2012年10月31日水曜日

キンシャサ、再び

我が家、アパート3階ベランダからのいつもの風景

昨夜10月30日、18:30頃、わたしたちが乗ったエアフランス888便はキンシャサ、ンジリ空港に無事ランディング。20日ぶりにキンシャサへ戻ってきた。

思い返せば、11日にキンシャサの自宅を午後早めに出発。わたしたちの20日間の休暇が始まった。
11日21:05キンシャサ発のエアフランス889便で出国。
翌日から丸4日間、娘夫婦が暮らす南仏アンティーブに滞在。ゆったりと孫娘の子守や、南仏の秋の味覚を楽しんだ。

そして17日朝、羽田に到着した直後から、分刻み、というとオーバーだが時刻みの日本滞在が始まったのだった。
到着したその日から、検診、健康診断、歯、目、婦人科などの懸念項目をクリアすべく、都内の病院を駆け巡った。
2日間だけだったが、北九州・八幡へも帰省し、父、義母の顔を見てきた。
美容室にも、整体にも、リコーダー仲間の練習にも、黒留袖をドレスにしてもらうためにブティックにも、ジャズライブにも、そして、昨夏8月だけの絵本屋を開店したところにオープンしたカフェ”L'ange d'angle”(かどっこの天使)にも、都内の会社寮で暮らす息子と我が家の御用達仏料理店にも行くことができ、そこここで嬉しい再会を持った。

息子が社会人2年目を元気にたくましく(と信じる母!)やっていることに安堵。よかった!!

いろんな繫がりの友人たちがセッティングしてくれた会食もうれしかった。
恋焦がれた(!)蕎麦も刺身も鮨も堪能できた。
わたしのために撮って編集してくれたDVDや、お勧めの本や料理レシピを持ってきてくれた友人にも感謝だ。

合間でキンシャサ生活のための買物もあったし、赤羽の自宅の掃除もしたかった。
ぎりぎりいっぱいで過ごしたが、時間制限でそんなこんなも強制終了せねばならなかった。

夫婦ともにすべての検診をクリアできたことは幸せだった。心置きなく、キンシャサに向かえることに感謝。

不義理で連絡が取れないままの友人も多くいた。あの方にもこの方にもお会いしたかったと友人の顔が浮かんでくる。また来年、お会いできますように。

自宅台所と浴室の換気扇掃除、リビングの窓掃除、ベランダの掃除に心を残したまま、29日夕方5時過ぎに息子が運転する車で自宅を出発、一路、成田へ。
成田21:55発エアフランス277便に乗り込んだとき、わたし達は本当に東京に2週間近く帰っていたのだろうか、と夢の中の出来事のような、不思議な気分になった。

日本滞在中は、はるか遠くに霞むキンシャサ生活を、あれはまぼろしだったのか・・と訝り、日本滞在が終わって離れてみると、逆に日本滞在が夢の中でのことのように霧がかかってしまう。
同じ地球上に日本があり、娘たちのいるフランスがあり、わたしたちが現在住んでいるアフリカがある。その空間の繫がりの不思議さを痛切に感じる。
飛行機で空間移動するときの時間移動の”ゆがみ”にも起因するように思う。
飛行機の移動では、わたしは毎回、トリックに遭ったような摩訶不思議な感覚に陥る。

日本滞在時、BS・NHK世界のニュースを観ていて、”世界の天気”の中に、なんとアフリカが出てこなかった!日本からは、遥か遥か遠いアフリカの国々なんだなあ、としみじみ思った出来事だった。


そしてまた、今朝からキンシャサでの普段の生活が始まった。
朝9時過ぎ、いつものように定刻より数分遅れで家政婦のフロランスが、いつものようにバナナを抱えてやってきた。
マダム、おかえりなさい!
良いバナナがあったよ。オマケもつけて三千フランで手を打ちましょ。
そして、いよいよマンゴの季節到来だよ、美味しいマンゴも見つけてきますよ。

だが、口からフランス語が出てこない。
マダム、フランス語の先生とまた初歩からやり直すことだね。
やれやれ。

さあ、これから一年、またキンシャサで楽しんで生活していきましょうか。

2012年10月11日木曜日

誕生日に寄せて

キンシャサはもうすっかり雨季。
8月下旬に久しぶりの雨が降り、9月には雨が4回降った。
その間に、気温は着実に上昇。
そして10月に入り今日、昼前から2回目の雨が降った。

