中央アフリカ共和国滞在時 スーダン国境にて 1994.12.30. |
その翌年夏に3年間のバンギ滞在を終えて帰国した。
そして小学校6年生になっていた娘は、中学受験の準備のための塾通いが始まった。
ある日のこと。
娘が、駅向こうの塾からばたばたと息弾ませて帰宅して、頬を赤くして目をランランと輝かせて興奮して言ったのだ。
「お母さん、どんなシミも消せます、っていうのを見つけたよ。
わたしのお小遣いで買えるよ。買ってあげるから!」
??? そんな安価なシミ取りクリームって???
「どこに売ってたの?」
駅前の雑居ビルの中の文具屋で見つけたのだと言う。
娘の優しい熱意に込み上げるものがあった。
中央アフリカ共和国に丸っと3年いて、ゴルフはするし、旅には出るし、ハイキングには行くし。
シミだらけだ、と嘆く母の声を娘なりに心痛めて聞き続けていたのだろうな。
娘と一緒に、そのお店に行ってみた。
確かにあった。
”どんなシミも消せます、落とせます”と書いたチューブ入りのクリームが。
・・・文具屋さんに。
はい。どんな醤油のシミも油のシミも落とせます。
シミ違い、だった。
3年間、毎日聞く日本語と言えば母の話す九州訛りの日本語だけだった。
週末にしか、父親は工事現場から帰ってこなかったのだから。
娘には、”シミ”といえば、皮膚にできるシミしか知らなったのだ。
受験まで、国語には相当手こずった。
それでも、希望校に入学できたのは、毎月日本大使館経由で送られてくる日本海外子女教育財団発行の30枚足らずのテキストと教科書で母親と勉強した漢字と算数のお陰だったかなと思う。
今もあるのかな、日本子女教育財団作成のあのテキスト。
一日1ページをこなすだけで、日本の小学生と同じカリキュラムを修了できます、と書いてあった。隔月で、カセットテープが1本入っていて、日本の季節の話と、季節の歌を聴くことができた。常夏のアフリカで感じることのできる、日本の四季だった。
そして、年に一回、コンクールがあって、作文部門と俳句部門で作品募集というのもあった。
娘はある年、作文部門で賞をいただき大きな盾が送られてきた。
それを見た弟が僕も欲しいと言い出し、ひらがなをどうにか書けるようになった段階だったので、親子で俳句作りをすることに。指を折りながら五、七、五、と数えて季節の言葉も入れて楽しんだ。
そして、翌年5歳の息子は見事、俳句部門で盾をいただいたのだった。
懐かしい思い出だ。
そうそう、夜にはベッドの中で物語の読み聞かせで色んな世界に母子で飛んで行ったな。
それから、親子でそれぞれに、月1回発行の新聞作りもしたな。
母親の魂胆は、国語力を少しでも伸ばそうというものだったが、子どもたちは一度も休刊(!)することなく、楽しんで(かな?)帰国まで新聞発行は続いた。
娘は”Bonjour便り”として、息子は”ライオン新聞”として、わたしは”バンギ便り”として。
まだ、ブログというものがなかったから、手書きで書いて、コピーして、家族や友人知人に郵送していた。
バンギでは、週に2,3便飛んでいたエアフランスのパリ行きの便がある日のみ空港内の郵便局が開き、そこでカウンター越しに局員に手紙を手渡すと切手を貼ってくれて郵便袋に入れられる。その作業をしっかり見届けて帰ったものだ。
きれいな中央アフリカ共和国の切手が貼られた封書は必ず日本まで届いた。
と、そんなことまでとりとめもなく懐かしい思い出がよみがえってくる。
でも、娘には、”シミ”といえば、母の顔にできた茶色い斑点でしかなかったのだなあ。
またまた、いじらしい娘の気持ちにツンとくるものを感じる母心なのだった。
1995年のことだ。