2020年11月29日日曜日

キンシャサで買ったイエス様降誕の黒檀の置物

 


もうじき12月だと思い立って、キンシャサで買ってきた黒檀のイエス降誕の置物を引っぱり出して我が家のリビングに飾ってみた。
この降誕人形を日本で飾るのは初めてのこと。

高さ15,6cm。土台は幅10~12,3cmほどの楕円形で、黒檀の木片をくりぬいて作られているから、パーツを失くす心配もない。
これからは毎年、この時期になると我が家のリビングに飾ろう。

この飾り物を観ていると、キンシャサ時代のいろいろなことが思い出される。
キンシャサの中心から離れた工場区域のようなところにある教会に併設されたキリスト教関連のものだけを売るブティックで、キンシャサを去る最後の最後に購入したものと記憶している。
土産物用のブティックではなかったから、訪れる客も少なかったし、応対してくれる店員もシスターやシスター見習いのような物静かな女性たちだった。
値踏みするということもなく、価格は定価で静かな中で選べた。
教会というより、すべてが木製で誂えられた、シンプルで静寂な雰囲気のお御堂だったなあ。
5年ほど前のことだ。

2020年10月30日金曜日

キンシャサのSapeur元気かな

  今回も東京から更新します。


もう何年前になるのかな。サプールSapeurという言葉でコンゴの男性たちのオシャレっぷりがNHKテレビで紹介されて反響を呼んだのは。
カラフルな背広を着てゴミ箱をひっくり返したような街を闊歩する男性軍団。
コンゴと言っても、登場する舞台はブラザビルのほうのコンゴでした。
友人の奥村恵子さんは、本当にオシャレなサプールはキンシャサのほうよと力説していましたっけ。キンシャサ・サプールのほうが黒っぽい色使いで、斬新なスタイル。より自由な発想でオシャレを楽しむという姿勢で、ノーマルな背広姿の男性たちはいなかったように記憶しています。
日々の食費にも事欠くような暮らしの中で、着道楽の極みのような男性たち。
めちゃくちゃ、かぶいていました。
変なものにお金を使われるより服に浪費されるほうがマシよ~なんて、おおらかに容認していたかれらの奥さんたちは、アフリカンプリントの質素でクタクタな巻きスカートを着ていましたっけ。


この画像は、インターネットで見つけたものですが、こんな派手派手なカラフルな背広に身を包んで歩くムッシュにキンシャサの街の真ん中で遭遇したことがありました。
その時、写真を撮ってもいいですかと声をかけると、いいよ、どうぞ~とポーズを取って、お金を要求することもなく颯爽と歩き去ったムッシュ。
それもそのはず!サプールたちは、”世界一お洒落で平和を愛するジェントルマン”と言われているのでした。

でも、アフリカの女性たちはマーケットマミーと言われるように、子育てをしながら市場で野菜やそこで作った料理を売って、一家を支える大黒柱。
オシャレなんてしてられない、生活力たくましいオバチャンたちなのでした。

こんなオバチャンが道端で野菜を売って一日を終えて家路に着く途中、我が家のドアをたたいていました。




2013年5月にキンシャサの我が家アパートの玄関ドア前で撮った写真です。あれ。このときはちょっとおめかしをしていました。毎朝、野菜を仕入れて、アヴェニュー・コトゥの屋台で野菜を売って、家に帰ってから売れ残りの野菜で夕飯の支度をして・・・という生活で、家族が皆健康でいてくれる。そんな幸せがあるかい!、と豪快に笑うオバチャンでした。

コンゴ民主共和国では、エボラ出血熱やマラリアの恐怖にさらされ、挙句にコロナウィルスに見舞われて、経済活動にも大きな影を落としているだろうけど、皆、元気にしているかなあ。
どんな苦難の中でも、笑い飛ばしてたくましく生きていると信じます。

この前、NHK「世界は欲しいものであふれている」の番組で2週にわたって、ロンドンで日本の着物が注目されていることが紹介されていました。
自由な発想で、世界から集まる人々が、着物を楽しんでいる姿にびっくりし、開眼させられました!
たとえば、こんな!



