2013年2月12日火曜日

キンシャサで観た「梅ちゃん先生」

キンシャサで、昭和20年から17,8年間の東京・蒲田を舞台にしたドラマ「梅ちゃん先生」をじっくり観る機会を得た。


わたしたち夫婦が日本を後にしたのは2011年12月31日夜だったから、NHKの朝の連続テレビ小説は当時、「カーネーション」が放送されていた。

翌年4月になり、次回作の「梅ちゃん先生」の評判を友人からのメイルで知っていたが、それからしばらくして、いつも「NHK・今夜も生でさだまさし」をDVDに録画して送ってくれる友人から、懐かしい建物が出てくるから「梅ちゃん先生」DVD送ります、というメッセージとともにわたしの手元に届いた。20話分ほどが収められていた。


梅子が勤務した帝都大学付属病院という設定で登場する建物


その、途中からの20話分の梅ちゃん先生にはまり込んだ。

その後の物語の展開が知りたくて、NHkの梅ちゃん先生ホームページで見てはいたものの、どうにか実際のドラマを観ることができないかという思いが強くなっていった。

すると!!!

日本の無償プロジェクトで来ているアパート隣人の所長さんが梅ちゃん先生DVD全編を所有されていることが判明。
さっそく借りてきて観ようとするも、高速録画のためにPCでも我が家のデッキでも観ることができなかった。他のプロジェクトで滞在する方がPCに取り入れようと試してくれたりして様々な方々の厚意の末、なんと、お隣の所長さんが日本で新しく購入して来られたDVDデッキ本体まで貸してくださったのだった!!


そして、めでたく全編1話から156話まで、おまけにスペシャル版までキンシャサの自宅アパートで視聴を完了した!!


梅ちゃん先生を見続けたダイニングとリビングソファ




朝ご飯のときも、夜の晩酌、ご飯のときもずーーっと夫と観つづけた。
お借りしていた最後のディスクをデッキに入れたときもまだ12話分とスペシャル分があるから大丈夫と寂しさを払拭できたが、あと5話、4話・・・とカウントダウンするときの寂しさといったらなかった。
とうとう最終回を終えて出演者のテロップが流れ、撮影ロケ地名が流れたときは呆然としてしまった。


そう。最初に友人が梅ちゃん先生のDVDを送ってくれた理由は、社会人2年目の我が息子の母校がロケ地として登場するからなのであった。
梅子が勤務する病院の建物や池のある庭は、息子が体育会応援部員として活動した4年の間に学園祭演舞会の野外ステージを観るためなどに訪れた懐かしい、思い出の場所だ。
2011年3月下旬、応援部第五十五代主将として迎えるはずだった息子たちの卒業式は大震災直後の混乱のために中止となった。
その後、3月31日にタクシーで就職先の会社寮に引っ越して行った息子を見送り、そして改めて5月連休時に行われた卒業式で紋付はかま姿で出席したいという息子の希望に添い、息子の大学まで行って着付けし、卒業式会場の講堂には絶対に入るな!!と言う息子の申し出を忠実に従った母は、梅ちゃん先生によく出てくる庭の池のベンチで缶紅茶を飲みながら卒業式が終わるのを待ったのだった。(その後、汗びっしょりの紋付はかまを受け取って母はすごすごと1人帰宅した・・・。)

着物一式抱えて慌てて自宅を飛び出したわたしは、ジーパン姿だった。
あのとき、きちんとした格好をしていたら講堂に入り込んで、息子の応援部主将として最後の舞台を見ることができただろうに、とずい分あとになって後悔したのだった。

思えば、大学に入学してボート部に入部すると言っていた息子が応援部に入部したと知った時、愕然として、やくざ稼業に脚を突っ込むなんて、とがっかりしたのも懐かしい思い出だ。
それが、春恒例のボート部の大学対抗レースの応援部の活躍を観、演舞を観ていくうちに、応援部ファンになってしまい、他大学の応援部ステージまで観に行くようになったのだった。

