2012年8月14日火曜日

ゴンベ郵便局にて

ゴンベ郵便局内の郵便物保管受け取り部屋

先週金曜日、わたしは私書箱に郵便物が届いていることを願いつつゴンベ郵便局へ出向いた。

残念ながらまたもや空振り。
すごすごと郵便局前の階段を下りようとしたとき、

「マダーム、小包~colisが届いているよ。」

仕事がないと郵便局員マダム3人ほどが入り口に椅子を持ってきて気だるそうに座っているのだが、その1人の郵便局員マダムから声が掛かる。

「わたしについておいで!」

埃だらけの通路を曲がって曲がって、通された部屋が上の写真の部屋だった。(彼女が席を外している間にさっと撮影。)
写真手前にちょこっとだけ写っているのが係員マダムの机だ。
これだよ、と送り状を見せてもらったら、送り元JAPON,というのと、送り先Gombe,R.D.C.というところと、受取人Hiro・・・というところだけがわたしに共通しているだけだ。
まったく差出人にも見覚え無し!
送り先住所には、キンシャサの住所が記入されているだけで私書箱番号は書かれていない。
よく見ると、夫のプロジェクト関係の宿舎の住所ではないか。

マダム、これはわたしの名前ではないね。わたしは、"Hiroko"だもの。

夫と電話でやり取りした結果、わたしが代理で届いた荷物を受け取ることになった。
わたしが夫と電話でやり取りしている間に、ひとりお客さんが部屋に入ってきて、小包の受け取りをしている。
ちょっと待ってね、この人に先に荷物を渡してしまうから。
何気なく見ていたら、小包を2つ受け取り、1ドルね、とか言って(払ったかどうかは見てないが)、領収書を渡していた。
アジア風の顔立ちの肌の黒い女性だった。
なるほど、キンシャサにも海外から荷物が届いているんだ。そう思った。
彼女の机の上には、漢字で”朝鮮”の住所が書かれた受取状が置かれているのも見える。

さあ、あなたの番ね。
ここの受取状の裏と、このノートの欄にサインしてちょうだい。
あ、それとあなたの身分証明書のコピーを取りますから、身分証明書を出してちょうだい。
それと、あなたの電話番号を教えて。郵便物が届いたら電話で知らせてあげるから。

はいはい。彼女の荷物受け取りノートはラインが引かれて整然としている。
だけど、相変わらず業務態度は緩い。のっそり、のっそり。

では、荷物に掛かる2つの税金~ taxe douane et  taxe postale を払ってください。

それぞれの税金について説明を受ける。
それにしてもなあ。ずいぶんな料金を示される。
でも、その金額が妥当なものかどうか、比較ができない。
さっきのアフリカ人女性は1ドル、とか言われていたようにも思う。
受け取る小包の申請金額にもよるのだろうけど。
確か、先月、封筒に入れて送られてきた小さな郵便物にも5000コンゴフラン(約460円)ほど郵便局長さんに払ったような・・。半信半疑ながら受け入れざるを得ない。

小包受取状のコピーをもらう。
わたしがいつも持ち歩くパスポートのコピーも返してもらった。
ところが、領収書を貰っていないことに気づいてまた引き返して、領収書を請求する。
その間、彼女は、わたしのボールペンをくれ、と言ってきたり、この前、事故を起こして頭痛がするから病院に行くからお金が必要なのだ、としつこく言ってきたり。

わたしは不思議に思ったことを係員マダムに質問してみた。

どうして、わたしに荷物が届いているよ、と声を掛けたの?