日本でも秋分の日が過ぎ、太陽は南回帰線に向かって南へと移動している。
我が家の南向きのサロンに陽射しがまた入り込むようになった。真っ赤な夕陽も望める。

そんな雨季のキンシャサで、明日12日から3日間、中央部アフリカでは初のフランコフォン会議が開催される。
世界中の仏語圏の国々のトップクラスが集まる会議で、2年に1回仏語圏の国々の持ち回りで開催されるのだそうだ。
フランスのオランド首相もキンシャサ入りするというので、コンゴ民主共和国全体が活気付いて、キンシャサじゅうで大清掃作戦展開中だ。ゴミ箱だって(!)、街中いたるところに設置された。
6月30日通りの大通りにはフランコフォンの旗とコンゴ民主共和国の旗が街灯にはためいている。メイン大通りには”ようこそいらっしゃい、キンシャサへ”の大きな看板が立っている。
交通警官や警察官も街中で立ち働いている。うわべだけ体裁付けるのが大得意なコンゴの人たちの腕の見せどころ、といったところか(意地悪な見方だけど。)。
フランコフォン会議の町の様子の詳細はまた別の機会に。


さて、そんな10月に入り、わたしの誕生日が近づいてきた。
いよいよ50代ぞろ目の歳。

誕生日当日の朝、いつものように6時半前に起き、いつものように寝ぼけ眼でパソコンにスイッチを入れる。
あれ、キイボードの上に何かあるぞ・・・。


寝ぼけて焦点が合わないのと老眼とで、よく見えない目をこすり焦点が合ったところで、何と!!!
悪筆の夫が彼なりのていねいな気持ちで書いてくれた「誕生日 金一封」ではないか!!!
しかも、”VLISCO スカート券”だって!!
(”券”の字の中が「力」になってるけど、気にするまい。)

夫はわたしのブログをしっかり観ていたんだなあ。
VLISCOのスカートをいつか買うぞ、と書いたあのブログを。

なんだか、嬉しいのと可笑しいのとで独り大笑いした。

海外のブティックで独りで試着室に入るのは危険だ、と聞くので、夫の仕事が昼間までで終わる土曜日を待ってVLISCOに一緒に行ってもらった。
運良く、お目当てのスカートが残っていて早速試着する。
サイズの”XS”はわたしにぴったりだったが、わたしには色が地味過ぎて似合わない。
デザインもピンと来ない。
あーあ・・・。
他のワンピースもジャケットも奇抜なデザインの上に、サイズ”L”とかとてつもなく大きいサイズばかりだ。
ブティックを去りがたくて、うろうろしていたわたしに、夫が、フランスで選んだほうがいいじゃないか、と声をかけてきた。
そうだね、もうじき、娘のところに行くからね。
でも夏物はないだろうけど。

ということで、「VLISCOスカート金一封」とはならなかったけど、フランスで選ぼうと気持ちを入れ換えた。

運転手のおじさんに、今日はわたしの誕生日なんだ~、と言うと、おめでとう!そりゃ歌わなきゃー!、と大声で誕生日の歌を楽しそうに歌ってくれた。
ぼくは、生涯で2度だけ妻の誕生日を忘れたことがあってねえ、大変だったよ、奥さんの機嫌を損ねてさ。
かれが言うには、夫婦の誕生日には必ずプレゼントをお互いに用意するのだそうだ。
優しい人柄がにじみ出ているもの。アニメ”アルプスの少女ハイジ”に登場するクララの家の執事(?)セバスチャンそっくりの運転手だ。


そして、今日10月11日。
わたしたち夫婦は、今夜21:05発のエアフランスでパリへ向かう。今朝、キンシャサ市内のホテル・メムリン内のエアフランスオフィスで事前チェックインを済ませた。空港まで手ぶらで行けるのでとても便利なシステムだ。
翌朝パリからニースへ乗り継いで、娘のところに数日滞在し、17日には東京へ一時帰国の予定だ。

キンシャサ市内からンジリ空港までの交通渋滞は半端なく、しかも、明日からのフランコフォン会議を控えて、さらに渋滞が予想されるというので、15:00前には我が家を出発しなければ。

では、しばしの別れ、キンシャサ!行ってきます!