そんなこんなの懐かしい息子と応援部の思い出の場面も湧き出てくる「梅ちゃん先生」なのだった。


いつも、梅ちゃん先生の物語にはまり込みすぎて、毎回見終わると、あれ?ここはどこ?・・・。
あそうだ、わたしは今、キンシャサにいるのだった!・・・と時代も場所も気候も何もかも違いすぎる居場所にとまどうのが常だった。


昨日2月11日、アジアの女性で新年ランチ会があった。
ドイツ人男性と結婚している中国人マダムが、夫にはコンゴの国を発展させたいという夢があるのよ、と言った。
皆が、この国の発展ねえ・・この国はどう進んでいくのかしら。
少しずつ、少しずつ、かな。
すると、韓国人マダムが、1950年の時点では、コンゴの国と韓国の経済力は全く同じだったのよ。なのに、コンゴの国の状態はこの有様よ、と嘆いた。

梅ちゃん先生の物語の始まりは終戦直後の蒲田だった。
あんな貧しく、生きるのが大変な時代をくぐり抜けて、頑張って国力を付け、少しずつ庶民の生活が改善され、経済も高度経済成長のときを迎え、公害やら色んなマイナス要因も一緒にここまで発展してきたんだなあ、という時代の変遷もしっかり見えてくる物語設定でもあった。

日本は最初から豊かな国ではなかったのだ、ということをこのドラマを視聴した日本人たちは再び思い起こせただろうし、また是非アジアやアフリカの人々にも、日本にそんな時代があったことを知ってほしい。

翻訳業の知人の女性が、現在の出版社の現実として、もはや戦前,戦中、戦後の時代を舞台にした小説は売れないから切り捨てられようとしている、と嘆いているのを、つい最近聞いてびっくりした。
あの厳しい悲惨な時代を忘れてはいけないと強く思う。


梅ちゃんは昭和4年生まれなのだそうだ。
そして梅ちゃんの息子たちは、昭和33年と36年生まれ(?だったかな)だ。
まさに梅ちゃんはわたしの母と、そして梅ちゃんの子どもたちはわたしと年代的に重なる。
どうか、梅ちゃん一家が今もつつがなく蒲田の町で元気に生きていますように。


日本の敗戦国からの復興の厳しい時代に一生懸命生きた人々の、温かくもたくましい生きる息吹を感じる良い物語を観せてもらった。

みなさん、ありがとうございました。


2013年2月9日土曜日

紫色の果実 ”サフ”  

今日も暑い一日だった。
我が家では、昨日の午前中から断水が続いている。

古いアパートだから、劣化した水道管のメンテナンスを始めた途端に水圧で水道管のあちこちに亀裂が生じ、収拾がつかなくなったようだ。
昨夜、夫がアパート敷地内の水道管の修理現場に行ったら、修理人たちは携帯電話に付いた小さな照明だけで作業をしていたらしく、我が家の懐中電灯を持って行っていた。

二日目の午後5時現在も水は出ない。
今日は洗濯機も回せなかった。
この断水、いつまで続くのかなあ。


さて、コンゴで初めて食べた果実、サフの話題に移そう。


大きなアボカドと5個の”サフ”


上の写真のキウィみたいな形をした5個の果実が、”サフ”だ。
長いほうで7センチちょっと。
紫色をしている。
形だけはキウィに似ているが、皮に毛はないし、キウィと違って触るとごつごつと堅い。


1年前、家政婦が昼食用にサフを一つだけ持ってきた。
第一印象は、「わあ、関東の丸っこい茄子の小型版だ。」だった。
彼女はコーヒーカップにサフを入れてそこに熱湯を注いで蓋をし、数分蒸らした後、熱湯を捨てて、それからスプーンで美味しそうにすくって食べた。
彼女の大好物なのだそうだ。
彼女の末娘も、アボカドは嫌いなのに、サフは好んで食べるのだという。


