する無償援助の契約が締結された後の突然の車線変更の申し入れに、日本側は戸惑い、大揺れに揺れたのだそうだ。

夫は、変更に伴う契約と調査のために、東北大震災の夜、新宿のオフィスから赤羽の自宅に徒歩で出張荷物を持ち帰り、翌3月12日に成田からキンシャサに向けて出発していった。

それから、4車線への設計変更をし、元々の2車線分の無償援助部分の契約、拡幅部分のコンゴ政府費用負担部分の契約、という、JICAとコンゴ政府の共同資金プロジェクトが合意され、約9ヶ月間の工事ストップ期間を経て、やっと工事が再開されたのが、2011年9月下旬だったそうだ。

夫は、10月初めにキンシャサに行くから用意をしておくようにとわたしに言い渡し、9月のフランスでの娘の結婚式のために夫婦で渡仏して即行帰国し、キンシャサに夫婦で行く準備を進めた。

ところが、今度は、大統領選前の治安悪化、道路拡幅部分の契約が未締結のまま、ということが起こる。
全てがクリアになってキンシャサに夫婦で降り立つことができたのは、2012年1月1日だった。


古巣に戻ったように喜ぶ夫にもう一つ、すばらしいプレゼントが待っていた。
プロジェクトに従事する人の中に、夫と30年以上も前に青年海外協力隊で同期で大親友だった仲間が赴任してきていて、二人は感動の再会を果たしたのだった。


まず、新しい側溝が据え付けられる。後に、古い舗装は剥がされて基礎から改修していく。向こうの橋は撤去された。

新しく据え付けられた側溝が見える。古い舗装が剥がされ、新しく基盤から工事が始まる。

道路の拡幅工事のために、2013年末から、沿道の工場の移設、橋の撤去(上の最初の写真)、沿道の唯一の駅(ンドロ駅)~沿道の片側には、朝夕にのみ運行される通勤列車のための鉄道が敷設されている~の鉄道反対側への移設が始まった。
橋の撤去のみ、プロジェクトに含まれていたので日本のコントラクターが請け負い、他の移設はコンゴのローカルコントラクターが請け負ったと聞く。
ンドロ駅付近に埋蔵されていた石油管は、コンゴの石油公社によって移設されたそうだ。
この道路を良いものにしよう、完成させようという熱意が感じられて、わたしは心で拍手を送っていた。
(コンゴ政府の公共事業省のムッシュたちに結婚式などのプライベート部分で何度か会っているが、一生懸命な人たちという印象を持っている。)


そうして、すべての工事が完了したのが2014年5月末だった。
わたしたちが帰国したのはその約2ヶ月後の2014年8月初旬。
竣工式は延期されてその時点では、いつ開催されるか不明だということだった。

その後、夫は、ポワルー道路の竣工式にどうしても出席したいと、二日滞在の強行スケジュールで昨年11月にキンシャサに行ったものの、大統領側のキャンセルに合い、式典は開催されなかった。

結局、竣工式は、今年に入って2015年2月21日にコンゴの大統領、日本の大使出席のもとに開催される。



完成した4車線の舗装道路


完成した4車線の舗装道路


夫たちがポワルー道路に足を踏み入れてから、ほぼ6年近く。
紆余曲折がありながらも、多くの工事関係者、コンゴ政府の関係者たちの力で、立派な4車線道路が完成した。

キンシャサの一般市民の間でも、日本のコントラクターの進める工事過程から、日本の技術で完成した道路の品質まですべてに対して、素晴らしい賛辞を得ている。
「この道路の上を走行していて、その車中でペンを走らせてぶれもせずに美しい字が書ける。」
そんなうれしい話を聞いた。

また、国際女性クラブ(わたしが会員になっていたキンシャサの女性クラブ)のマダムたちの夫が多く勤務するビール工場の関係者からも賞賛の声が上がり、女性クラブのマダムたちからよく感謝された。(わたしは全く関わっていないのに!)


