3度見ても、新たな発見があって、叙情詩的な奥深い映像と音楽はやっぱりすばらしかった。
わたしはいろいろな見方をしてみようと決め、今回も映像をまた違った方面から理解してみようと思った。
映画「わたしは、幸福(フェリシテ)」の日本版ステッカー(画・南Q太) |
ゴミ箱をひっくり返したような混沌とした街で、もちろん道徳も理性もなにもかもが吹っ飛ぶような、すべてが混沌としたアフリカの大都会、キンシャサ。
その街で一人息子を抱えて肩で風を切るように生きる女性。フェリシテの歌う歌も強く熱情がほとばしるようだ。
交通事故で手術をしなければならなくなった息子のために、かのじょはプライドを押し込めて、ありとあらゆる人を訪ね歩いて手術費の工面をする。
一人息子の父親であり、フェリシテの元夫のところにも行く。
その元夫は、「お前は一人で生きていくと強がって出て行ったんじゃなかったのか。その挙句に一人息子は不良少年になり、バイク事故を起こしただと!知ったことではない。」
激怒してフェリシテを追い返す。
さらに、かのじょは叔母を訪ね、叔母から「一度は死んだお前に、親の思いを込めて命名した”フェリシテ~幸福”という名まえなのに。」とかのじょを侮蔑の目で見る。
フェリシテという名の”幸福”とは無縁のような暗く突っ張った表情に、叔母は冷たくわずかなお金を突き出す。(叔母も苦しい生活なのだ。)
どんな手段を使ってもお金を集める無表情のフェリシテを見て、こんなに硬く生きる女性がいたのかと改めて思う。
かのじょの職場の仲間が、フェリシテのためにいくらかでもお金を寄付してやろうとグループの長老が声を掛けても、フェリシテは仲間に懇願することはしない。あくまでも、誇り高い女性の姿勢を崩さない。
健気、という言葉の対極にあるような女性、フェリシテ。
フェリシテの歌う酒場の常連客にひとりの大酒飲みの男性がいる。
かのじょが大枚をはたいて手に入れた中古の冷蔵庫が運ばれてきて早々に壊れ、やって来た修理屋がこの男性、タブーだった。
タブーは、本当の修理屋かどうかはわからない。キンシャサには偽りも真実さえも混沌としている。
生き方さえ適当なように思われるタブーがフェリシテに思いを寄せる。いつからなのかはわからない。
母親の生き方に呼応するかのようにかたくなに生きるフェリシテの一人息子が交通事故で足を失い、荒れた生活を送って来たであろう息子もさらに心を隠し、無表情のままだ。生きる力さえ無くしたようだ。
その母子を、ちゃらんぽらん人間?のタブーがかれなりの愛情でかれらを包む。
フェリシテの心情を描く、イマジネーションの映像で、フェリシテは、ただ森の中をさ迷うだけだった。水の流れの音だけが聞こえる映像。
それが、あるとき、フェリシテは川だか、水の中に身を入れて進む。そして、森の中で、オカピという動物に出会う。(冒頭に載せた写真、映画のステッカーにも描かれている。)
そして、ついにフェリシテはオカピと触れ合う。
フェリシテの心が和らいだ瞬間だったのか。
オカピの”虚像”がフェリシテの歌う酒場にも見え隠れする。
”幸せ~フェリシテ”が見えた、のだ。
キンシャサで購入した木工のオカピの置物 |
フェリシテはいつもエクステの編み込んだ長い髪を、歌う時は垂らして、強がった虚栄の姿勢になるときは、髪を後ろにひとまとめに上げてさっそうと歩いていた。
そんなフェリシテがエクステ(付け髪)を外して、自然の地毛だけにして、再び歌い始める。
フェリシテが虚栄の鎧を外したのだ。(とわたしには受け取れた。)
キンシャサでは、98パーセントの女性が(と言っても過言ではないほど)カツラかエクステを付けて、頭にボリュームを持たせる。
1990年代に中央アフリカ共和国のバンギにいたころは、アフリカ布地の一反6ヤードの1/3を使って頭に巻いて地毛を隠して華やぎを出していた。1/3はブラウスに、1/3は巻きスカートにしてアフリカンプリントでお洒落をしていたものだった。
それから25年が経ち、アフリカンプリントでワンピースに身を包むか、ジーパンとTシャツ姿の女性たちの頭は、まるで帽子をかぶるかのような感覚で(カツラだとバレバレの)カツラか、エクステでヘアーファッションを楽しんでいる。地毛の短いアフリカの女性は長髪が憧れなのだろうな。
そんな中、フェリシテはすっぱり、エクステを止めて地毛で歌を歌い始めた。
一時期は歌を忘れたかのような状態だったフェリシテが、地毛のまま、”天国の歌”のような柔らかいタッチのリンガラミュージックを歌う姿があった。
自然体のフェリシテを見たように思えた。
フェリシテが”脱皮”したのだ。
退院してきた息子を祝うために集まってきた近所の人々に、退院してきたばかりで疲れが出ているからとさりげなく近所の人に帰ってもらう気遣いをみせるタブー。
ぼくはいつもフェリシテ、きみのそばにいるよ、と言い続けるタブー。
自分の生き方をしてこなかったフェリシテの一人息子が足を失い、もぬけの殻になっていた青年に自然に寄り添い、アルコールを飲むかと誘い、一緒になってふーっと息を抜くことを伝えるタブー。
そんなちゃらんぽらんだけど、優しく柔らかい風船(身も心も!?)のようなタブーの気持ちが、フェリシテ母子の硬い心をやわらげたのかな。
1月26日まで、ヒューマントラストシネマ有楽町で上映されるようだ。ただ、上映時間が日によって変更になるからチェックが必要だ。
そのあとは、全国で上映が始まると聞く。
キンシャサの今の様子がちりばめられた映画。
一般庶民の住む地区は、もっと汚くて治安もさらに乱れていると想像される。庶民が通う公立の病院も、もっと非衛生的なのだろう。2012年から2016年の間、4年ほど住んだキンシャサで、自由に徒歩で歩くことはできなかったし、庶民の居住地区に踏み込むことも禁止されていたから、深いところでの本当のキンシャサの姿は分からない。
それでも、キンシャサをはっきり感じる映画だ。
はるか遠い、アフリカ大陸の大都会で繰り広げられる普通の人々の日々の生活を観て、何かを感じてほしい。
これからの上映情報はこのHPで。
http://www.moviola.jp/felicite/theaters/index.html
DVD化されますように!