コンゴに来て、初めて見る果実だった。


今年一月にゾンゴに行ったとき、サフの木を村のあちこちで見た。
運転手が、あれがサフの木だと教えてくれた。
けっこう大きな木に、紫の小ぶりの茄子のような実がたくさん枝の先っぽにくっ付いていた。
バコンゴ・・・キンシャサよりも南の地方の果実なのだそうだ。
どうりで。
中央アフリカでは決して見なかった果実だった。

バコンゴ出身の家政婦には小さい頃から馴染みの果実なのだろう。
美味しそうなサフを見つけたら買ってきて。
そう頼んでいたら、今週の始めに買ってきてくれたのが上の写真のものだった。
5個で千フラン(約百円)だったかな。

サフにはいろんな形があるのよ。
今日のはめずらしく大振りなサフだけど、きっと美味しいはずよ。
彼女は太鼓判を押した。


早速、彼女に教えてもらって準備する。

① まず、鍋に熱湯を用意する。

② サフを洗って、皮を荒く削いで落とす。(”むく”のではない。皮が硬いから歯ざわりを良くするために削ぎ落とすのだそうだ。ちょうど、ごぼうの皮を削ぐ要領だ。)

③ サフがしっかり隠れるくらいの容器に皮を削いだサフを入れて、サフの上に小さじ1杯くらいの塩を載せる。

④ そこに煮えたぎった熱湯をサフが浸かるくらいたっぷりと入れて蓋をして3~5分待つ。
   (大きめのサフだったので5分耐えた!)

⑤ それから熱湯を捨てて、そのまま蓋をして3分間ほど蒸らす。


⑥ 完了!そのままスプーンですくって召し上がれ!


果肉は厚さ数ミリだけ。
真ん中には大きなベージュの種が入っていた。(底上げされたー!という気分。)


サフの実を掬ってみると・・・


おおー、酸っぱ~い!!

以前、家政婦にサフってどんな味?と尋ねたとき、、
「ビタミンCたっぷりー!!、って味ね。」
という表現をしたが、まさにそれは的確な説明だったと感心した。

味は本当に酸っぱい。
でも果肉は滑らかで、和菓子の白あんのような舌触りだ。
蒸した里芋に近いが、繊維がないからもっともっと滑らかだ。
バニラアイスクリームにトッピングして食べたら美味しいだろうなあ、と思った。
なかなかイケル!


美味しいー!!、と言ったら家政婦は次の日には、親指大の細めのサフを持ってきてくれた。
こっちもきっと美味しいはずよ、と。



説明を追加



サフは、コンゴの南部地方の果実だけど、キンシャサの人たちにもポピュラーなようだ。
色んな人に訊いてみたが、どの人も知っていた。

ビタミンCたっぷりだよ。
睡眠効果があるから、夜ぐっすり寝られるよ。
食べていると、居眠りを始める人もいるくらい!
(?? それは誇張し過ぎでしょう。)

残念なことに、サフの旬は1月と2月だけなのだそうだ。
アボカドと同じ季節なのだ。

サフの旬が終わったら、オレンジの季節が始まるよ。

そうやって、果実や野菜の旬を楽しんで、自然に栄養のバランスを取っているのだと感服する。

アフリカは常夏の国だから、年中同じ季節で,同じ食べ物なのだろう、なんてとんでもない誤解だ。
いつかも書いたが、コンゴにもしっかり”歳時記”は存在する。

サフの旬を楽しもう。




2013年2月8日金曜日

ほうれん草の中から!

コンゴのほうれん草


ただいま、夕方の5時。
日が西に傾きかけているが、今日も太陽が照りつけて暑い一日だった。

昨夜は稲光がすると思ったら雨が降り出し、夜中も降り続いたようだ。
だから、厚い雲が一掃されて、ギンギラ太陽の照りつける好天気になったのだな。

部屋の温度計は30度を指している。
昨年はこんなに暑かったかなあ。
まだまだ5月半ばまで雨季は続くが、雨のピークは過ぎた。
ゴルフ場の白い小ぶりの”きのこ”もシーズンを過ぎて見かけなくなった。