夫は言う。
この道路は、日本政府の無償援助とコンゴ政府の共同資金の元、日本の技術で、関係者の熱意に支えられて完成した素晴らしいプロジェクトだったと。

そして、さらに、1週間ほど前だったか、わたしが朝起きてリビングに入ると、夫がうれしそうに、道路の名称が変更されたよと言ってきた。


BOULEVARD de CONGO-JAPON

コンゴ-日本大通り


うれしいプレゼントを心より、ありがとう。



2015年1月25日日曜日

こぼれ話10 : コンゴ・ブラザビルのサプール(SAPEUR) 文化 ~ NHK 地球イチバンを観て

2015年になって、もう1カ月が経とうとしている。

あらためて、新年おめでとうございます。
今年も良い年となりますように。

さて、我が夫は正月休み明け早々、またキンシャサに出発していった。
昨年、日本の無償援助でポワルー産業道路の舗装拡張工事が完成した。
その沿道に街路灯を取り付けようというプロジェクトが新たに計画され、その調査のため、1か月の予定で出かけた、という訳だ。
ところが、キンシャサ市内で、数日前から大統領選絡みでデモ隊と政府側との衝突があり、夫たちはこの1週間、自宅待機となった上に、インターネットもツイッターも政府の策略で不通になっている。
アフリカ諸国は、盤弱な政府組織に加え、欧米諸国の思惑(?)が渦巻き、なかなか安定しない。


さて。
昨年末、12月5日夜、NHK総合テレビ、「地球イチバン」で、コンゴ共和国、ブラザビルで取材された、”SAPEUR”についてのとても興味深い番組を観た。

「世界一、服にお金をかける男たち」というタイトルで、”サプール(Sapeur)”と呼ばれる、ブラザビルに住む庶民たちが低賃金の中でお洒落を楽しむ集団の取材番組だった。


ブラザビルのSAPEURたち(HPより)

ブラザビルのSAPEURたち(NHK地球イチバンより)

ブラザビルのSAPEUR 長老ムッシュ(NHK地球イチバンより)


”La Sape”
これは、 Societe des Ambianceurs et des Personnes Elegantes の頭文字を取ったものだ。
直訳すれば、「洗練された環境と人々の共同体」、だ。

La Sape の信奉者を "Sapeur" と呼ぶ。


NHK「地球イチバン」の”世界一服にお金をかける男たち”によると、"Sapeur"とは、
”武器を捨て、エレガントに生きる、世界一服にお金をかけ、世界一エレガントな男たち”、
という定義になるらしい。

お洒落で優雅で、平和な男たちの集団。
ヨーロッパのブランド品をまとい、あくまでもヨーロッパ風の身だしなみだ。
ただ、色使いは、アフリカの明るい陽ざしに負けないきれいな色使いだけど。
(取材の中では、グループに女性はいなかったが、女性だってバービー人形顔負けのお洒落な人たちをキンシャサにはわんさか見かけたものだ。)
通りを闊歩するサプール(Sapeur)たちに沿道の人々から憧れの視線が注がれていた。
もちろん、サプール(Sapeur)たちも通りを”見えを切って”歩き、注目を浴びることを楽しんでいる!!


サプール(Sapeur)。かれらの言い分は。

サプールとは、上品な着こなしをする、平和な人間のこと。
サプールとは、暗闇を照らす明かりのようなもの。
サプールになると、別の精神が宿る。
着飾って歩くと、日常生活の厳しさを忘れられる。
服は品位を高める。
着飾っているときにとても幸せ感に満ちている。人に対して、罵ったり、悪いことをしたりしなくなる。良心的になる。
着飾っているときに喧嘩したり武器を持って戦うと、服が破れたり汚れてしまう。だから、喧嘩はしないし、戦わない。
週末にまた輝くために、月曜日から仕事に出て働くのだ。
素敵な衣装を買うためには、サプールでいるためには、お金が必要だ。だから、しっかり仕事をするのだ。

なるほど。平和のためにも、経済のためにも、とても良いサイクルが見えてくる。

平均1日131円で生きるコンゴの人たち。
コンゴ共和国;ブラザビル・コンゴ(仏領コンゴ)も、コンゴ民主共和国;キンシャサ・コンゴ(ベルギー領コンゴ、旧ザイール)も似たようなものだろう。

