2015年2月28日土曜日

こぼれ話11 : キンシャサの ”コンゴ-日本大通り”

夫たちが調査でキンシャサのポワルー通り(Avenue de Poids Lourds)に初めて降り立ったのは、2009年3月だった。

起工式は2010年の10月。
実質的な工事は、2010年6月に始まっていた。

ところが、12月に工事中止命令が突如、コンゴ政府から出る。
当初、2車線の舗装道路改良工事の案件で始まったプロジェクトだったが、2車線から4車線にするための中止命令だった。
日本政府とコンゴ政府の2国間の2車線に対する無償援助の契約が締結された後の突然の車線変更の申し入れに、日本側は戸惑い、大揺れに揺れたのだそうだ。

夫は、変更に伴う契約と調査のために、東北大震災の夜、新宿のオフィスから赤羽の自宅に徒歩で出張荷物を持ち帰り、翌3月12日に成田からキンシャサに向けて出発していった。

それから、4車線への設計変更をし、元々の2車線分の無償援助部分の契約、拡幅部分のコンゴ政府費用負担部分の契約、という、JICAとコンゴ政府の共同資金プロジェクトが合意され、約9ヶ月間の工事ストップ期間を経て、やっと工事が再開されたのが、2011年9月下旬だったそうだ。

夫は、10月初めにキンシャサに行くから用意をしておくようにとわたしに言い渡し、9月のフランスでの娘の結婚式のために夫婦で渡仏して即行帰国し、キンシャサに夫婦で行く準備を進めた。

ところが、今度は、大統領選前の治安悪化、道路拡幅部分の契約が未締結のまま、ということが起こる。
全てがクリアになってキンシャサに夫婦で降り立つことができたのは、2012年1月1日だった。


古巣に戻ったように喜ぶ夫にもう一つ、すばらしいプレゼントが待っていた。
プロジェクトに従事する人の中に、夫と30年以上も前に青年海外協力隊で同期で大親友だった仲間が赴任してきていて、二人は感動の再会を果たしたのだった。


まず、新しい側溝が据え付けられる。後に、古い舗装は剥がされて基礎から改修していく。向こうの橋は撤去された。

新しく据え付けられた側溝が見える。古い舗装が剥がされ、新しく基盤から工事が始まる。

道路の拡幅工事のために、2013年末から、沿道の工場の移設、橋の撤去(上の最初の写真)、沿道の唯一の駅(ンドロ駅)~沿道の片側には、朝夕にのみ運行される通勤列車のための鉄道が敷設されている~の鉄道反対側への移設が始まった。
橋の撤去のみ、プロジェクトに含まれていたので日本のコントラクターが請け負い、他の移設はコンゴのローカルコントラクターが請け負ったと聞く。
ンドロ駅付近に埋蔵されていた石油管は、コンゴの石油公社によって移設されたそうだ。
この道路を良いものにしよう、完成させようという熱意が感じられて、わたしは心で拍手を送っていた。
(コンゴ政府の公共事業省のムッシュたちに結婚式などのプライベート部分で何度か会っているが、一生懸命な人たちという印象を持っている。)


そうして、すべての工事が完了したのが2014年5月末だった。
わたしたちが帰国したのはその約2ヶ月後の2014年8月初旬。
竣工式は延期されてその時点では、いつ開催されるか不明だということだった。

その後、夫は、ポワルー道路の竣工式にどうしても出席したいと、二日滞在の強行スケジュールで昨年11月にキンシャサに行ったものの、大統領側のキャンセルに合い、式典は開催されなかった。

結局、竣工式は、今年に入って2015年2月21日にコンゴの大統領、日本の大使出席のもとに開催される。



完成した4車線の舗装道路


完成した4車線の舗装道路


夫たちがポワルー道路に足を踏み入れてから、ほぼ6年近く。
紆余曲折がありながらも、多くの工事関係者、コンゴ政府の関係者たちの力で、立派な4車線道路が完成した。

キンシャサの一般市民の間でも、日本のコントラクターの進める工事過程から、日本の技術で完成した道路の品質まですべてに対して、素晴らしい賛辞を得ている。
「この道路の上を走行していて、その車中でペンを走らせてぶれもせずに美しい字が書ける。」
そんなうれしい話を聞いた。

また、国際女性クラブ(わたしが会員になっていたキンシャサの女性クラブ)のマダムたちの夫が多く勤務するビール工場の関係者からも賞賛の声が上がり、女性クラブのマダムたちからよく感謝された。(わたしは全く関わっていないのに!)