だって、マ・スール寛子が、わたしたちにあなたを紹介したでしょう、あなた、覚えてる?わたしはしっかり、そのことを覚えてるのよ。だから、てっきりあなたに届いた荷物だと思ったのよ。

確かに、寛子シスターがゴンベ郵便局まで同行し、郵便局長さんに紹介してくださり、私書箱開設の手続きにも手を貸してくださり、さらには、私書箱を開設する以前に、フランスに住む娘がゴンベのわたしたちの住むアパートの住所で手紙を送ったことを説明し、フランスからゴンベのアパートの住所でHiroko宛ての手紙が届いたら彼女に知らせてあげてね、とまで言ってくださったのだった。

意地悪く考えると、日本人マダムが毎週2回は私書箱を見に来るから、日本からの郵便物は彼女に押し付ければしっかり税金も支払ってくれるし、とりあえず声を掛けよう~みたいなことかもしれない。
それでもいいいかなあ、と思う。
少なくとも、日本人のところに荷物が届くのだし、郵便局員にも懐にお金が入ってくる。
どちらにとっても幸せなことだもの。
ゴンベ郵便局に荷物が届いていますよーくらいの伝言だったら、喜んで引き受けよう!

受け取り主の方は、日本から発送してもらって1ヵ月半が経ち、手元に届くことを諦めていたのだそうだ。
何をおっしゃる!フランスからの封書の手紙ですら、我が家の私書箱に届くのに1ヶ月近くかかっているのだ。キンシャサ郵便事情を甘く見てはいけない。

その方は、後進国の郵便事情を知らず、先進国と同じように郵便局に到着した郵便物は、郵便局員によって自宅まで運ばれてくるもの、と思っていたのだろう。
わたしたちが滞在を経験したネパールでも中央アフリカ共和国でも、私書箱を設置していないと郵便物は届かなかった。
小包の場合、郵便局に届くと、局員が荷物到着のお知らせの紙を私書箱に投函する。受取人はその紙を持って荷物受け取りカウンターまで行って税金を払って取り出す。
そういうことをして荷物を受け取っていたし、運良く届いても中身を抜き取られ、新聞紙や雑誌が詰め込まれた”ごみ”同然の小包になっていることもあった。

結局、その日、小包を受け取って郵便局を出るまで2時間近くを要した。
他人の荷物でも、日本からはるばるキンシャサにやってきた荷物だと思うと、何だか嬉しい気分になる。

2012年8月8日水曜日

英国大使館でのオリンピック開館式

ロンドンオリンピックも後半戦となった。
日本では、時差で夜中観戦になることも多いだろうが、連日の試合に大フィーバーしている様子が耳に聞こえてくるようだ。

我が家のテレビは、フランス語放送しか見られず、なでしこジャパンの活躍も、男子サッカーの試合も、体操の内村選手の演技も見られず、パソコンに逐一入ってくる速報ニュースで感動している毎日だ。


さて、コンゴ河沿いの閑静な住宅街に建つキンシャサの英国大使館の庭で、毎週金曜日の”6PM-Until Late”まで、”BIG FRIDAY BBC”~野外バーベキューレストランが開店する。
わたしたち夫婦は、英国大使館の”Oasis Club”会員になって、バーベキューを食べに、そして心地良い雰囲気を味わいによく出かける。(わたしたちは外食はほとんどしない。唯一の外食を楽しむ場所だ。)
会員は一人20米ドル、非会員は25米ドルで、飲み物は別にチケット綴りを買って、それで支払う。

ロンドンオリンピック開会式の7月27日はちょうど金曜日だった。
その夜のBBC in 英国大使館は、”ロンドンオリンピック開会式をバーベキューを食べながら皆で開会式を観よう!”と企画され、わたしたち夫婦もキンシャサで頑張る慶応大生の裕紀君を誘って出かけた。
テニスコートの白い壁に開会式中継が映し出され、ちょっとしたお祭り気分の、にぎやかな夜となった。


大スクリーン画面の開会式を見つめる人たち
色んな国の人が集まった英国大使館庭

庭には、ロンドンオリンピックの公式旗が飾られたり、三角形の小旗が張り巡らされて、開会式気分を演出している。
大スクリーンにはエリザベス女王が映し出された。ポール・マッカートニーが懐かしい曲を歌っている。ビッグベンやロンドン橋・・・。きっとイギリス人たちはロンドンオリンピック開催を誇り高く思っているだろう。
大使館庭に集まった人たちの中に、大判の布のユニオンジャックを体に巻いてワンピース風に着ている女性を発見!ユニオンジャックの山高帽をかぶった男性もいる。
皆が開会式気分を味わおうと集まってきているのだな、とこちらも浮かれてくる。