2012年10月8日月曜日

また会う日まで、ニルマラさん


ご自宅の送別パーティーで、多くの友人に囲まれるニルマラさん
ご自宅での送別パーティーには多くの友人が集まった

ニルマラさんが9月30日に、多くの友人から惜しまれてキンシャサを離れていった。

大使館勤務の日本人のご主人の仕事で2人のお子さんと一緒に2年半、キンシャサで暮らしたニルマラさんは、その間、キンシャサのInternational Women's Club とスペイン語圏女性の会で役員をし、多くのクラブの企画をし、ご自宅でもよくパーティーを開き、両クラブの中心的女性だった。

彼女自身は、ネパール、カトマンズの出身だ。
ご主人の赴任先でその国の言葉を覚え、ネパール語、英語、日本語のほかに、インドネシア語、スペイン語、フランス語も操る。
彼女の父親の仕事で、小さいときから家族旅行で海外に行っていたと言い、海外の文化を抵抗なく受け入れる懐の広い女性だ。

わたしがキンシャサへ来て間もない頃、ニルマラさんはここの食料品、雑貨用品などの買物事情を教えてくれた。
キンシャサのスーパーのしおれた野菜たちにがっかりするわたしを、新鮮な野菜を入手するには現地の野菜市場に行くしかないと、現地のジギダ野菜市場を案内してくれた。

治安のよくない、混沌とした現地野菜市場では、サントーカという名のコンゴの男性を用心棒に雇うと安心なこと、現地通貨を大量に用意すること、もし用意できなければ市場前の両替人から500コンゴフランに替えてもらえること、野菜市場の価格の相場、旬のものなど野菜の選び方等等、親切に伝授してくれ、ニルマラさんがジギダ市場に行く時はよく誘ってくれた。

そして、International Women's Club の入会のときもニルマラさんが連れて行ってくれた。
いろいろな場面で多くの女性を紹介してくれ、彼女の自宅パーティーのときもよく誘ってくれた。
片言英語と片言フランス語のどこの馬の骨とも知れぬアジアの女性をすんなり気持ちよく受け入れてもらえたのも、ニルマラさんがいたからこそだと思えてならない。

午前中のお茶の会、ランチの会の食事の用意や接客のしかたも彼女を通して学んだことは数限りない。どれも参考になることばかりだ。
母国のネパール料理は本当においしかった。
お菓子のレパートリーも驚くばかりだ。
日本食だってすばらしかった。
巻き寿司や、大根、生サーモンを使った一口寿司もとてもきれいな飾り付けでおいしかった。

彼女が中心になって企画し、コンゴ河を貸切ボートで横切り、乾季のときに現れる砂州でバーベキューランチを開いたときは、彼女の企画力と友人の輪の力に感動した。
もちろん、いろんな人と交われて楽しいコンゴ河のプチ旅と野外ランチだったのは言うまでもない。

9月は彼女の送別パーティーがあちこちで開かれ、わたしも一緒に招かれた。
我が家でも、ニルマラさんのささやかなランチ会を開いた。
そして、どこでも彼女の帰国を惜しむ声が多く聞かれた。

9月18日の最後の送別パーティーは、ニルマラさんの自宅で行われた。
総勢で30人、いや40人はいたと思う。
彼女がまごころ込めて準備した午前のお茶会兼ランチ会は、終始、本当に和やかな雰囲気だった。

ニルマラさんがわたしにバトンタッチしてくれた友達の繫がりをわたしは大切にしていきたいと思う。今回のコンゴ滞在は子ども達もいないし、こんなに多くの友人ができるとは想像していなかった。
ありがとう、ニルマラさん。

わたしたちが日本に戻ったら、また良い友達でいてくださいね。
それまで、お元気で。

2012年9月30日日曜日

ジェネレーター到来!


アパート庭に設置された自家発電機(奥の屋根付き車庫にかすかにみえるオレンジ色の機械)

キンシャサ市内ゴンベ地区にある我がアパートにはジェネレーター(自家発電機)が付いていなかった。

停電が頻繁にあるキンシャサでアパートを決める際の必須チェックポイントの一つが、”ジェネレーターが設置されていること”だと聞く。
わたしたちが今年1月にキンシャサに到着して、賃貸料との兼ね合いでやっとの思いで見つけたのが現在住んでいるアパートだった。


門扉から見上げたアパート

ところがこのアパートにはジェネレーターが設置されていないことが判明!!

わたしは、ジェネレーターが付いていないアパートは論外だ、と突っぱねたら、我が家の忍者ハッタリくん(=夫)は、このアパートの12室のうち3室は日本人が住んでいるんだぞ!オマケに最上階にはオーナーであり、モブツ元大統領の妾だった(!)ママンドューズィーも住んでいるんだ!近くには大統領府もあるし、きっとこの辺り一帯はジェネレーターが不要なくらい停電のない地域なんだよ!!