今日は、午後から市内のスーパーマーケットを2店回り買い物をした。
ここのところ、そろそろ底を突きかけているケーキ用の小麦粉を探しているのだが、どこのスーパーにも無い。
店の在庫があるときに買い貯めておかないと、キンシャサじゅう一斉に在庫が消えてなくなったりする。
日本米に近い米しかり、”わさび”しかり!
クッキングシートも無くなっている。

小麦粉は諦めて、野菜コーナーでみずみずしいほうれん草を見つけたので買ってきた。
ここのほうれん草は、しっかり緑色だけど、肉厚で日本の”つるむらさき”に似ている。
背丈が長いほうれん草だと、茎が堅くなっているけど、今日見つけたものは小ぶりで柔らかくて鮮やかな緑色をしていた。


帰宅してビニル袋からほうれん草を取り出すと、なんと!、てんとう虫がくっついて来ていた。


長細い2つのホシがあるてんとう虫

てんとう虫を捕まえてカメラに収めようとしたら、ブーンと飛んでいって日が差し込む窓の網戸に止まった。
てんとう虫、っていうくらいだから、お天道様が好きなんだろうなあとか考えながら、アフリカで初めて出会ったてんとう虫をしばし見つめていた。

数年前、友人とアヴィニョンに滞在した時、お土産屋の年配マダムが、幸せを運ぶてんとう虫よ、と言って、小さな木でできたてんとう虫をくれた。
ブローチにしようと思って、どこかの引き出しに仕舞ったのだけどなあ。
どこに仕舞いこんだかなあ。

今日も長閑な平和なキンシャサの町だった。





2013年2月5日火曜日

ヨウムのぽんちゃん

我が家にヨウムのぽんちゃんが来て一ヶ月半が経った。


ぽんちゃんは毎日、パームヤシの実10粒と殻付きピーナッツ10個と乾燥とうもろこしの粒20粒ほどを食べて、水を飲んで少しずつ大きくなり、体毛が当初は黒っぽいグレーだったのが少しずつ明るいグレーになって、幼鳥から抜け出ているようだ。

パームヤシの実は、ヨウムの尻尾の毛の赤い色をきれいに保つ役目をしているのだそうだ。
パームヤシはゴルフ場内に木があるので、キャディーに頼んで週に二回くらい集めてもらっている。
下の写真のパームヤシの量で5、600フランくらい。
日本で飼うとこんな見事な自然のパームヤシなんて入手できないだろう。



パームヤシの実



殻付きピーナッツ




ピーナッツは、殻付きの生のものでないと食べない。
ピーナッツの殻を大きく突き出た上くちばしと舌で挟んで、カチン!と勢い良く割って中身だけ上手に食べる。
乾燥とうもろこしの粒も、上くちばしと舌でカリコリと音を立てて噛み砕いて食べている。
ゴルフ場のキャディーが、ヨウムが食べる果物だと言って持ってきた果物をあげても一口二口食べただけだったし、雑穀もパンも食べない。
止まり木の枝の皮を剥いで食べてはいるが、ぽんちゃんの常食は、パームヤシの実、殻付きピーナッツの中身、乾燥とうもろこしの粒、そして水だ。



ぽんちゃんは一時期、ずいぶんとわたしたちに懐いてきたかなと思える時期もあった。
ところが最近、なんとなくストレスを溜め込んでいるように思える行動が目立ってきた。

わたしたちが鳥小屋に顔を近づけて話しかけると、ガアガアと口を大きく開けて威嚇するように鳴くのだ。時に、口を大きく開けすぎて、ガアーーー、っと声を限りに鳴くので、オエーっと喉を詰まらせることもある。くちばしの付根が張り裂けるのではないか、というくらいに口を大きく開けて鳴く。そんなに鳴かなくてもいいんだよと話しかけるけど、分かってないんだろうなあ。

小屋の鉄枠を拭こうと思って触ってもギャー!
洗濯物の黒っぽいものを小屋の上に落としたときなんか、びっくり仰天したぽんちゃんは、ギョエー!!!、とこちらが驚くほどの奇声を張り上げた。
怖がりだった幼い頃の息子の姿と重なって思わず笑ってしまう。