バーベキューのメニューもいつもより豪華だ。何でも、英国大使がオリンピック開会式の夜だから豪華にしなさい、と指示があったのだそうだ。
ビールは3本頼むと1本のサービスが付いた。
いつも思うのだが、英国大使館バーベキューの夕べは、とてもアットホームで和やかな雰囲気で、メニューもとても工夫されて美味しい。ご飯はカレー味ともうひとつ何味かわからないが2種類用意されていて、それらがバーベキューにとてもよく合うのだ。
コンゴ河からの風も心地良い。
庭にはよく躾けられたワンちゃんも放し飼いにされている。
英国大使館員家族の小さな子どもたちも両親に連れられて楽しそうに食事している(・・んだか遊んでいるんだか・・。)。
夫がプロジェクトで関わるコンゴ政府役人のンテラさんにもここでよく会う。夫はこのンテラさんに連れられて初めて英国大使館庭のバーベキューの夕べを知ったのだった。
その夜も接待客と一緒のンテラさんに会った。かれは、キンシャサでサッカーチームを作るほどサッカー大好きムッシュなのだそうだ。上背があってしっかり鍛えられた体型をしている。


キンシャサで頑張る裕紀くんと夫
夫婦で!山盛りの皿!

わたしは、美味しくて調子に乗って皿に山盛り2杯分も食べてしまった。その上、デザートまで完食して、夫が呆れて見ていた。


コンゴ河沿いの閑静な住宅街の中にある英国大使館敷地内には大使館、公邸、官舎などの建物が点在し、テニスコート兼バスケットボールコート、プールもある。
きれいに整備された大使館敷地内で、一般の人々に毎週金曜日夜に野外レストランを開放、提供する英国大使館の懐の大きさには感謝するばかりだ。(昼間にはランチも提供しているとも聞く。)

もちろんセキュリティーはとても厳しい。入り口で厳しくチェックされるし、名前と連絡先を書いて入場する。そして精鋭なネパールのゴルカ兵が周囲をしっかりガードしている。
だからこそ、和気あいあいと食事をおいしく味わえるのだ。

キンシャサの英国大使館庭でバーベキューとビールやワインを味わいながら、大スクリーン画面で観た7月27日のロンドンオリンピック開会式の夜を、これからいつまでも懐かしく思い出すことだろう。

L’éléphant vert: タイからのゾウさん

タイから、かわいらしいちびゾウさんの形をしたチョコレートが届いた。チョコを頬張りながら、いろんな思いがあっち飛びこっち飛びするキンシャサの夜。
どうぞ、この下をクリックして覗いてみてください。

L’éléphant vert: タイからのゾウさん: タイ土産のチョコレートの箱 キンシャサの大学で日本語教師をしている慶応大学の学生のボー くんが、夏休みを利用してタイに行ってきた。 お土産です、と言って我が家に持ってきてくれたのが、(上の写真の)箱蓋にゾウの絵が描かれたアーモンドナッツ入りミルクチョコレートだった。 ...

2012年8月3日金曜日

L’éléphant vert: 赤い目のドラゴン

コンゴ・キンシャサでよく見かけるトカゲと、スウェーデンの絵本「赤い目のドラゴン」と。

アフリカで暮らしていると、今までの絵本が違った視点で見えてくる。
わたしの大好きな作家、リンドグレーンの絵本「赤い目のドラゴン」を紹介します。

そうだ、今年はドラゴンの年だった!

L’éléphant vert: 赤い目のドラゴン: キノボリトカゲ これは、キノボリトカゲというのだそうだ。国語辞典によると、琉球諸島に生息するトカゲだそうだ。 わたしのいるコンゴ・キンシャサでもこんなトカゲにあちこちで出会う。 そんな時、決まって思い出すのが、絵本「赤い目のドラゴン」(リンドグレーン作・岩波書店)...