夫は言う。
この道路は、日本政府の無償援助とコンゴ政府の共同資金の元、日本の技術で、関係者の熱意に支えられて完成した素晴らしいプロジェクトだったと。

そして、さらに、1週間ほど前だったか、わたしが朝起きてリビングに入ると、夫がうれしそうに、道路の名称が変更されたよと言ってきた。


BOULEVARD de CONGO-JAPON

コンゴ-日本大通り


うれしいプレゼントを心より、ありがとう。



2015年1月25日日曜日

こぼれ話10 : コンゴ・ブラザビルのサプール(SAPEUR) 文化 ~ NHK 地球イチバンを観て

2015年になって、もう1カ月が経とうとしている。

あらためて、新年おめでとうございます。
今年も良い年となりますように。

さて、我が夫は正月休み明け早々、またキンシャサに出発していった。
昨年、日本の無償援助でポワルー産業道路の舗装拡張工事が完成した。
その沿道に街路灯を取り付けようというプロジェクトが新たに計画され、その調査のため、1か月の予定で出かけた、という訳だ。
ところが、キンシャサ市内で、数日前から大統領選絡みでデモ隊と政府側との衝突があり、夫たちはこの1週間、自宅待機となった上に、インターネットもツイッターも政府の策略で不通になっている。
アフリカ諸国は、盤弱な政府組織に加え、欧米諸国の思惑(?)が渦巻き、なかなか安定しない。


さて。
昨年末、12月5日夜、NHK総合テレビ、「地球イチバン」で、コンゴ共和国、ブラザビルで取材された、”SAPEUR”についてのとても興味深い番組を観た。

「世界一、服にお金をかける男たち」というタイトルで、”サプール(Sapeur)”と呼ばれる、ブラザビルに住む庶民たちが低賃金の中でお洒落を楽しむ集団の取材番組だった。


ブラザビルのSAPEURたち(HPより)

ブラザビルのSAPEURたち(NHK地球イチバンより)

ブラザビルのSAPEUR 長老ムッシュ(NHK地球イチバンより)


”La Sape”
これは、 Societe des Ambianceurs et des Personnes Elegantes の頭文字を取ったものだ。
直訳すれば、「洗練された環境と人々の共同体」、だ。

La Sape の信奉者を "Sapeur" と呼ぶ。


NHK「地球イチバン」の”世界一服にお金をかける男たち”によると、"Sapeur"とは、
”武器を捨て、エレガントに生きる、世界一服にお金をかけ、世界一エレガントな男たち”、
という定義になるらしい。

お洒落で優雅で、平和な男たちの集団。
ヨーロッパのブランド品をまとい、あくまでもヨーロッパ風の身だしなみだ。
ただ、色使いは、アフリカの明るい陽ざしに負けないきれいな色使いだけど。
(取材の中では、グループに女性はいなかったが、女性だってバービー人形顔負けのお洒落な人たちをキンシャサにはわんさか見かけたものだ。)
通りを闊歩するサプール(Sapeur)たちに沿道の人々から憧れの視線が注がれていた。
もちろん、サプール(Sapeur)たちも通りを”見えを切って”歩き、注目を浴びることを楽しんでいる!!


サプール(Sapeur)。かれらの言い分は。

サプールとは、上品な着こなしをする、平和な人間のこと。
サプールとは、暗闇を照らす明かりのようなもの。
サプールになると、別の精神が宿る。
着飾って歩くと、日常生活の厳しさを忘れられる。
服は品位を高める。
着飾っているときにとても幸せ感に満ちている。人に対して、罵ったり、悪いことをしたりしなくなる。良心的になる。
着飾っているときに喧嘩したり武器を持って戦うと、服が破れたり汚れてしまう。だから、喧嘩はしないし、戦わない。
週末にまた輝くために、月曜日から仕事に出て働くのだ。
素敵な衣装を買うためには、サプールでいるためには、お金が必要だ。だから、しっかり仕事をするのだ。