さすがのハッタリ!
そしてそんな口車を安易に信じたわたしも大バカだった。

停電したらポンプが動かないから、断水にもなった。
電気が再び来ても、何故だか我が家だけ断水のままだった。
頻繁な停電と頻繁な断水。
6月には1週間近く毎日停電と断水が続いたこともあった。
来客予定のある日に停電と断水が起きようものならパニックになった。
料理ができずに、夫の会社の宿舎まで車に炊飯器と鍋と材料一式を持って、出張料理をし、とんぼ返りをしてテーブルの準備をしたこともあった。
夜になっても停電のままで、エアコンも使えず、ろうそくの灯りでゲストを迎えた夜もあった。
シャワーが使えない、洗濯機を使用できない、アイロンもかけられない、食器を洗えない・・・。
浴室と台所に置いているポリ容器の貯め水がなくなり、断水のない1階まで水を汲みに往復したこともあった。
我が家の水道ポンプの電圧だけ容量が小さくてスイッチが切れるのだということを知ったのは、ずいぶん後になってからだった。

こんな生活はイヤだー!!
思い余って、引っ越すことを考えた。探し回って引越し先も決めた。
3ヶ月前にオーナーに引越すことを伝えたら、わたしたちはここに1年住んでいないから、引っ越すなら権利金3か月分は返金できない、と言われた。

知人に相談して弁護士に入ってもらって、「8月じゅうにジェネレーターを設置するのであれば引越しは中止する。だが、もし8月じゅうにジェネレーターが付かない場合は引越しを断行し、権利金も返金してもらう。」という文書を提出し、オーナー側も受領した。

それが7月初めだった。

執事(?)のおじさんも門番も、明日ジェネレーターが来る、来週来る、オーナーが明後日南アからジェネレーターを買って帰国する・・・・、どれだけの出まかせを聞かされたことだろう。

8月が終わろうとしても平気で明日到着する、明後日こそ、と言い続け、9月に突入した。
夫に執事のおじさんと話し合うように突付いても、夫はそ知らぬふりを続けた。
オレはジェネレーターなんぞ付くはずがない、と最初から本気にしてなかったぞ、とまで言った。
悔しかった。ああ、わたしにフランス語力があったら!
ただ、わたしたちが引っ越すことを通知した途端に、あれだけ頻繁に我が家だけ断水していたのが、なくなった。これは不思議なことだった。

もうジェネレーターは付かないのだ、とあきらめていた。来年1月まで我慢して、それから引っ越そう、そう思った。

そして9月18日。
隣室の日本人の方が仕事場から電話でジェネレーターがアパート庭に到着したことを知らせてくれたのだった。でも、相当古い中古機械だという情報も付け加えられていた。
それからアパートの各室に、9月19日にジェネレーターの取り付け工事をするので数時間停電となるという通知書が届いた。工事中、部屋中のコンセントを抜くように、とか台所の電熱調理器具のスイッチを入れるように、という指示が逐一飛んできたりして、午後には無事ジェネレーターが設置されたのだった。

さて、それから。
23日の日曜日にさっそく早朝からの停電。
しかし、この日にはジェネレーターはまだ作動しないという知らせが届いた。
当日、夫は朝からゴルフコンペに参加。わたしはカフェで過ごした後、午後からゴルフ場で夫と合流し日が暮れるまで外出していた。

後からここに住む日本の方から聞いた話。
昼前にジェネレーターが作動し、めでたく各室に電気が通ったのだそうだ。
そのとき、オーナー家族が各室をノックし、ジェネレーターが動いたぞー!!と満面の笑顔で伝えて回り、お祭り騒ぎだったと聞いた。

そんなこととはツユ知らず、わたしたちが帰宅したのは夜の7時前だったから、我が家にもジェネレーターが作動して昼前に電気が来たのかどうかは分からない。
ただ、冷凍室の霜の付着具合から判断して、停電が昼前で終わったとは到底思えない状態だった。

我が家にもジェネレーターの電気が来るのか、次回の停電までわからない。でも、確かに庭の駐車場スペースにオレンジ色のジェネレーターがある。

2012年9月27日木曜日

花屋のこと

ナイロビから来たバラの花

キンシャサに、花屋がある。

と書くと、当たり前でしょー!、と思われるかも知れないが、30年近く前のカトマンズにも、20年近く前の中央アフリカのバンギにも花屋がなかったから、キンシャサに花屋があると聞いたときは、飛び上がらんばかりに喜んだ。