2012年7月29日日曜日

ガソリンスタンドの思い出

キンシャサ市内のガソリンスタンド

キンシャサ市内で見かけるガソリンスタンドは、モダンで日本のガソリンスタンドと見かけはそんなに変わらない。
上の写真は、”ENGEN”という、市内で数多くの店舗を持つ会社のガソリンスタンドだ。

わたしは、ガソリンスタンドを見るたびに思い出す光景と、悲しい話がある。


1992年から1995年まで家族で住んでいた中央アフリカ共和国の首都BANGUI-バンギ-の当時のガソリンスタンドは粗末なものだった。
そんな設備も不十分で数も少ないガソリンスタンドのどこもかしこにも、夕方になると子供たちが小さなポリ容器を手に持って、あるいは頭に載せて、石油を買いに集まってきて行列を作っていた。

当時のバンギの現地の人たちの家には電気が来ているところのほうが珍しく、石油コンロで調理し、石油ランプの照明が一般的だったようだ。
それで、子どもたちは、お母さんの手伝いでガソリンスタンドに石油を買いに来ていたのだ。
石油は高価だから少しずつしか買えないから、子どもたちに打ってつけの手伝いだったのだろう。
小さい子は、ホントに小さなポリ容器を抱えて。大きな子でも、3,4リットルくらいの容器を頭に載せて、楽しげにおしゃべりしながら、でも行儀よく列を作って順番を待っていた。
夕暮れ前の、見るもかわいく微笑ましい光景だった。


当時のバンギで、わたしたちと同じアパートに、エイズの母子感染予防のNGO活動を始めて間もない、徳永瑞子さんという助産師であり公衆衛生のドクターの日本人女性が住んでいた。
ある日、彼女が保健センターからの帰宅途中の車の中で聞いたという現地のラジオニュースをとても悲しそうな顔をして話して聞かせてくれた。


カメルーンでのこと。確か、1993年か94年だったと思う。
カメルーンのどこかの大きな街で、石油タンクローリー車が横転し、積載されていた石油が道路に流出し、石油の海になったのだそうだ。
それを聞きつけた近所の子どもたちが手に手にこぼれた石油を入れる容器を持って集まってきて、皆が必死で石油をかき集めては持参した容器に入れていたそうだ。

石油をなるべくたくさん集めて家に持って帰ったら、お母さんが喜ぶだろうなあ、と思っただろう。あるいは、集めた石油を売ったら好きなものが買えるぞ、と思った子もいたかもしれない。
無我夢中で、洋服や素足や手や顔に石油が付くのも気に留めずにかき集めていたことだろう。

そこへ、通りかかりの煙草を吸っていた男性が、何の気なく、ポイっと煙草を捨てた、という瞬間、辺り一帯、見る間に炎が上がり、火の海と化し、子どもたちの泣き声、悲鳴が響き渡ったという。

その事故でずいぶん多くの子どもたちが犠牲になったのだそうだ。
徳永さんは、顔をしかめて悲しそうに話していた。
貧しいがゆえに起きた事故だとも思う。


現在のキンシャサのガソリンスタンドには、石油を求めて並ぶ子どもたちの姿は皆無だ。プロパンガスのボンベも見かけない。
キンシャサの一般家庭の調理コンロや照明は石油ではないのかなあ。
わたしたちの住むアパートは、おかしいくらいにオール電化(???)だけど。(バンギでは、調理コンロはプロパンガスだった。)



キンシャサのガソリンスタンドの前を通るたびに思い出す、子どもたちが並ぶ夕方のバンギでの光景と、カメルーンでの悲しい事故の話だ。

2012年7月27日金曜日

コンゴの女性、ションタルさん

ポワルー道路沿いに並ぶ飲み物&スナック屋とテント床屋

キンシャサで、とても流暢に日本語を話す女性と知り合った。
ションタルさん、40代半ば、コンゴ人のご主人との間に11歳と13歳の息子さんがあり、仕事を持って働く女性だ。

日本語を話す機会がなかったから日本語を話せて嬉しい、日本人女性は少ないからようこそキンシャサに来てくれましたと、この出会いを喜んでくれた。
彼女は日本語をどんどん忘れてゆくと嘆いていたが、訛りのない日本語を話す。
そして英語も(もちろんフランス語も)とても上手だ。