なるほど。平和のためにも、経済のためにも、とても良いサイクルが見えてくる。

平均1日131円で生きるコンゴの人たち。
コンゴ共和国;ブラザビル・コンゴ(仏領コンゴ)も、コンゴ民主共和国;キンシャサ・コンゴ(ベルギー領コンゴ、旧ザイール)も似たようなものだろう。

サプール(Sapeur) -上品な着こなしをする平和な人間ー かれらは、給料の40%(平均)を衣装代に使うという。すごい人は、収入の半分、60%、という人もいるそうだ。
かれらの平均月給は、3万円。
しかし、給料の大半を衣装代に費やしてしまう、というのは無理があるような気がする。
サプールの奥さんたちは、変なものにお金を使うより、衣装代に使う方がいいわ、と夫たちの着道楽を諦め気分で受け入れているのかなあというインタビューも番組の中で聞いた。

納得できる!
キンシャサでも、それは痛感することであった。
日本人の友人が本国に休暇帰国するとき、運転手から靴を買ってきてほしいと頼まれたと言う。運転手に、靴の値段はあなたに支払う給料とほぼ同額なのよと説明すると、それでも買ってきてほしいと頼まれ、呆れてしまったという話を思い出す。
わたしの仏語の女性教師も、それはお洒落を楽しみ、靴は必ず着ている服の何かと同じ色だったし、バッグもベルトもピアスもこだわりを持って選んでいた。収入の大半をファッションに費やしていたと思う。(かのじょは独身女性ではあったが。)
(余談だが、キンシャサの街を歩く女性の99.9%がかつら、あるいはエクステ(付け毛)だった!まるで、帽子を被るような感覚で!)

しかしなあ。
我が国の歴史の中にも、似たような言葉があったような・・・。
日本でも、”京の着倒れ、大阪の食い倒れ”という言葉がある。
さらには、奇抜な身なりをする、という意味の、”かぶく(傾く)” という言葉も。
人目を引く、しゃれた身なりをする男、という意味の、”伊達男”という言葉も。

ブラザビルやキンシャサの着道楽、履き道楽の文化、格好つけの文化と、わたしたち日本人が辿ってきた文化と、どこか共通点があるのかもしれない。


番組中で、ブラザビルの、"La Main Blueu"というサプールが集うバーが紹介されていた。
着飾って、エレガントなサプールたちが週末の夜に集まってくる。
サプールの聖地だ。
サプールたちがセンスを競い、磨く場だ。
そして、また来週の再会を誓って、新しい週に向かうのだ。

サプールの歌、"La Sape"というのもあるのだそうだ。
ブラザビル・コンゴの独立記念日、8月15日のお祭りの行進に、サプールたちも参加してる映像もあった。
番組を観ていると、ブラザビルという都市において、サプール文化が一つの文化として広く認識されているように感じた。


果たして、サプール文化の起源をどこに見出すことができるのか。

コンゴ共和国(ブラザビル・コンゴ)は、1880年から1960年までフランスの植民地だった。
Wikipediaによると、"La sape" は、アフリカの、特にブラザビルとキンシャサの植民地主義の時代に起源を見ることができるという。
フランス植民地政府の使命は、服文化を持たない、独自の文化の中で生きるアフリカ人たちにヨーロッパ文化をもたらすことだった。
部族の首長たちに取り入ろうと、本国から多くの中古の洋服を持ち込み、ブラザビルはまもなく、植民地政府の人々や白人にとって、最も整った環境を持つ地域になった。
白人の下で働くハウスボーイたちは、報酬として金銭の代わりにヨーロッパからの中古の洋服があてがわれ、かれらはヨーロッパ文化の旗手となっていく。そうやって、サプールの下地が形成されていったのだ。

1990年代にわたしたちが暮らした中央アフリカ共和国もフランス領だった地域だ。
当時、そこで出会った一人の年取った中央アフリカ人のハウスボーイを思い出す。
70歳はゆうに過ぎた年代のムッシュは、少年の頃からフランス人の家庭でボーイとして働き、エレガントな立ち居振る舞いに加え、フランス料理のレパートリーも幅広かった。
歳を重ねた当時も、かくしゃくとしてプライド高いかれは、ボーイとして現役だった。
今、思い出してもまさにかれは、サプール(Sapeur)だった。
かれはいつも山高帽を被り、おしゃれな背広姿で現れ、温厚な紳士だったなあ、と懐かしく思い出す。1930年代にフランス文化に触れ、ヨーロッパナイズされていったのだろうと想像される。