朝未明、野鳥の鳴き声(ヨウムの仲間の声なのか!)に呼応してか、ぽんちゃんも高音を張り上げて鳴き続けている。

さらに、籠の側面にくちばしと二本足でしがみついて、羽を大きく広げてばさばさと羽ばたいている。
羽ばたくと白い粉のような小さなものが辺りに飛び散っている。

時々、スプレー容器に水を入れてぽんちゃんに水浴び代わりにかけてあげるのだが、そのときももの凄い鳴き声を上げる。
毎日でも水をかけてあげることは大切なことのようだが、あまりに大騒ぎするから躊躇ってしまう。
キンシャサでやっと探し当てて買った中国製のスプレー容器は、噴霧スプレーではなくて水鉄砲様の、水の塊で飛び出るスプレーだった。
ぽんちゃんには恐怖に感じるのかも。



もしかしたら、鳥小屋が小さくなったのかもしれない、と大きめの鳥小屋を探していたら、夫の工事現場で猿を飼おうとして作ったという鉄筋製の空の小屋があったといって夫がもらってきた。
鉄筋製だからひとりでは抱えきれないほどの相当な重量だが、大きさとしては充分だった。


そうして、ぽんちゃんはがっしり重くて大きい小屋に移った。



鉄筋を利用して作られた小屋



鉄格子の間から ~ 止まり木の皮が食べられて剥がれている




止まり木は、体操女子の段違い平行棒のように二段で取り付けた。
ぽんちゃんはいつも高いほうの止まり木にいて、餌を食べる時だけ下段の止まり木に移ってそこから顔をグーッと下方に下げて床に置かれた餌を上くちばしと舌で挟んで取って食べている。
ほとんど床に降りないし、また物音がしたり、わたしたちがベランダに出ると、慌てて上段の止まり木によじ登る。

そんなに慌てて餌をポトンと落としてまで下段から上段に移らなくてもいいんだよ、わたしたちは何にもしないよ、と言っても慌ててヨタヨタと移動する。

餌を食べた後、パームヤシの実をくちばしにたくさんくっつけて、♪おべんと付けてどこ行くの~♪状態だが、くちばしを止まり木にこすり付けて上手にくちばしに付着した実をこさぎ取っている。



つくづく、ぽんちゃんは我が家に来る前はどこの家で飼われていたのでもない、野鳥だったのだと痛感する。
言葉も発しないし、相変わらずわたしたちの顔が近づくとぎゃあぎゃあと威嚇する鳴き方をする。

小屋は広くなったのに。
居心地が良くないのかな。
どうしてだろう。

かれに遊ぶためのおもちゃを買ってあげようと思って、スーパーのペットコーナーで”小鳥用玩具”と英語で書かれたベル付きミラーを買ってきて上から吊るしてみた。
ぽんちゃんは自分の顔を見たことがないのだもの。

興味津々で、しばらくはミラーの中の自分に見入っていた。
そして揺れるとチリンチリンと鳴るベルの音にも耳を澄ましていた。

でも。
翌朝には、2個のベルもミラーもチェーンの一つ一つもすべて見事バランバラン!に分解されて床に飛び散っていた。
あーあ。



家政婦は、マダムたちが四六時中話しかけてやらないからだと言った。

そこで、わたしは先週から毎日30分くらいソプラニーノ(小型リコーダー。高音が出て、小鳥のさえずりの練習用リコーダーだと聞く。)をぽんちゃんに聴かせることにした。

夕焼け小焼け、赤とんぼ、七夕、みかんの咲く丘、とんぼのめがね、雨、ゆりかご、ぞうさん、ちょうちょ、木の葉のお舟、海、朧月夜、夏の思い出、里の秋、虫の声、旅情、富士山、こいのぼり、雪、村の鍛冶屋、古時計・・・思いつく限りのメロディーを演奏する。

ぽんちゃんは静かに聴いている。
高音に特に反応して、目を閉じてうっとりと・・かどうか知らないが、半目状態で確かに気持ちよさそうに聴き入っている。
そんな可愛らしい様子にわたしはプッ、と噴出しそうになる。