彼女が14歳の時、父親の在京コンゴ大使館勤務に伴い、家族12人で来日。滞在中もうひとり兄弟が増え、11人兄弟姉妹の4番目の彼女は、飯田橋のリセ・フランコ・ジャポネまで地下鉄と山手線を乗り継いで4年間通ったのだそうだ。
わたしの子どもたちも飯田橋まで通学していて、息子はあなたのリセの隣の学校に通っていたのよ、と言うと、彼女はびっくりして、小学校の生徒が半ズボンを履いてとてもかわいかったことなど、懐かしそうに話した。
2004年に再来日して住んでいた広尾界隈を歩いたが、町の様子が一変していた、とびっくりしていた。リセ・フランコ・ジャポネも移転して、もう飯田橋にはないことも彼女は知っていた。

彼女は、カフェオレ色の肌をして、鼻筋の通ったとても端正な顔立ちをしている。両親のどちらかが外国人なのかなと思ったが、両親どちらもコンゴ東部、ルワンダとの国境にある南キブ州ブカブ BUKAVU出身だと聞き、合点がいった。
キブ州の人たちもルワンダのツチ族やエティオピア民族のように、いわゆるアフリカ人らしくない顔立ちで、肌の色もそんなに黒くないという特徴を持っているのかもしれない。

コンゴ・南キブ州とルワンダはキブ湖を挟んで対峙している。(キブ湖南端より更に南にブカブBUKAVUがあり、そこから約百キロ北のキブ湖北端に北キブ州・ゴマGOMAがある。)
ルワンダの2部族・・フツ族とツチ族・・は独立時から激しい抗争が存在し、多くのルワンダ人(大多数ツチ族)が国境を越えてキブ州高原地帯に定着している、と”モブツ・セセ・セコ物語”で知った。現在も紛争の絶えない地域だ。

ションタルさんは、両親の出身地はとても気候がよく、太陽も強くないからわたしたちブカブの人たちは肌の色がそんなに黒くないのよ、と言っていた。


その彼女が、水曜日は仕事が休みだからキンシャサを案内しましょう、とタクシーに乗って我が家まで来てくれた。きれいなタクシーじゃなくてごめんなさい、と言って。
彼女が交渉して連れてきたタクシーに乗って、半日のキンシャサ周遊に出たのは午後2時だった。


布地が見たいというわたしの希望で、まずコンゴ河のキンシャサ←→ブラザビル間フェリー港近くにある布地横丁に連れて行ってくれた。
何十メートルも続く細い通路の両サイドに極小サイズの店がずらーっと並び、其々のコンパクトな店内の壁にぎっしりと上から下までアフリカの布地が1反6ヤード単位で掛けられている。店主は全員(!!)女性だ。どの女性も、時間を持て余している様子で好き勝手なことをしながら店番をしている。

マダーム、マダーム、高品質の布地があるよー、見て行ってよー、とあちこちから声が掛かる。
以前、夫と一度だけ訪れたことがある横丁だった。
その時は、気に入った布地が見つからず、今回もあまり期待していなかったのだが、ションタルさんが、ていねいに探せば良い布地があるわよ、と数軒の店に入って布地を引っ張り出して広げて見せてくれる。
なるほど。広げるとイメージし易くなる。
おもしろくてお洒落な布地がいくつか目についた。


布地横丁(絵はがきより)
普段は外国人は治安の面でなかなか行けない場所だから、この時とばかり4反の布地を買った。
街なかの高級店”BLISCO” だったら1反80米ドルから130米ドル、隣の”Woodin”(コードディボアール製)でも1反45米ドルはする布地が(もちろん品質の違いはあるが)、ここではションタルさんが値切ってくれて、1反15米ドルで買えた。VLISCO表示の布地を発見したが、ションタルさんは、これは偽物でしょうねと言っていた。