わたしたち夫婦が暮らしたキンシャサ・コンゴはというと、ベルギーの植民地だった。
隣国の首都、ブラザビルとはコンゴ河を隔てて目と鼻の先の対岸にあり、現在も2つの首都が合わさって一つの経済圏を作っていると考えられる。
公正な目で見て、明らかにキンシャサのほうが大きな都市だ。ヨーロッパからの衣料を扱うブティックも断然多いはずだ。だからもちろん、キンシャサにもオシャレ人間をあちこちに発見する。ジュリーもどき(時代が古いだろうか。全盛期の沢田研二もどき、ということで。)のムッシュたちや、バービー人形もどきのマドモアゼルたちはいとも簡単に見つけられる。
でも、テレビ「地球イチバン」のサプール(Sapeur)たちの取材はブラザビルに限定されていた。


どうしてだろう。
サプール(Sapeur)文化は、ブラザビル限定なのだろうか。

まず、キンシャサにはオシャレ人間はいても、徒党を組んで闊歩するという人たちを見ないことは確かだ。

そして思い出すのは、わたしのオシャレな仏語女性教師が言っていたことだ。

~わたしたちの国はベルギーが宗主国だった。ベルギーは芸術を伝授したり、保護、育成してくれたりすることはなかった。だから、レベルの高い芸術が育っていない。フランスの植民地だったところは、軒並み素晴らしい芸術文化が育まれているのに。なんとうらやましいことだろう。~

これもまた、うなずける。
セネガルなどの西アフリカには、かれらの独特の文化が保護され宗主国からの影響を受けつつ、魅力的な芸術が醸成されてきたように思える。

そう考えると、ブラザビルに、お洒落を意識高く文化にまで高めて組織された集団が現われた理由が見えてくる。
フランス人がもたらした服のセンスは、仏領だった時代のハウスボーイたち、事務員たちが旗手となって広まり、アフリカの強烈な太陽光線の下で、発酵熟成していったのかもしれない。

かれらの、鮮やかな色と色を組み合わせるパワフルな色合わせは、ヨーロッパモードに逆輸入され、影響を与えているのかもしれない、とさえ番組を観ていて感じた。


サプール文化は、1990年代、内戦で危機に陥る。
1人のサプール・ムッシュが自身の経験談を話していた。

内戦の時、大切な服が盗難に遭うことを恐れ、土中に埋めた。数年後、自宅に戻って来て土中の服やベルトを掘り起こしてみると、ボロボロに劣化していた。

かれは、戦いはいけない、としみじみ言うのだった。

ナイフや銃を持ったサプールはいない。
サプールは平和主義を貫く。

戦争は失うものばかり。
武器を捨て、エレガントに生きる。
暴力反対がサプールの精神。


人から見られることを常に意識する。
そして、人を敬う。
人を敬うと、自身も人から敬われるようになる。
美しい所作は大切なポイントだ。
自分を信じる。不安がってはいけない。誇りを持つ。

人を敬い、自分を信じ、誇りを持つ。

ジャケットをひるがえして、ブランドのタブを見せびらかし、格好つけるサプールたち。
その中には、KENZOもあった。
コサージュ、ベルト、サングラスも小粋に取り込んでお洒落を楽しむサプールたち。。

サプールの年輩のムッシュは、若輩のサプールたちに、"La Sape"のエスプリを講釈していた。
そして、遂にサプールとしての合格点を出したとき、年輩者は、若輩サプールに大枚をはたいて、サプール仲間として品位のある衣装をプレゼントしていた。
何と誇り高いサプールなのだろう。

サプール文化の根源は、旧宗主国フランス人たちが植民地に持ち込んだフランスからの中古服だった。それが上層ではなく、事務員やハウスボーイたちにもたらされ、洗練され、そのうち、かれらの主人たちの中古服を拒否し、パリからの最新ファッションを入手して彼ら独自の色遣いのセンスを加味して着こなしを楽しむために、着道楽と履き道楽のために、貧弱な賃金を費やし、平和的な徒党を組んでかれらの休日を楽しむ、という文化がブラザビルの土地に育まれてきたのだ!