サプール(Sapeur) -上品な着こなしをする平和な人間ー かれらは、給料の40%(平均)を衣装代に使うという。すごい人は、収入の半分、60%、という人もいるそうだ。
かれらの平均月給は、3万円。
しかし、給料の大半を衣装代に費やしてしまう、というのは無理があるような気がする。
サプールの奥さんたちは、変なものにお金を使うより、衣装代に使う方がいいわ、と夫たちの着道楽を諦め気分で受け入れているのかなあというインタビューも番組の中で聞いた。

納得できる!
キンシャサでも、それは痛感することであった。
日本人の友人が本国に休暇帰国するとき、運転手から靴を買ってきてほしいと頼まれたと言う。運転手に、靴の値段はあなたに支払う給料とほぼ同額なのよと説明すると、それでも買ってきてほしいと頼まれ、呆れてしまったという話を思い出す。
わたしの仏語の女性教師も、それはお洒落を楽しみ、靴は必ず着ている服の何かと同じ色だったし、バッグもベルトもピアスもこだわりを持って選んでいた。収入の大半をファッションに費やしていたと思う。(かのじょは独身女性ではあったが。)
(余談だが、キンシャサの街を歩く女性の99.9%がかつら、あるいはエクステ(付け毛)だった!まるで、帽子を被るような感覚で!)

しかしなあ。
我が国の歴史の中にも、似たような言葉があったような・・・。
日本でも、”京の着倒れ、大阪の食い倒れ”という言葉がある。
さらには、奇抜な身なりをする、という意味の、”かぶく(傾く)” という言葉も。
人目を引く、しゃれた身なりをする男、という意味の、”伊達男”という言葉も。

ブラザビルやキンシャサの着道楽、履き道楽の文化、格好つけの文化と、わたしたち日本人が辿ってきた文化と、どこか共通点があるのかもしれない。


番組中で、ブラザビルの、"La Main Blueu"というサプールが集うバーが紹介されていた。
着飾って、エレガントなサプールたちが週末の夜に集まってくる。
サプールの聖地だ。
サプールたちがセンスを競い、磨く場だ。
そして、また来週の再会を誓って、新しい週に向かうのだ。

サプールの歌、"La Sape"というのもあるのだそうだ。
ブラザビル・コンゴの独立記念日、8月15日のお祭りの行進に、サプールたちも参加してる映像もあった。
番組を観ていると、ブラザビルという都市において、サプール文化が一つの文化として広く認識されているように感じた。


果たして、サプール文化の起源をどこに見出すことができるのか。

コンゴ共和国(ブラザビル・コンゴ)は、1880年から1960年までフランスの植民地だった。
Wikipediaによると、"La sape" は、アフリカの、特にブラザビルとキンシャサの植民地主義の時代に起源を見ることができるという。
フランス植民地政府の使命は、服文化を持たない、独自の文化の中で生きるアフリカ人たちにヨーロッパ文化をもたらすことだった。
部族の首長たちに取り入ろうと、本国から多くの中古の洋服を持ち込み、ブラザビルはまもなく、植民地政府の人々や白人にとって、最も整った環境を持つ地域になった。
白人の下で働くハウスボーイたちは、報酬として金銭の代わりにヨーロッパからの中古の洋服があてがわれ、かれらはヨーロッパ文化の旗手となっていく。そうやって、サプールの下地が形成されていったのだ。

1990年代にわたしたちが暮らした中央アフリカ共和国もフランス領だった地域だ。
当時、そこで出会った一人の年取った中央アフリカ人のハウスボーイを思い出す。
70歳はゆうに過ぎた年代のムッシュは、少年の頃からフランス人の家庭でボーイとして働き、エレガントな立ち居振る舞いに加え、フランス料理のレパートリーも幅広かった。
歳を重ねた当時も、かくしゃくとしてプライド高いかれは、ボーイとして現役だった。
今、思い出してもまさにかれは、サプール(Sapeur)だった。
かれはいつも山高帽を被り、おしゃれな背広姿で現れ、温厚な紳士だったなあ、と懐かしく思い出す。1930年代にフランス文化に触れ、ヨーロッパナイズされていったのだろうと想像される。

