起工式は2010年の10月。
実質的な工事は、2010年6月に始まっていた。
ところが、12月に工事中止命令が突如、コンゴ政府から出る。
当初、2車線の舗装道路改良工事の案件で始まったプロジェクトだったが、2車線から4車線にするための中止命令だった。
日本政府とコンゴ政府の2国間の2車線に対する無償援助の契約が締結された後の突然の車線変更の申し入れに、日本側は戸惑い、大揺れに揺れたのだそうだ。
夫は、変更に伴う契約と調査のために、東北大震災の夜、新宿のオフィスから赤羽の自宅に徒歩で出張荷物を持ち帰り、翌3月12日に成田からキンシャサに向けて出発していった。
それから、4車線への設計変更をし、元々の2車線分の無償援助部分の契約、拡幅部分のコンゴ政府費用負担部分の契約、という、JICAとコンゴ政府の共同資金プロジェクトが合意され、約9ヶ月間の工事ストップ期間を経て、やっと工事が再開されたのが、2011年9月下旬だったそうだ。
夫は、10月初めにキンシャサに行くから用意をしておくようにとわたしに言い渡し、9月のフランスでの娘の結婚式のために夫婦で渡仏して即行帰国し、キンシャサに夫婦で行く準備を進めた。
ところが、今度は、大統領選前の治安悪化、道路拡幅部分の契約が未締結のまま、ということが起こる。
全てがクリアになってキンシャサに夫婦で降り立つことができたのは、2012年1月1日だった。
古巣に戻ったように喜ぶ夫にもう一つ、すばらしいプレゼントが待っていた。
プロジェクトに従事する人の中に、夫と30年以上も前に青年海外協力隊で同期で大親友だった仲間が赴任してきていて、二人は感動の再会を果たしたのだった。
まず、新しい側溝が据え付けられる。後に、古い舗装は剥がされて基礎から改修していく。向こうの橋は撤去された。 |
新しく据え付けられた側溝が見える。古い舗装が剥がされ、新しく基盤から工事が始まる。 |
道路の拡幅工事のために、2013年末から、沿道の工場の移設、橋の撤去(上の最初の写真)、沿道の唯一の駅(ンドロ駅)~沿道の片側には、朝夕にのみ運行される通勤列車のための鉄道が敷設されている~の鉄道反対側への移設が始まった。
橋の撤去のみ、プロジェクトに含まれていたので日本のコントラクターが請け負い、他の移設はコンゴのローカルコントラクターが請け負ったと聞く。
ンドロ駅付近に埋蔵されていた石油管は、コンゴの石油公社によって移設されたそうだ。
この道路を良いものにしよう、完成させようという熱意が感じられて、わたしは心で拍手を送っていた。
(コンゴ政府の公共事業省のムッシュたちに結婚式などのプライベート部分で何度か会っているが、一生懸命な人たちという印象を持っている。)
そうして、すべての工事が完了したのが2014年5月末だった。
わたしたちが帰国したのはその約2ヶ月後の2014年8月初旬。
竣工式は延期されてその時点では、いつ開催されるか不明だということだった。
その後、夫は、ポワルー道路の竣工式にどうしても出席したいと、二日滞在の強行スケジュールで昨年11月にキンシャサに行ったものの、大統領側のキャンセルに合い、式典は開催されなかった。
結局、竣工式は、今年に入って2015年2月21日にコンゴの大統領、日本の大使出席のもとに開催される。
完成した4車線の舗装道路 |
完成した4車線の舗装道路 |
夫たちがポワルー道路に足を踏み入れてから、ほぼ6年近く。
紆余曲折がありながらも、多くの工事関係者、コンゴ政府の関係者たちの力で、立派な4車線道路が完成した。
キンシャサの一般市民の間でも、日本のコントラクターの進める工事過程から、日本の技術で完成した道路の品質まですべてに対して、素晴らしい賛辞を得ている。
「この道路の上を走行していて、その車中でペンを走らせてぶれもせずに美しい字が書ける。」
そんなうれしい話を聞いた。
また、国際女性クラブ(わたしが会員になっていたキンシャサの女性クラブ)のマダムたちの夫が多く勤務するビール工場の関係者からも賞賛の声が上がり、女性クラブのマダムたちからよく感謝された。(わたしは全く関わっていないのに!)
夫は言う。
この道路は、日本政府の無償援助とコンゴ政府の共同資金の元、日本の技術で、関係者の熱意に支えられて完成した素晴らしいプロジェクトだったと。
そして、さらに、1週間ほど前だったか、わたしが朝起きてリビングに入ると、夫がうれしそうに、道路の名称が変更されたよと言ってきた。
BOULEVARD de CONGO-JAPON
コンゴ-日本大通り
うれしいプレゼントを心より、ありがとう。