2014年12月21日日曜日

こぼれ話9 : キンシャサのポインセチア

クリスマスが近づいてきた。
日本列島、寒波に見舞われ、本当に寒い日が続く。
北日本、日本海側では記録的な積雪で被害や死傷者も出ている。

わたしが育った北九州市は、九州といえども日本海側。
玄海灘からの寒風は厳しかった。
八幡製鉄所の起業祭で賑わう11月初めには、どんよりと曇り空が広がって、雪がちらついた。
それでも、学校の教室には暖房設備はなかったなあ。
職員室には達磨ストーブみたいな大きな暖房が赤く燃えて暖かかったけど。

なんてことを思い出すこの頃。

赤羽駅前にはクリスマスイルミネーションが点灯し、花屋には、ポインセチアやクリスマスリースが並べられ、ケーキ屋ではクリスマスケーキの予約申し込みのポスターが貼られて、クリスマスムードが街じゅうに溢れている。


花屋をクリスマスムードに演出するポインセチアたち




花屋のポインセチアの鉢物

ポインセチアはクリスマスシーズンに花屋に登場し、クリスマスを演出する植物としてシクラメンとともに欠かせない鉢物だと信じて疑わなかった。


ところが!
キンシャサのゴルフ場にポインセチアの低木が自生していたのだ。

キンシャサゴルフクラブ内に自生するポインセチア 2014年1月
キンシャサゴルフクラブ内のポインセチアの低木 2014年1月


初めて、キンシャサというアフリカ熱帯雨林気候の都市で、日本で見るポインセチアより背の高い大ぶりな低木のものを見つけたとき、目を疑った。
ポインセチアの原産地って熱帯だったの?

確かになあ、日本ではポインセチアは小ぶりの鉢植えで、室内に置かれるものなあ。


調べてみると、原産地はメキシコ。
メキシコを中心として、中央アメリカに分布する熱帯性の低木で、自生地では3~5mの大きさに達するのだそうだ。

寒さに弱く、15℃を切るころには室内に取り込むこと。
冬期には室内で短日処理をすること。
(※ 日照時間が12時間以下にならないと開花しないため、9月下旬頃から冬期間は毎日欠かさず夕方17時~朝8時は一切の光を遮断することが重要ポイントなのだそうだ。)
そんな育て方のポイントが紹介されている。

ポインセチアの赤いところは茎だそうだ。
キンシャサに自生するポインセチアの写真を見ると、赤い花びらのようにみえる中心にのぞく白い小さな花が確認できる。
これこそが、ポインセチアの花だ。
しっかり開花している。
日本の鉢植えのポインセチアに、ここまで大きく主張するように咲く白い花が存在するだろうか。
おそらく、白い小さな粒、だけのように思う。

キンシャサは南緯4度だから、ほとんど年間を通して夕方6時前に日没、朝6時過ぎに日の出を迎える。と考えると、ぎりぎり、「日照時間12時間以下」という条件はクリアできるのか。


クリスマスシーズンに我が家に来ていたポインセチアもシクラメンも室内に置いていても元気に越冬することはなかったことを思い出す。
ポインセチアは、越冬しても夏になると、赤い部分は消え失せて緑一色になってしまっていたような。


今年は、娘一家がフランスから帰ってきて思いもかけずに2カ月近い滞在となり、2歳半になる孫娘のために、クリスマスツリーを出し、オーナメントを付け、クリスマスの絵やリースを一緒に飾って楽しんだのだった。
ツリーをオーナメントで飾ったのは10数年ぶりだったように思う。

今週初めにフランスに戻っていった娘たち。
部屋のあちこちに、かのじょたちがふりまいていった残り香を感じる。

 JOYEUX  NOEL !!

 メリー クリスマス !!