アフリカンプリントの着物姿です。
帯はヘビメタな革ベルトを締め、なんと頭にはアフリカ女性のシンボルと言える共布のターバンを巻いている!
番組の終わりで、ナビゲーターのJUJUさんが、いちばん着てみたい着物はアフリカ女性のスタイルだーって言っていました。

アフリカに生きる一般の既婚女性たちには、日々の中でなかなかこんな余裕は生まれないだろうけど、キンシャサのオフィスレディや女子大生たちは、確かにオシャレを楽しんでいたことをはっきり思い出します。

かれらの日々の暮らしがずーっと守られますように。

2020年8月17日月曜日

古切手のなかのコンゴインコ

 日本から失礼します。
キンシャサにいるとき、コンゴインコを飼っていました。


説明を追加


2014年6月18日にわたしのヨウム、ポンと一緒に撮った写真です。しっぽの先だけが鮮やかな朱色で、体毛はグレーでした。

コンゴインコとは言わずに、”ヨウム”と言っていました。現地語のリンガラ語で、”チャクゥ”と言っていたことを思い出します。

チャクゥは、人間の言葉を話すだけでなく、しっかり理解してコミュニケーションを取れる賢鳥だと言われていましたが、我が家の「ポン」は最後まで一言も話さず、一芸たりともせず、わたしたちに決して懐くこともせず、特に男性には攻撃的でさえありました。
くちばしや足の爪がとがっているので、ポンを移動させるときには夫は皮手袋をはめて捕まえ、もうギャーギャー泣き叫んですごい格闘を繰り広げるのでした。
わたしは餌を水をかごの中に入れるときは、素手を入れて取り換えていました。
それでも、怯えてかごの端っこにいるのでした。
きっと、捕獲のときにものすごい怖い思いをした経験が体に染みついているのだろうと夫と話しました。
お隣の日本人ドクターのところのチャクゥも話芸も何もしませんでしたが、おとなしいチャクゥでした。
かれのチャクゥも、我が家のポンも、わたしたちが帰国の時、日本人の友人宅に引き取られましたが、最終的に、我が家の運転手として勤務していた穏やかなコンゴ人家庭のところに行きました。

そして、今年の初め、運転手から夫のメイルに連絡が入り、ポンが亡くなったことを知りました。人間と同じように70年、80年は生きると言われるヨウムですが、かれは多分10年も生きなかったと思います。最後まで、人には、特に男性には懐くことはなかったそうです。

かわいそうなポンでした。
コンゴ、カメルーン一帯に生息し、賢鳥だということでペットと乱獲されて絶滅危惧種になっているそうですが、キンシャサの緑と池の多いゴルフ場を群れを成してのびやかに独特の鳴き声を発しながら飛んでいたヨウム達のことを思い出します。
今も、ことあるごとに我が家のポンを思い出して、胸が痛むのでした。


さて、昨日、この10年近くの間に集まって切り取っていた外国の古切手を、整理して切手収集帳に収めようと思い立ち、行動に移しました。
切り取った古切手を1,2時間、浸水すると自然に紙からはがれます。
流水で糊成分をよくとってから、平たいものの上に水でぬれた古切手を並べて乾かします。
乾くと、これまた自然にはがれて行きます。
そのままにしておくと、紙なのでぼよんぼよんに波打っているし、完全に水分を取る意味でも紙にはさんで軽く重しをして、平たくしてしっかり乾燥させると出来上がりです。



これは、ビニル板に貼って乾燥中の外国の古切手たち(一部!)です。きれいでしょう!
わたしは、こうやって小さいときから古切手を集めて、図柄の美しさを楽しんでいました。
これも、わたしの父が教えてくれたことだと思います。

家族で1992年に中央アフリカ共和国のバンギに滞在した時からは、子どもたちも一緒に古切手のこういった作業をして、収集が始まりました。

日本の切手も世界からの切手も、季節を感じ、どこの国からのものなのかを知ることも楽しいものでした。

この古切手たちの中に、チャクゥ、ヨウムの切手を見つけられますか。

・・・・・。
上から2段目。左から5枚目です。



これです!
カメルーンからの切手ですが、どのようにして我が家にやってきたのかは覚えていません。


わたしのポン!
おかえり!