それから、たまに訪れる現地野菜市場、ジギダ・マーケットの横を走り、中国人が多く住んでいるという地域を通り、空港方面まで行って途中で引き返し、現地の人しか行かない地域”シテ”を走った。
たくさんの店が粗末ではあるが、こぢんまりと何かの決まりがあるかのように秩序正しく(?)並んでいる。外壁に直に描かれたペンキの文字や装飾がカラフルでポップな感じだ。
彼女はこの地域で買物をするのだと言う。
イギリス育ちの子どもたちは汚いと言って、決してついて来ないのだそうだ。
ここは歩かないで見るだけにしましょう、と彼女は言った。

わたしは、見ただけだけど、シテ、っておもしろそうねと言うと、彼女は手のひらを広げて、あなたが見たシテ地域はこの手のひらのほんの片隅だけよ、と言って1センチ四方を指で作って見せた。

コンゴの骨董のお面 le masque を見たいと希望したら、彼女はわたしをどこに連れて行くだろう、と興味津々で申し出たら、結局タクシーはドロボウ市場”Marches des Voleurs(Valeurs)”に着いてしまった。
以前は、中央駅近くの一角に土産物屋が軒を連ねていたそうだが、一掃されてしまったそうだ。
もうキンシャサには良い骨董品はない、良いものはナイロビに持っていかれる、と彼女は言った。

わたしはドロボウ市場には何度か来ている。野外の土産物”見せ棚”が集まっている一区画だ。
今回も何も発掘品はなかった。

俗称・ドロボウ市場<Marches des Voleurs>
彼女が昼食を食べていないことを知ったのはもう午後4時を回っていた。
埃っぽい乾季の町なかを走って喉も渇いたし、カフェに入ることに。
コンゴ人しか行かないところに行きましょうと案内してくれたのが、6月30日通りの文具屋”POP SHOP”を入ってすぐ、南アフリカ大使館の前にある店だった。
コンゴ料理をバイキングで食べられる野外レストランだった。コンゴ人しかいないが、こざっぱりした店でバイキング料理がおいしそうだった。
目で食べたくなったが、しっかり昼食を取ってきたわたしは、トニック飲料水だけを注文した。

日本食を恋しがる彼女は、シティーマーケットというスーパーマーケットでキッコーマンしょうゆ、S&Bわさびに寿司海苔が買えることを知らなかった。
彼女は、シティーーマーケットも自宅近くのショップライトも、レバノンや南アなど外国資本のスーパーマーケットは高いから利用しないのだと言った。

出発前に我が家で少し待ってもらう間、家政婦とションタルさんはリンガラ語で話していた。
翌日、家政婦は、前日訪れた女性の夫は外国の人なのかと訊いてきた。
彼女のフランス語、英語がとても上手だったからね、と言っていたが、きっと彼女の身のこなしにコンゴ女性にはない雰囲気を感じたのだろう。
そして、彼女はブカブ出身だと話すと、だからリンガラ語の発音が少し違っていたのね、キブ州はスワヒリ語ですから、と納得するように言った。


彼女は外交官の娘として数カ国に暮らし、コンゴ人男性と結婚してイギリスの暮らしも経験し、今、キンシャサに根を下ろそうとしている。
両親もすでに亡くなっている。
何だか、彼女は今、一生懸命に自分の国で、自分の居場所を探している、そんな落ち着かなさを感じてしまった。
コンゴで女性が働くのは大変難しい、と彼女は言う。確かにそうだろう。
男性ですら、コネがなければ仕事にありつけないのが現状だと聞く。
でも、しっかり者とも感じる彼女は、いくつかの”山”を超えてキンシャサに根を張っていくのだろう。


「自分の国ではない先進国」の生活を知ってしまった人が、「発展途上の自分の国」に帰って暮らすこと~身の置き所というのか、価値観の転換、経済的な面などなど~をどのように適応させ処理してゆくのだろう。
そんな困難さを、彼女と別れた後深く考えさせられた一日の終わりだった。

2012年7月22日日曜日

コンゴ料理 Maboke - マボケ -

コンゴ料理Maboke(左)

夫が携わるプロジェクト、”ポアルー道路改修工事”の一期区間工事が完了し、いよいよ二期工事が始まった。
それを受けて、20日、金曜日の夕方、夫の会社の現地スタッフ全員が就業後、事務所に集まり、慰労感謝夕食会を開いた。