2014年11月11日火曜日

こぼれ話8 : ウェンゲの芽 成長記録

スイカの種の巨大版のようなウェンゲの木の種

マメ科の植物で、大きな木に藤の花のような紫の花を毎年10月初めに満開にして楽しませてくれたウェンゲの木。フランス語では、ポワ・ノワール、黒い木。家具や木工制作に使われる高品質の木材。

2013.10.8.ゴルフ場 満開のウェンゲの木

今年の10月の満開のウェンゲは見られないのだなと寂しく思いながらの8月の帰国だった。
その時に、ひそかに持って帰ったウェンゲの種。

そのウェンゲの種を9月に入って、赤羽のわが家のベランダの植木鉢に植えた。
4粒植えて、2粒から芽が出た。

10月下旬ころからは、夜はリビングに入れて、気温の低下に気を付けるようにしている。
お日様ぽかぽかの陽気のいい日は、たっぷりお日様に当てて、アフリカを思い出してもらっている。

そして、ここまで大きくなった。

発芽して成長するウェンゲ

大きいほうで、丈7センチほどになった。
このまま、どんどん大きくなりますように。

子供向けの植物生育の指南絵本、「リネアの庭」に、アボカドの種を植えて育てることを指導する箇所がある。そこでは、ある程度まで成長したら、思い切って幹をスパッと切る!、それがうまく生育させるポイントだ、と書いていたことを思い出す。
この、ウェンゲも同じ南国の植物だし、ある時期が来たら、やっぱり幹をスパッと切るべきなのだろうか。
リネアには経験豊富な庭師のおじいさんが指導者にいたからなあ、と羨ましがったりしている・・。
試行錯誤で、とにかく今の目標は、”越冬”!!!

アフリカの植物の1年のサークルはおもしろい。
低木、高木いろいろの樹木の花がほとんど(可憐な草花というのをまず見かけなかった)で、マメ科の植物が多い。これは、中央アフリカ共和国のバンギで、コンゴ民共和国のキンシャサで感じたことだ。
それらの樹木の花たちは、だいたい雨季(9月中旬~翌6月中旬)が始まって1か月ほど経った10月初めに満開となり、11月半ばには実を結ぶ。(中央アフリカのバンギは北半球だったからか、満開時期は4月だった。)

ウェンゲの木はマメ科だから、閉花後、30センチほどの鞘がぶらんぶらんと大量に垂れ下がる。
雨季の間中、緑色の鞘の中で実が数か月かけてゆっくり、本当にゆっくーり成熟し続ける。
翌年、6月に入って乾季になると、これまたゆっくり乾燥し始めて茶色に変色していく。
3カ月ほどして、しっかり乾燥していくと鞘が割れて、実が地面に落ちていく。
それが、8月末から9月あたり。
だから、冒頭の写真の種は前年開花した後の実だ。
ということは、10月初めに満開になった樹木の下には、前年実を結んだ種が落ちているのだ。
上を見上げると満開の花が咲き、地面には前年の花からの種が落ちている。
ゆっくりゆっくりのペースで1年が回っているのだなあと実感する。

10月初めには、東京から、満開になったウェンゲの大木を想い、それから1カ月ほど経つと木の下に紫色の絨毯が敷き詰められたように広がる光景を想像して楽しんだ。

我が家の植木鉢のウェンゲの幼木も、いつか、いつか、あんな紫の美しい花を咲かせ、大空に枝を伸ばしていってほしいな。

2014年10月4日土曜日

こぼれ話7 : 20年前のパミンドゥさんの木彫り人形

 
中央アフリカ共和国・バンギから来た、パミンドゥ作の木彫り人形

これは、20年前に中央アフリカ共和国・バンギの人形作家パミンドゥさんが制作した木彫りのアフリカの人形たちだ。


わたしたち夫婦がまだコンゴ民主共和国・キンシャサにいる頃、 東京のマンションの管理をお願いしていた友人から荷物が届いているという知らせが入ったのは今年4月か5月頃だったろうか。
差出人の名前を見て、夫は以前の勤務先の会長からで、きっと老人施設に入るからお礼の意味のものだろう、と言っていた。

それから程なく帰国し、その荷物を解いてみた。
中からは、20年前に中央アフリカ共和国・バンギをかれが訪れたときにわたしたちからもらった(と記された)木彫り人形10体ほどが出てきた。
老人施設に夫婦で移るので、20年間楽しませてもらったあなたたちからのアフリカ人形をお返しします、という内容の手紙が、当時の懐かしい写真のコピーと共に入っていた。