ソプラニーノの音色は確かにきれいだ。
わたしだって、キンシャサの夕焼け空に響く(?)日本の童謡や唱歌についしんみりとなって、ぐっとこみ上げるものを感じたりもする。


ぽんちゃんの心に響いて穏やかになってくれたらいいなと思う。



独りで餌を食べていて、わたしの気配にびっくりして餌を落として、慌てまくって上段の止まり木によじ登るぽんちゃんの様子に、ああ、まだまだこの子はわたしたちに心を開いていないのだと痛感する。
夫は、身を守るための野鳥の習性なのだからそう簡単には懐かないだろうと言う。


「パンパカパ~ン♪、パン、パカ、パンパカパ~ン♪ 今週のハイライト!!
ぽんちゃんがついに話すようになりました!!!」

こんなアナウンスができる日が来るといいな。


2013年1月30日水曜日

頭に載せて運ぶ!

ボノボ救済施設 ”LOLA ya BONOBO” 入り口付近で


コンゴでは、風景写真を撮ることはなかなか難しい。
勝手に写真を撮るとコンゴの人たちはとてもいやがる。
ましてや、人物となるとなおさらだ。
人にカメラを向けただけで、大声を張り上げ、カメラを取り上げんばかりの勢いで詰め寄ってくる。

だから、なかなか取れなかった・・・マダムたちが頭に物を載せて運ぶアクロバットな姿を。


これらの写真はキンシャサ生活1年の間に撮りためたものだ。


アフリカのマダムたちは何でも頭に載せて運ぶ。
だからだろうなあ、アフリカ女性たちは皆、胸を張ってスックと歩き、姿勢がとても良いのだ。


中央アフリカのバンギにいた頃、直径7、80cmもあろうかと思われる金タライに新鮮な野菜や果物を入れて頭に載せて4階の我が家まで売りに来る、陽気なマダムがいた。
我が家の玄関ベルを鳴らしわたしがいるのを確かめ、ゆっくり座ってから門番のお兄さんの手を借りて大きな金タライを下ろすのだ。
そして帰るときも、門番を大声で呼んで、よいこらしょ!、っと金タライを頭に載せるのを手伝ってもらい、それからゆっくり立ち上がって帰ってゆくのだった。
小柄なマダムながら、これぞマーケット・マミー!!、と感服するようなプロ根性の持ち主だったことを懐かしく思い出す。


キンシャサでいちばん驚嘆し、目を見開いたのは、生卵を何段も重ねたものを頭に載せ、背中に赤ちゃんを負ぶい、雨降るぬかるみ道を傘を差して平然と歩くマダムを見たときだった。
何かの拍子に頭上の卵を落としたら大損害だろうになあ、なのにあんなに平然と歩いてまあ!!、と唖然としたものだ。


さて。
上の写真は、プラスティックのタライに洗濯物を載せて、キンシャサ郊外にあるボノボ救援施設近くを通り過ぎるマダムたちを撮ったものだ。
近くに小さな川があって、そこが洗濯場になっていたのだ。
彼女たちはお互いに見つめ合って談笑しながら余裕で歩いていた!



そんなものくらい手に提げたら?、というものまで頭に載せている母親

アフリカの女性は、子どもを負ぶうとき、子どもの脚を開いてしっかり母親の両サイドの腰骨のところに足首を出し、広げたアフリカの布地で子どものお尻を包み込むようにして子どもの頭だけ出して腰辺りに巻くようにして負んぶする。そして、子どもを負んぶしても前かがみにならないから、頭に物を載せられるのだ。
その負ぶいかたは、子どもの股関節にとても理想的な型なのだと日本の助産婦さんから聞いたことがある。