中央アフリカ、バンギでは町じゅう探しても可憐な”草花”というものを目にすることがなく、存在するのはがっしり頑丈な”樹木の花”だけだった。ジャカランダの紫色の花、アカシアの黄色い花、燃えるような火炎樹の赤い花。
そんな力強い熱帯の花を思い出す。
いろいろな樹木の花の名前を覚えたくて、バンギの人々に「この花は何と言う名前なの?」と尋ねると、平然と彼らは、「fleure jaune!!(黄色い花)」,「あ、それは、fleure rouge!(赤い花)」・・・。
誇らしげに言うかれらに、がっくりきていたのを懐かしく思い出す。

キンシャサに来た当初、スーパーマーケットの前の屋台で熱帯の花をブーケにして売っているのを見て、やっぱりキンシャサでも、熱帯の花しかないんだなと思った。
そしてわたしは、20年前のナイロビにはバラの花でいっぱいの花屋を見かけたことを思い出していた。

そうしたら、知人から ”ZIMBALI  FLOWERS” という花屋が ”le Cercle Francais”の近くにあると教えられた。


ZIMBALI  FLOWERS 店内
ポルトガル人の経営だと聞く。
毎週木曜日、金曜日の午後にキンシャサのンジリ空港にナイロビ、南アフリカから到着する、と聞いた。ピンクや赤や黄色のバラ、白百合、カーネーション、菊などの花が空輸されるのだ。
この国は土葬で構えが立派な墓が多いが、その長方形の墓の上に平たい形をした大きな楕円風の花輪を置く。そんな大きな花輪の注文が入ると空輸されてきた花たちは、たちまち姿を消してしまうのだそうだ。
萎れて売れ残っているように見えるバラの花でも、決して安くしてくれない。
バラの花の定価、一本4ドル也!
冒頭の写真のバラは、空輸されてきたばかりというのを8日前に買ってきたバラだ。
3,4日で花の直下の茎がだらりと下がってきたので、そこを切ってガラス容器に浮かべた。毎朝水を替えて茎先を少しずつ切っていとおしんでいる。

それからもう一箇所、スーパーマーケット”SHOPRITE”の駐車場内にある、”Fleuranie”という花屋もあることを知った。
アニーさんというベルギー人が経営する花屋らしく、キンシャサ中心街に本店があるということだ。
毎週火曜日、金曜日の朝、ベルギー、南アから花が空輸され、午後には店先に並ぶと聞いた。
やはり、バラ、カーネーションが中心だ。

ナイロビでバラの栽培、とは意外かもしれないが、今ではナイロビはバラの産地となり、バラのプリザーブドフラワーの技術はすばらしいのだそうだ。

どちらのお店にも、蘭などの鉢植えや植木、そして花瓶、鉢なども置かれている。
キンシャサには、グランドホテルの近くなどの路上で、熱帯植物の植木や苗木も売られている。
わたしたちが住むアパートの庭も定期的にそれらの植木、苗木が運ばれてきて、庭の手入れには怠りがない。

部屋に生花が一輪でもあると、空気が生き生きとしてくるのを感じる。
毎日の生活の中で、花に目が向くようになったのは、ちょっとした楽しみを味わう余裕みたいなものが出てきたのかな。

一昨日、我が家にある唯一の一輪挿しのオレンジのガラスの花瓶の横に、見かけない白色と擦りガラスの、縁がフリルになったかわいらしい花瓶が置かれているのに気づいた。
もしかしたら、夫が買って来た花瓶なのかな・・なかなか気が利いてよろしいこと!!、と思っていたら、夕方になって忽然とその花瓶が消えた。
どこを探してもない!
夫に、その花瓶をことを訊いてみた。

へ~そんな花瓶、買ったこともないし見たこともないよ。

わたしの頭がとうとう変になったか・・・みたいな哀れみの目を向ける夫。
おかしいなあ・・・確かにここにあったのに。

夜、晩酌をしていて、「ふ・」とリビングの照明に目が行った。
あ・・・。

なんと、わたしが可憐なフリルの花瓶だ、と思っていたモノは、壁に取り付けられていた照明のガラスカバーで、夫が電球を換えるのに棚の上にポン!と置いた照明カバーが花瓶に見えた、というだけのことだった。ガッカリ。