はて?
こんなにたくさんのパミンドゥさんの人形をプレゼントしたっけ?
かれの人形は一体でも結構金額が張った。
これだけ全部をプレゼントしたとは思えなかった。
ま、いいや。
でも。
木が割れて、壊れた人形まで入っていたのは悲しかった。

わたしは、家のスペースのことも考えて一体だけ人形を選んで、残りの人形は近くの赤羽神社で人形供養をしてもらって処分しようと考えた。

今回、キンシャサのわが家で活躍した太鼓(ンブンダと言ったな。)を日本に持って帰れなかったので、そのンブンダを叩く人形を選んで、わが家に残した。


アフリカの太鼓を叩く、パミンドゥさんの人形

人形の埃をとってきれいにしてから、最初に赤羽神社に持ち込んだとき、社務所はお盆時期で閉まっていた。
人形を最終的に持ち込んで、供養をお願いできたのは、8月17日。
事情を話して、人形供養をお願いできて、ほっと安心した。
人形の供養料は、三千円だった。


当時、バンギからのお土産に、わたしたちは好んでこのパミンドゥさん作の木彫り人形を選んだ。
パミンドゥさんも喜んでくれて、いろいろと工夫して技術も上達していったように思う。

あるとき、このパミンドゥさんの楽隊の人形を3,4体セットにして日本の友人に贈ったことがあった。
何日かして、その友人はわが家にはこの人形たちはマッチしないからお返しします、と言って返してきたことがあった。

そんなことを思い出しながら、わが家に残った一体のパミンドゥさんの人形を見てしみじみ思ったこと。
人形をお土産にするということは難しいな、と。 


今回も、キンシャサでずいぶんのオーギーさん作のタンタン人形をプレゼントした。
はたして、喜んでいただけたのだろうか。
人形を贈ったことで、迷惑がかかっていないだろうか。

8月5日、赤羽の自宅に戻り、いちばん最初に対面した、20年前のパミンドゥさんの人形たち。
2日かけてたどり着いた自宅で、荷物の包みを開けて中から出てきた人形たちに再会し、正直、わたしは寂しさと共に疲れを感じてしまったのだった。

2014年9月27日土曜日

こぼれ話6 : キンシャサからのモリンガ粉

キンシャサで愛飲していたモリンガの粉。
それは、モリンガというマメ科の木の葉っぱを乾燥して粉末にしたもの。

キンシャサで、わたしたちは、ドイツの神父様にお願いして分けていただいていた。
帰国日が決まって、神父様にお願いして、ミルク缶1缶分ほどのモリンガ粉を用意していただき、持ち帰ってきたのだった。

毎朝、モリンガ粉末茶さじ1杯を口にパクッと含んで、お茶と飲んでいる。


いつかのブログにも書いたけど、モリンガのことを教えていただいたのは、コンゴ滞在の長い中村寛子シスターだった。
コンゴのどこの教会でもモリンガの木を植えていて、モリンガの葉を乾燥させて粉にして、食事にふりかけて摂取しているのだとのことだった。
そして、今年の初めに国道1号線東部旅行で宿泊したドイツの修道院の食卓でモリンガの葉の粉を発見し、以来、神父様の計らいでわたしたちはこのモリンガの葉の粉を分けていただいていた。

モリンガ!モリモリ!
クロレラてんこ盛り!

そんな心持ちで元気をもらうようなモリンガの葉の粉だ。

ちょっと、粒は粗いけど、葉っぱの粉そのまんま!というところとか、日本のお抹茶に似てる、かも。

マメ科の木の葉っぱ、モリンガを乾燥させて粉末にしたもの


さて、今朝のこと。(というか、もたもたしていたら、話題はすでに昨日のことになった。)
東京に戻ってきて、すっかりNHK愛聴者になったわたしは、”花子とアン”の後に始まる”朝イチ”で”緑色の粉”の偉力の特集を観た。

緑の粉!!!、だって。

こんもり盛られた緑色の粉の画面がズームされると、なんと、上の写真のモリンガ粉にそっくりだった。

でも。
そのテレビの緑色の粉は、なんとミドリムシの粉だったのだ。

ミドリムシ。
驚くことなかれ。昆虫ではなく、藻の仲間なのだそうだ。
体長、0.02~0.5cm

そのミドリムシを乾燥させて粉末にする。
”ユーグレナ”( Euglena )とも言い、それが商品名になっているようだ。

3.5グラムの粉には、5億匹のミドリムシが入っているのだそうだ。
また、ミドリムシは、動物と植物の両方の性質を持ち(葉緑素で光合成を行う。)、ビタミン14種、ミネラル9種、アミノ酸18種が含有され、栄養的にもすばらしいことが実証されている。
さらに、パラロミンという物質(スポンジのような穴の空いた構造をしていて)が腸の不要物をその穴に吸収する性質を持ち、快便を促すのだとも言う。