2020年3月12日木曜日

ブカブに生きるムクウェゲ医師

 コンゴ民主共和国の東部の、自身の故郷であるブカブに1999年にパンジ病院を設立し、産婦人科医として、というより、現地で続く紛争で想像を絶する強姦被害に遭った女性を治療し、精神的ケアにも当たり、映画のタイトルそのままの「女性を修復する男」(かれの活動を追ったドキュメンタリー映画、2015年ベルギー制作)として活動し、2018年にはノーベル平和賞を受賞したデニ・ムクウェゲ医師の自伝小説を読み終えた。




読みながらずっと感じ続けたことは、ムクウェゲ医師の信念を貫き通して生きてきた強い姿勢への感動だ。

「すべては救済のために」(あすなろ書房刊)
(原題は、”Plaidoyer pour la vie” 命の擁護)
デニ・ムクウェゲ著 (ベッティル・オーケルンド協力)
加藤かおり訳
2019年4月15日初版発行

失礼だけど。こんな強面のお方なのだけど、幼い頃からの子どもらしい思い出が文章のあちこちに散らばっていて感受性豊かな子どもだったんだろうなあ、と思うとともに、奥様との出会いにもかれの純粋さを感じ、さらに、我が身に起こる強運を強調して書くくだりにも、ムクウェゲ医師の滑稽なほど真摯な姿勢が見て取れて、かれの人間性への魅力が垣間見えるところだ。
さらに、牧師である父親や信心深い母親たち家族の中で育ったムクウェゲ医師の人生哲学も圧巻だ。
小さい頃に医師になって故郷の人たちのために働くと決心してそれに向かって進む彼のぶれない強さは、フランスに留学して医師としての研鑽も積みながらフランスに残って家族とともに穏便に生きるという選択のほうに魅力を感じても当たり前であるはずなのに、かれは家族で話し合って、自分の生まれ故郷に戻ってきているところにも感じられる。
さらには、その後も脅迫が続いて自分の身に危険を感じて家族とともに他国へ避難しても、わずかな逃避期間を経て、かれはいつも命の危険の待つ故郷のブカブに舞い戻っているのだ。

それから、この本の中で、ムクウェゲ医師の歩みとともにコンゴ民主共和国の現代史も細かく描かれていて、この国の抱える奇妙な運命と悲運についてもしっかり納得しながら読めるのも興味深い。

アフリカ大陸の中のコンゴ民主共和国の位置(「すべては救済のために」より)

アフリカ大湖地方~南北キブ州周辺(「すべては救済のために」より)

ジョセフ・カビラ政権から脅迫や圧力を受け続けたムクウェゲ医師が「唯一の希望の光」と語っていた大統領選がようやく2018年12月末に実施され、2019年1月に野党候補のフェリックス・チセケディ氏が政権を握った。

しかし、現在も変わらず、南北キブ州一帯の治安は安定せず、ムクウェゲ医師の苦悩も続いているのだと想像する。
世界有数の天然資源大国でありながら、その採掘代金は真っ当な政府ルートを通されないまま他国へ運ばれていくと聞く。キブ州には、天然資源採掘問題に加えて、隣国からの難民も流れ込み、政府絡みなのか外国の資本絡みなのか、きな臭い武力紛争が続いていると思われる。
ムクウェゲ医師の自伝の物語を加藤かおりさんの訳で読めてよかった。
(かのじょは、ブルンジで生まれ育ったガエル・ファイユの自伝「ちいさな国で」でも素晴らしい訳をみせている。)

これからもムクウェゲ医師の真摯な活動をしっかり見守っていきたい。

2019年10月9日水曜日

ワガドゥグで再会したキンシャサの女性画家

現在わたしが夫とともに滞在するワガドゥグでの話だ。(思い出話でちょっと恐縮!)

この2つの油絵の小作品にまつわる思い出話を・・・。




キンシャサでIWC(International Women's Club)という外国女性の会があったように、ワガドゥグにもCLIF(Club International des Femmes de Ouagadougou)という女性の会が存在する。
以前にワガドゥグに滞在していた友人からの勧めもあって、年度替わりのこの9月から入会した。

キンシャサにはIWCのほかにフランス語圏の女性の会があって、その会の使用言語はフランス語のみ。ちょっと排他的な雰囲気を感じたが、IWCのほうはフランス語も英語もありだった。というか、英語を主にして助け合って楽しみましょう、みたいな雰囲気があった。

ワガドゥグでは、外国女性の会はCLIFのみということもあるのか、とにかく、フランス語も英語も飛び交っている。英語で話していたと思ったら、気が付くとフランス語になっていた、みたいなざっくばらんな雰囲気だ。
フランス語が分からない人がいると、挙手して、わからなーい、と言うと、だれかが英語訳を買って出て英語で説明するといった感じだ。
(CLIFの会の会員でアジア女性が日本人の4人だけというのはちょっと寂しい。)