2012年9月18日火曜日

キンシャサ布地屋 再考

Ave.Cmmerce の布地屋 ”LUTEX” 店内


"LUTEX"店内の帳場台
以前のブログでも紹介したキンシャサの布地屋数軒にここのところよく出かける。
キンシャサでは、アフリカの布地で作られた、パーニュと呼ばれる”ブラウス+腰巻+ロング巻きスカート”といった格好をした若い女性をほとんど見かけない。
それでもやっぱり、1反6ヤード(5m40cm)で売られる大胆な色合いと柄のアフリカ布地の店は女性客でどこも賑わっている。

最初の2枚の写真は、わたしがキンシャサの女性が一番よく利用しているのではないかと思っている、Commerce通りにある、”LUTEX”という布地屋だ。
店内入って右側に15米ドルから20米ドルほどのアフリカらしい布地が天井から吊り下げられているのは圧巻だ。
店内の中ほどから左側には、品質のあまり良くない低価格のもの、イエス様やマリア様がプリントされた宗教色の強い布地が所狭しと並んでいる。

上の2枚目の写真はLUTEX店内の帳場台だ。店内左奥にある木製帳場台でお金を払ってレシートをもらい、出口まで続く木製カウンターでそのレシートを提示すると、店員によって届けられていた購入布地をビニル袋に入れて渡してくれる。
店員は皆、横縞のラコステ(?)シャツを着ていて親切に応対してくれる。
良品質だと思う布地は1反約15米ドル、約20米ドルだ。それらは洗濯して色落ちしたことはない。

次に、ブラザビルへの船が出る船着場近くの、Beach と呼ばれる界隈にある布地横丁も品揃えが充実している。

Beachといわれるところにある布地横丁
Beach布地横丁の中の店主マダム
道幅1mほどの路地の両側に、間口1、2m,奥行きも1mほどの小さな露店がぎっしり並んでいる。
上の写真のような女性店主ばかりが商う露店だ。
最初の値段交渉で「20米ドルだ」と言われるが、簡単に15米ドルにしてくれる。ここの布地も色落ちした経験は無い。
この界隈は船着場、港の近くで治安が悪いといわれる地域だ。
だが、この布地横丁はマダム店主ばかりで、皆楽しそうにおしゃべりしたり、髪を結い合ったり、ランチやおやつを食べたり昼寝したり、和気あいあいとのんびりして店番をしているマダム天国、みたいなところだから、この路地に限っては恐い目に合ったことはない。
全長100mほどの横丁だ。

さて、次はキンシャサのメインストリート、6月30日通りからAve.Commerceへ向かう途中のAve.Tombalbayaにある高級布地店の2店だ。
同じ建物の一辺に"Woodin" という店の入口があり、他辺に、"VLISCO" という店の入口がある。


右奥の店が"Woodin"  同じ建物の左辺に"VLISCO"の店構え

高級布地店 VLISCO の入口
高級布地店 VLISCO ショーウインドー
わたしは当初、同じ屋根の下にある、"VLISCO" と "Woodin" を同じ店だと勘違いしていた。経営者は知らないが、ブランドとしては別個のものだ。
この一角だけ、キンシャサではないような雰囲気が漂っている。

"Woodin"はコートジボアール製で値段は6ヤード48米ドルほどだ。価格は庶民の店の3倍以上もする。ダイナミックなアフリカ古典柄と小柄でモダンな柄の布地があり、ブラウス、シャツ、スカート、布バッグといった既製品もあるが、縫製はさほど良くない。
店員の女性は気位が高そうだが、VLISCOの店員ほどではない。
店内は、キンシャサにいることを忘れてしまいそうな高級な雰囲気だ。
ただ、以前よりも、アフリカ古典柄の布地が品薄になったと感じる。残念だ。

一方、"VLISCO"は、「キンシャサ1!」と言っても過言ではないくらいの最高級品店だ。
店内のレイアウトもすごいし、扱う布地もアフリカ古典柄でありながら発色もきれいだし、どこかあか抜けている。
6ヤードが95米ドル、とか、130米ドルもする!
既製品も奇抜でステキだし、縫製がしっかりしている。
シルクスカーフ、革と布のバッグもいいなと思う。
ショーウインドーも抜群のセンスだ。
店員は限りなくお高い雰囲気を醸しだしている。
いつも見るだけでスルーするわたしを、店員はきっと覚えているんだろうなあ、と思う。