ミドリムシには、栄養豊富な食品としてばかりでなく、プラスティックの原料やバスの燃料としての使用も実用化されていて、現在とても注目されている生物なのだそうだ。

とうことで、コンゴのミドリの粉、モリンガ。
日本のミドリの粉、ユーグレナ。

マメ科の葉っぱを乾燥させて粉にしたモリンガ。
藻の仲間のミドリムシを乾燥させて粉にしたユーグレナ。
どちらも補助食品として、有益なものだと思う。

共通点がいろいろありそうな二つのミドリの粉の話題だった。


2014年9月25日木曜日

こぼれ話5 : 一緒に帰国したオーギーさんのタンタン人形

これらは、わたしがキンシャサから連れて帰ったオーギー(Auguy)さん作の人形たちだ。

ベーシック・タンタン&サンタ・タンタン&キリン
コンゴの冒険シリーズ&大きいサイズのクラシックゴルファー・タンタン



コンゴ人木工芸作家のオーギー(Auguy)さんのアトリエで作られる木製のタンタン人形や動物たちは、わたしのお気に入りのメイド・イン・キンシャサの土産物だった。

”タンタン”とは・・・。
ベルギー人エルジェによって描かれた少年新聞記者タンタンの冒険物語の主人公の名前だ。
ベルギー人作家によるシリーズもので、世界の国々で繰り広げられる冒険の話だから、タンタンはもちろん、コンゴにも来ている。(タンタンのコンゴの冒険物語はあまり好きになれなかったけど。)


わたしが初めてタンタン人形作家のオーギーさんに会ったのは、キンシャサのゴルフ場でだった。
ゴルフ場の休憩テラスの横のスペースでタンタン人形を展示販売をしていたかれを、タンタン人形を収集するフランス人マダムから紹介された。
そして、かれの作るクラシックゴルファー姿のタンタンと目が合ってしまい、即座にその人形を購入してしまう。それが、上の写真のゴルファー・タンタンだ。

ゴルフ仲間が日本に帰国するときは、ゴルファータンタン人形をプレゼントしたり、ゴルフをしない友人には、本人の日本帰国の記事を名前入りで記載した(?)地元新聞を椅子に座って読むタンタン人形をオーダーしてプレゼントしたりもした。
ワインの好きな友人には、タンタンシリーズの登場人物の執事がトレイに入れてワインボトルとグラスを運ぶ人形をプレゼントしたこともあった。
そんなプレゼントをアレンジしてオーダーするのも楽しみだった。

何度、オーギーさんのアトリエ兼ショップを訪れたことだろう。

所狭しと並べられたオーギーさんのショップ
オーギーさんのアトリエ


キンシャサ・オープン・ゴルフの賞品がオーギーさん作の年もあった。
コンゴの熱帯雨林で育まれた良質の木材で制作されたトロフィーは圧巻だった。

大使が獲得したゴルフボール型のオープンゴルフの賞品が、大使のご厚意でわたしの手元に転がり込んできたのも良い思い出だ。
(現在、わが家のリビングに飾られている!)

オーギーさん作のキンシャサ・オープンゴルフの賞品

残念なことにオーギーさんのアトリエとショップのスペースの一部が駐車場になるというので、かれは新たなショップを今年に入って6月30日通り沿いにオープンした。
とても見やすいスペースだ。
それでも、わたしは、コンテナを利用した狭いスペースにぎゅうぎゅうで人形たちを並べる今までのショップが好きだ。(そのコンテナショップも、どうにか残っている。よかった!)
本当に愉快なスペースだった。

オーギーさん、元気にご活躍ください!
楽しい作品をありがとう!
 Merci beaucoup pour vos poupees de TINTIN et d'animaux.
Je suis tres contente, les mettant dans ma salle de sejour.