わたしも招かれ、バナナをたっぷり混ぜ込んで焼き上げたバナナケーキを作って現場事務所を訪ねた。事務所は総勢10人のスタッフで、皆、和気あいあいとしたとても良い雰囲気だ。

到着すると、女性事務員と女性掃除婦(どっちも名前はミレイユ!)が市場で買ってきた現地の料理をテーブルにきれいに並べていて、乾杯のビールが数種類置かれ、慰労会が始まろうとしているところだった。

上の写真の右の皿に載っているのは、時計に見立てて12時の位置から、唐揚げ風鶏肉、川魚の炭火焼き、マニョックを蒸したもの(夫の発音だとShokuwan。??。 白い輪切りのもの。一見、ちくわ麩みたい。)、バナナフリッツ、ポテトフリッツだ。どれもおいしい。

そして、左の皿に載っている、大きな葉っぱで包まれたものが、”Maboke” だ。日本のちまきの親分みたいな感じ。
新生児の頭くらいの大きさがあるかもしれない。
コンゴ料理の中で、わたしがいちばん食べてみたかったのが、Mabokeだった。


Maboke 葉っぱを開くと・・


"Maboke" は、リンガラ語だそうだ。
用意されていたMabokeは、川魚のキャピテンだった。ほっぺたが落ちそうなくらい美味しい!!
包む葉っぱが大きすぎて魚が小さく見えるが、キャピテンはとても大きな川魚だ。

今日のMabokeはキャピテンだけど、豚肉のもあるよ。そして、ヘビのMabokeもね。
コンゴ人技師のおじさんが説明してくれる。

Maboke は、大きな葉っぱ5枚で包まれていた。
おじさんは、森の木の葉っぱだよ、と大ざっぱな説明だったが、フランス語の先生に尋ねると、市場に行けば、Maboke用の葉が売られているそうだ。特別に、この葉っぱでなければダメだ、ということはないようだ。
味付けは、油(これも普通の油で良いようだが、ピーナッツ油などが使われるようだ。)、塩、たまねぎ、にんにく、キューブマジック(スープストック?)、白胡椒、なのだそうだ。しょうゆ味が見え隠れする感じだけど、しょうゆはもちろん使われていない。
わたしのMabokeには、赤い小さなピーマンみたいなのが入っていたが、アフリカの赤唐辛子なのかな。

まず、肉か魚を生のまま調味料と共に、数枚の大きな葉っぱを放射状に重ねた上に入れて包み、茎を合わせて葉の上部と茎の狭間部分を紐で結わえて中身を封じ込み、まずフライパンに水を張って熱し、そこにMabokeを入れて蒸す。
水が無くなると、次に鉄板で焼く。そのとき炭火で焼くととても美味しくなるということだ。

フランス語の先生の話では、Mabokeは、この国ではとてもポピュラーな料理だそうだ。でも、値段が高いから、特別な時にしか食べられないのだ、とも。
慰労会でのMabokeは、1個五、六千コンゴフラン(五百円くらい。)だったとか。我が家の忍者ハッタリくん(!)は言っていた。

また、フランス語の先生に、へびのMabokeもあると聞いたことを伝えると、びっくりして、キンシャサではへびは食べないとのこと。
中アではヘビを食用としていたことを話すと、なるほど、バンギは赤道州(コンゴ民主共和国の北部の州。中アとはウバンギ川で国境を接している。)と隣同士だから、ヘビなどの動物がたくさん棲息しているんだね、ということだった。


中央アフリカ共和国の北部を旅したときに食べた、ピーナッツペーストと砂糖、生姜で煮た鶏肉料理の味が忘れられなくて、日本でも瓶詰めのピーナッツバター(砂糖入りのパンに塗って食べる瓶入りのもの。)を使って料理していた。隠し味でちょこっとしょうゆを入れたりして。「茄子の味噌煮」の作り方と同じような感覚だ。
Mabokeも、どうにか、あの味を再現できないかなあ。