キンシャサで放映される衛星放送 "France 24" でVLISCOのCMを観るし、キンシャサの街中でも大きな看板を見かける。どちらも本当にセンスが良く、目立つ。

"VLISCO" の外看板

VLISCOで一度買物したいなあ。
かわいくてオシャレなスカートを見つけた。しかもサイズが"XS"だった。ほとんどの既製品は"L" とか"XL"で極端に大きい。220米ドルくらいだったかな。以前もかわいいスカートを見つけたが、すぐ売れていた。
VLISCO店内にいると、客はほとんどいないが、時々、キンシャサのお金持ちそうなマダムが入ってくる。へー、キンシャサにもお金持ちの人がいるんだあ!!とびっくりするが、ここのお金持ちは桁違いにお金持ちらしい。いったい何をしてそんなにお金持ちになったの?、と訊きたいくらい。ほとんどの人たちはこれまた桁違いに貧しいのに。

Beach の布地横丁に、"VLISCO"表示のシールを貼った布地を見かけることがあるが、コンゴ人女性のションタルさんは偽物だと言う。
また、ネットでVLISCOを検索したら、なんと日本でネット販売しているところを発見!どんな人がやっているんだろう。VLISCOはBenin, Togo, Ivory Coast,The Netherlands, Nigeria, DRCongo に店舗があるというから、日本人でアフリカ在住経験者が目を付けたのかもしれない。

BLISCO の発祥はオランダだと聞いた。中央アフリカのバンギにいたとき、布地の最高級品を、「ワックス・オランデー」と言っていたのを懐かしく思い出す。
オランダの布技術はすばらしかったのだろう。
今では、東ヨーロッパのどこかの国に工場を持っているというのをネットで見たように思う。
ユニクロが中国の工場で縫製しているのと同じだ。

キンシャサにも"UTEX" という布地工場があったらしい。我が家の近くに工場跡地が、門に"UTEX"の文字を残したまま現在も存在している。
その工場跡地は、多くの貸し事務所となっていたり、MONUSCOなど国連の機関が入っていたり、アパートになったりしている。
中国がUTEX工場を引き取り、中国国内向けの布地を生産している、とも聞くがはっきりしたことは不明だ。
いずれにしても、コンゴ国内には布地生産工場は存在しないということだ。

アフリカの布地を買うと、布地に大きな紙のシールがでかでかと2枚ほど張られている。しかも、かなり粘着力の強い接着剤を使っている。
わたしは、もったいないなあと思いつつも布地のシール部分を切って捨てていた。うまくシールが剥がれなかったからだ。
それを見た家政婦がこうするときれいに剥がれるのさ!、と教えてくれた。
どうするのか。

布地に貼り付けられた紙シールの上からアイロンをかける。すると、接着剤が熱で柔らかくなってスーッときれいに剥がれるのだ。

なんと驚きの技!!現地の人の生活の知恵だ!!感服!!

わたしがキンシャサに暮らして知り得たアフリカ布地のことだ。

2012年9月11日火曜日

キンシャサの結婚式

披露宴会場に入場する新郎新婦 夜10時を回っていた
満面の笑みの新郎ときれいな花嫁さん(カップルの両端は、新婦の両親?)
9月1日(土)、夫たちのプロジェクトに勤務するコンゴの男性技術者、CHOCQUET~ショッケさんの結婚式パーティーに夫婦で招待された。


結婚式の招待状
こんな木箱に入った巻物風の招待状が届いたのが8月初旬だった。
木箱の蓋には二人の写真が貼られ、”着席テーブルナンバー31”と書かれていた。

そこには、”両家の息子と娘の結婚式にあなたがたをご招待する慶びに溢れています”という文面が新郎新婦の名前とともにあり、9月1日16時からの教会での挙式案内と、20時半からのパーティーの案内が記されていた。