そんなCLIFの会の今年度初めての企画、ワガドゥグの中心に当たるクルバ地区探訪に参加した時のことだ。
ひとりのアフリカ女性から声をかけられた。あなた、キンシャサでお会いしましたね、と。
かのじょと話していて次々にいろいろなことが思い出されてきた。
その女性は、ベルギーで絵を勉強して、とてもきれいな色使いで描く画家だった。
IWCの会の仲間のクリエイターたちが集まって企画するバザーも不定期に開かれていて、わたしはそこで彼女の絵を買ったことがあった。それが、かのじょとの初めての出会いだった。

日本の自宅にかのじょの絵2枚を並べて飾っている。
確か、わたしのPCにその画像を取り込んでいたはずと探し回って、かのじょの絵を見つけた。それが、冒頭の写真の絵だ。
斜めからもう一枚。今は、それぞれの絵をガラスなしの白枠だけのものに入れて飾っている。)





彼女に、この画像を送るととても懐かしがってくれた。
キンシャサで共通の日本人の友人たちにメイルでかのじょとの再会を伝えたら、この再会にびっくりしていた。

かのじょは、なんとブルキナファソ出身の女性だったのだ。
かのじょがキンシャサに暮らしているとき、キンシャサで唯一歩くことのできた川べりを毎夕日本人の友人たちとウォーキングしていたことなどキンシャサでのことを懐かしく話したり、共通の友人のその後の消息について情報交換したりして話が弾んだ。

かのじょは、流ちょうな英語も話す。とても品格ある女性だ。
キンシャサ滞在を終えた後、かのじょは出産して今では3人の母親となり、創作活動の時間をなかなか持てないと話していた。
お互いの夫の仕事でしばらくはワガドゥグに滞在するということなので、ワガドゥグでも楽しい付き合いが持てそうだ。
早速わたしたちは来週初めにモーニングカフェの約束をした。

2019年6月21日金曜日

さよなら、リヨロさん

 コンゴ民主共和国出身の彫刻家、Liyoloさんが今年4月1日に奥さんの故郷のオーストリア、ウィーンで病気のために亡くなった。75歳だったそうだ。
それからもう3か月近く経ってしまったが、リヨロさんを偲んで、ふり返ってみようと思う。


Alfred Liyolo Limbe(2015.7.14.Radio Okapiより)

わたしがキンシャサ女性の会の会員たちとリヨロさん夫妻のお宅を初めて訪ねたのは2013年2月だった。
現役で彫刻家として活躍するリヨロさんと、陶芸家のマダムのお宅はキンシャサ郊外にあり、モダンな建物で、緑とかれらの作品の溢れる、まるで美術館のような佇まいだった。


リヨロ氏宅玄関前で(2013.2.)

リヨロ氏宅の庭に置かれた自作のオブジェ(2013.2.)

キンシャサ女性の会会員たちと歓談するリヨロ氏(右)、左奥のサングラスの女性がマダム(2013.2.)


オーストリアからリヨロさんの元に嫁いで、モブツ大統領の怒涛の時代もこのアトリエで苦労を共にし、二人三脚で歩いてきたマダムも魅力的な方だった。彼女自身も陶芸家として素晴らしい作品を生み出し、自宅の中にセンス良く飾られていた。
かれは日本でも個展を開き、当時の天皇陛下夫妻とも会談し、とても日本びいきなのよ、とはマダムから聞いた話だ。
その後に一度、日本からの友人と一緒にかれらの自宅を訪ねたことがある。

わたしが、リヨロさんの作品を初めて知ったのは、キンシャサ大学近くに立つ女性の賛美像だった。


キンシャサ大学近くに立つリヨロ氏作の女性賛美の像

左下に男性が小さく見えるのが分かるだろうか。この女性像はそれほど大きな作品であった。”2011年 LIYOLO作”、と台座に記されている。


わたしが知っているリヨロさんの新作は、キンシャサ中央駅前の噴水の四隅(二隅だったかも?)に立つライオン像だ。

リヨロ氏作ライオン像

わたしが2017年にキンシャサを離れる前後の頃、リヨロさんは病気療養のためにマダムの故郷に行っていると聞いた。

キンシャサ在住の友人の話では、4月1日にリヨロさんが亡くなったことは、キンシャサでは当日のトップニュースだったらしい。
4月30日に埋葬されたときのかれの告別式には多くの関係者が集まり、盛大な見送りだったとキンシャサのラジオ局、RadioOkapiのネットニュースで読んだ。