我が家の家政婦も彼女の仕事の一つであるバナナ売りのときは、頭にバナナを載せて運ぶのだと言う。
落としたりしないの?、と訊くと絶対落とさない!、ときっぱりと言う。
小さいときから頭に載せて運んでいたからね,と。
それに、細長い布地をくるくる丸めてまず頭に載せて平らにクッション材みたいに敷いてから荷物を載せるのよ、と実演してくれた。
軽いものは手に下げるけど、重い荷物を下げていたら腕が痛くなるでしょう、とも言う。
そして、もしわたしたちの国に平らな道があったなら、シャリオ(手押し車)を使ったでしょうけど、と。


以前、川魚が揚がって美味しい現地料理を食べさせてくれる食堂がずらっと立ち並ぶKinkoleeという町の”道端食堂”で昼食を摂っていたときのことだ。
テーブルに着いていたらいろいろな物売りが寄ってきた。
8月の夏休みだったせいか、多くの子どもたちも頭に売り物を載せて売り歩いていた。


野菜を売り歩く少年


マボケ(左)や揚げ菓子(右)を売り歩く少女たち
葉っぱで包んだ蒸し物を売り歩く少女


なるほど。
小さいときから、母親の見よう見まねで頭に載せて運ぶことを覚えてゆくのだなあ。


小さい子の中には、頭に載せて物を運ぶ少年も見かけたが、大人の男性が頭に物を載せて運ぶ姿は全く見かけない。
20年近く前のバンギでは、正面がガラスになった四角い木のケース箱に揚げパンを入れて、まるで店のショーケースをそのまんま頭に載せて売り歩いているような(もちろん小型ショーケースだけど・・)若い男性をよく見かけたものだが、キンシャサでは、頭に物を載せて歩く男性は皆無だ。
男性は良いカッコしい、なのかなあ。


でも。
ポワ・ルー産業道路(夫が携わるプロジェクトの道路)で、ベッドのマットレスを山積みしてリヤカーを重そうに引いて行く、根性の二人組男性は見かけたが・・・。

工事中のポワ・ルー産業道路を通過するリヤカー

2013年1月25日金曜日

悲しい知らせ

宿舎の庭に咲く花

キンシャサのIWC(国際女性クラブ)で出会った友人たちの中に、ひとりのアジアの若い女性がいる。
彼女のご主人はヨーロッパの人。
年齢より若く見え、お国訛りの英語でよくお喋りする屈託のない明るい女性だった。


ほどなく彼女は妊娠してお腹が大きくなっていった。
出産予定日がわたしの娘の予定日に近く、彼女に会うたびに、ああ、わたしの娘もこれくらいのお腹になっているんだろうなあと、娘と重ねて見ていたように思う。


彼女は自分の国に帰って出産し、そしてキンシャサに戻ってきた。
かわいらしい男の子だった。
彼女はIWCの、ちょっと勝手なことを言う先輩ママたちのアドバイスを受けて戸惑いつつも、コンゴ人女性の養育係を置いて子育てに一生懸命だった。
男の子は、やっぱりわたしの娘の赤ちゃんと誕生日が数日しか違わず、その子に会うたびに、ああもう首が座ったなあ、とか、表情が豊かになっていくなあ、とやっぱりわたしの孫と重なり、かれに会うのが楽しみだった。

彼女自身もわたしの娘と年齢が近く、どちらの夫もヨーロッパの人だし、彼女たち親子を見ると、娘のところもこんな日々を送っているんだろうなあと目を細める気持ちで見ていた。

とっても活発な元気な子で、クリスマスの頃に彼女の家に友人たちで集まったときに、抱っこされてくるくると動き回るととっても喜んでいた。愛嬌が良くてハンサムボーイで彼女の自慢の息子だった。

彼女の家には、ベビー用品があちこちに見られた。
椅子やオルゴールモービルやクッション床材やいろんなものをヨーロッパから持ち込んで、育児環境を整えていた。
父親のキンシャサ勤務が終わるまで、この子はここで大きくなっていくんだなあと思って見ていた。



一昨日の朝、突然、IWCの別のアジアの友人から電話があった。
彼女の赤ちゃんが病気でキンシャサの病院に入院したと言う。
輸血が必要になって、かれと同じ血液型を探しているので協力して欲しいという電話だった。