果たして、アフリカの結婚式とはどんなものなのか。新郎新婦の衣装、披露宴の場所、形態、風習などなど、わたしはすべてのことに興味津々だった。

まず、「20時半からの披露宴」というあまりに遅い開始時間に戸惑った。
夫は、本人に前もって尋ねると、9時くらいの会場入りで構わないと言われたそうだ。

結婚式会場はキンシャサ市内の現地人の居住地区、マトンゲ地区にあり、白い椅子カバーに白いテーブルクロスの掛かった、とても明るく清潔な屋内の結婚式会場だった。

9時半 まだ空席の目立つ披露宴会場

私たち夫婦は会場真ん中辺りの31番のテーブルに通され、まず飲み物の希望を訊かれた。
会場にいる招待客は十名にも満たない。9時になっているというのに、だ。
テーブルは、親族、職場、友人関係に分かれていたように思う。そして、わたしたちは6人の日本人のテーブルだった。
会場は話し声も聞こえないくらい大音響の音楽が流れている。会場前方の端に、音楽の生バンドもスタンバイしている
会場のスタッフは男女とも白いブラウスに黒のスカート、ズボンといったシンプルな服装。新郎新婦入場の直前に、スタッフたちは赤いスカーフを取り出して首に巻き始めた。
1時間ほどして会場は満席になる。150名ほどか。

さすが、着道楽の国の人たちだ。イブニングドレスの着こなしや、カラフルなワイシャツやネクタイの組み合わせに感心する。女性の90パーセントは西洋風のイブニングドレスだ。

結局、新郎新婦の入場は夜10時だった。
結婚行進曲に合わせ、西洋スタイルの真っ白な衣装に身を包んだカップルが登場。後ろにはかわいらしい、ドレスアップした小さな介添え役が続いている。

介添え役の小さな紳士淑女
それから、司会者が二人に質問したりのろけさせたりして場を幸せムードに盛り上げるのは日本と同じだ。

そして、新郎新婦へのお祝い品授与の時間へ移って行く。
この風習にわたしは一番驚いた!!

まず、現金の贈り物のかた、お並びください、というアナウンスがあり、新郎新婦が立つところに列を作って一組ずつ現金を招待客の前で直接二人に渡し、それを新婦の母親がバッグに入れていっていた。

次に、品物の贈り物のかた、どうぞ!!
続々と品物を抱えて並び始める。品物のプレゼントの招待客のほうが圧倒的に多い。

鍋・食器・炊飯器を持って並ぶ招待客

おしゃれなイブニングドレス姿の女性たち
延々と続くプレゼントを持つ招待客の行列

食器、鍋、炊飯器、扇風機、ミシン(日本のSINGERミシンだった。)、3段の台所網棚・・となんだかプレゼントが段々大型になってゆくのが面白い。皆、それぞれに考えて選んだ自慢の贈り物、といった風体でどっかり並んでいる。
どんなに大きな贈り物でも、披露宴会場まで持参して、皆の面前で手渡すのだ。
昔の風習の名残なのか。
ダブルベッドのマットレスから、電気コンロ・オーブン、洗濯機まで!!!
会場スタッフがよろけながら運んでくる。落として壊しやしないかとハラハラしてしまう。

その度に、贈り物を新郎新婦が受け取り、新婦の母親がその置き場所を指図している。

披露宴の後、新居までどうやってあれだけの荷物を運ぶのだろう、とわたしは余計な心配をするくらいだ。

そして、新郎の母親も贈り物を持って行列に並んでいた。国会議員だという彼女は、とても存在感のあるオシャレな女性だ。新郎の母親が涙を流しているよ、と夫がわたしにそっと言う。
新婦の母親は宴の間新婦の隣に座り、お祝い品授与の時は新婦の横に立って贈り物を受け取ったり置き場所を指図したりして大活躍だが、新郎の母親は親族席に座って、普通の招待客と同じように行列に加わって新婚カップルに贈り物を手渡している。

やっとお祝い品授与式が終了。
12時近くになっていた。
それから食事時間になるということで、会場の後方に食事が用意されていた。

わたしたち日本人は、運転手の勤務時間のこともあるし、夜中の外出も気がかりだし、ここでおいとますることにした。
とても残念だし、失礼にも当たるなあと思いつつも仕方がない。

後で聞いた話だと、夜が更けるまで宴は続き、足のない招待客は会場で夜を明かしたのだそうだ。

キンシャサの始めての結婚式は、西洋式の結婚式だった。
(内心、アフリカ衣装の花嫁姿というものを楽しみにしていたのだが。)
もちろん新郎新婦の両家が経済的に豊かな家であるからこその披露宴だったのだろうとは思う。
驚いたことは、開始時間が遅いということ。
そして興味をひいたのは、どんなに大型のものであろうと新婚カップルへの贈り物を招待客の面前で披露して直接渡すということ。
それから、花嫁の母の存在が大きいということ。

アフリカの結婚式に何度か出席してみないと確かなことは見えてこないのだろうが、そんなことを感じた第1回目の結婚披露パーティーであった。