リヨロさんのお宅を訪ねた時に、かれのアトリエの壁にデッサン用の炭で書かれたいたずら書きのようなものがあったことも思い出される。
リヨロさんは、ふふっと笑って茶目っ気のある表情で言った。
”わたしのアトリエに入ってきてわたしの子どもたちが遊んでいた時代もあった、そして、今では、孫たちのあそび場にもなるんだよ、そこで、ここはわたしの神聖なる場所なのだから静かにね、っと書いてみたのさ。”


リヨロ氏のアトリエの壁の彼自身が書いた落書き

リヨロさんの作品は、キンシャサじゅう(コンゴじゅうかな)のいたるところで町の人たちの誇らしいシンボルであり続けるはずだ。

この落書きの残る、リヨロさんのアトリエは、そして、あの素敵な美術館そのもののようなお宅は今、どうなっているのだろう。

リヨロさん、ありがとう。

2019年3月25日月曜日

キンシャサで見つけた赤い実




ワガドゥグからこんにちは。
今日は、キンシャサで出会った、この赤い実のことを書いておきたくなりました。

この、赤い実は天然の色!
わたしの大好きな”陽赤”色だ。
大きさは、昔よく見かけた、数珠玉と同じくらい。均等な大きさだ。
数珠玉には、真ん中に天然の「穴」が通っているから、穴の枯れた藁様のものを取り除いて、簡単にネックレスを作れる。
でも、この赤い実には、穴がない!
穴をくりぬこうとしても、堅い!
でも、キンシャサの女性支援団体が企画していた店で、この赤い実のネックレスを見つけて土産に買ったことがあった。その店は残念にも閉店となり、この赤い実のネックレスは入手できないままになった。






左は数珠玉のネックレス。右は、赤い実で作った”想像”のネックレス。
キンシャサで出会った、よその国の大使夫人が白い麻ブラウスに数珠玉のネックレスを二重か三重にして合わせていたのがとても素敵だった。
わたしは、そのときに、赤い実のネックレスもシンプルに長く繋ぎ合わせて作れたらなと思った。

キンシャサのゴルフ場には、この赤い実がたくさん生り、落ちていた。





鞘から弾けて落ちてきた、赤い実だ。
このまま、ブローチにしたいくらいだった。

ある時、わたしが持ち帰った赤い実を日本の友人に見せたら、シンガポールでは幸せをよぶ”サガの実”として知られている、と教えてくれた。
友人の話では、シンガポールでは、マレー語で”サガの実”と言い、何粒か財布に入れておくと金運がアップすると伝えられているそうだ。
また、百個集めたら幸せになり、千個集めたら願いが叶う、とも言われているとか。
言い伝えられている内容は多種あるようだが、シンガポールでは、子どもたちが一生懸命集める”サガの実”なのだそうだ。

調べると、シンガポールでも高さが25m(40mの巨木もあるとか)で、幹回りは5m近くもあり、公園や街路樹として植えられているそうだ。
”サガ”の名前の由来は、アラビア語で金細工師を意味する言葉に通じる、と書かれていた。
この赤い実は、大きさや重さが一定していることから、金の重さを量る単位として使われていた、ということから来ているのだそうだ。
また、この実は”ラブ・シード(愛の実)”とも呼ばれていることも知った。
形がハートの形に似ているので、この実を集めて小瓶に入れて、告白代わりに愛する人に渡すのだそうだ。
花は黄色で5枚の花弁を持っている。
日本でも、明治末期に台湾から沖縄に移入されたそうだ。根に根粒菌を持っているので痩せた土地の改良目的だったようだ。

キンシャサでは現地の人はこの赤い実に見向きもしなかったように思う。
そして、誰に訊いても、名前も知らない、と言うのだった。

京都で染色を学ぶコンゴ民主共和国からの留学生が、制作発表の時にこの赤い実のネックレスを藍染のドレスに合わせて使っていた。藍の色と、陽赤色がとてもよく似合っていた。
赤い実の名前をかれに訊くと、リンガラ語で”マイケ”。
フランス語では、Oeil de Paon。(孔雀の目、と訳される。)
 木のことは、Bois de Santal。(白檀の木、か。)
そう教えてくれた。
そして、かれは、わたしにこの赤い実を黒糸で繋げたネックレスをプレゼントしてくれた!

思い出の赤い実、の話でした。
ああ、こうして残しておけて幸せ。