わたしもできる限りの情報を集めた。
いろいろな制約を受けたのが辛かった。
そのうちに、IWCの会長名で会員全員にメイルで呼びかけが始まった。

そして2人の血液提供者が見つかった。

キンシャサの医師たちは病気の原因がつかめなかったようだ。
急遽、アフリカで熱帯病の権威がいるという病院に飛行機で運ばれた。
ヨーロッパに搬送するよりもその病院のほうが熱帯病に詳しいし、距離的にもより近いということもあったのかもしれない。

皆で祈った。
乳幼児の病気は深刻だけど、輸血も完了したし、良い治療が受けられる今の時代だもの。



今朝、電話が鳴った。
最初に血液型探しで電話をくれた友人だった。
彼女は泣いていた。

彼女の赤ちゃんが今朝早くに亡くなった、という知らせだった。


2013年1月21日月曜日

日本からの中古車が走る!

キンシャサ6月30日通りを走る!

これは、キンシャサのど真ん中を突っ切る6月30日大通りで撮った写真だ。

わたしが車に乗っていたとき、横を通り過ぎた車に何気なく視線を移すと・・・・・。
なんとまあ!!


日本の霊柩車がいた!!!!!


しかも新車のようにぴかぴかに磨かれている。
霊柩車の窓ガラスからは、内部に簾(すだれ)のついた障子様のついたてが見える。
どう見ても使い古した中古車ではないし、どう見ても日本の霊柩車だ。
そして、なんとなく、日本の霊柩車はキンシャサでも”本来の目的”で使われているように思われた。実際には日本の霊柩車がどのように使われているのかはわからない。

夫に話すと、夫が勤務する産業道路(Poids Lourd)近くのLimete通りでよく見かけるのだそうだ。そこに霊柩車の会社(?)があるのかな。

コンゴの人たちは、結婚式と葬式にはお金を使う、と聞くが、日本の霊柩車に着目した最初のコンゴ人、っていったいどんな人なのだろう。


日本の霊柩車発見には驚きまくったが、キンシャサでは日本の会社名の入った中古のライトバンやミニバスが走行しているのを頻繁に見かける。
しっかり使い古されたライトバンのものが多い。
なんとか電装とか、○×茶園というのもあれば、△◎仏具店と書かれたバンが走っていたりする。
自動車学校のミニバスも見かけたことがある。



日本の電気会社名の入ったライトバン 6月30日大通りで


おそらく日本から来たすべての中古の商業用ライトバンやミニバスは塗装し直さずに、日本語の会社名を表示したままで走っているのではないか。
日本から来た車なのだよ、という証明になるからか、ただ単に塗装代をケチっているだけなのか。



新車同様のバスも!


ほとんどが日本でしっかりお役目を果たしたような中古車なのだが、こんなぴかぴかにきれいな幼稚園バスも発見した。
なんでこんなにきれいな幼稚園バスがキンシャサに???、なんて不思議に思ってしまう。

ここは、キンシャサでいちばん大きなホテル(評判はかんばしくないが。)、グランド・ホテルの駐車場だ。
この国に観光客などいる訳がないから、ホテルの会議室などの利用者たちの送迎に使われているのだろうか。
利用者はこのバスが日本で幼稚園バスだったなんて思いもしないのだろうなあ。

日本語表示と、キンシャサでの利用目的があまりにかけ離れていることにわたしは毎回強い違和感を覚える。


これらの中古車は、日本からどういうルートで運ばれてくるのだろう。

ドバイまで日本の中古車会社が船で輸出しているとも聞く。
ドバイからコンゴのボマ港までさらにどこの国かの海運業者によって運ばれ、そこから陸路で走行してキンシャサにたどり着いたと考えると、ようこそはるばるキンシャサへ~!!、とねぎらいの気持ちで中古車たちを見てしまう。

でも、とさらに考える。
かれら、日本の中古車たち自身に立ち返れば、自分の人生の最後をはるばる遠いコンゴで終えるなんて考えもしなかっただろうなあ。