わたしたち夫婦が暮らしたキンシャサ・コンゴはというと、ベルギーの植民地だった。
隣国の首都、ブラザビルとはコンゴ河を隔てて目と鼻の先の対岸にあり、現在も2つの首都が合わさって一つの経済圏を作っていると考えられる。
公正な目で見て、明らかにキンシャサのほうが大きな都市だ。ヨーロッパからの衣料を扱うブティックも断然多いはずだ。だからもちろん、キンシャサにもオシャレ人間をあちこちに発見する。ジュリーもどき(時代が古いだろうか。全盛期の沢田研二もどき、ということで。)のムッシュたちや、バービー人形もどきのマドモアゼルたちはいとも簡単に見つけられる。
でも、テレビ「地球イチバン」のサプール(Sapeur)たちの取材はブラザビルに限定されていた。


どうしてだろう。
サプール(Sapeur)文化は、ブラザビル限定なのだろうか。

まず、キンシャサにはオシャレ人間はいても、徒党を組んで闊歩するという人たちを見ないことは確かだ。

そして思い出すのは、わたしのオシャレな仏語女性教師が言っていたことだ。

~わたしたちの国はベルギーが宗主国だった。ベルギーは芸術を伝授したり、保護、育成してくれたりすることはなかった。だから、レベルの高い芸術が育っていない。フランスの植民地だったところは、軒並み素晴らしい芸術文化が育まれているのに。なんとうらやましいことだろう。~

これもまた、うなずける。
セネガルなどの西アフリカには、かれらの独特の文化が保護され宗主国からの影響を受けつつ、魅力的な芸術が醸成されてきたように思える。

そう考えると、ブラザビルに、お洒落を意識高く文化にまで高めて組織された集団が現われた理由が見えてくる。
フランス人がもたらした服のセンスは、仏領だった時代のハウスボーイたち、事務員たちが旗手となって広まり、アフリカの強烈な太陽光線の下で、発酵熟成していったのかもしれない。

かれらの、鮮やかな色と色を組み合わせるパワフルな色合わせは、ヨーロッパモードに逆輸入され、影響を与えているのかもしれない、とさえ番組を観ていて感じた。


サプール文化は、1990年代、内戦で危機に陥る。
1人のサプール・ムッシュが自身の経験談を話していた。

内戦の時、大切な服が盗難に遭うことを恐れ、土中に埋めた。数年後、自宅に戻って来て土中の服やベルトを掘り起こしてみると、ボロボロに劣化していた。

かれは、戦いはいけない、としみじみ言うのだった。

ナイフや銃を持ったサプールはいない。
サプールは平和主義を貫く。

戦争は失うものばかり。
武器を捨て、エレガントに生きる。
暴力反対がサプールの精神。


人から見られることを常に意識する。
そして、人を敬う。
人を敬うと、自身も人から敬われるようになる。
美しい所作は大切なポイントだ。
自分を信じる。不安がってはいけない。誇りを持つ。

人を敬い、自分を信じ、誇りを持つ。

ジャケットをひるがえして、ブランドのタブを見せびらかし、格好つけるサプールたち。
その中には、KENZOもあった。
コサージュ、ベルト、サングラスも小粋に取り込んでお洒落を楽しむサプールたち。。

サプールの年輩のムッシュは、若輩のサプールたちに、"La Sape"のエスプリを講釈していた。
そして、遂にサプールとしての合格点を出したとき、年輩者は、若輩サプールに大枚をはたいて、サプール仲間として品位のある衣装をプレゼントしていた。
何と誇り高いサプールなのだろう。

サプール文化の根源は、旧宗主国フランス人たちが植民地に持ち込んだフランスからの中古服だった。それが上層ではなく、事務員やハウスボーイたちにもたらされ、洗練され、そのうち、かれらの主人たちの中古服を拒否し、パリからの最新ファッションを入手して彼ら独自の色遣いのセンスを加味して着こなしを楽しむために、着道楽と履き道楽のために、貧弱な賃金を費やし、平和的な徒党を組んでかれらの休日を楽しむ、という文化がブラザビルの土地に育まれてきたのだ!